「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」    

                  (ヨハネ3章16節)

 

「分け上る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」 

一休禅師の作と伝えられる道歌です。

宗教の入り口は違っていても、最終的に到達するところは同じであると言うことを説いているとされています。ですから、「多くの宗教の中で、自分に合った宗教を選べばいい。大切なのは信仰心を持つことだ。」はたして、どの宗教でも同じでしょうか。

一般に宗教というものはどうすれば「神仏」や「真理」に近づき、救われるかを求める営みです。救われるために、教えを守り、修行して、人が神に近づこうとするのですが、キリスト教は神から人に近づこうとするのです。聖書は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」と言っています。ひとり子とはイエス・キリストの事です。神のひとり子が天から地上へ降りてくださり救いの道を開いてくださったのです。宗教一般とキリスト教が違うのは、救いの方法の方向性です。第二に、宗教一般は優れた人が哲学的思索の結果生まれたものですが、キリスト教は「神の啓示」によって成立したものです。第三に、キリスト教は、人類の歴史上で起こった驚くべき出来事を土台として生まれました。その出来事とは、イエス・キリストの十字架と復活です。キリストは人々の罪の身代わりとして十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえられました。この事実の上に立っているのです。

 人は、自分で自分を救うことも神に近づくこともできません。神が用意してくださった救いを信仰によって受け入れるときに救われるのです。