冬の海に九時間

まっくらな海、厳冬の海のただ中に、子ども四人を含む十名が投げ出された。冬の海では、厚い救命ジャケットをつけていても、四時間しか生存できないという。

 五分ほどたって、藤岡さんは、島に泳ぎついて救いを求めるのだと、他の人々の制止を振りきって泳ぎだした。海軍では、遭難の際、けっして離ればなれになってはならぬと命じている。しかし藤岡さんは、幼い子どもたちと日ごろ心から尊敬し愛しているボーマン夫妻をなんとかして助けようと考えたのだろう。それっきり、生きた姿を見せなかった。

ボーマン氏の子どもたちは、痛々しいまでにけなげであった。長女のテレサちゃんは、非常に思いやりのある子で、弟たちが眠りそうになると、声をかけて目をさまさせ、励ました。おとなになったら看護婦の宣教師になりたいと日ごろ言っていた彼女は、冷たい海の上で、かいがいしく弟たちのめんどうを見ていた。また、おとなたちを励ますかのように、祈ったり、賛美歌をうたったりした。

長男のゲリーちゃんは、よく教会であかしした。「ぼくは生まれ変わりました。おとなになったら、牧師になります」と、誇らしげであった。次男のジョエルちゃんは、よく祈る子どもであった。毎日、あちこちの国の人たちのために、とりなしの祈りをささげた。またかわいらしい口調で、まだ信仰を持っていないボーマン氏の父親のため、毎晩のように祈っていた。

三人の子どもたちは、冷たい海の上で、死を目の前にしながら、ひとことの不平も言わなかった。けんめいに、からだにしみとおる

寒さと戦っていた。 二度、船が近くを通った。大声で助けを呼び求めたが、エンジンの音にかき消され、二度とも無情に過ぎ去った。藤岡さんを欠く九人は、救命ブイにすがっていた。割と近くに、黒いシルエットになって、島の影が浮んで見える。勇気づいた一同は、赤ん坊のダニーちゃんを支えているボーマン氏をブイの真中に入れ、島めがけて泳ぎ着こうとした。

かなり近づいたと思うと、いつの間にか、遠くに流されている。何度かこういうことを繰り返すうちに、島との間に、かなり強い潮の流れがあるとわかった。海上に放り出されてから、もうかれこれ七時間近くになる。全員とも、寒さと疲労のため凍死寸前で、助かる見込みはいっさいなくなったように思われた。

午前一時、クリスチャンスン氏が、単独で島に渡って助けを求めると言い、周囲の反対を押しきって、闇の中に姿を消した。

ミセス・ボーマンのそばにいた七才のゲリーちゃんは、ついに、眠りからさめなくなった。日ごろ病気がちであった林杏子さんも、ぐったりとなって動かない。九才のテレサちゃんは、わがことを忘れて、「アー・ユー・オーケー?(だいじょうぶ?)」と、杏子さんの顔を心配そうにのぞきこんだ。

 そのうち、テレサちゃんが眠り始めた。ミセス・ボーマンが、眠ってはいけませんと声をかけると、「わたし、眠っているのではないの。星を見ているの」と答えた。その目は澄んで、美しかった。彼女はそれからしばらく、賛美歌を口ずさんでいたが、深い眠りに落ちこみ、再び目をさまさなかった。ボーマン夫妻は、うめき声とともに、祈った。「神さま、もうこれ以上、潮と戦うことはできません。疲れきってしまいました。どうか、風を送って下さい」

風が出てきた。勢いづいたハッチャー中尉は、最後の力をふりしぼって泳ぎ、救命ブイを岸に近づけようとした。そして気づいた時、両の足は、波下の岸辺に触れていたのである。

ハッチャー中尉は陸に上がると、すわりこんだまま、それっきり動かなくなった。幼い子どもたちは、四名とも、すでに息絶えていた。ボーマン夫妻と林杏子さんの三人は、先に島に着いたクリスチャンスン氏の連絡で基地から救助ヘリコプターが来た時、虫の息となっていた。そして杏子さんは、病院に運ばれる前に、二十二才の若い生涯を閉じた。