この詩篇96篇の事をある人は「素晴らしい宣教の賛美」と言っています。この詩篇に似た箇所がI歴代誌16章23節から33節にもあります。この歌が歌われたのは、ちょうど神の契約の箱がエルサレムに戻ってきた時で、皆喜びに満たされていました。全ての人間(ユダヤ人や異邦人)が真の神様を褒めたたえて礼拝出来たらなんと幸いな事でしょう。

 

 

 

主に向かって歌え 1節から6節

 

今日の箇所では、1節と2節だけでも、「歌を主に歌え」と3回呼びかけられています。最初に「新しい歌を主に歌え」とあります。今までに皆がよく知っている曲ではなく、主への喜びをもって歌う新しい曲です。次には「全地よ。主に歌え」とあります。これは、世界中の皆が真の神様を礼拝すると言う事です。最後に「御名をほめたたえよ」と主の御名を高く上げる事が書かれてあります。ここでは、三位一体(父、子、聖霊)の事が引喩されています。彼らはただ歌えと言っているのではなく、「御救いの良い知らせを告げよ。主の栄光を国々の中で語り告げよ。」と2節と3節にあるように、神様を知らない人々にも良き証を立て、その素晴らしさを伝えなさいと言っているのです。神様を知らない人々も、神さまの愛、知恵、恵、また力を知るべきだからです。また、主の良さを伝えるのは一時的ではなく、2節にあるように、「日から日へと」毎日宣ベ伝えるべきと言われています。

 

ではどうして私達は主に向かって賛美し、主の良さを伝えるべきなのでしょうか?答えは4節にあります。「まことに【主】は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。」考えて見て下さい。神様は、堕落してしまった私達、人間の為に贖い主を送って下さって、今もなお、日々食べる物を収穫出来るように実を実らせて下さっています。また、毎日の私達の生活の中に神様の完璧さが全て表されています。ここまでして下さる方は、この神様以外誰もいません。この素晴らしい神様だからこそ、5節にあるように、「まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。」とあるのです。私達の信じている神様はすべての神々に勝っているのです。全ての神々に勝っているからこそ、私達は奴隷のように従うのではなく、それよりも、聖い方に対しての尊敬の念を表す必要があるのではないでしょうか。私達の信じている神様は5節にもあるように「しかし【主】は天をお造りになった。」他の造られた神々とは違って、全てを創造され、造られ、そして今も治めておられるお方なのです。だからこそ、私達はこの方だけを礼拝すべきなのです。人々はこの真実な神様を知る必要があります。5節に、国々の民の神々はむなしい、と表現されています。と言う事は、それを信じている人々もむなしい人生を歩んでいると言う事になります。しかし、私達が信じている神様は全てを造られ、今も生きて全てを治めておられるお方なので、この方を私達の神様とする事で、私達の人生はむなしいものにはならないで、生きる為の目的が生まれると思います。その目的とは、この世の後に来る永遠の命の事も含まれています。もしこの世の人生だけだと、やはり、むなしいものになってしまうでしょう。

 

神様の臨在の中には6節にあるように、「尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。」。「尊厳と威光」とありますが、これは王様に対してへの栄光です。そして、「力」と言うと、この神様こそ全ての力の源です。イエス様もお弟子さんたちにこのようにマタイ28章18節で話されていました。「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」また、神様には、栄光(英語の聖書では美しいと表現されています)が伴います。神様こそ全ての愛、憧れ、そして求めたくなるお方なのです。詩篇27篇4節には著者が求めているものをこう表しています。「私は一つのことを【主】に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、【主】の家に住むことを。【主】の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

 

 

 

l  Ⅰペテロ 315節「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。

 

l  Ⅰコリント84節「そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。

 

l  黙示録4章11節と5章12節「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」「彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。

 

 

 

主を礼拝する 7節から9節

 

7節と8節には「主に捧げよ」と言う言葉が3回出てきています。礼拝で必要不可欠なのは、捧げる事です。私達は神様に必要だから捧げるのではなく、日ごろからの感謝の表れ、また、神様に服従をしていますと言うことを表す為に捧げます。捧げるとは、ただ献金や十分の一献金を捧げるだけではなく、8節にあるように「御名の栄光を【主】にささげよ。」とあります。私達も心から主をほめたたえましょう。また、主にご栄光を帰せるように、日ごろからの言動にも気を付けましょう。「ささげ物を携えて、主の大庭に入れ。」と続けてありますが、旧約聖書では生贄や献金を捧げるのが一つの礼拝の形でした。しかし、動物を捧げたり、食物を捧げたりする必要性が今無くなったのは、もうイエス様が全てを成就させてくださったからです。だからと言って、今はもうお金以外を捧げる必要が無くなったのではなく、ローマ書12章1節ではパウロはこのように勧めています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」私達の全てを神様に捧げる事によって、神様は私達の心をきれいにして下さり、その結果、神様のご栄光の為に使って頂けるようになれるのです。そして、私達自身を神様に捧げる事によって、私達は真の神様だけを礼拝しますと言う事を確かなものとする事が出来るでしょう。

 

9節にはこうあります「聖なる飾り物を着けて、【主】にひれ伏せ。」当時、幕屋で主を礼拝する時、神様の臨在の中に入る事が許されていた人に「聖なる飾り物を着ける事」が条件とされていました。聖くある事が必須条件でした。それは、神様自身、聖であられるので、聖くない者や罪の有る者は受け入れる事が出来ないのです。だからこそ、私達も主の恵によって心を聖めて頂き、聖い心で主を礼拝しようではありませんか。続けて、「全地よ。主の御前に、おののけ。」とありますが、このおののけとは、恐怖などで身体が震える思いをすると辞書にありました。そうです、この聖い方とは、全ての主権を持っておられる方なのです。その方の前に出るには、やはり、軽い気持ちで礼拝するべきではありません。

 

l  伝道者の書12章13節「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

 

 

 

主こそ全てを治めておられる方 10節から13節

 

「主こそ全てを治められておられるお方」だと、全世界に伝える必要があります。10節でも「 国々の中で言え。」と言う言葉から始まっています。主こそ、全ての国々の王であり、一見悪魔はこの世の中で成功しているように見えるかもしれませんが、実際は、主こそ、今尚、全てを治めておられるお方なのです。だからこそ、10節の続きにはこうあります。「【主】は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。」主こそ全てを治められているので、この世界は揺らぐことがないのです。そして、「主は公正をもって国々の民をさばく。」とあります。将来、政治的にも、社会構成も全てキリストのルールに沿って出来る時が来るでしょう。イザヤ書9章6節にはこうあります。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」だからこそ、11節と12節にあるように、「天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、【主】の御前で、喜び歌おう。」天では喜びが起こるのです。神様が全てを支配し、コントロールされる時、私達には安心感が生まれ、自然と喜ぶ事が出来るのです。しかし、今現在、ローマ書8章22節「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」とあるような状態になっています。でも、何時か、それが喜びの歌に変わる時が来るのです。

 

13節にはこうあります。「確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。」ハレルヤ!そうなんです。主イエスが裁き主として来られる時、本当に喜ぶことのできる人は、主と共に歩んで来た人だけなのです。その日は、罪をしたい放題していた人々にとっては、最悪の日になるでしょう。私達は、今現在、イエス・キリストが再臨される事を心から待ち続けていると思います。その時が来るまで、全てを正される方が来られる希望を持って、主と共に喜びを持って歩んで行こうではありませんか。

 

l  使徒の働き17章31節「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。

 

 

 

 

 

ゴールデンテキスト

 

詩篇67篇3節

 

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。