詩篇120篇から134篇の15篇はよく「都のぼりの歌」と言われています。おそらく、巡礼者がエルサレルにのぼる時に歌っていた歌ではないかと推測されます。その当時のユダヤ人男性は年に3回程、主の前に出る必要があったのです。今日の123篇は、その巡礼者が苦難を通り、神様の助けを求めている所です。124篇では、その苦難から助け出された事を喜んでいます。

 

神様に祈る時、上を向いて祈った事はないでしょうか?そして、謙遜や従順な祈りをしている時は自然に頭を下げて祈る傾向があると思います。エズラ書9章6節「言った。「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。」しかし、神様から確信を頂いて、希望を持って前に歩みだそうとする時の姿勢は、自然に頭を上げる姿勢になっているのではないでしょうか?詩篇25篇15節「私の目はいつも【主】に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。

 

神様は実際この世に満ちておられます。詩篇11篇4節「【主】は、その聖座が宮にあり、【主】は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。」この主こそ全ての者を裁く裁判官です。彼こそ全ての権力を持っていて、なおかつ哀れみ深く、恵深いお方です。このような素晴らしい主だからこそ、私達も助けが必要な時、自然にこの方を求めるのです。

 

昔では奴隷制度がヨーロッパ各国でありました。その奴隷達は主人の少しの手の動きでも読み取ってその主人に仕えなければいけませんでした。奴隷は主人の言葉を聞く必要が無く、それでも、主人の要望をやりこなす事が出来ました。1節ではこのように言っています。「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。」私達も神様の御心を行えるように、何時でも心の準備をしておく必要があります。

 

ではこの123篇を書いた著者は、なぜ主に目を上げたのでしょうか?詩篇を読み進めて見ると、彼は人から軽蔑されたり、侮辱されたりしたようです。彼が主に目を向けたのも、おそらく、少しでも心を落ち着かせて、神様の平安を得る為だったのでしょう。また、彼は主しか頼れる方はいない事もよく知っていたのでしょう。それもそう、彼は主にだけ信頼していて、他の人間に頼る事はしなかったのです。また、主には失敗など無縁です。主に絶望させられる事はないからです。では、彼はいつまで主に目を向けたのでしょうか?2節の最後の所にこうあります。「主が私たちをあわれまれるまで。」あきらめる事はよくないようです。主に信頼し、哀れみを頂くまで求める大切さがここで教えられています。また、彼は勝手に行動せず、主の時を待つ事を大切にしました。もし主の助けが直ぐに来ないとしても、その時は自分の信仰が試されえているのだと思う大切さも教えられています。主は必ず求める者の声を聴いてくださるお方ですから、主を信じる信仰が必要なのです。詩篇2714節「待ち望め。【主】を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。【主】を。

 

3節にはこうあります。「私たちをあわれんでください。【主】よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。」このように、主に哀れみを求める者は、どのように主が憐れんで助けて下さるかも、全て主におゆだねする必要があります。私達は主に助けを求めて、私達をこのように助け出してくれるだろう、と勝手に想像するかもしれません。そして、そのような助けでなかったら、神様に対して不平不満が出ていないでしょうか?私達は神様に対して指示出来る立場ではないので、神様に全てをおゆだねする心が必要になるのです。

 

4節ではもう限界ですと言っています。「私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。」彼はおそらく身分の高い人たちからもあざ笑われていたのでしょう。今の時代でも、社会からのプレッシャーに負け、義の道を去る人が多くいると思います。神様の道を歩もうとするとき、神様の事を知らない人々は私達をあざ笑うかもしれません。イエス様ご自身、人から侮辱され、皆から拒まれました。私達もイエス様の道を歩むならば、同じ目に合うかもしれません。しかし、私達がイエス様と共に歩むならば、イエス様は必ず、私達と共にいて下さいます。また、このように私達に約束もして下さっています。マタイ1032節「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

 

l  イザヤ書4031節「しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 

l  マタイ5章11節、12節「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

 

l  ルカ18章7節、8節「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。

 

自由にされる 詩篇124

 

まず、自由にされる前に、どうして彼らは苦しい所を通ったのか考えて見ましょう。おそらく、社会の動きが神様に仕えている人々の存在を邪魔な存在だと認識していたのでしょう。皆さんは聖書の中のハマンとユダヤ人虐殺計画のお話を読んだことがあるでしょうか?悪の働きが全て上手くいっているように見えましたが、神様はちゃんと全てをご存じで、既にモルデカイ、エステル、また、王様に対して働きかけていました。そして、一瞬で結果は変わり、ユダヤ人たちは皆解放されました。

 

また、4節と5節では自然が人間に害を与える事が書かれています。「そのとき、大水は私たちを押し流し、流れは私たちを越えて行ったであろう。そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」」聖書では水域などを人間の集まりと示している所があります。おそらく、多くの神様の事を知らない人々が津波のように押し寄せて来る事が言われているのではないでしょうか。そして、その時は、義なる行いは排除され、悪がはびこるのでしょう。もうそのようになったら私達人間にはどうしようもないでしょう。しかし、私達クリスチャンには希望があります。たとえ試練が襲ってきたとしても、神様が神様の時に私達を救い出して下さるからです。神様は私達をどんな中からでも救う事が出来るお方です。イザヤ書5919節にはこうあります。「そうして、西のほうでは、【主】の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で【主】の息が吹きまくっている。

 

1節から3節ではこうあります。「もしも【主】が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。「もしも【主】が私たちの味方でなかったなら、人々が私たちに逆らって立ち上がったとき、そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、」もし神様が私達の味方でなかったら、私達には希望がありません。神様は私達を敵の餌食とはされず、神様の哀れみにより、救い出してくださったのです。5節と6節にはこうあります。「ほむべきかな。【主】。主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された。」悪魔はよく人を騙し、滅びの道へと引きずり込もうとします。しかし、私達は鳥のように神様から助け出されるのです。私達も自由にして頂いたのですから、鳥が喜びの歌を歌うように、主に感謝の歌を歌おうではありませんか。神様は、最悪な事でも最高なものに変える事がお出来になるお方です。神様には「遅い」とか「手遅れ」などありません。神様の時はいつも完璧で丁度いい時です。

 

l  イザヤ書26章4節「いつまでも【主】に信頼せよ。ヤハ、【主】は、とこしえの岩だから。

 

 

 

ゴールデンテキスト

 

詩篇27篇1節

 

【主】は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。【主】は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。