今日のレッスンでは、自己主張や良い行いによってホーリネスの歩みをするのではなく、死にあずかるバプテスマを受けて、よみがえり、そして実を結ぶ事によってホーリネスの歩みをするべきだとパウロは言っています。

1節にはそれでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」とパウロは人々に問いかけていますが、もちろんそうではありません。まず罪を完全に絶たなければ本当の救いはないからです。また罪を犯しながら、同時に神様からの恵みを頂く事もありません。神様に義と認めて頂く為には、まず私たちはキリストの死にあずかるバプテスマを受ける必要があるからです。

 

2節 「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。ここに出てくる「罪に対して死んだ」と言う言葉の意味は、もう私たちは罪とは関わりを持ちません、罪とはお別れしましたと言う事です。おそらくクリスチャンとして歩んで来た方々は、このキリストの死にあずかり、また葬られ、そしてよみがえると言う事を既に体験したと思います。私たちの昔の人生は「アダムの子孫」として歩んで来ました。でもその人生はキリストの死にあずかる事によって、もう死んで葬られたのです。今は神様の力により、イエス・キリストから与えられた新たな人生を歩み始めた事になるでしょう。その新しい歩みによって新しい存在となり、周りの人々にも良い証を立てている事でしょう。神様がイエス・キリストを死から復活させる事ができたのなら、もちろん私たちを罪から救いだし、解放し、また守ることが出来ます。ここは信仰によって信じましょう。

 

5節には「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」とあります。これは、キリストに私たちがつぎ合わされる事により、私たちは日々霊的な力を受ける事が可能になる、ということです。ここを理解する為に、ヨハネ15章に書いてある「主はぶどうの木」のお話しを思い起こしてみて下さい。このキリストにつぎ合わされた私たちは、もう既にキリストの死にあずかるバプテスマを受けたのですから、必ずキリストと共に復活すると言う事が出来るのです私たちが受ける洗礼式は、まるで罪の人生に対して行われるお葬式のようなものです。(J.A.BeetⅡコリント 5:17 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

 

この6節には「私たちは知っています」と書かれています。古い罪人だった私たちがもう既に十字架にかかって死んだと言う事を知る事により、私たちは新しい者にされたのだと確信を持つ事が出来るのです。この古い人とは「肉の人」とも私たちは言っていますが、コロサイ3章9節やエペソ4章22節に明記されているように、古い人を私たちは脱ぎ去ってお別れをしたのです。キリストの十字架の死とは、ただ私たちの罪を赦す為だけのものではなく、私たちが罪から解放される為だったのです。ローマ8章7節にはというのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。と書かれてあります。私たちが古い人のままでは自然に神様に反抗する者であって、神様との一致はありえないと言う事です。

 

キリストの死は一度だけのものであり、二度と繰り返されるものではありません。それは一度で全ての目的を達成したからです。ここまでしてくださったのは ①私たちが罪から解放されるため ②私たちがキリストと一致している事を証明する為 ③私たちが新しい人生を歩む事が出来る為です。ある人はこのように言っています。悪いことをしない事で牢屋からは免れますが、地獄の罰から免れるためにはホーリネスが必要またキリストが一度だけ死んでくださったように、私たちも日々罪を犯して悔い改めるのではなく、罪に対して死ぬのは一度だけにするべき」(McLaughlinの言葉)

 

12節から15節には、キリストによってよみがえった人(罪から救われた人)が罪に再び戻らない為に、どのようにするべきかを教えています。ここには、従ってはいけません」と「神に捧げなさいという大切な事が教えられています。この「罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません」と言う言葉は、日々勝利する為のカギとなる言葉でしょう。日々運動する事により鍛えられ上達しますが、同じように自己訓練することにより信仰が成長します。神様は、私たちが肉の欲に支配されるように私たちを作りませんでした。I コリント9章27節で、パウロはこのように言っています。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」私たちはもう律法の下ではなく、神の恵みの下にいると言っても言い過ぎではないでしょう。律法は私たちを罪から救う事は出来ませんでしたが、神の恵みにより私たちは罪から救われる事ができました。その為、私たちは罪に支配されるべきではないのです。これからは日々御霊の実をたくさん実らせて、キリストのような者へと成長させていただきましょう。私たちは選択する事ができます。ホーリネスの道を歩むか、地獄への道を歩むか。(Wilbur Dayton

ゴールデンテキスト

 ガラテヤ書 220 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。


BMC日曜学校テキスト〈大人のクラス〉より

 

翻訳  猪坂 知央