このような者は幸いです。愛すべきものを愛し、神が憎むものを憎む。悪を嫌い、きよい事を喜ぶ者は。罪に死に、義の中に生きる。(H.A.Erdmannの言葉)

 

 キリストと共によみがえった 1節から4節

 

1節「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」私達は新たな人生を頂いたのですから、今まで求めて来たものではなく、新しく、きよいものを求めるべきではありませんか。自分自身の富、栄光、また、楽しみを優先するよりも、神の国の発展を求めているでしょうか?救われる以前の自分と救われた今の自分を比較してみて下さい。以前は世の快楽で満たされ、神様との関係は死んでいた状態だったのではないでしょうか?しかし、救われ、神様と共に歩み始めた後は、世の快楽を喜びとせず、神様との関係が生きている状態なのではないでしょうか?2節「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」悪魔と彼の手下たちは私達がこの世の快楽で満足するように日々誘惑してきます。しかし、新たに神様と歩み始めたのであれば、神様が与えて下さるもので満たされ、満足し、その中で喜びを見出せたらなんと幸いな事でしょう。アブラハムの言葉がヘブル1110節と16節にあります。10節「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。16節「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

 

ではどうして私たちは上にあるものを求めるべきなのでしょうか?三つ程理由を上げる事ができます。一つ目の理由は3節の最初にあります。「あなたがたはすでに死んでいて、」とありますが、私達はすでに世に対して死んでいるので、世のものは私達を支配出来ません。その為、私達は上のものを求めて、満たされるべきなのです。二つ目の理由は3節後半です。「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」イエス様こそ私たちの全てです。私たちはイエス様により生かされているのです。ピリピ121節にこのようにあります。「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」三つ目の理由は4節にあります。「あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。」今でも私たちの所に神様の臨在が来ると、私たちは喜びに満たされます。私たちはこの本当の喜びをこれからも求めて行きましょう。そして、上のものを一緒に求めて行きましょう。

 

lマタイ621節「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

 

lガラテヤ書614節「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。

 

古い自分を脱ぐ 5節から9節

 

5節にこうあります。「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。7節「あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。」しかし、そのような者だった私たちはそれらの罪から救われました。解放されたのです。自由になったのです。だからこそ、パウロはコロサイの人々に「元の罪に戻らないで」とここで注意しているのです。5節には罪のリストが掲載されています。「淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」これらの罪は明らかに罪ですが、最後の貪欲もこれらの罪のリストの中に掲載されています。そして、その貪欲は偶像礼拝ですとも説明されています。6節ではこれらの罪を行う者には神の怒りが上から下るとあります。「これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。8節では普段私たちの周りでもよく見聞きする事も罪であると記されています。「しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。」これらの普通に見聞きする罪なども肉の欲から出て来ます。神様はこれらの罪から私たちをきよめられる為に聖霊様を送って下さったのです。

 

l意味のある人生を歩むためには、神様の御心を歩む自分自身を選び、歩むべきではないでしょうか。

 

新しい自分を着る  12節から14

 

きよめを受け、聖霊様が心に入って下さるなら、御霊の実を実らせる事が出来、それがまわりの人にも明らかにされるでしょう。ガラテヤ書522節と23節で御霊の実とはどのようなものかが書かれてあります。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。12節「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。12節では、パウロはあえて「着なさい」と言う表現をしています。人間がまるで服を着るように、神様の恵みを着、憐みを持ち、優しさ、謙遜(全て持っているものは神様の恵みのゆえにと言う気持ち)、柔和(神様に全てをお委ねする気持ち)、そして、辛抱強くあるならば、神様は喜んで下さいます。13節と14節でもこのように教えられています。「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」忍耐し合い、互いに赦し合っても、愛がないなら、そのようにする目的が変わって来る可能性があります。神の愛があってこそ、完全なものとなる事が出来るのです。

 

lI ペテロ55節「同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

 

新しい人生が明らかにされる 15節から17

 

15節「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」この支配すると言う言葉をギリシャ語で見ると、競技の審判員と言う意味もあるようです。その為、キリストの平和が心にある事により、私たちは正しい事か正しくない事かを審判するべきなのです。私たちはキリストの平和が常に心にあるようにいつも心がけましょう。キリストの平和を心に保つ事により、クリスチャン達の一致も保たれ、お互い助け合い、励まし合い、感謝し合う事が出来るでしょう。16節ではこのようにするようにと勧められています。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」霊的に助けてくれる本を読み、音楽を聞き、それらを考える時間を増やすと、もっと霊的に成長する事が出来るでしょう。そして最後に、17節にあるように歩みなさいと教えられています。「 ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。」音楽は神様から人間に与えられた贈り物の一つではないでしょうか。神様を礼拝する時は必ず賛美があります。ダビデ王様も賛美チームやオーケストラをちゃんと結成させていました。マルチンルターも礼拝の時の賛美の大切さを言っています。私たちも賛美する時、感謝の気持ちを持ち、心から賛美すると、また違った祝福を得る事ができるのではないでしょうか。

 

ゴールデンテキスト コロサイ3章10節「新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。