8章ではエゼキエルが幻の中でエルサレムに戻っていました。そこで町がどれだけ汚されているかを見せられました。11章の始まりでは、霊がエゼキエルを引き上げて、宮の東に面した東の門に連れて行きました。そこで、(3節)「邪悪な計画を立て、悪いはかりごとをめぐらした25人を見ました。これらの者は民のリーダーのような存在で、この者達が民達にバビロンに従わなくて良いと言い、またあなた方は直ぐには滅ぼされないし、今は町に留まる方が安全だなどと言って民達を惑わしました。皆さんも考えて見て下さい。町の中に真の神様の宮があったら、その町は守られると思いますか?まさかエゼキエルが言っているように滅ぼされるなんて思わないですよね?この「邪悪な計画」を立てていたリーダーたちが言っていた事は、エゼキエルが言っていた事と正反対でした。私たちはどっちを信じたいでしょうか?でも、その中で、神様はエゼキエルに、嘘を言っている者の話しに耳を貸してはいけない、と言いなさいと言われました。それは12節にあるように、彼らは「わたしのおきてに従って歩まず、わたしの定めを守らず、あなたがたの回りにいる諸国の民のならわしに従ったからである。」と、理由がちゃんとありました。エゼキエルが民に彼らの言う事を聞いてはいけないと言い終わった時、そこにいた一人が息絶えたようです。その人の死は、町の滅びが来る事を確実なものにしてしまったのです。それを見たエゼキエル自身、神様に対し恐ろしくなり、また民達が皆滅ぼされてしまうのではないかと思い、「私はひれ伏し、大声で叫んで言った。「ああ、神、主よ。あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。

 

残ったユダヤ人と捕虜となったユダヤ人の違い 14節と15

 

神様自身、捕虜として連れて行かれた民達を(15節)「イスラエルの全家のすべての者」と呼んでおられます。しかし、パレスチナ地方に留まった住民は、自分達が神様の約束の地に留まっているから、私たちが本物の神の民で、連れて行かれた者達はいらない者達だと思っていたようです。しかし、見た目だけでは判断が付きにくい場合があります。エゼキエルはエルサレムが滅ぼされる時、神様に選ばれた民(アブラハムの子孫)が全て滅びてしまうのではないかと恐れていましたが、神様が最後まで残す民達は、今実際パレスチナ地方に留まっている人々ではなく、捕虜として連れて行かれた人々だったようです。ここから分かるように、クリスチャン同士でどっちの信仰が本物かなどともめる必要はないようです。周りの状況や見た目で判断するのではなく、自分自身が神様の前で正しい事をしているかどうかを問う必要があるようです。

 

神様に本当の意味で繋がるとは  16節から18

 

捕虜として連れて行かれた民達はまるで神様から捨てられた民のようでした。しかし、神様は彼らを忘れていませんでした。それどころか、神様は捕虜として連れて行かれた民達を選んでおられたのでした。確かに16節にあるように、「わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした」とあるように、民達を散らされたのは神様でした。だけど、神様にはちゃんと彼らの為に計画がありました。民達をエルサレムから遠ざける事により、形だけの礼拝から彼らを解放し、本当の意味で神様と個人的な関係を築く事が大切なのだと教えようとされたのです。確かに、パレスチナ地方に留まれた民達の方が、捕虜として連れて行かれた民より有利な立ち位置にいるように思えるかもしれませんが。

 

神様が民達を偶像から解放した後、神様はまた彼らを神の民に適した民として、約束の地に戻すと言われました。実際バビロンに捕虜として連れて行かれた一部の民達は捕虜の期間が終わった時、自分達の地へと戻っていきました。しかし、それだけでなく、エゼキエル書36章から37章を読んで見ると、千年王国が始まる時に残りの者達が戻って来ると書いてあります。その時、18節にありますが、「彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。」と全ての汚れた偶像、また全ての形作られた物は除かれ、真の神様だけに礼拝が捧げられるようになるのです。

 

戻って来る民達が変えられた 19節から21

 

民達が千年王国の時に帰って来る時は、ただ落ち着く為にではなく、罪からも偶像からも解放されて帰って来るのです。以前の彼らとは違い、新しい心と新しい霊を神様から与えられるからです。エレミヤ書3133節にはこのように書いてあります。「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」私たちの心の状態がどうであるかによって、神様との関係はどうか、また霊的な状態はどうかが決まるのです。もし二心であれば、問題だと言う事です。ホセア書102節にこのようにあります。「彼らの心は二心だ。今、彼らはその刑罰を受けなければならない。主は彼らの祭壇をこわし、彼らの石の柱を砕かれる。」ダビデ王様も罪を犯した後、このように祈っています。詩編5110節「 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」使徒の働き432節「信じた者の群れは、心と思いを一つにして」と始めの所にあります。私たちも心を一つにして真の神様に仕えて行きましょう。

 

残念な事は、今現在、沢山の人々は神様に対して心を頑なにしていることです。ゼカリア書712節にはこのようにあります。「彼らは心を金剛石のようにして、万軍の【主】がその御霊により、先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、聞き入れなかった。そこで、万軍の【主】から大きな怒りが下った。」でも捕虜として連れて行かれたユダヤ人達に約束されているように、(19節)「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」どんな方々の心からも、神様の恵みによって堅い石を取り除いて頂く事ができるのです。この心こそ、聖霊様に心から従える心なのです。このように心が変えられれば、20節にあるように、私たちは神様の民となる事が出来ます。「それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」私たちはまず外見から変えられて行くのではなく、内から神様によって変えられていかなければなりません。

 

今日のレッスンは、21節にありますが、私たちに対する警告で終わっています。「しかし、彼らの忌むべきものや、忌みきらうべきものの心を、自分の心として歩む者には、彼らの頭上に彼らの行いを返そう。──神である主の御告げ──」」ユダヤ人達で捕虜にならずにエルサレム付近に留まれた人々は、形だけの神の宮があるだけで満足し、好き勝手な事をしていました。また自分の必要に応じて偶像の神々を替えて必要をお願いしていたようです。21節にあるように、彼らの頭上に彼らの行いを返そうと神様は言われています。罪の最後には必ず罰があります。エゼキエルの幻はエルサレムから神の栄光が去る所で終わっています。それからエゼキエルはバビロンに戻されました。そこで、彼は民達に神様の約束を伝えました。母国から離れて暮らしていた民達にとって慰めとなった事でしょう。

 

 

 

ゴールデンテキスト

 

アモス書914節「わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。

 


 BMC日曜学校テキスト〈大人のクラス〉より

 

翻訳  猪坂 知央