先週はグノーシス主義について少し学びましたが、その教えだけがコロサイのクリスチャン達の信仰を脅かしていたわけではないようです。ユダヤ教の宗教指導者からも圧力がかかっていました。その圧力は、旧約聖書で教えられている全ての教えに従うように、とでした。しかし、イエス様が来て下さり、私たちの罪を十字架で贖って下さり、既に成就された事についても、まだ全てを行わなければならない、と圧力がかけられていたのです。それらの事に対し、パウロはどのように教えているのでしょうか?一緒に考えて見ましょう。

 

 イエス様との歩み 6節と7節

 

このコロサイのクリスチャン達は信仰によってイエスキリストを贖い主として信じ、主に全てを委ねて、クリスチャンとして歩み始めたばかりでした。神様を信じた人々は神の子となる特権が与えられます。ヨハネ112節「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」そして、続けて、パウロは6節にあるように歩むようにと進めています。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」ここで鍵となるのは、キリストに合って歩むと言う事です。他の人ではなく、キリストと共に歩むと言う事です。

 

信仰の成長には、形だけの宗教の習わしをするだけでなく、信仰によって歩む事が大切です。7節ではどのように歩むべきかが教えられています。「①キリストのうちに根ざし、②建てられ、③教えられたとおり信仰を堅くし、④あふれるばかりに感謝しなさい。」一つ目は、しっかりとキリストに根をはる大切さ、二つ目は、キリストの上に信仰をしっかりと立つ必要性、そして、日々キリストと共に歩み、キリストに似た者と変えられる事が大切だと教えています。三つ目では、「信仰を堅く」とありますが、一度信じた信仰が揺るがされないように、しっかりとした信仰の確信を持つ事が大切です。パウロが彼らに求めていた事は、今まで教わった教えから離れないように、そして、信仰の芽を伸ばし、実を沢山実らせる、そして、最後に日々神に感謝することを教えています。

 

l  クリスチャンになって間もない人々には沢山ケアが必要です。しっかりとした信仰を持つまでは、周りのクリスチャン達は水やりや肥料を植物が必要とするように、ケアをしなければ、信仰継承は難しいでしょう。

 

キリストにより、全てが全うされる 8節から12節

 

パウロは8節でだまされないようにと注意しています。「あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。」私たちがどんな学びをするにも、それらがキリストから出たものかどうか私たちは吟味する必要性があります。また、間違った教えは、人間中心的な教えになりがちです。例えば、献金をもっとすれば天国での立ち位置が変わるなどの教えもあります。パウロはIテモテ620節で、テモテに対し、このように教えています。「テモテよ、委ねられたものを守りなさい。そして、俗悪な無駄話や、間違って「知識」と呼ばれている反対論を避けなさい。

 

9節「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」イエスキリストこそ、100%神様であり、100%人間でした。その為、私たちクリスチャンがイエス様の内に留まる事により、私たちも神様の御心の者へと変わる事が出来るようになるのです。10節「あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」全ての人間が必要としている方は、イエスキリストです。イエスキリストに留まる事により、私たちは満ち足りる事が出来るからです。イエスキリストこそ、全ての支配と権威のかしらです。

 

11節から読み進めて見ると、元熱心なユダヤ教のユダヤ人クリスチャンにより、多くの異邦人の新しいクリスチャン達は間違った方向へと導かれてしまったようです。その問題の一つは肉体的割礼を受けるべきかどうかの事でした。元ユダヤ教ユダヤ人クリスチャンは、彼らがずっと大事にして来た習わしやしきたりを大切にしていました。その為、異邦人で、新しく櫛笥ちゃんにされた人々にも強要してしまったのです。そこで、パウロは肉体的割礼より、霊的割礼の方が私たちクリスチャンにとって必要なのだと教えていました。11節「 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。」ローマ228節と29節にもこのようにあります。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。」旧約聖書の律法によると、肉体的割礼は必要不可欠な儀式の一つでした。それこそ、ユダヤ人である象徴でもありました。しかし、神様は形だけの儀式よりも、見た目だけのクリスチャンより、本当に心からの神様への礼拝を喜ばれます。

 

12節「 バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。」水の洗礼式はキリストと共に死に、それから、キリストと共に生きると言う意味があります。まず古い自分にさよならをし、新たな人生をイエス様と共に始めますと言う証なのです。新たな人生はイエス様の力により与えられ、これからは神の子として歩みますと言う素晴らしい証なのです。しかし、ただ洗礼を受けたから、もう「大丈夫」ではなく、そこから、クリスチャンとして生きる必要性があります。神様の力を信じ、クリスチャンとなったのですから、今後、神様をどんな時も信じ切ると言う信仰を養って行く必要性があります。

 

l  Iコリント130節「しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。

 

キリストと速やかに  13節から15

 

13節にこうあります。「背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、」ここにあるようにコロサイのクリスチャン達も私たちも以前は霊的に死んだ状態でした。私達が救われる前は肉の欲の欲しがるまま生きていました。それは、罪のただ中にいたからです。しかし、今は神様の哀れのゆえに霊的に生かされている状態です。ローマ425節にこうあります。「 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」私達が神様の前で義とみなされる為に、全ての私たちの背きを背負って、死んで下さいました。そして、死んだだけでなく、生き返って下さいました。その為、私たちクリスチャンの信仰には意味があるのです。

 

14節「私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」私たちは罪の中に生きている時、神様によって定められていた規定に反して生きていたと言う事になります。その為、神様に対して多くの借りや借金があったような状態でした。しかし、イエスキリストが全ての罰を私たちの変わりに受け、借金をチャラにして下さったのです。でも、それらに打ち勝つ為には、御子イエス様は皆の前でさらし者にされ、辱めを受け、そして、命まで奉げて下さいました。15節「そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。」ここまでして下さったのは神の御子です。本当に感謝します。

 

l  ガラテヤ書313節「しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。

 

他の人間には出来ない事を成し遂げた 16節から19

 

もう私たちクリスチャンはキリストと共に生きているのであり、私たちの頭はイエスキリストです。その事を頭に入れて、次の二つの事を考えて見て下さい。一つ目は、16節「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。」ここで言われているように、ある宗教指導者達はあなたが食べてはいけない物を、飲んではいけない物を強要してくるかもしれません。しかし、私たちはイエスキリストによって自由にされた者です。他の人間の規則やルールに従い、ただの形だけの宗教にしてしまっていたら、もったいない状態になってしまいます。二つ目、18節と19節「自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。」断罪とは、罪を裁くと言う意味です。私たちはこのような者に罪に定められてはいけないと聖書は教えています。この箇所の意味は、走る人の事に例える事が出来るでしょう。ある長距離ランナーが定められたコースを走り切ったとします。しかし、審判が「あなたにはトロフィーを与える事は出来ない。それは、あなたは律法にかなった走りをしていないから」と言ったとします。あなたはこの事について、どのような意見を言うでしょう?不公平ですようね。パウロはこのような偽先生方によって多くの人々は迂回させられると言っています。これらの教えに従わなければ、あなたはこの教派に属すことが出来ないなどと言われれば、その教派に対して、祈り、吟味する必要性があるのではないでしょうか。

 

l  ガラテヤ書518節「御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。

 

ゴールデンテキスト            コロサイ2章10節「 あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。