今日のタラントの話しと10人の娘の話はマタイの福音書にしか記されていません。また、このタラントの話しはルカ19章に記されているミナの話しに良く似ています。

 

ミナの話しは、「10人のしもべ達が均等に1ミナずつ主人から頂いて、主人は遠くの国に旅立つ。そして、主人が旅先から帰ってきて、一人一人のしもべを呼び、誰が主人に忠実であったかを調べると、一人目のしもべは1ミナ預かって、それを10ミナにし、その為、彼は10の町を任される。二人目は、1ミナ預かり、5ミナ儲け、彼も5つの町を支配するように任される。三人目のしもべはというと、主人に任された1ミナをそのまま返し、不忠実なしもべだと主人に怒られ、主人は彼には何も任さなかった。」という話です。

 

では、タラントの話しはどうでしょうか?一緒に見て見たいと思います。

 

タラントを託された 15節から18

 

このたとえ話から、私たちは常に忠実でなければならない、ということを主に学ぶことができます。15節「 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。」イエス様は十字架にかかる前、弟子たちにご自分が「いつか天に帰る事」をお話しされました。イエス様が天に帰った後は、弟子たちが中心となって福音を宣べ伝えて行かなければなりません。その為、イエス様は弟子たちに伝道の事を色々と教えられました。イエス様はこのたとえ話で「しもべ」と言う言葉を使っていますが、これは(弟子たちをも含む)イエス様に従っているクリスチャンの事です。私たちクリスチャンは神様の恵みによって罪から救われ、変えられた者であり、私たちもこの素晴らしい福音を他の人々に伝える、神様はそのように私たちにも求めておられます。

 

今日の話しの中では、賜物の事が話されています。私たち一人一人、色々な賜物が与えられていると思います。それらは神様から与えられたものです。私たちはそれらの賜物を神の国の為に使っているでしょうか。I ペテロ410節「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」賜物と言えば、色々と例をあげる事ができますが、例えば、ピアノが弾けるなら教会で奏楽の奉仕をする、また、絵や字が上手であれば色々と人々を励ます為に手紙を書いたりする、歌を歌うことが得意であるなら神様を賛美する歌を歌う、などなど色々あります。今日のたとえ話では、賜物が富に例えられています。金や銀だったかもしれません。とにかく価値のあるものだったに違いありません。それらは神様から与えられたものですから、神様の為に使うと、祝福の道へと繋がっていくのです。

 

16節と17節にはこうあります。「五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。」彼らは待つことなく、直ぐに行動しました。しかし、18節にはこうあります。「 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。」この人はどうしてもらったものを隠したのでしょうか?自分が他の二人のように出来ないからがっかりしたのでしょうか?私たちは与えられているものを感謝し、神様が私たちを置かれた場所で忠実であるべきではないでしょうか?他の人と比べてがっかりするのではなく、自分が与えられたものに忠実である事が大切なのです。

 

l  私たちしもべは、神の国の為に何が出来るでしょうか?

 

投資されたタラント 19節から23

 

主人の帰りは思ったより遅かったようですが、やっと帰って来ました。神様は約束を守られます。主人が帰って来た時、彼のしもべ達を呼び集め、与えたタラントで何をしたかを一人一人に問われました。最初にタラントを預けた人と次の人までは、報告を聞き、満足しました。彼ら自身、自信を持って主人に報告をする事が出来ました。Iヨハネ228節「さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。

 

ルカ1710節、ここには私たちが与えられている賜物で高慢になってはいけない事が書かれてあります。「 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」」全て与えられている賜物は神様から与えらたものですから、それらの事で高慢になってはいけないのです。神様から頂いたのですから、神様の為に使い、感謝の敬意を示す必要性があるのです。

 

主人に忠実であった者は主人に21節のように言われます。「主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」他の人に褒められるより、神様に褒められる方が喜ばしいと思いませんか?私たちは常に主人の下にいる者です。そして、忠実な者はもっと色々と任されるようになります。マタイ2534節「それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。

 

放置されたタラント 24節から30

 

24節と25節「 一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』」この1タラントを預かったしもべは、このように自分が放置して何もしなかったにも関わらず、主人を責めています。自分には主人を喜ばせる事は不可能だとでも思ったのでしょうか?これこそ、肉の欲のままに生きていた人の言葉ではないでしょうか?自分自身を顧みて反省するのではなく、他の人のせいにする。

 

この人は神様の事を「厳しい方だと分かっていました。それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。」と言っています。私たちも、神様を信頼するか、しないかは自由です。神様を知らない人は、神様は怖くて、厳しい方だと思っているかもわかりません。神様を信頼するかしないかは、「信仰」か「恐怖」、と分かりやすく言い換える事が出来るでしょう。主人は私たち以上に私たちの事を分かっておられます。その為、私たちそれぞれが担う事が出来る分だけを一人一人に与えて下さるのです。そのような主人の判断を信頼せず、怒ってふてくされて、与えられた賜物で何もしないなら、とてももったいない選択をした事になるでしょう。1タラントでも、忠実に頑張れば、2タラントに増やす事が出来るからです。

 

この何もしなかった不忠実なしもべは、表立って主人に反抗していたわけではありませんでした。ただ、何もしなかったのです。つまり、主人の益とならないしもべだった、と言う事です。2529節「しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。」この不忠実なしもべは、罪を犯していたわけではなかったけれど、怠けて、主人の為に何もしなかった。それだけのこと、と思うかもしれませんが、30節では、主人はこのように言っています。 「この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。

 

私たちは神の国の為に賜物を使っているでしょうか?役に立っているでしょうか?

 

l  Iコリント42節「その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。

 

 

 

ゴールデンテキスト           

 

マタイ2521節「主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』