1章でパウロは、父、子、聖霊に感謝を捧げていました。そして、エペソの忠実なクリスチャン達に感謝しています。パウロは、いつもクリスチャン達の為に祈り、日々一人一人が神様に近づけるように、また、クリスチャン達が神様から日々知恵を得、守られるようにと願っていました。神様と共に歩む者がみな神様の素晴らしさ、栄光の富、また、神様からの希望を見出して欲しいからです。今日学ぶ2章には、罪に死んでいた者に命を与えて下さる神様の事が書かれてあります。新たな命を与えられた者は、完全に新しい人として歩む事が出来ます。

 

異邦人の過去 1節から3節

 

パウロが書いているこの手紙は、エペソの人々に宛てたものです。エペソの人々は神様の事を全く知らずに生きていたので、「罪の中で死んでいた人」と言う事になります。ここで言われている「罪」とは、外に現れているものだけでなく内にある考えや思いも含んでいます。また、罪に死んでいるとは、罪を犯したからではなく、生れつき持っている罪の性質を意味します。人は、悪い事を教えられなくても小さい頃から悪い事をしてしまいます。それは、生れつき罪の性質を持っているからです。この罪の性質をそのままにして成長してしまうと、罪を犯してしまい(嘘、人をだます、暴言など)、罪の中に死んだ状態になってしまうのです。1節「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、」とこのように始まっています。2節「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」不従順の子らの中に今も働いている霊に従っている者は、世的な考え、また、行動をとります。世的な霊は神様の御霊(みたま)に反します。その為、そのままだと、神様に近づく事が不可能です。この世的な霊は人々を忙しくさせ、本当に大切な御霊(みたま)に気が付く余裕を与えません。世的な生き方をしている人々は、自分達が好き勝手に生きていると思うかもしれませんが、実は空中の権威を持つ支配者(悪魔)に支配されているのです。3節「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 

l  霊的に死んでいる人は、自分自身を助ける事は出来ません。外からの助けが必要です。

 

l  II コリント105節「私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。

 

今ある救い 4節から6節 

 

罪の内に歩むとはなんと不幸な事でしょう。しかし罪を悔い改めると、4節と5節にあるように私たちは救われることができるのです。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

 

Iヨハネ49節と10節「 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」神様がまず私たちを助けて霊の目を開いてくださらなければ、私たちは神様を見出す事すら出来ないでしょう。神様が私達を選び、霊の目を開いてくださるから、私たちは神様の方へと向く事が出来るのです。自分の罪深さに気づき悔い改める事は、自分の力だけでできたことではなく、神様のあわれみのゆえにできたのです。ジョン ニュートンも「驚くばかりの」でこう言っています。「驚くばかりの 恵みなりき この身の汚れを 知れるわれに」

 

l  コロサイ213節「背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、

 

神様の(わざ) 節から10節 

 

神様はこのエペソの人々(異邦人)の救いに対して目的をお持ちでした。彼らに救いが及ぶことにより、神様はどんな人でも罪から救う事が出来ると言う良き証に繋がるからです。私たちも罪から贖われる事により、神様のあわれみと恵みはすべての人にも与えられるという証となるのです。7節「それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。」神様の恵みは計り知れません。罪を赦すことにおいて限りがないからです。8節でパウロはこう続けています。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」私たちが救われる為には、神様と私たち、それぞれがしなければならない事があります。私たちが神様の言葉を信じ悔い改めるならば、神様は赦して下さり新たな命を与えて下さるのです。9節と10節にもこうあります。「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。2節にあった歩みとは真逆の歩みです。感謝します。私たちが良い行いをする事により神様にご栄光をお返しする事が出来ます。そして、変えられた私たちを通して、周りに良き証を立てる事が出来ます。

 

l  救われてきよめられても、その後、まだ成長するべき事があります。それは、人間性、性格、気質などの改善です。私たちは今もなお、神様に喜ばれる者として、日々成長していますか?

 

l  IIテモテ221節「ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。

 

l  マタイ516節「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

 

もう他国人ではない異邦人 11節から20

 

ユダヤ人は霊的に見て、人々を2種類に分類していました。それは、同じ契約の上に生きている人か、または、そうではないかでした。ユダヤ人は自分たちがアブラハムの子孫である事に誇りを持っていました。しかし残念ながら、ほとんどの人は肉体的に割礼を受けていたかもしれませんが、彼らの心(霊的)は無割礼と等しい状態でした。11節から13節でパウロはエペソの人々にこのように言っています「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」エペソの人々は神様に選ばれた民ではありませんでした。神様との契約はユダヤ人とともにありましたが、異邦人とは結ばれていませんでした。彼らは偶像礼拝をし、霊的には暗い状態、真の希望も見出せない状態でした。彼らは永遠の命、死んだ後の保証の事も全く知りませんでした。神様から遠く離れていたのです。しかし、今はイエス・キリストにより、全ては変わりました。18節と19節「このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。

 

ヘブル416節「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」贖われた異邦人もイエス・キリストと共にあるユダヤ人も同じ恵みにあずかることができるようになったのです。20節で、パウロは霊的なイエス・キリストの教会を実際の建物に例えています。「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその(かなめ)の石です。I ペテロ25節「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。

 

l  時々過去を振り返って、変えられた自分と比べて見ると、また新たに感謝出来ることでしょう。

 

 

 

ゴールデンテキスト           

 

エペソ2章1節「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、