ピリピ書では確信を持って言っている言葉が多く、マイナス的な言葉は少ないと思います。しかし、3章にはパウロの警告の言葉がいくつか見られます。たとえば、2節にはこうあります。「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。」パウロは、ある人達が兄弟姉妹をキリストから遠ざけさせようとしていることを気にしていました。そのある人達とはユダヤ人で、宗教的には高い地位にある者たちで、律法による義について非難されるところのない者たちでした。パウロは彼らがどのような考え方をしているかはっきりと分かっていました。それは、パウロ自身が救われる前はそのような者だったからです。両方の事をよく知っていたからこそ、パウロは兄弟姉妹がイエス・キリストから離れてしまわないように必死に警告することができたのです。

 

 肉的に頼らない 3節から7節

 

割礼は、神の民として選ばれた者であることを示す象徴的なものでした。パウロは真実の割礼とは外面的なものではなく(肉的)、内面的(霊的)であり心の状態を意味すべきであると言っています。真実に割礼を受けた心を持って礼拝するならば、それは霊で礼拝している事になり、イエス・キリストに喜んでいただくことができるのです。ヨハネ424節にはこうあります。「 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」たとえ私たちがどんなに礼拝しても、心が神様から遠く離れているなら、その礼拝に意味があるでしょうか?そのような状態で礼拝する価値があるでしょうか?神様は口先だけで神様の事を愛すると言っている人達の事をとても残念に思っておられます。自分はこれだけ神様の為に働いた、また、今まで律法にこれだけ忠実に歩んで来たなどと、人間的な観点で自分の霊的状態を量るのは危険な事です。神様は私達の行動よりも、心を見られるからです。ローマ88節「肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。

 

4節から6節でパウロは彼自身の過去について語っています。「ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

 

パウロはイエス・キリストを信じる人々(クリスチャン達)を死に追いやるくらい、ユダヤ教に熱心でした。その当時のパウロは、パリサイ法の下にいて、パリサイ法と照らし合わせても、ユダヤ教の指導者から見ても、何も非難されるところのない完璧な者として歩んでいました。(アルバート バーンズの言葉)「もし自分自身の働きで救われるのならば、パウロこそ完全に救われていた人の一人だろう」パウロが熱心にユダヤ教の教えに沿って歩んでいたのは、そうすることによって霊的にも社会的にも貢献出来ると考えたからでしょう。しかし、パウロがキリストに初めて出会ったとき、今までの考えは一変しました。彼が今まで信じて行って来た全ての事が無駄に感じたのです。人間的(肉的)頑張りは神様の前では無駄だからです。イエス・キリストの尊い血潮だけが、私たち人間と神様との間を和解させる事が出来ます。

 

·        宗教的に、また、人間的に良く生きていても、それらによってクリスチャンになる事は出来ません。クリスチャンになる為には、心にイエス・キリストをお迎えしなければなりません。

 

·        パウロは昔の生き方に “さよなら”をしました。そのことについて彼は後悔しませんでした。

 

恵みを数えなさい 7節から11

 

7節と8節にはこうあります。「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」パウは、今までして来た事は全て無駄だった事に気が付き、何よりもイエス・キリストに繋がる価値を見出したのでした。霊の目が開かれた彼にとって、キリストの為なら、どんなものでも手放す事は難しくなかったのです。それは、私たちに必要なものは全てキリストの内に見出す事が出来るからです。

 

もうパウロは自分の力で義を得ていくのではなく、信仰によってキリストに頼り切って歩む道を選びました。ガラテヤ書36節にはこうあります。「「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。」神様は、神様を信じる信仰を求めているのです。人間を救う為の神様の計画は完全ですが、それに比べ人間の力で救いを求めるなら、それは不完全としか言いようがありません。

 

8節から10節の所でパウロは三つの事を求めたとあります。 ①「私はキリストを得る」②「キリストにある者と認められる」③「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」パウロは、キリストを愛してキリストを知りたいと望んでいただけではなく、キリストと同じ苦しみにあずかりたいとまで思っていました。私たちクリスチャンも苦しい所を通る事があるでしょう。クリスチャンだからということで周りから迫害を受けるかもしれません。苦しみは、神様が私達にキリストを体験させる道具として用いることができます。IIテモテ212節「 耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。」ガラテヤ書220節「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

 

l  イエス様が話された、畑で宝物を見つけてそれを隠して家に帰り、自分の持ち物を全部売り払ってその畑を買った人の事を覚えていますか?私達も彼みたいにこの世の物を全て捨ててキリストを得ましたか?

 

l  私達がキリストを得たなら、もう私たちにとって必要な物は全て得たと言えるのです。

 

l  多くの者はキリストと共に神の国を治めたいと思っているが、キリストと共に苦しむ事を望んでいない。(A Barnes

 

I

 

目標を目指して走る  12節から15節

 

12節から14節にはこうあります。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」ここでは、クリスチャン人生を長距離ランナーに例えています。パウロの信仰は素晴らしいものでした。しかし、素晴らしい信仰を得ているからといって、もう天国に着くまでリラックスしていいというわけではありません。この世にいる限り、私達は自己満足に浸っている暇はありません。パウロには目指している目標がありました。それは天国です。パウロはそこから目を離さず、ゴールを目指して前進していたのです。だからこそ、周りの状況に左右されなかったのです。私達はどうでしょうか?パウロのようにゴールである天国を目指して歩んでいるでしょうか?それとも、天国を目指していながらも、周りに気を取られて寄り道してしまい、迷子になっていないでしょうか? この世でも良いものを得、最後には天国に入ると言う両立を目指して頑張っているのでしょうか?もし長距離ランナーが周りに気を取られ、よそ事をするなら、レースに負け、こけて怪我をしてしまうかもしれません。ランナーのように、また、パウロのように真っすぐゴールだけを見て前進しようではありませんか?ガラテヤ書69節「 失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。

 

l  ある人達は救われ、きよめられ、その後神様から離れて行きました。それは、ゴールである天国から目をそらし、罪の中で迷子になってしまったからです。

 

 

 

ゴールデンテキスト            ピリピ書3章10節「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、