今日の箇所には、イエス様が多くの奇跡を行われた時の事が書かれてあります。1節を見てみると、「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。」とあります。その町とはよく知られている町、カペナウムです。イエス様が町に入られると、直ぐにイエス様の元に病気の人が連れて来られました。そして、イエス様はまず彼の罪を赦し、彼の病気も癒されました。イエス様が人を癒す時、まず人の罪を赦す事を先になさいました。そして、その後、人々の病気を癒されたのです。それは、おそらく、ユダヤ人の中で、罪とは人をみじめにするものと言われていて、体の病気はその罪の結果(神様からの罰)だと思われていたから。また、イエス様は罪を赦す権限がある事、また、病気を癒す力がある事を皆に示すためでした。

 

これらの後、イエス様は取税人、マタイを弟子として加えられました。9節「イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。」またその後、イエス様は取税人と罪人達と一緒に食事をしました。その事を知った宗教指導者のパリサイ人達、弟子たちになぜイエス様は義なる方なのに罪人と一緒に交わるのかと質問しました。11節から13節「これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」」ここで、イエス様によって正されたパリサイ人はイエス様の事を憎らしく思いました。そして、邪魔な存在だと思い始めたのです。実際のところ、イエス様は罪人を救うためにこの世に来られました。罪人の為に来たのです。その為、イエス様は自分の罪に気が付かず、また、自分達はいつも正しいいと思い込んでいるパリサイ人と時間を取るより、彼をもっと必要としている取税人や罪人との時間を大切にされたのです。私たちも罪人と一緒に交わるのであるならば、イエス様のような目的を持って交わるべきだと教えられています。イエス様は決して、ただの友達として罪人達と交わりをしていたのではなく、彼らを罪から救う救い主、また医師として彼らと交わっていたのです。

 

パリサイ人達はこの出来事の後、断食の事についてイエス様に質問しました。14節「それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。」そして、15節ではイエス様はこのように彼らに対して答えられました。「イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。

 

死んだ娘 18節、19節、23節から25

 

このようにイエス様が断食の話しをしていた時、19節にあるように会堂司がイエス様の助けを求めに来ました。「イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。」ルカはこの若い娘は12歳ぐらいであったと記しています。また、この会堂司はユダヤ教の位の高い人であった事も分かっています。と言う事は、イエス様の事を良く思っていなかったグループに属していた人と言えるでしょう。しかし、全ての宗教指導者がイエス様に対して敵対していたのでもなかったようです。彼はイエス様の助けが本当に必要な状態でした。その為、彼はイエス様を求めに来たのです。

 

必要であった中断20節から22

 

イエス様、会堂司、また、弟子たちが皆で会堂司の家に向かっていた時、長血を患っていた女性がイエス様の着物の衣にでも触りたいと思い、イエス様の群れに紛れ込んで来ました。20節「すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。」彼女は血の病気を患っていたため、汚れた者として扱われ、人に触れる事、神殿で神様を礼拝する事、人に近づく事などが許されていませんでした。しかし、彼女は必至でした。もう彼女にとってイエス様だけが最後の、そして唯一の希望だったのです。彼女はイエス様について良い話を周りから聞いていたのでしょう。彼女の周りの人間は彼女に対して冷たいのに対し、イエス様はどんな人にも哀れみを示されていた事を聞いていたのです。21節と22節「「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。」彼女はイエス様に触れた事が皆にばれた時、本当に恥ずかしく、怖かった事でしょう。しかし、全てをイエス様に告白し、彼女の病気も癒された事が分かった時は、彼女の恐怖は全てなくなり、平安に満たされました。彼女の病気は治ったのです。ここから分かるように、会堂司も長血を患っていた彼女も同じ状況だった事が分かります。彼らは周りの目なんか気にせず、とにかくイエス様の助けを必要としていたのです。会堂司もこれらの出来事を見、希望を得た事でしょう。しかし、せっかく会堂司がイエス様にお願いして、彼の家に向かっていたのに、彼女のせいで全てが中断されてしまいました。最初は彼の心にも憤りと焦りがあった事でしょう。しかも、彼の家から使いが来て、もうイエス様を煩わさないようにとも言われました。それは、彼の娘が完全に死んで、時間が少したったからです。しかし、イエス様は会堂司の方を向き、彼に信じるようにと言われました。ここで、彼の信仰は試されたのです。もし、彼がここであきらめていたなら、素晴らしい結果も見る事ができなかったでしょう。私たちもこの世に生きている限り、色々と邪魔が入り、事が中断される時も多々あるでしょう。そのような時、焦りや憤りがあなたの心を支配する時、イエス様を信じる事が出来るでしょうか?信じる事が出来た時、あなたの心には平安が訪れる事でしょう。そして、信じる事によって神様の素晴らしい御業を見る事が出来るでしょう。

 

イエス様は誰よりもこの娘が死んだことをご存知でした。また、神様には全てに丁度良い時があります。時間が過ぎたからもうダメだとかは、神様には適用されません。神様には全てが可能だからです。

 

イエス様と会堂司が家に着いた時、多くの者達が悲しんでいたと23節にあります。「イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、」そして24節「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。」イエス様は皆に家から出るように言われました。やはり、神様を信じていない人の前では神様の奇跡は行われないのです。その為、両親以外皆家から出ました。そして、25節「 群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。」素晴らしい奇跡が起こったのです。

 

l  私たちは日ごろの忙しさの中で、イエス様から目を離していないでしょうか?どんな時でもイエス様に信仰を置いて、目を離さないようにしようではありませんか。そうすると、神様の祝福を見るでしょう。

 

l  この死んだ少女は12年もの間、病気に苦しめられていました。しかし、イエス様は一瞬で彼女を癒されました。イエス様には不可能な事はありません。

 

信じた盲目の人 27節から31

 

ここからの奇跡はマタイの福音書にしか記されていません。しかも、ここで初めて盲目の人が見えるようになった奇跡が記されています。二人の盲目の男性はイエス様の奇跡の事を聞き、イエス様について来ました。彼らは見えませんでしたが、泣き叫ぶ事は出来ました。27節「イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。」イエス様たちはある家に入りました。そしたら、盲目の二人も着いて来ました。イエス様は彼らに尋ねられました。28節「イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。29節と30節「そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。 すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。」神様を信じるとはすばらしい事です。また、ここから分かるように、神様に対して、私たちは遠慮しなくて良いのです。逆に、遠慮してしまったら、神様の栄光を見る事が出来なくなるかもしれません。

 

今現在、眼科などの医療が発達して、皆神様に助けを求めるより、眼科の医者に助けを求めているので、このような奇跡はあまり行われません。しかし、今でも、霊的盲目の状態の人の目が開かれ、神様と共に歩むようになった人は多くいます。その一方、まだ多くの人々は霊的盲目の状態でもあります。イエス様はヨハネ939節でこのように言っています。「そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」神様を求める人は、霊的盲目から解放されますが、求めない者はさらに霊的に盲目になってしまうのです。私たちは神様を心から求めているでしょうか?

 

イエス様は彼らの目を直された後、だれにも言わないように彼らに厳しく命じたとあります。でも、目が見えるようになった喜びは自分ひとりの中に留める事は難しい事です。皆に伝えたくなるでしょう。イエス様が皆に言わないように言われた理由は3つ挙げる事ができるとJoseph Bensonは言っています。1)皆によって強制的に王様の座に着かされない為 2)預言された事の妨げにならない為 3)神様の時まで大祭司やパリサイ人達を怒らさない為。とにかく、神様の時まで、全てが預言されたようすすんで行く為だったのではないでしょうか。

 

負けた悪魔 32節から34

 

マタイ8章と9章には、イエス様が行かれた伝道の事について記してあります。その為、場面は目まぐるしく変わり、イエス様と弟子たちはとても忙しかった事が分かります。二人の盲目の人を癒された後、今度は口がきけず、悪霊に取りつかれた人が連れて来られました。その為、この人は自分で神様の助けを声に出して求める事は出来ませんでした。そして、33節にはイエス様が彼を癒された事が書かれてあります。「 悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。34節ではパリサイ人達はこのようにイエス様の事を言っています。「しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。」パリサイ人達はこれらの奇跡を見て、人間の力を超えた力だと分かったので、このような事しか言えなかったのです。彼らは、神様の力だとは認めたくなかったのです。

 

l  イエス様の力は病気より、悪より、また、死より優っています。

 

l  イエス様を拒む者は、何かしらの理由を色々と作らなければならないのが今の現状。

 

 

 

ゴールデンテキスト           

 

マタイ922節「イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。