イエス様はよく人々に分かりやすいようにたとえを使って話されました。マタイ1334節にはこうあります。「イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話された。たとえを使わずには何も話されなかった。」それは、これらのたとえ話によって、罪の中にいる人々が少しでも光を見出せる為ではないでしょうか。

 

今日のレッスンだけでも、4つのたとえ話がされています。そして、その中の最後の三つのたとえ話、畑に隠された宝、良い真珠、また、あらゆる種類の魚を集める網、これらのたとえ話はマタイの福音書にしか示されていません。それらのたとえ話は、皆に話されたのではなく、弟子たちにだけ話されたからです。そこからも分かるように、神様の真実は全ての人に明らかにされていますが、神様と共にいつも交わりをしているクリスチャンには、もっと深い神様の真実が語られるのです。

 

収穫 36節と43

 

最初に語られたたとえ話は収穫についてです。ここで言われている種を蒔いている者とは、神の子イエス・キリストです。37節「イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。」そして、良い種とは神の国の子供達の事です。38節「畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。」私たちクリスチャンは良い種としてこの世に遣わされているのです。その自覚があるでしょうか?また、私たちは良い実を沢山実らせているでしょうか?私たちが神様の御心の内に歩む事によって、良い実を沢山結ぶ事が出来ます。

 

植物の成長の為には、剪定、周りの草抜き、水やりなどが欠かせません。農夫さんが実を沢山ならせて欲しいと願うように、神様も私たちに霊的な実を沢山ならせて欲しいと願われています。その為、霊的剪定や水やりなど辛い事が私たちの身に起こる事を、神様は許されるのです。しかし、それらの苦しい所を神様と共に乗り越えるならば、私たちの信仰は強くなるでしょう。

 

また、このお話しは世の終わりの事についても言っています。39節から43節「毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」今現在、良い種も毒麦も同じ所で実を成らせて、違いが分からない場合もあります。しかし、それらが完全に分けられる時が必ず来ます。今は正しく生きようとしても悪影響を受けたりすることもあるでしょうが、イエス様の助けにより、日々罪に勝利することが出来ます。イエス様も弟子たちの為に祈りましたが、弟子たちをこの世から取り去られる事はなさいませんでした。ヨハネ1715節「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」このように、私たちクリスチャンには世に留まり、良き証人となって欲しい、と神様は願われています。

 

l  農夫さんはそれぞれの苗を適した場所に植えます。今現在、私たちがいる場所は、神様の御心の場所でしょうか?私たちは神様の御心のただ中にいるでしょうか?

 

隠された宝物 44

 

44節「 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」このたとえ話は救いについて語っています。罪からの救いは、誰でも無償で受けられるものですが、イエス・キリストの尊い血潮という高い代価が払われている事を忘れてはいけません。救いとは、44節に、隠された宝のようなものとあります。心から求める者だけがこの恵みを見出す事が出来るのです。どうしてこの宝は隠されているのでしょうか?それは、ほとんどの者達の霊の目が閉ざされていて、大切な事に気付いていないからです。たとえ教会員になっても、洗礼を受けても、教会で働いても、自分の力で正しく生きても、霊的に盲目であれば、大切な宝物に気が付いていないのです。まず、神様に霊的盲目状態から解放してもらい、神様の言葉を読み、それに従い、そして、シンプルに神様を信じる事が必要なのです。パウロもこのようにIIコリント43節と4節で言っています。「それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。 彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。

 

l  もし、ある人にとってこの福音が大切なものだと見えていないならば、それが大切で価値のあるものだと、私たちが教えてあげるべきではないでしょうか?

 

l  私たちはこの救いを受けて、本当に心から喜んでいるでしょうか?

 

きよめ 45節と46

 

次のお話しは、きよい心を追い求めている人の姿が美しく描かれている話です。45節と46節「天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。」この商人は、今持っているものより、もっと良いものがあるのではないかと必死になって探しています。すると、思っていた通り、高価な真珠を見つけました。しかし、それは高価なものなので、彼が持っている全ての物を売らないと、とても手の届く品物ではありませんでした。彼は、全て持っている物を売っても惜しくない程の高価な真珠を、最後には手に入れる事が出来たのです。

 

聖霊様が心に宿って下さる事は素晴らしい特権です。そして、この世の全ての富と比べても比べものにならないくらい高価な特権です。その為、全てを売ってでも得たいものなのです。聖霊様は私たちを正しい道へと導いて下さり、天国までの道をはっきりと示して下さるからです。

 

きよめを高価な真珠と例える理由はまだあります。真珠は錆びません。そして、火によっても滅ぼし尽くされません。他の宝石は切られたり、削られたりして輝きを得ますが、真珠はそのままで美しいのです。この宝石(聖霊様)に宿ってもらっている心は火に襲われても、迫害を受けても、飢餓が襲って来ても、神様からのを守りを得、最後まで耐え忍ぶ力が与えられます。

 

l  きよめの体験は、“気づいたら体験していた”と言うしろものではありません。求めなければ、得られません。

 

l  何よりも価値のある物を何としても守りましょう。

 

天国か地獄 47節から50

 

47節と48節「また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。」今現在、この福音はこの全世界に投げられています。何時かネットがいっぱになると、引き上げられる時が来るでしょう。そしたら、49節と50節にこうあります。「この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」福音が皆のために与えられている時に受け取る方がいいですね。後回しにすると、もしからしたら間に合わなくなってしまうかもしれません。

 

l  私たちはこの世の終わりの事を聞いていますが、その時がいつなのかは聞いていません。いつでも準備が出来ているのが一番良いですね。

 

 

 

ゴールデンテキスト           

 

マタイ1343節「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。