人間の声 1節から12節

 

バプテスマのヨハネは新約聖書で良く知られた人物の一人です。ヨハネのような預言者がイスラエルに現れたのは400年ぶりで、やっと神様の言葉を忠実に語る者が民達に送られたと言う事です。ヨハネは神様の裁きやあわれみについて人々に伝えていきました。民達にとって、まるで長い夜が明け、朝の光が彼らの上に注いだ感じだったことでしょう。

 

A.   ヨハネの説教1節から4節 

 

1節から2節にはこうあります。「そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。」ヨハネは自分が語りたい事を伝えていたのではなく、神様の言葉を宣べ伝える為に遣わされました。400年もの間、神様は沈黙を保たれたので、イスラエルの国は霊的にとても暗い状態だったと思われます。バプテスマのヨハネの父親はザカリヤで、ヨハネが生まれた時に、彼は、再び春のような明るい希望(メシヤ)が彼らに与えられる事を預言しました。しかしその預言が成就したのは30年後でした。彼らは暗闇の中からなかなか出られないので、その希望の光は失われかけていました。そのような時にバプテスマのヨハネは起こされ、メシヤが来る事、また、悔い改めの必要性を皆に伝えたのです。

 

ヨハネについて

 

(1)      彼は革命的な人だった。  民達はヨハネを預言者として受け入れていました。彼の言葉により、人々は再び神様の方へと向く望みをもらいました。ヨハネはとても謙遜で、義なる人でした。しかし、ヨハネの恰好、彼のやり方、暮らしぶりなどを見て見ると、あまり良い印象には受け取れないかもしれません。4節「このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」ただここから分かるのは、彼は神様に遣わされた者であったと言う事です。ヨハネは人々に神様の事を語る前に、彼自身、神様との時間を持って、その時間を大切にしていました。それも、ヨハネの働きが祝福された理由の一つでしょう。

 

(2)     彼は悔い改めのメッセージをした。  ヨハネもイエス様も悔い改めの大切さ、また、神の国と義を求める大切さを宣べ伝えました。今も昔も福音は変わっていません。その福音とは「心の準備をしなさい」、キリストが来られる時が近づいたから、というものでした。今も同じです。悔い改めとは、ユダヤ教でもキリスト教でも、私たちが最初にしなければならない行動の一つです。また、悔い改めとは、罪から足を洗い、神様の方を向いて歩み始める事を意味します。

 

(3)     ヨハネはメシヤが来られる前に道を整える為に遣わされた。  悔い改めると、今までしていた事を改めなければいけないでしょう。そして、正しく歩みだすと、やはり、正しい実が結ばれ、結果が見えてきます。ヨハネはイエス・キリストが来られる前に、道を準備する為に遣わされました。当時、王様が来る前に、道を整える者達が来て道を準備していたようです。それと同様、ヨハネはイエス様が来られる前に道を整える為に遣わされました。3節「この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。」ヨハネが先に遣わされた目的ははっきりとしています。それは、人々が悔い改めをし、心を整え、イエス様が来られたら次のステップへとスムーズに進める為でした。今までの間違えに気づかされ、それらを直し、悪い事をしたなら償いをする必要があるからです。私たちの心に王様を迎える為には、まず私達の心への道を整えなければなりません。(神様の素晴らしい御業によって私たちの心を変えて頂くに際し、私たちは生き方を変える決心をする必要があります。その一つの例として、それはいつも遊んでいる仲間と離れる決意をすることを意味するかもしれません。)

 

B.   宣言 5節と6節

 

ヨハネは洗礼を皆に授けていました。洗礼とは皆に「私はこれから主と共に歩みます」と公言する大切な儀式の一つです。心を綺麗にされ、主と共に死に、主と共に生き返る。そこから変えられた者として新たな歩みが始まるのです。5節と6節「そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

 

C.   試し期間 7節から10

 

その頃、宗教などは真実な悔い改めのやり方を曲げていました。ヨハネは、本当に神様のところに来る者達を喜んで迎えましたが、ただ神様の怒りから逃げようとしている宗教指導者たちにはこのように言っています。7節と8節「ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」大胆なメッセージですね。そしてヨハネは続けて9節でこのように言っています。「あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」アブラハムの子孫だからということで高慢になり、満足してしまうのではなく、神の愛を心から求め、謙遜に生き、周りに困っている人がいるなら助け、正しい心を持ち、義なる歩みをするようにとヨハネは言っています。10節「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」神様と共に歩み、良い実を結ぶかどうかは私たちの信仰次第です。この後、イスラエルはローマによって滅ぼされてしまい、人々もバラバラに散らばってしまいました。私たちはどうでしょうか?正しい実を今現在も実らせているでしょうか?それとも、形だけの木になって、斧がすでに木の根元に準備されてしまっているでしょうか?

 

D.   ペンテコステ 11節と12

 

11節と12節「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」」ここには、ヨハネとイエス様の違いがはっきりと書かれてあります。ヨハネは水のバプテスマ、しかしイエス様は聖霊と火のバプテスマを授けてくださるのです。人間の罪には根っこがついています。その罪の根っこをそのままにしておくと、また新たに罪の新芽が出て来てしまいます。ですから真実な悔い改めが必要で、真実な悔い改めをした後には、イエス様にきよめて頂く必要があるのです。脱穀した麦に風を当てると、もみ殻が飛んでいき、麦ともみ殻を別ける事が出来ます。神様は、どんな人の心も変える事が出来ます。ですから、神様が私たちに働かれるためにも、私たちは罪を辞め、罪から離れる必要があるのです。

 

l  真実な悔い改めをする事により、本当に変えられる事が出来る。

 

メシヤの声 13節から16

 

13節から15節「そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。」メシヤは完全な人間であった事が証明されています。イエス様がバプテスマを受けられた、この出来事は十字架の前兆を表しています。ここではイエス様が語られた言葉より、イエス様が取られた行動に注目するべきです。イエス様は洗礼を受ける必要はありませんでした。イエス様は一度も罪を犯したことがなかったからです。ではなぜヨハネからバプテスマを受けたのか一緒に考えて見たいと思います。

 

A.   聖霊が下る 16

 

16節「イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。

 

B.   天のお父様 17

 

17節「 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」天の父はヨハネが言っていたように、イエス様をメシヤとしてお認めになりました。

 

ここは、三位一体の働き、動きが分かる箇所です。新約聖書は、天の父と御子、そして聖霊の存在と関係を最初からはっきりと示しているのです。

 

主権をもつ方の声 17

 

全ての福音は天で始まります。素晴らしいメッセージを語っていても、神の言葉を語っていなければ、何も意味の無いメッセージとなってしまいます。天のお父様の声を語る事によって、メッセージ一つ一つが生かされるのです。ここで天のお父様の声が聞こえたのはすごい事です。神様ご自身が御子を見られて、生贄にふさわしい、シミも無い、しわもない、完璧な御子の姿だとお認めになったのです。私達はどうでしょう?イエス様の十字架によってシミやしわのない状態にしていただいたでしょうか?神様に喜んでいただける状態でしょうか?

 

 

 

ゴールデンテキスト           

 

マタイ3章17節「 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」