2025年6月1日~約1年間を通し、キリスト教入門・神学コースで学んでいきたいと思います。只毎回集いたいのに集えない学びたいけど1年間を通すとなれば~???と思う方朗報です!この度HPから見て学ぶ、ことが可能になりました。数年後あ!こんな話してたよねって振り返えり誰かの力になることもあると思います。
39。ホーリネス(聖潔)運動の歴史
ワークシートになります。
39. ワークシート
1.人々はなぜナザレン教会から離れて、BMC教団を創立しましたか?
授業に参加しましたか? ( ) それか、音声を聴きましたか? ( )
読書宿題:BMC歴史の本89~102ページの引用を読みましたか?( )
必要な行動 5月17日までに読んでください
(BMC歴史の本89~96ページ)
私たちの宗派の霊的な DNA を発見するには、アメリカ全土に散らばる犠牲的な聖徒たちの根深い心の信念と確信を理解する必要があります。 前の章で述べた1940 年代後半から 50 年代前半にかけての数々の闘い、ナザレン教会の計画と方向性、そしてその階級内の多くの人々の霊的感受性を鈍らせる影響については、この状況に対して何かをしなければならないという確信を強め、そのように声を上げるために役立った。
真の意味で、聖書宣教教会は、毎日恵みの御座の周りに集まり、神の前に懸念を注ぎ出した多くの魂の心の中に誕生した。例外なく、誰も何をすべきかを正確に知っている人はいなかったようですが、誰もが祈りながら聖霊の御心を求め、神の導きを待ちたいという内なる衝動を感じていました。神への献身と忠誠心は変わらず、彼らは祈りのクローゼットの中で忠実に戦い、当時のプレッシャーや自分たちが会員である教会の妥協に屈することを拒んだ。
1942年。グレン・グリフィス師はオレゴン州ナイッサでナザレン教会のリバイバル集会を開催した。その集会で、モルモン教徒である農夫とその妻が救われた。彼らは神とともに歩み教会を支援した。数年たつと、地元の会衆に妥協が浸透し、それに立ち向かわざるを得なくことになり、やがて牧師は彼らに教会を離れ、戻らないように頼んだ。
1954 年の夏、この農夫アーネスト・バーカーは自分の 11 人の子供たちを救いに導こうと決意し、日曜日の午後に自宅で祈祷会を始めることにした。彼はこう言った。「もしどうしても自分の家で、しかも一人で持つ必要があるなら、昔ながらのホーリネス教会を作ろう。」時間が経つと彼は他の人も自分と同じように感じていることを知り、祈祷会のうわさが広がるにつれて人々が彼に連絡を取り始めた。午後の祈祷会に参加し始めた家族もいくつかいた。その中には、アルビー・ヘイグッドご家族、カール・ワードロウご家族、レッド・ハウエル夫妻、ゴルダ・ハウエル夫妻、ベティ・アンド・ドイル・ケーブル夫妻、ボブ・スタウト夫妻、レナ・スタウト夫妻、ジェラルド・バーカー夫妻、ロイス・バーカー夫妻などがいた。
同年 8 月、オレゴン州バレービューの小さな村でテントのリバイバル集合が始まった。隣町のホーリネスの牧師が説教を行った。リロイ・スワードらがテントを設営し、アーネスト・バーカーが家族のピアノの使用を申し出た。
リロイとヘレン(バーカー)・スワードは集会のために歌うように頼まれた。これが彼が探していたものかもしれないと期待していたが、これが独立したホーリネス教会の始まりであると知ったとき、アーネストの希望は打ち砕かれた。彼がその一員になるかどうか迫られた時、彼はこう言った。、「いいえ、そのような方向に行くなら、私は参加しません。私は他の人が参加できる組織化されたホーリネス教会が欲しい。」と答えた。
この間、アーネストはグレン・グリフィス師に電話することにした。そして、教会について何をすべきかについてアドバイスを求めた。優しい激励とともに、グリフィス師は彼に、「祈りの集会を続けて、しっかりしていてください。『雲が人の手のように立ち上っているのが見える。』と言った。そのとき、アーネストは、アイダホ州ナンパで同様の重い心を抱いて祈祷会を持っている兄弟たちのグループについて知らされた。
1955年1月、ゴードン・クレーン、ロスコー・ケロッグ、デール・チャペル、A・C・ターナー、ジョージ・ストゥープスの5人のナザレン教会員の若者は、霊的に生き続け、家族を救うために何かをしなければならないと決心した。彼らが出席していた教会は、悲しいことに教会マニュアルに違反するほどの世的な漂流の混乱の中にあり、誰もそれに対処しようとしなかった。男たちは医師であるロスコー・ケロッグのオフィスで会うことにした。そして毎週一晩、一時間祈ることにした。 7か月の祈りの後、彼らは、伝道者を招いて自分たちの天幕集会ができたらどんなにすばらしいだろうかと話し始めた。 1940年代、グレン・グリフィス師はナザレン教会のアイダホ・オレゴン教区の教区監督を務めており、男性全員が彼をよく知っていて、彼が伝道者になることに同意した。ある晩の祈りの後、彼らはグリフィス師に電話し、重荷を打ち明けた。彼は、来ることに非常に興味があると言った。数回の電話の後、
8月のナザレン教会のキャンプ集会と重ならないように、9月8日に天幕集会を始める計画が立てられた。
日付が決まり、スネーク川のアイダホ側とオレゴン側の 2 つのグループは、わずか数週間後に行われる天幕集会に備える多くの作業を行う必要がありました。しかし、彼らがその作業をしている間、どれほどの興奮が彼らの心を満たしたことでしょう。特に若者たちの間で熱気があった。まず、彼らはお金を出し合って、適切なテントを探し始めた。 バレービューリバイバル集会で使用されたものはまったく小さすぎた。ついに彼らは、オレゴン州オンタリオの遊園地で、うまくいきそうなものを見つけた。ユーニス・バーカー姉妹には遊園地の責任者である兄弟がおり、彼はグループが20メートル×30メートルのテントを使用する許可を与えた。テントを撤去する必要があったため、アーネスト・バーカーは息子5人と義理の息子リロイ・スワードとロスコー・ケロッグを連れて、テントを取りにオンタリオまで行った。彼らはそれを、アイダホ州ナンパとコールドウェルの間の中間に位置する、国道30号線の西側にある空の干し草畑に運んだ。ロスコー・ケロッグは、土地の使用について農家と事前に取り決めをしていた。その少人数でテントを建てるのに丸2日かかった。
ある時、巨大なテントが労働者の頭の上で崩れ落ちた。男たちはひるむことなく、やがてその任務を成功させた。彼らは 2 つまたは 3 つの所からベンチと椅子を借りて、テントの中に配置し、祭壇と壇を作り始めました。それから彼らはピアノを持ち込み、テントに電気を引いてきて、照明を吊り下げ、地面をおがくずで覆った。
9月7日水曜日の夕方、5人の男性とその家族(アイダホ州のグループ)は集会のためにテントの下に集まった。 A.C.(クラレンス)ターナーが祈祷会を担当し、メッセージをした。彼らはどれほど興奮していたか。 これから何が起こるのか誰も知りませんでしたが、期待は高まっていた。
神は、これからなさろうとしていることに対 して人々を備えさせた。祈りと忍耐を通して、これら善良な信徒のグループはこの瞬間まで御霊の促しに従ってきた。彼らはこのテント集会を計画し、準備し、組織し、宣伝するためにできる限りのことをした。しかし、神はこれらの信徒が一人で働くように備えておられたわけではない。神は、そのような時間のために偉大なホーリネス戦士を用意しておられた。
グレン・グリフィス牧師は、1894年8月17日にカンザス州オーガスタ 近くの農場で11人兄弟の末っ子として生まれた。最初は一教室の 学校で教育を受け、その後他の 2 つの教育機関で教育を受けた。1917 年に米国がドイツに宣戦布告した 12 日後に州兵の第 137 歩 兵隊に入隊するため卒業前に学校を中退した。彼はフランスで激し い戦闘を経験し、1919年4月に少尉として名誉除隊した。
グリフィス兄弟は1912 年に初めて救われ、説教をすることに召されたが、残念なことに第一次世界大戦の悲惨な戦いの間、神から遠ざかってしまった。彼は 1925 年 8 月の土曜日に再び決心し、翌日曜日の朝にナザレン教会に加わった。彼の最初の牧師職はカンザス州ニュートンの教会だった。いくつかの教会を牧会した後、彼は伝道者となり、自分の大好きな働きを見つけた。その後、ナザレン教会のアイダホ州オレゴン教区で教区監督として 8 年間 (1937 ~ 1945 年)、その後コロラド教区の監督として 4 年間 (1946 ~ 1951 年) 奉仕した。1951年からは再び伝道者になり、アイダホの兄弟たちから、西部に出て助けにきてくださいとの電話を受けたとき、彼は伝道活動に積極的に取り組んでいた。グリフィス師は、アイダホでのこのテント集会の前に、神が彼にどのように語られたかを次のように語っています。
テントの下に集まる前の2年間、神は私の心に、神とこの世代に対する私の責任について語りかけておられた。
それは、1926 年の昔ながらの説教者や指導者から受け継いだ、はっ きりした福音を説き、心と生活の聖性の基準を維持することだ。私は、自分が会員だった教 会のプログラムに見られた傾向に同調できないと感じた。それで、私が教会で感じた状況
と、聖霊様からの「信仰のために戦いなさい」との語りの両方を感じて、やっと選択を迫られ るところまで来た。3 つの選択肢が私に突きつけられた。
1. 現在の教会プログラムに従うこと
2. 教会に留まり、初期のホーリネス運動を象徴するものために闘い、その闘いで苦悩して信仰を失う危険を冒すこともできたかもしれない、私は星空の下を歩き出し、最初の頃と同じように説教を続けること。これらの選択肢を心 の中で検討した後、プレッシャーの下で道を歩き ながら祈りながら、私は恨みを抱かず、明日のことをあまり考えず、ただ神を喜ばせて人生を終えるためまた信仰の勝利を得るため に出ることを決心した。
1955年9月7日、神の導きを確信して、グリフィス師は、テント集会を始めるためにアイダホに飛ぶ前日に、アイダホのナザレン教会総監督会に資格証明書を郵送した。
その証明書に添えられた手紙には、次のように書かれていた。
親愛なる兄弟の皆さん、
同封されているのは、カンザス地区総会から私に与えられた長老任命書です。1931 年 8月 30 日にロイ・T・ウィリアムズ先生が私を任命しました、任命式の中でウィリアムズ先生は、私に「もしナザレン教会のプログラム全体に忠実になれるとは思えない時が来たら、発的に自分の資格を教会に返還しますか?」と質問しました。教会のプログラム全体に同意できない時が来たと感じています。私は自分を「聖なるもの」として不平を言うつもりはありません。しかし、今の教会が私が30年前に入会した教会と 同じ教会であるとは感じていません。私はこの教会が依然として 2 つの恵みの働きを説いていると感じていますが、その教義については何も言うことがありません。これより優れたものはないからです。しかし、正義と個人の聖さの高い基準は、社会福音的なホーリネスにまで縮小し、テレビ、レクリエーション、教育に関与することが強くなり、それはほぼ人間 主導のプログラムに変わりました。それが、失われて、完全に堕落した人間たちにを助けるとは思えません。
私はいかなる恨みをもったり、不満を抱いて去るわけではありません。ただ、裁きに縛られた世界とキリストの偉大な教会のために、重荷を負った心で離れるつもりです。これらの資格証明書はしみなく私に与えられ、同じ状態で返させていただきます。私は、イエスの尊い血があらゆる汚れと罪を覆い、愛する聖霊が今私を清めていると信じています。私は誰に 対しても悪意を持っていません。私はただ、この試練の時に神が私をしっかりと支えてくだ さること、神の前に立ち、私がしたことについて説明するときに何も落ち度がないことがない ように、祈るだけです。マタイ 9:36-38。神が私たち全員を携挙の準備ができるよう助けてくださいますように。
救われてない魂のために全力を尽くし、
グレン・グリフィス
グリフィス師とスペンサー・ジョンソン師は、ナザレン教会に関して共有している問題や懸念について、さまざまな機会に話し合っていた。アイダホ州のテント集会で説教しているとき、グリフィス師はジョンソン師に手紙を書いた。その一部を紹介しよう。
私は自分の資格証明書を本部に返送し、ナザレン教会を退会しました…背教は教会に深く根付いています、これ以上一緒にいるならば他人の罪に関わることになると思います…
私は幸せです。自由になった気がします…私は星空の下に出かけました。給料の保証もなく教会のための土地もなく、組織もありません。しかし、神は御言葉と、神を信頼して御心を行う聖徒や説教者たちを支えることができ、心配するお方であると私は信じています…悪魔は
私の30年間の奉仕活動、私の影響力、評判また伝道とリバイバル集会における私の1959年までの伝道活動の確実した予定を持ち出してきました。しかし、イエス様のために、すべてに別れを告げました…私には今、地元のグループを法人化する以外の計画はあり ません…マタイ 9:36-38は私のチャレンジです。詩篇1篇は私の力です。詩篇91篇は私 の守りです。これで乗り越えられるはずです。
主は導いておられ、人々は準備していて、時が来た。神は地獄の門を揺さぶり始めようとしていた。そして、必要な行動が起こった。この冒険にかかわっている人々にはまだわからないが、過去の霊的なリバイバル時代のように戦いが始まりそうだった。
テント集会
木曜日の朝、1955 年 9 月 8 日、グリフィス師を乗せた飛行機を迎えるため、アイダホ州ボイシへ行った。彼が飛行機から降りたとき、グリフィス師は空港で出迎えた男性たちに、ナザレン教会に資格証明書を返したことを話した。これは、信徒の小さな祈りのグループにとって、真新しい教会が始まるかもしれないことを示す最初の兆しだった。彼らがとても尊敬していたこのベテラン伝道者の信仰と勇気は心強いもので、彼らは皆、ナザレン教会の会員から自分たちの名前を外すよう求める手紙を書いた。
彼らは空港からテントの場所まで車で行った。グリフィス師に彼らはその夜の礼拝の準備をどのようにしたか説明した。伝道者はとても喜んだ。その日の午後は 36.5 度の暑さで、夜は 14度の肌寒い気温だったが、開拓者たちを思いとどまらせるものは何もなかった。
数時間もしないうちに、大きなテントが張られた野原に人々が車でやって来た。トレジャーバレーのあちこちから約150人が集まってきた。グリフィス師は、おがくずの通路を歩き、コートを腕にかけ、帽子を手に、礼拝を始めるために、人々に向かって手を振った。聖徒たちから大きな賛美の叫びが上がり、しばらく続いた。あたかも将軍が到着し、大規模な戦いに向けて軍隊を編成しているかのようだった。午後7時45分に、グリフィス師によって集会が始められた。レイモンド・エドワーズが最初の歌をリードした。すぐに神様の栄光が訪れた。これはサタンが長い間落胆させようとしていた会衆だった。彼らは、昔のように神のご臨在が戻ってくることを祈り求めている人々だった。
「さかえある自由」や「イエスに勝利(さかえをすてて)」などの賛美がキリストにおける喜びに満ちた自由について語り、長い間前線で戦っていた負傷兵の心の言葉を声高に歌い上げたこの曲は、新たな熱意と意味をもって歌われ、テーマソングとなった。ゴードン・クレーンはこう書いた。「それは私が今まで経験した中で最も感動的な出来事の一つだった。 これは私たちの予想をはるかに超えるもので、主の祝福は大きかった。私たちのすべての努力が間違いではなかったことを確信した。」と彼は言った。
98~102ページ
リバイバルの知らせが渓谷中に広まるにつれ、テント集会への参加者が増えていった。金曜日の夕方までに少なくとも200人が礼拝に出席した。やがて、古いテントの下に500人の魂が集まるようになり、礼拝が行われた。アイダホ州のクナ村、ボイジー市、コールドウェル町、ナンパ町、ミッドヴェール村、ツインフォールズ町、ホームデール村、エメット村から人々がやって来た。オレゴン州オンタリオ町、ニッサ村、そして遠くはワシントン州ケネウィック市からもやって来た。ただし、参加者全員が霊的なものを求めていたわけではなかった。ある人は楽しみを求め、ほかの人は怒っていた。地域のナザレン教会から多くの好奇心旺盛な観察者と、アイダホ州ナンパのノースウェスト・ナザレン神学校の学生も何人かいた。
テントを破損されないために、大学生のジーン・スミスが雇われた。彼は毎晩テントで寝たが、ありがたいことに目立った害は報告されなかった。
事実は、神の臨在と栄光が燃え上がっていて、火があると人はそれに引き寄せられます。エスター・ビショップ姉妹は、テント内での「通常の」集会の様子を観察して書き留めている。
クレイン兄弟が説教壇を離れ、賛美が終わると、人々は叫びながら通路を走り回っていました。それから証が続き、二人が同時に証することがよくありました。グリフィス師はしばらくそ れを続けさせた。誰かが一息つくと、「そろそろ祈りましょう」と言いました。彼は集会の流れ をよく知っており、その場には神様のご臨在を感じることができた。
グレン・グリフィスとA・L・クレイン兄弟がムーディー・サンキーのようなアメリカを伝道するために神が20世紀に立ち上げたホーリネス運動のチームとなった。彼らは、次のような人々を導く器として選ばれた。聖書の基準に基づいたきよい生活と慎み深い服装についての昔ながらの説教と御霊における束縛されない自由に飢え渇いている者だった。年配の信徒は喜んでこう言った、「これは私たちが50年前に覚えているのと同じスピリットです。」毎晩の集会が数週間続いても聖徒たちは平気だった。 彼らは礼拝を一度も欠席しなかった。ここで若者たちが初めて男性も女性も、聖い人も罪人も神の力によって打ち砕かれたことを見た。ここで彼らは個人的な犠牲が実践されているのを見た。人はテント集会中にあるプロジェクトのために献金を約束し、銀行でお金を借りて、利子を付けて返済した。彼らは私物を売って教会をサポートした。ある酪農家が牛を売って活動を継続させたことも一度や二度ではなかった。ここでは祭壇の周りに夜ごとに勝利を見ることができ、信仰が生まれ、多くの若者の心に根を下ろした。「神にはどんなことでもできます」という御言葉は、次のエリコへの進軍を待ち望んでいた大勢の信仰を持った聖徒たちの前で、毎晩のように「神には万事が可能である」という言葉が語られた。
数週間すると、肌寒くなってきた。これはある意味では祝福だった。テント集会の聖徒たちを襲う蚊やその他の虫の群れの攻撃が弱まるから。彼らの攻撃に対抗するために、200リッターの燃える木片が入った樽がテントのあちこちに置かれた。堅い会衆席のクッションとして持ってきた毛布を増やして、今度は震える体を包むために使用された。ロスコー・ケロッグ、通称「ドック」は寒さを和らげようと木炭の入った大きな樽を4つテントの下に置き、それに火をつけた。
テントの下の集会が5週間続いた。家族で来ていた人たちはそこにいるために多くの犠牲を払った。農民たちは作物の世話をしなければならず、朝も夜も家事をしなければならず、しばしば、長い距離を車で運転しなければならなかった。夜の礼拝を終えて帰宅するのが真夜中過ぎになり、数時間で早起きする家族も珍しくなかった。そのようなエキサイティングな日々の間、神の栄光がはっきりと感じられた古いテントに戻るという考えが人びとの間で支配的であった。
リバイバルがほぼ 3 週間続いた後の 9 月 27 日、グリフィス師は組織化に関心のある人々の会合を招集した。この最初の公式会議の議事録の一部には、次のように簡潔に述べられている。
地元のグループを「ミッドウェイ・ホーリネス・会堂」と呼ぶよう動議が提出され、賛成多数で可決された。
ここに、信仰と聖霊に満ちた新しい名前の新しいグループが誕生した。新しい組織の会員名簿が公開され、数週間、公開されたままであった。
宗教法人「聖書宣教連合」
最初の組織会議が開かれてから 1 週間も経たないうちに、グリフィス師は、すでに作成していた定款を採択し、組織の役員を選出するために別の会議を招集した。賛美、御言葉の朗読の後、二人の兄弟が祈りを先導し、新しい組織の名称についてのグリフィス師の提案があって、会議の目的が次のように示された。
この聖徒たちの団体を「聖書宣教者連合」として知られる明確な団体に編入すること。
グリフィス師は、私たちの組織の基準や規律がどのようなものになるかを述べた。
J. H. デイビスによって提出された動議は、A. L. クレインが賛成し、私たちは「聖書宣教連合」として法人化することを可決した。
動議はA. L. クレインによって提出され、ジェラルド・バーカーによって承認され、読み上げられた定款をそのまま採用することを可決した。
アーネスト ジンクが提出した動議は、J. H. デイビスが承認し、「超教派」という用語を法人化文書から削除することを可決した。
会議は引き続き行われ、役員に 15 名の男性が選出されました。選出者: グレン・グリフィス、会長。ジョージ・ストゥープス。アーネスト・バーカー:トレイシー・ナップ:ゴードン・サムズ。レイモンド・エドワーズ: J・H・デイビス: デール・チャペル: A. C. ターナー: W. D. アダムス: フロイド・スナイダー: A. L. クレーン: ヴァージル・スワード;ロスコー・ケロッグ: そしてゴードン・クレイン。会計にデール・チャぺル氏、書記にゴードン・クレイン氏が選出され、会議は閉幕した。聖書宣教連合の定款は、この会議で15 人全員によって署名され、その日(1955 年 10 月 3 日)のうちにアイダホ州キャニオン郡に提出された。
土地購入 - ボックスファクトリー(箱工場)
10月10日、若いミッドウェー・ホーリネス・会堂の多くのニーズに応えるために、別の会議が招集された。 A.C.ターナーは日曜学校教育の長、ロスコー・ケロッグは奉仕係の長に選出され、A.L.クレインは、音楽奉仕者および教会の管理人に選出され、週給50ドルと月々の家賃20ドルが設定された。また、必要に応じて伝道者として旅をすることが許可された。グリフィス師の給与は 6 か月間の間は暫定的に週 75 ドルに設定され、光熱費は年間 300ドルまで支払われることになっていた。この時点では、青年会長、教会図書館の司書、日曜学校の秘書、会計係、ピアニストなど、他のいくつかの役職が決まった。
この会議で、新組織のための土地購入について初めて言及された。 グリフィス師が土地を探す土地委員会を任命するという動議が提出された。別の動議は、会堂を建てるために最低10エーカー(12、240坪)の土地を確保することが決められた。わずか2週間以内に、アイダホ州コールドウェルの南東、ウスティック・ロードにある10エーカーの土地が見つかり、価格は6,000ドルであった。 1955 年 10 月 24 日に開催された理事会では、この農場の土地を購入することが全会一致で可決された。聖書宣教連合の最初の教会がミッドウェイ・ホーリネス・会堂という拠点を持つことになる。
テントにいられなくなるほど寒くなったとき、 ロスコー・ケロッグは新しい群れが礼拝を行う場所を再び見つけた。彼は、以前はローラースケート場、ダンス フロア、タマネギ小屋とし て使われていた汚れた鉄骨の建物を見つけた。この建物は、その後ボックスファクトリー(箱工場)に改造された。それは、コールド ウェルのワイツ氏が所有するミッドウェイ・ ランチ・カフェの隣にあった。彼らがこの建物を入手したとき、汚れていた。この頃、グリフィス師がジョージ・ロバーツ師に宛てた手紙の中でこう語っている。
私たちはテントから、ナンパとコールドウェルの中間にある、大きな箱工場(ボックスファクトリー)へ移り、椅子を買うために1,000ドルを集め、室内をペンキで塗装しました…今日も何人かがそこにいて、掃除や修理をしています。毎晩ほぼ満席で、 450 人か 500 人が 座る ことができます。多くの求道者が幸せな発見者となる素晴らしい集会を持っています。
ボックスファクトリーに集った会衆
山口県岩国聖書宣教教会
住所:山口県岩国市藤生町1-26-24
℡0827-31-7229 (090-5699-5932)