弟子たちはイエス様と共に時を過ごし、迫害され死んで三日後によみがえるとイエス様から何回も聞いていました。しかし、実際イエス様がよみがえったと聞いた時、彼らは直ぐに信じることが出来ませんでした。それに対して、「えっ、何で信じられないの?」と疑問に思いませんか? しかし、イエス様がよみがえられた日の終わりには、弟子たちほぼ皆、イエス様がよみがえられたと大胆に言えるようになりました。ハレルヤ!今日はそこから私たちは何を学べるか見てみようと思います。

 

 

イエス様の遺体はアリマタヤのヨセフによって引き取られ、ヨセフのお墓に葬られました。その現場をガリラヤの女性たちは見ていました。そのため、女性たちはどこにイエス様のお墓があるか知っていました。また、お墓の入り口の前には大きな石が転がしてある事も知っていました。しかし、その墓はローマ政府により封印され監視されていることを彼女たちは知りませんでした。そのため、彼女たちは油を買って週の始まりの早朝に、イエス様の体に油を塗るためお墓に向かいました。その女性たちの中にはマグダラのマリヤもいました。その女性はイエス様によって悪霊から救われた人で、彼女たちは皆イエス様が大好きでした。しかしながら、彼女たちもイエス様がよみがえると聞いていたのに、そのことをすっかり忘れていたようです。彼女たちはお墓へと向かっている途中、「お墓の石を動かしてくれる人が、誰かいるでしょうか?」と話し会っていました。しかし、全ての問題はイエス様によって、彼女たちがお墓に着く前に解決されていのですここから私たちが学べる事は、将来が不安、また心配… でもそこに私たちが到達するまでに、イエス様が全ての問題を解決して下さっているかもしれない、ということです。また、イエス様にはどんな問題でも解決できるとイエス様を信じる事を忘れてはいけないと思います。信仰によって歩む、また全てをイエス様にお任せする事が心配するより良いのです。

 

お墓に着いた女性たちは石が既に動かしてある事、また、お墓の中には若い男性が座っている事に対して驚きました。(*マタイの福音書にはこの若い男性は天使と明記されています。)6節と7節 天使が女性たちに「驚いてはいけません」と話しかけました。ここには4つの素晴らしい言葉があります。

驚いてはいけません 

ここにはおられません 

ですから行きなさい

弟子たちに伝えなさい 女性たちはいきなり目撃証人となり、それらを皆に伝えないといけない重役を荷いましたイエス様が生き返ったと言う素晴らしい知らせは、この時の弟子たちには必要でした。弟子たちはこの時、羊飼いを失った羊のように何をしていいか分からない状況に陥っていたからです。ここから分かるのは、イエス様は今私たちに何が必要なのか全てご存じで、必要を丁度良い時に与えてくださる、ということです。ここからも神の愛と恵を感じる事が出来ます。

 

また6つの素晴らしい文章が6節と7節にあります。

あなたがたが探しているイエス様 

十字架につけられたナザレ人イエス 

あの方はよみがえられました 

ここにはおられません

あなたがたより先にガリラヤへ行かれます 

そこでお会いできます イエス様の体は盗まれたのではありません。イエス・キリストはよみがえられたのです、そしてガリラヤでお会いできる。これはすばらしい知らせでした。女性たちは驚きましたが、喜びを持って街に戻っていきました。そして弟子たちに素晴らしい知らせを伝えて行きました。伝えられた弟子たちも喜びに満たされました。弟子たち皆がいる場所に着いた時、イエス様もそこに現れてくださいました。素晴らしい瞬間だったと思います。私たちもこのように喜びを持って福音をのべ伝えられたらどんなに素晴らしいでしょう。

 

イエス様は女性たちにも会われましたが、マグダラのマリヤにも個人的に会われました。(*ヨハネの福音書にはイエス様に会う前にマグダラのマリヤに二人の天使が現れたと書かれています。 ヨハネ20:11,12)マリヤが一人で泣いていたら、イエス様はマリヤの名前を呼ばれました。マリヤは、最初はイエス様をお墓の管理人と間違えましたが、声を聞いてイエス様だと分かり、悲しみが喜びに代わりました。イエス様はマリヤに、私がよみがえった事を皆に伝えなさいと言われましたここから分かるのはやはりイエス様は一人一人の悲しさ、苦しさ、どんな境遇を通っているか全てご存じで、気にかけて憐れんでくださる、ということです。

 

マリヤは皆の所に帰って、イエス様がよみがえられた事を伝えましたが、最初は皆信じる事が出来なかったようです。おそらくお先真っ暗な状況で、また信じてガッカリしたくないと自己防衛が働いたのでしょう。誰もがこの不思議な「よみがえり」に対してイエス様を見るまで実感が湧きませんでした。でも全ての状況を知っていたイエス様はそのままにしておきませんでした。違う形で表れてくださったのです。それがルカの福音書24:13-35に書かれています。二人の弟子がエマオの村へと向かっている途中に、イエス様は彼らに話しかけられました。でも、彼らはそれがイエス様だとは最初分からなかったようです。彼らはとにかく最近の最悪のニュース「イエス様が十字架で死なれた」ことについて話し合っていたようです。そして親しくなった彼らは一緒に食事をしました。そこで、イエス様は祝福した後にパンをさきました。そこで弟子たちの目が開かれて主だとわかったのです。もう彼らは嬉しすぎて、来た道を戻り、皆と一緒に喜びを分かち合ったようです。ルカ24:33 

 

その夜、残りの弟子たちは、まだ周りのユダヤ人を恐れてドアを閉めた部屋に隠れていました。するとなんとイエス様ご自身が彼らの真ん中に現れてくださいました。そしてイエス様は「平安があるように」と言われました。皆イエス様の復活の事を聞いていたかもしれませんが、実際にイエス様を見たときは驚いたでしょう。そして、手や脇腹を弟子たちに見せられて、幽霊でない証拠として食べ物も食べられましたイエス様は見ないで信じるものは幸いです、と信じなかった弟子たちに言われました。マルコ1615

 

ゴールデンテキストは第一コリント15章14節です。

 

そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」


BMC日曜学校テキスト〈大人のクラス〉より

 

翻訳  猪坂 知央