ボーマン氏の召命

 島への伝道の道が開かれ、期待に胸をはずませながら舵輪を握っているのは、ボーマン氏である。 かつて、彼は海軍にいた。一九五一年の六月、韓国動乱のさなかに、高校を卒業して海軍にはいった。カリフォルニアの基地に勤務するかたわら、ダンスに興じ、劇場に入りびたりと、世の快楽を追い求めた。 一九五三年の六月、十九才の時に、休暇でアイダホ州の実家に帰った。そのころ彼の兄は、将来牧師になるため、聖書学校にはいっていたが、弟の救いのため、日夜祈っていた。故郷に帰った彼は、兄に誘われて、近くの教会に行った。その夜、兄は牧師代理として講壇に立ち、伝道説教をした。招きが出されると、罪を責められて、いたたまれなくなり、講壇の前に進み出た。そこで罪を告白し、涙ながらに、キリストを救主として受け入れたのである。 あまりにも大きな彼の変化を見て、友人たちは目を丸くした。彼はただクリスチャンになっただけで満足せず、できたら伝道者になりたいと願うようになった。 一九五四年一月、水上母艦に乗り組む。七百名ほどの乗組員がいて、カトリックの従軍神父はいたが、プロテスタントの担当者はいなかった。そのため、特別にプロテスタントの説教者に選ばれ、毎日曜、艦上で説教することになった。 同年の三月、水上母艦は岩国の基地に着いた。彼は二、三名のクリスチャンの乗組員とはかって、岩国市内の日本人の家庭を開放してもらい、通訳つきで伝道することになった。 何じ年の八月、アメリカに帰り、軍籍を去る。翌年、聖書学校に入学。以後、二年の間伝道師として、六年半の間牧師として、アメリカの教会で働いた。ボーマン氏は海軍にいるころ、ホンコンやフィリピンにも寄った。しかし岩国に来てから、日本に対する特別の愛を覚えるようになった。そのため、アメリカで日本人を見かけると、たまらなく懐かしくなり、近づいては話かけた。 彼はオレゴン州のある町で牧師をしていた。その町の三分の一が日本人であったことも、いっそう彼を日本人びいきにさせた。そのうち、日本に宣教師として渡り、愛する日本の魂にキリストの福音を伝えたいという熱情は、もだしがたくなった。神の御旨を確かめる時が来たのである。 ある晩、彼は祈り抜く決心をした。「主よ、もし日本に行くのが御旨なら、聖書からお示し下さい」と、心を注ぎ出して祈った。やがて、神のお言葉が、りんとひびいてきた。「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう」(ローマ一〇・一四、一五、) 「遣わされなくては」という一語が、光となって心を照らした。こうしてボーマン氏は、家族をつれて、一九六五年の四月、日本に宣教師として渡ってきた。かつて上陸したことのある岩国に落ち着くと、さっそく伝道を開始した。ふつう、日本に宣教師として来た人は、まず日本語を習うため、言語学校に通う。しかし岩国の近くに、そのような学校はなかった。情熱のあるところに、不可能はない。初めのころ、彼に日本語の個人教授をしてくれた女子大生が、日曜ごとの説教の草案をローマ字になおしてくれた。こうして一年半の間、たどたどしい口調で、説教を読んでの伝道が続けられた。 彼は祈った。毎朝、家人の起きる二時間前には起きて、神の前に、言語の障害を越えて魂が救われるようにと祈った。ローマ字の説教原稿を読む時、彼はしばしば、涙を流して訴えた。背後のひたすらな祈りと、愛の故にほとばしり出る涙に動かされて、救われてクリスチャンになる人が出てきた。一年半ののちには、草案なしに、じかに説教できるようになった。こうして岩国に宣教を開始して二年半の間に、約三十人の人が、キリストを救主として公けに告白し、教会に連なるようになった。 わずが二年足らずで、日本語の説教ができるようになったことと言い、二年半の間にこれだけの収穫があったのは、全く異例のことであり、奇跡である。意を強くしたボーマン氏は、伝道の成果を岩国以外にも広めるため、希望に胸をふくらませながら、阿多田島