2025年6月1日~約1年間かけ、キリスト教入門・神学コースで学んでいきたいと思います。只毎回集いたいのに集えない学びたいけど1年間を通すとなれば~???と思う方朗報です!この度HPから見る・学ぶことが可能になりました。数年後あ!こんな話してたよねって振り返えり誰かの力になることもあると思います。
NO21.「全き聖化」ワークシートは
NO20の「全き聖化」復習になります。 11月23日までに記入、提出は11月30日までに
21. 「全き聖化」復習
1.きよめはなぜクリスチャンにとって不可欠ですか?
2.どのような人はきよめを求めることができますか?
3.きよめは具体的にどのようなものですか?
A.
B.
C.
4.自分の言葉できよめを受ける方法を要約してください。
5.きよめについての質問や不明な点はありますか? 話し合いの時に挙げてみてください。
読書宿題:授業中に読めなかった聖書の箇所を11月23日までに読んでください。( )
読書宿題
Sanctification is by faith. Or is it by Bro Schneider
きよめは信仰によるものです!というのは?
アメリカの「ミショネリー・リバイバリスト」の2025年11月号
BMI神学校教授ダリン・シュナイダー師
11月16日までに読んでください。
「自分が知ってる限り、するべきことはすべてやった!」祭壇を囲んで求道者と祈ったことがある人なら、誰でもこの言葉を何十回も聞いたことがあるでしょう。これは、どう求めたらいいかわからない求道者が「頼りにする」フレーズのようです。そして、それは私たちがホーリネスの教団において経験的危機に陥っていることを明らかにするフレーズです。ホーリネス運動全体において、完全な聖化の真の経験に関して、漂流が起こっています。
聖化とホーリネスは、ホーリネス運動によって依然として敬意を払われている理論ですが、その経験は少しづつ失っていってます。
祭壇は理論が現実に変わる場所であり、もしそこで苦闘しているのであれば、私たちを常に定義してきた経験が単なるスローガンに堕落しないように、問題を解決したほうがよいでしょう。
真の救いの経験と同様に、完全な聖化は信仰と推定の違いにかかっています。神の言葉が何と言っている聞いてください。「彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである」(使徒 26:18)聖書は、完全な聖化(あるいは心の清め)の
働きは信仰によると明確に述べています。聖化の信仰は、最初の救いの条件を満たしてから築かれなければなりません。それ以外のものはすべて推定です。肉の自己を十字架につけるてもらうのは清めの方法ですが、行き詰まった求道者に自分自身の罪の人が死んでいるとみなしてただ信じるように言う余裕はありません。
私たちの教義は、完全な聖化は恵みの第二の恵みであり、救いの最初の恵みがすでに完了していることを意味すると教えています。この教義上の点は、新約聖書のコルネリウスという人物に例証されています。この方は光明がほとんどありませんでしたが、どういうわけか神との救いの関係に入っていました。彼は、使徒10章でこのような人であると書いています「彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。」この章の後半で、コルネリウスは「神に受け入れられた」と言われています。これらすべてをまとめると、根本的な変化を受けた異教徒の百人隊長であったとわかります。彼が敬虔であり、それは礼拝を正しくするという意味があります。生き方と言葉が正しくなり、コルネリウスは証人となり、効果的な魂の救い手となった。彼は常に神に祈って、良いデボーションの時間を持っていたと言えると思います。彼は王国の働きのために財布を開いたという点で、真の信心のテストに合格しました。そして彼は「神に受け入れられた」という点で、真の救いにあずかっていたと分かります。これは新約聖書の意味では、コルネリウスが自分の心の中に救いの確信と証を持っていたことを意味します(ローマ8:16)。この異教徒の百人隊長のこのような根本的な変化は、聖書の救いの奇跡によってのみ説明できます。したがって、コルネリウスと彼の家への聖霊の注ぎは回心(救い)の後に起こった経験でした(使徒10:44、45)
神がすぐにこの無知な人をきめたたことは、私たちの注意を引くべきです。それは、神がふさわしい受信者とみなす人物像を示しています。おそらくコルネリウスの最大の資質は、頭で理解する知識の欠如だったのでしょう。彼は「自分が知ってる限り、するべきことはすべてやった」と言わなかった。コルネリウスはただ神様を従って救いを得たように、どう表現したらよいか分からない経験にも神様に従いながら入ったのです。
現在、祭壇の周りで人々はきよめられたいけど奮闘している大きな原因は、理解しにくい教義のせいではなく、明らかに救われていないか救いから堕落した人々がきよめを求めてることです。(ヘブル 10:22)
多くの落胆した求道者は、クリスチャン生活の中でうまくいかなかったことに対する万能薬として、第二の恵みを求めているようです。もしかしたら、悪い態度や怒りっぽいことが繰り返し起こる問題なのかもしれません。ある求道者は、聖なる心が、一貫した祈りの生活を維持したり、心の冷たさを癒す鍵となることを期待しているのかもしれません。あるいは、「まだ聖化されていないから」と言って、罪に陥ったことを言い訳しているのかもしれません。確かに、聖化の働きはこれらの霊的な病を癒します。しかし、コルネリウスは、聖化された心を持つためには、どれほど神に近い生活を送らなければならないかを示しています。一貫した祈りの生活を送っていない人、あるいは古い性質を抑えるのに十分な霊的生活を送っていない人は、神に聖化される状態ではありません。行き当たりばったりの祈りの生活、そして汚い態度が散見される過去の痕跡、あるいは罪への慣れ親しんだ探求者は、第二の恵みの働きを求める前に、原点に立ち返る必要があります。罪を犯して何度も赦しのために祈らなければならないクリスチャンは、清い心を求めて神を信頼する準備ができるまで、まだ多くのことを成し遂げなければなりません。探求者が最新の救いについての明確な知識を持って祭壇に来るなら、祭壇の周りの多くのフラストレーションは消え去るでしょう。
私たちの教義は、聖なる生活は救いの時点から始まると教えています。もちろんそれは内なる格闘を感じながら保つ清さなのですが。聖霊はこの内なる腐敗との闘いに光を当て、より深い恵みの必要性を指し示し始めます。この目覚めは、祈りと熱烈な説教が溢れる雰囲気の中で育まれれば、欠乏の確信へと成長します。聖霊の忠実な働きによって心に生まれる清さへの渇望は、聖化の信仰に至るもう一つの重要な条件です。渇望は意志を急速に動かします。イエスが「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りからです」と言われたとき、聖化の信仰が真に誕生したとき、心の態度がどのようなものになるかを私たちに教えておられたのです。
聖さへの渇望こそが、罪の性質の十字架刑への道の始まりです。光が心の肉欲と偶像に輝くにつれ、飢え渇く魂は告白の痛みにもかかわらず、屈服する動機づけられます。これらすべてには、信仰を大きく増幅させる意志の同意が必要です。その結果、解決への期待が高まり、探求者は十字架の道が素晴らしい終わりへの手段に過ぎないことに気づくでしょう。おそらく、この探求者が過去を振り返れば、「自分が知ってる限り、するべきことはすべてやった」という言葉にどれほどの反抗心があったかに気づき、誰かが彼に「ただ信じなさい」と促さなかったことに永遠に感謝するでしょう。
探求者は今、いつ信じるべきかを誰かに言われる必要はないという確信を深めながら、地上のすべての支えを捨てつつあります。心の中で期待が高まり、それが神の言葉の誘う力と相まって、時が迫っているという感覚をもたらします。そして、その時は確かに訪れます。すべては、何も見逃さない忠実な聖霊の導きのもとに起こります。聖霊こそが、服従の槌と釘で築かれた信仰の土台へと、身を委ねる探求者を導き出すのです。推測の余地はなく、祭壇の周りにクリスチャンの助け手がそこにいたとしても、聖化をもたらす信仰が根付き、瞬時にきよめの業が行われるにつれて、彼らは単なる傍観者になります。
ここでは、聖性の探求を決まり文句にしようとはしていません。人は一人ひとり違います。結構早く聖化される人もいれば、多くの苦闘の末に聖化される人もいます。しかし、いずれの場合も、聖霊が主導権を握り、探求者を個人的なきよめの時へと導きます。これはいわゆる「自分を捨てる道」であり、「信仰の道」と同じです。そこでは、単純な従順が、イエス・キリストの血がすべての罪から清めるという単純な信仰につながります。
ですから、苦闘する探求者に対して、私たちはこう言います。「無理やりに推定してきよめに入ろうとするより、「着せられるまでとどまっていなさい」(ルカ 24:49)神がすべきことすべてと、いつ信じるべきかを教えてくださいます。
山口県岩国聖書宣教教会
住所:山口県岩国市藤生町1-26-24
℡0827-31-7229 (090-5699-5932)