2025年6月1日~約1年間を通し、キリスト教入門・神学コースで学んでいきたいと思います。只毎回集いたいのに集えない学びたいけど1年間を通すとなれば~???と思う方朗報です!この度HPから見て学ぶ、ことが可能になりました。数年後あ!こんな話してたよねって振り返えり誰かの力になることもあると思います。


第4回父なる神(英語・日本語を分けてWord掲載しています。ですのでダウンロード無しで印刷可能です。読み物宿題はスキャンしたため写メのフォルダーになっています)


(ちち)なる(かみ)

 

宗教(しゅうきょう)条項(じょうこう)BMC マニュアル) 1.

(わたし)たちは唯一(ゆいいつ)生ける(い  )(まこと)(かみ)(しん)じる。(かみ)は、永遠(えいえん)にして無限(むげん)(ちから)知恵(ちえ)(りょう)(ぜん)であられ、()えるもの、()えないもの、すべてのものの創造者(そうぞうしゃ)また保持者(ほじしゃ)であられ、神性(しんせい)一致(いっち)(なか)に一つの本質(ほんしつ)(ちから)永遠(えいえん)なる三つ(みつ)人格(じんかく)(ちち)()聖霊(せいれい)である。  ローマ15:6; イザヤ64:8; エペソ1:3    

第一(だいいち)コリント 86節 「(わたし)たちには、(ちち)なる唯一(ゆいいつ)(かみ)がおられるだけで、この(かみ)からすべてのものは発し(は )、この(かみ)私たち(わたし   )至る(いた  )からです。また、唯一(ゆいいつ)(おも)なるイエス(いえす)キリスト(きりすと)がおられるだけで、この(しゅ)によってすべてのものは存在(そんざい)し、この(しゅ)によって私たち(わたし   )存在(そんざい)するからです。」 

(かみ)(まな)ぶとき、私たち(わたし     )知性(ちせい)論理(ろんり)だけでなく、(れい)(こころ)用いて(もち    )(かみ)理解(りかい)しようと(つと)めなければなりません。私たち(わたし     )知性(ちせい)だけで(かみ)完全(かんぜん)理解(りかい)することはできませんが、(れい)(とお)して(かみ)無限(むげん)個性(こせい)から(まな)ぶことができます。(かみ)深く(ふか )()ることは、すべてのクリスチャン(くりすちゃん)持つ(も )素晴(すば)らしい、また楽しい(たの   )特権(とっけん)の一つです。(かみ)をより深く(ふか )理解(りかい)するために、今日(きょう)(かみ)属性(ぞくせい)をいくつか()げてみます。

 

神様(かみさま)永遠(えいえん)お方(  かた)です

あなたは()らないのか。()いたことがないのか。(しゅ)永遠(えいえん)(かみ)()果て(は )まで創造(そうぞう)した(かた)(つか)れることなく、(よわ)ることなく、その英知(えいち)測り知(はか  し)れない。 イザヤ(しょ) 40(しょう) 28(せつ)

人間(にんげん)脳力(のうりょく)にとって理解(りかい)するのが最も(もっと  )(むずか)しいことの(ひと)つは、(かみ)永遠(えいえん)であるという事実(じじつ)です。(かみ)創造(そうぞう)されたことも、()まれたことも、(はじ)まりもありません。時間(じかん)(べつ)存在(そんざい)しています。(かみ)は「永遠(えいえん)(いま)」と表現(ひょうげん)する(ひと)がいます。

(わたし)たちにとって、これを理解(りかい)するのは(むずか)しいことです。なぜなら、私たち(わたし    )()にするものすべてには(はじ)まりがあるからです。惑星(わくせい)(やま)(うみ)、どんなに(ふる)いものでもすべてに(はじ)まりがあったのです。

(かみ)私たち(わたし    )()えるものや()っているすべてのものより(まえ)から存在(そんざい)しており、これからも永遠(えいえん)存在(そんざい)し続ける(  つづ   )(かた)です。

(かみ)不変(ふへん)です。昨日(きのう)も、今日(きょう)も、そして永遠(えいえん)()わらないお(かた)です。

 

神様(かみさま)はすべての創造(そうぞう)(ぬし)です。

創世記(そうせいき) 1:1 はじめに(かみ)(てん)()創造(そうぞう)された。

創世記(そうせいき)第一章(だいいちしょう)では、(かみ)(わたし)たちの周り(まわ  )自然界(しぜんかい)すべてを創造(そうぞう)されたことが(しる)されています。(たい)(よう)(つき)惑星(わくせい)(ほし)大宇宙(だいうちゅう)大気(たいき)(りく)(うみ)(さかな)動物(どうぶつ)、そして最後(さいご)人間(にんげん)(つく)られた。 自然界(しぜんかい)多く(おお  )特徴(とくちょう)は、偶然(ぐうぜん)進化(しんか)ではなく、特定(とくてい)知的(ちてき)設計(せっけい)(しめ)しています。人間(にんげん)細胞(さいぼう)構造(こうぞう)から銀河(ぎんが)形成(けいせい)(いた)るまで、私たち(わたし   )創造(そうぞう)において(かみ)御手(みて)見る(み )ことができます。

 

神様(かみさま)全能(ぜんのう)である。

(しゅ)にとって不可能(ふかのう)なことがあるだろうか。わたしは来年(らいねん)(いま)ごろ、定めた(さだ  )(とき)に、あなたのところに戻って(もど   )()る。そのとき、サラ(さら)には(おとこ)()()まれている。」  創世記(そうせいき) 1814

(かみ)(わたし)たちとこの()万物(ばんぶつ)創造(そうぞう)されたのですから、時間(じかん)空間(くうかん)、あるいは力や能力(のうりょく)不足(ふそく)(しば)られることなく、ご自身(じしん)適切(てきせつ)(かんが)えるあらゆる方法(ほうほう)(はたら)かれるのは当然(とうぜん)のことです。(かみ)は、(わたし)たち人間(にんげん)自由(じゆう)意志(いし)選択(せんたく)尊重(そんちょう)するために、ご自身(じしん)限界(げんかい)(もう)けているだけです。(かみ)には、(あざむ)いたり(うそ)をつくことはできない。それは、(かみ)のもう一つ(ひと )特質(とくしつ)(かれ)聖性(せいせい)矛盾(むじゅん)するからです。

 

神様(かみさま)全知(ぜんち)である。

(かみ)はそれを探り出されない(さぐ  だ        )でしょうか。(かみ)こそ(こころ)秘密(ひみつ)知って(し  )おられるからです。詩篇(しへん) 44(へん) 21(せつ)

(かみ)はすべての秘密(ひみつ)()っています。聖書(せいしょ)は、(かみ)がすべての知識(ちしき)知恵(ちえ)()ち、すべての(ひと)人生(じんせい)()こるすべてのことだけでなく、(わたし)たちの(こころ)思い(おも  )意図(いと)()ていることを明確(めいかく)(しめ)しています。(かみ)過去(かこ)現在(げんざい)、そして未来(みらい)()っています。アダム(あだむ)エバ(えば)(つみ)(おか)したとき、(かみ)彼ら(かれ  )(つみ)4000年後(ねんご)イエス(いえす)残酷(ざんこく)ローマ(ろーま)十字架上(じゅうじかじょう)()なせることを意味(いみ)することをすでに()っていました。(かみ)全体像(ぜんたいぞう)見通(みとお)されます。(かみ)理解(りかい)悟り(さと  )超える(こ  )ものは(なに)もありません。

 

神様(かみさま)はどこにでもいます。

(わたし)はどこへ()けるでしょう。あなたの御霊(みたま)から(はな)れて。どこへ逃れられる(のが     )でしょう。あなたの御前(みまえ)(はな)れて。

たとえ(わたし)(てん)(のぼ)ってもそこにあなたはおられ(わたし)がよみに(ゆか)(もう)けてもそこにあなたはおられます。詩篇(しへん) 13978

イエス(いえす)キリスト(きりすと)という人格(じんかく)において、(かみ)人間(にんげん)(からだ)という(かぎ)られた範囲(はんい)にとどまり、一度(いちど)一つ(ひと )場所(ばしょ)にしか存在(そんざい)できませんでした。しかし、(ちち)なる(かみ)空間(くうかん)制限(せいげん)されません。(てん)()両方(りょうほう)存在(そんざい)できます。アフリカ(あふりか)クリスチャン(くりすちゃん)(とも)にいると同時(どうじ)に、フィリピン(ふぃりぴん)クリスチャン(くりすちゃん)(とも)にいることもできます。(かみ)計り知(はか  し)れないほど(おお)きく、正確(せいかく)定義(ていぎ)することもできない。しかし聖書(せいしょ)は、地球(ちきゅう)(かみ)(あし)(だい)であると()いてあります。(かれ)大きさ(おお   )範囲(はんい)は、(わたし)たちが住む(す )広大(こうだい)宇宙(うちゅう)限界(げんかい)をはるかに()えています。人間(にんげん)強力(きょうりょく)望遠鏡(ぼうえんきょう)使(つか)い、光年(こうねん)などの測定(そくてい)単位(たんい)使(つか)って途方(とほう)もない距離(きょり)計算(けいさん)しようとすることで宇宙(うちゅう)理解(りかい)しようと(つと)めますが、(かみ)はその巨大(きょだい)空間(くうかん)すべてを包み込(つつ  こ)んでいます。

 

神様(かみさま)(きよ)いお(かた)

イスラエル(いすらえる)全会衆(ぜんかいしゅう)告げよ(つ  )。あなたがたは(せい)なる(もの)でなければならない。あなたがたの(かみ)(しゅ)であるわたしが(せい)だからである。 レビ() 19(しょう) 2(せつ)

(かみ)(つみ)(おか)すことができず、偽り(いつわ  )()うこともできない。(かみ)性質(せいしつ)(はん)して、いかなる不正(ふせい)(おこな)うことはできない。(かみ)(にく)しみを表明(ひょうめい)するとき、それは(つみ)(たい)する純粋(じゅんすい)(にく)しみです。(かみ)(おこ)るとき、それは人間(にんげん)のつまらない(いか)りではなく、(せい)なる(かみ)正当(せいとう)(いきどお)りです。(かみ)完璧(かんぺき)であり、完全(かんぜん)であり、真理(しんり)です。(かみ)御言葉(みことば)にあるすべての戒め(いまし )律法(りっぽう)は、(かみ)正義感(せいぎかん)聖性(せいせい)真理(しんり)から()ています。(かみ)()ることは、真理(しんり)()ることです。

 

神様(かみさま)(あい)です

1ヨハネ4:8 。。(かみ)(あい)だからです。

(かみ)(あい)聖性(せいせい)は、(ほか)のすべての属性(ぞくせい)影響(えいきょう)(あた)えます。(かみ)属性(ぞくせい)(けっ)して矛盾(むじゅん)しません。(かみ)(あい)()ちながらも(せい)であり、強く(つよ  )(やさ)しく、(つみ)(どく)対する(たい    )(にく)しみに()ちながらも、迷って(まよ   )いる罪人(つみびと)への(あい)()ちています。(かみ)(あい)最大(さいだい)表現(ひょうげん)は、御子(みこ)をこの()(つか)わし、人類(じんるい)贖罪(しょくざい)のために(いのち)(ささ)げられたことです。この犠牲的(ぎせいてき)行為(こうい)によって、(かみ)私たち(わたし    )愛して(あい    )いると言われた(い   )だけでなく、すべての人類(じんるい)対する(たい   )永遠(えいえん)(あい)証明(しょうめい)されました。

 

なぜ神様(かみさま)は「(ちち)」と()ばれるのでしょうか?

 

新約(しんやく)聖書(せいしょ)(なか)で、イエス(いえす)(さま)272(かい)(ほど)神様(かみさま)のことを「(ちち)」と()びました。その多く(おお  )は「わたしの(ちち)」と()ばれていますが、弟子(でし)たちに(はな)しかける(さい)には「あなた(がた)(ちち)」と()ばれることもあります。ある意味(いみ)では、(かみ)全人類(ぜんじんるい)創造(そうぞう)し、厳密(げんみつ)()えばすべての(もの)の「(ちち)」であるため、すべての生き者(い  もの)(ちち)であると()える。しかし、それよりも深い(ふか )意味(いみ)をもっています。イエス(いえす)は、ご自身(ごじしん)(しん)じないユダヤ人(ゆだやじん)たちに、「あなたたちの(ちち)悪魔(あくま)から出た(で )(もの)」であると()いました。(ヨハネ 8:44ですから、人々(ひとびと)(つみ)(おちい)り、創造(そうぞう)(ぬし)であり(ちち)である(かみ)から(はな)れるとき、彼ら(かれ  )(ほか)(ちち)悪魔(あくま)、と一致(いっち)してることがわかります。(かみ)()となり、(しん)(かみ)を「(ちち)」と()ぶことができるようになるには、生まれ変(う  か)わり、(てん)御国(みくに)(はい)らなければなりません。(かみ)家族(かぞく)迎え入(むか  い)れられた(もの)は、(かみ)を「アバ(あば)(ちち)(ローマ 8:15()ぶことができます。

 

神様(かみさま)名前(なまえ)のいくつ

 

אֱלֹהִים  エロヒムElohim – 旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)2601(かい)登場(とうじょう)KJVでは通常(つうじょう)God」と(やく)され、日本語(にほんご)では「(かみ)」。      通常(つうじょう)           意味(いみ)神々(かみがみ)()すが、(とく)冠詞(かんし)をつけると最高(さいこう)(しん)()すようになる。

           (おお)くのイスラエル人(いすらえるじん)名前(なまえ)には(かみ)(あらわ)す「el、エル、エリ」が(ふく)まれています。エリシャ - 救い(すく  )(かみ)、エリヤ –            エホバ  (かみ)、エルカナ (かみ)()たもの。地名(ちめい)につかわれている。ベテル - (かみ)(いえ)、ミグダル - エデル - (かみ)(とう)など。

אֲדֹנָי    アドナイAdonai または Adonoi – 438(かい)登場(とうじょう)KJVでは「Lord」と(やく)され、日本語(にほんご)で「(しゅ)」と(やく)されている。      (かみ)称号(しょうごう)で、(しゅ)意味(いみ)します。

יְהֹוָה   ヤハウェかエホバ Yahweh or Jehovah ハウェ」または「エホバ 」- KJVでは「LORD」。6220(かい)   登場(とうじょう)日本語(にほんご)では太字(ふとじ)(しゅ)表記(ひょうき)(かみ)自存的(じそんてき)または永遠(えいえん)(かみ)であることを意味(いみ)するユダヤ(ゆだや)国民(こくみん)使用(しよう)する()

יְהֹוִה   エホビ Yehovee - 「エホバ」の異形(いけい)302(かい)登場(とうじょう)KJVでは「GOD」。日本語(にほんご)では太字(ふとじ)で「(かみ)」。

θεός       ティオス  Theos - 新約(しんやく)聖書(せいしょ)1343(かい)登場(とうじょう)。「(かみ)」と(やく)されている。これは日本語(にほんご)の「(かみ)」に()ギリシャ語(ぎりしゃご)である。ギリシャ人(ぎりしゃじん)異教(いきょう)神々(かみがみ)()すために使(つか)われ、ユダヤ人(ゆだやじん)聖書(せいしょ)ギリシャ語(ぎりしゃご)(やく)でこの()(もち)いた。

κύριος- リオス」は新約(しんやく)聖書(せいしょ)748(かい)登場(とうじょう)する。「(しゅ)」と(やく)される。意味(いみ)最高(さいこう)権威(けんい)持つ(も )(もの)支配者(しはいしゃ)

4.「(ちち)なる神様(かみさま)   ワークシート 

 

1.神様(かみさま)がどのようなお(かた)であるかを(まな)ぶとき、(わたし)たちは知性(ちせい)論理(ろんり)だけではなく、どのように(さと)りますか?

 

 

 

 

 

 

 

2.(かみ)属性(ぞくせい)5()げてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.なぜ神様(かみさま)は「(ちち)」と()ばれるのでしょうか? 説明(せつめい)文章(ぶんしょう)読んで(よ  )自分(じぶん)言葉(ことば)()いてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4.(かみ)()ギリシャ語(ぎりしゃご)2つ、ヘブル語(へぶるご)2つほど()いてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読書宿題 

 

 

1.クラス(くらす)読めなかった(よ    )聖書(せいしょ)箇所(かしょ)()みましょう。(  )

 

2.(つぎ)ページ(ぺーじ)にある記事(きじ)()みましょう。(  )

 

Hatena Blog    yeshua.hatenablog 著者(ちょしゃ) 小林(こばやし)(たく)(うま)

 

2019-09-25   疑問(ぎもん)」 聖書(せいしょ)(かみ)名前(なまえ)は「エホバ(えほば)」なのか「ヤハウェ(やはうぇ)」なのか?

 

聖書(せいしょ)(かみ)は、唯一(ゆいいつ)(かみ)である。世界(せかい)創造者(そうぞうしゃ)であり、全能者(ぜんのうしゃ)であり、唯一(ゆいいつ)無二(むに)(かみ)である。そんな(かみ)を、クリスチャン(くりすちゃん)たちはどう()ぶのだろうか。最初(さいしょ)本格的(ほんかくてき)日本語(にほんご)(やく)の「文語(ぶんご)(やく)聖書(せいしょ)」では、(かみ)は「エホバ(えほば)」とされている。(しん)改訳(かいやく)(せい)(しょ)では(ふと)文字(もじ)の「(しゅ)」、共同(きょうどう)(やく)聖書(せいしょ)では普通(ふつう)文字(もじ)の「(しゅ)」などとされている。

 この(かみ)名前(なまえ)は、ヘブライ()で「YHVH」(יהוה)のアルファベットで示される4文字で表す。

<神の名前>(右から読む)י ה ו ה 

 

 ヘブライ語はいちいち母音を全て明記しない。そのため、この4文字の正確な読み方は分からない。「ええっ、そんなことあるの?」と思うかもしれないが、日本語だって同じだ。漢字に全ての読み仮名は振らない。「生」という漢字は、「せい」とも読めるし、「なま」とも読める。「しょう」でもいいし、「き」でもいけるし、「い<きる>」だってOKだ。文脈で無意識に読み分けをしているだけで、本来は色々な読み方ができる。「羽田」は「はね」だが、「成田」は「なり」である。同じ漢字だが、読み方が違う。本来どう読むかは、なんとなく知っているだけで、正確には学ばないと分からない。

 ユダヤ人は、神の名前を呼ぶのは恐ろしいと考え、この名前を口にしてこなかった。YHVH」を「アドナイ」(私の主)とか「ハシェム」(the name)と言い換えてきた。その結果、「YHVH」の正確な読み方は、誰も分からなくなってしまったのである。したがって、この4文字は、その子音である「Y/H/V/H」を使って表すしかない。

 「YHVH」は、旧約聖書6220回も登場する。初登場は創世記2章4節である。

これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】<しゅ>が、地と天を造られたときのこと。

(創世記 2:4)

  なお、「主人」の意味での「主」も存在するため、新改訳聖書では「YHVH」を「」と太文字で表記する(「主人」の意味の「主」は普通文字の「主」となっている)。この記事では「YHVH」で示される神の名前を【主】と表記して区別する。

 神自身が自分自身を指して【主】YHVH)と述べたのは、出エジプト記6章2節が最初である。

神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは【主】である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(エル・シャダイ)として現れたが、【主】という名では、彼らにわたしを知らせなかった。それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは【主】である』」(出エジプト記 6:2~8)

  唯一の神である【主】は、何度も「わたしは【主】である」と繰り返し、自分の名前を強調している。ちなみに新改訳聖書では、神が話者の場合は「わたし」とひらがなで、それ以外の人物は「私」と漢字表記で区別している。話者がイエスの場合も「わたし」とひらがなになっている。

 【主】という名前は、アブラハムにも、イサクにも、ヤコブにも示されず、モーセに初めて知らされた。ただ、これ以前にも【主】の文字は多数存在はしている。モーセとファラオとの会話でも、ファラオは「【主】とは何者だ」と発言している(出エジプト5:2)。ファラオの口から「YHVH」の名前が出ているのである。当然だが、旧約聖書は後代にまとめられたため、最初から【主】の名前が出ているが、モーセの時代までは明確に主が自分の名前を語ったことはなかった。詳しくは後述する。

 さて、日本語で最初の本格的な聖書、文語訳(明治・大正訳)は「エホバ」と表記している。【主】(YHVH)の4文字は、どうして日本語で「エホバ」と呼ばれるようになったのか。実は、意外な理由がそこにはあった。今回は、「エホバ」の読み方が生まれた意外すぎるルーツ、神は自分をどう呼んでいるのか、神の名前の意味とは何か、順番に紐解いていこう。

「エホバ」となった意外なルーツ

 どうして文語訳は、【主】(YHVH)の名前を「エホバ」と表記したのか。英語では「Jehovah」(ジェホバ)となるが、その読み方はどこから来たのだろうか。私はずっと疑問に思っていた。

 先に述べたように、ヘブライ語は基本的に子音だけで表記する文字だ。そのため、「YHVH」の正確な読み方は分からない。「ヤハヴァハ」の可能性もあるし、「ヤヒヴホ」でもいいし、「ヨヒヴィヒ」と読むかもしれない。どの母音をあてるかによって読み方が全く変わるのである。では、なぜ「エホバ」になるのか。

 実は、意外な理由があった。ヘブライ語は、読み方が複雑なため、後代になって発音を指示する「ふりがな」が発明された。これは「ニクダー」と呼ばれる記号で、「a/e/i/o/u」のどの母音をあてるのか示すものだ。日本語でいう「ふりがな」のようなものである。

 例えば、「ב」(ベート。Bの発音)に「a」の発音のニクダーが付くと「バ」という発音になる。「e」のニクダーが付くと「べ」という発音になる(興味がある方はこのサイトなどを参照)。このニクダーを付ければ、子音だけで表記するヘブライ語も、正確な読み方が分かるのだ。

 では、神の名前「YHVH」にニクダーが付いていれば、正確な発音が分かるのではないか。その通り。しかし、これが間違いの元だった。

 ユダヤ人たちは、神の名前を口にするのを恐れた。神の名前は恐れ多く、口にしてはならないものだった。それは、モーセ十戒にあるこの教えが影響している。

あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。【主】は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。(出エジプト記 20:7)

  神の名前「YHVH」は、決して発音してはいけないものだった。そのため、ユダヤ人 たちは神の名前を「YHVH」を使って呼ばず、「אדני」(アドナイ)と呼ぶようになった。「アドナイ」とは「私の主」という意味である。

 しかし、かといって聖書の表記を勝手に変えるわけにはいかない。聖書には「YHVH」の名前が何度も出てくる。これでは、朗読する際に困ってしまう。そこでユダヤ人たちは、後代になってニクダー(ふりがな)を付けた。יהוה」(YHVH)を「אדני」(アドナイ)と読むために、ふりがなを付けたのだ。整理してみる。基本的にヘブライ語は右から読むので注意してほしい。

<アドナイのニクダー付きの表記>

אֲדֹנַי

  解説すると以下のようになる。

<アドナイのニクダー解説>

   אֲ      דֹ      נַ       י

 I+なし      N+A        D+O             A+短いA

  おわかりいただけただろうか。「アドナイ」はヘブライ語で「ADNI」と表記する。そこに「短いAOA+なし」のニクダーが付く。これで「ADNI」の表記で「A+DO+NA+I」となり、「アドナイ」と読めるわけである。ユダヤ人たちは、この「ふりがな」を「YHVH」に表記することで、「YHVH」を直接発音せず「アドナイ」と読み替えるように指示していたのである。「強敵」と書いて「ライバル」とか「とも」と読ませる、漫画のアレと同じだ。

 しかし、この基本を知らない学者たち(おそらく中世あたりのヘブライ語を知らない学者たち)が、後代になって「アドナイ」のふりがなを本当の神の名前と勘違いして研究した。「アドナイ」のふりがなを「YHVH」に付け足すと、このようになる。

<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>

יְהֹוָה 

  解説すると以下のようになる。

<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>

יְ     הֹ      וָ    ה 

H+なし V+A   HO    Y+短いAe

 

 

 

  この「YHVH」に「アドナイ」のニクダー(ふりがな)をふった場合の発音は上記の通りになる。なお、鋭い読者の方は「一番右のニクダー違うやんけ!」と思うかもしれない。鋭いご指摘ありがとう。ただ、ヘブライ語の文法ではY   י )に「短いA」の母音記号<אֲ の下についているやつ>を付けられないため、代わりに「e」の発音の母音記号<יְ の下についているやつ>を付けることになっているのだ。

 解説すると以下の通りになる。

<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>

Y+短いA(e)/ HO / VA/ H+なし

  いかがだろうか。こうすると、「イェ・ホ・ヴァ・ー」(Ye/Ho/Va/H)となり、つなげると「イェホヴァー」、より日本語らしく変化すると「エホバ」となるわけである。英語では「J」の発音は「ヤユヨ」ではなく「ジャジュジョ」と発音するので「Jehovah」(ジェホバ)となったというわけだ。

 とどのつまり、「エホバ」の表記は、「アドナイ」と読ませるための「ふりがな」を、間違えて「YHVH」に当てはめて読んでしまったカンチガイの結果なのだ。もちろん、「YHVH」の読み方の「可能性」として否定できるものではない。しかし、「YHVH」を発音しないために「アドナイ」のふりがなをわざと割り当てていることから、その可能性は低いだろう。カンチガイによって「エホバ」の読み方は生まれてしまったのだ。

 では、「YHVH」は何と読めばいいのか。考えていこう。

 神は自分をどう呼んだか

 「YHVH」で表す神の名前は、どう読めばいいのか。新改訳聖書2017の「あとがき」にはこのような表記がある。

旧約聖書においては、特に、文語訳ではエホバと約され、学者の間ではヤハウェとされている主の御名を、『聖書新改訳2017』も、従来の「聖書 新改訳」の伝統を踏襲して、太字でと訳し、それによって主の御名が記された、主の御名がエロヒームと読まれるように母音表記されているところでは、太字でと訳している。      <「あとがき」聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 なるほど。「アドナイ」だけでなく「YHVH」を「エロヒーム」(神)と読ませるための母音表記(ニクダー)もあるらしい。

 問題は「学者の間ではヤハウェとされている主の御名」という部分である。なぜ「ヤハウェ」と読めるのか。調べてみたところ、様々な理由があるようだが、主な根拠としては、古い時代のギリシャ語の聖書翻訳に依るらしい。いくつかの書籍などによれば、ギリシャ語の一部の古い翻訳では「ヤハウェ」に近い発音が表記されているという。だから、少なくとも当時のギリシャ語話者の間では「ヤハウェ」に近い発音がなされていた可能性があると推測される。しかし、それは可能性の話であって、確実な事実と言えるかと問われると、微妙な問題だ。ギリシャ語で表記して「アドナイ」と読み替えていた可能性も否定できない。

 神自身は、自分を何と表現したのか。聖書を少し見てみよう。

 エル・シャダイ(全能の神)

さて、アブラムが99歳のとき、【主】はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」

(創世記 17章1節)

 「全能の神」とは、ヘブライ語で「エル・シャダイ」である。この世界を作り、全ての上に存在する、力強い神を指す言葉である。モーセに対して「YHVH」の名前を示すまでは、基本的に神は「エル・シャダイ」という名前でご自身を現している。

 <エル・ロイ>(ご覧になる神)

そこで、彼女は自分に語りかけた【主】の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。

(創世記 16章13節)

 これは、アブラハムの元を追放されてしまったそばめのハガルが、神を呼んだ呼び名である。意味は「ご覧になられる神」。神はハガルの苦しみを見て、助けの手を差し伸べて下さったのである。神は人の苦しみをご覧になり、助けてくださる存在である。

 

 

 <名前を教えないパターン>

ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人(神?)は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。

(創世記 32:29)

 神は時にお茶目にも、名前を聞かれても答えない場合もあるヤコブは「ある人」(おそらく神)と格闘した。ヤコブは辛くも勝利するが、その後で、「イスラエル」(「神に勝つ者」の意)という名前を与えられる。しかし、ヤコブが神に名前を聞いても、神は答えなかった。まだ「YHVH」の名前を示す時ではなかったのだ。

 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神>

さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。

出エジプト 3章6節)

 先週の記事も述べたが、神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という名で、ご自身を現される。これは、アブラハムと交わした契約を必ず行い、いつまでも共におられる神であるということを示している。 

 <万軍の主という呼び名>

万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。 セラ

詩篇 46篇7節)

  「万軍の【主】」は、ヘブライ語アドナイ(YHVH)・ツェバオット」の邦訳である。「アドナイ」は「YHVH」で、「ツェバオット」は「軍隊」を意味する「ツェバ」の複数形である。英語だと「God of Almighty」と訳されている。イスラエルでは現在も軍隊のことを「ツェバ」と呼んでいる。

 「万軍の【主】」は聖書全体で235回登場する。その多くがイザヤ書で登場する。神の力強さと、守る力、いつも共にいて戦ってくださる方であるという意味が込められている。

  <不思議な名前>

【主】の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という

士師記 13章18節)

  ここは、「【主】の使い」と書いてあるが、神の代理としての存在なので、神の名前を尋ねられた答えと捉えて良い。「わたしの名前は不思議である」という、また何とも奇妙で不思議な答えである。神の存在は、名前で現せるようなものではないという意味でもあるだろう。また、もっと不思議な名前がある。最後にご紹介しよう。

 <「わたしはある」という不思議な名前>

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と」(出エジプト記 3章14節)

これが一番不思議で、かつ難解な神の自分紹介である。日本語では「わたしはある」。英語だと

I am who I am」。ヘブライ語では「אהיה אשר אהיה」(エヒエ・アシェル・エヒエ)という。

 この意味をめぐっては、様々な議論が続けられている。「わたしは存在する神だ」という意見もあれば、「わたしはあなたと共にいる」という意見もある。「わたしは世界を創造した神だ」とする見解もある。聖書を気仙沼の方言で翻訳した山浦氏は著書で、「わたしはわたしだ」と神がお茶目な回答をしたのだとの解釈を示している。どの意見も説得力があり、答えはおそらく出ないだろう。

 実は、「わたしはある」という自分紹介は、イエス自身も使っている。聖書にこうある。

エスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」(ヨハネ福音書 8章58節)

 これは、イエスが「わたしはある」と宣言した神と同じ存在であるという意味である。ギリシャ語では「エゴー・エイミ」。イエスが神を同じ名前を名乗ったシーンである。 

  さて、このように、神の名前は様々ある。神はに人間の言葉では表しきれないほど、大きな存在である。しかし、拭いきれない疑問が残る。「YHVH」(יהוה)は、一体どういう意味なのかという疑問である。最後に、私がイスラエルで学んだ視点を、次の章で紹介する.

 

「4文字」の意味について

 神の名前、「YHVH」(יהוה)は、一体どんな意味なのだろう。私はずっと疑問に思っていた。正しい発音は分からない。しかし、その意味は何なのか。ずっと気になっていた。

 私は学生時代、イスラエルに留学し、ユダヤ教の授業を受講した。そのユダヤ教の先生が、ある解釈を示した。私にとっては目からウロコだった。「なるほど、そうか!」と感動した。あくまでもユダヤ教の教師が教えたひとつの解釈にすぎないが、みなさんにご紹介する。

 ヘブライ語の文法には、以下のようなものがある。

ヘブライ語の時制>

היה  「ハヤ」。It was...の「was」。過去の存在を示す。

הווה 「ホヴェ」。It is...の「is」。現在の存在を示す。

יהיה 「イヒィエ」。It will be...の「will be」。未来の存在を示す。

  これは、ヘブライ語教室の初級クラスで習う定番の文法である。そのユダヤ教の教師は、上記の文法を示した後で、このように続けた。

神様の名前(יהוה)は、

このיהיה」「הווה」「היה全ての要素を合体させたものなんです。

ユダヤ教の教師の言葉) 

どういうことだろうか。整理しよう。

<神の名前の意味>

היה  「ハヤ」。It was...の「was」。過去の存在を示す。

הווה 「ホヴェ」。It is...の「is」。現在の存在を示す。

יהיה 「イヒィエ」。It will be...の「will be」。未来の存在を示す。

יהוה 「現在、過去、未来」すべてにおいて存在する神。

いかがだろうか。「現在」「過去」「未来」の全ての言葉を、少しずつ組み合わせて、神の名前「יהוה」が示されているのである。つまり、神は時を超えた存在であるという意味である。

 これは、私にとっては心から感動する解釈であった。あくまで、ひとつの見方にすぎないが、私にとってはかなり説得力のある見方であった。聖書にも、こう書いてあるからだ。

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

(ヘブル人への手紙 13章8節)

神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」 (ヨハネの黙示録 1章8節)

  今も、昔も、そしてこれから先も。ずっと「ここにいるよ」と耳元で囁いてくださる神様。聖書の神、יהוהYHVHは、そんな存在なのである。