2025年6月1日~約1年間を通し、キリスト教入門・神学コースで学んでいきたいと思います。只毎回集いたいのに集えない学びたいけど1年間を通すとなれば~???と思う方朗報です!この度HPから見て学ぶ、ことが可能になりました。数年後あ!こんな話してたよねって振り返えり誰かの力になることもあると思います。
第9回信仰
(英語・日本語を分けてWord掲載しています。ですのでダウンロード無しで印刷可能です。)
9. 信仰
(BMC マニュアルの宗教条項)いのちある信仰は、神様の賜物であり、信仰なしに神を喜ばせることはできないと私たちは信じる。(へブル11:6) 信仰は聖霊の助けによって、人がそれを用い働かせるときに有効なものとなる。その聖霊の助けは心が神の条件にかなったときに確信させられる。
(へブル5:9)
ローマ 1章 17節 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
信仰は人と神を結びつけるものです。信仰がなければ、神と人は不信仰という恐ろしい壁によって隔てられます。不信仰は神の手を縛ります。信仰は、神が私たちの人生のための素晴らしい計画を実行することを可能にします。信仰は扉を開き、キリストが私たちの人生と心に入ることができるようにしてくださいます。信仰は罪からの救いの体験のために必要であり、きよめられるためにも必要であり、クリスチャンの日々の歩みにおいても不可欠です。私たちが神を信じると、神様は私たちにご自身をますます表してくださいます。私たちが神を信頼し、信じると、私たちは神に近づき、神と共にさらに進み、神と共により多くのことを成し遂げ、私たちの信仰と信頼はさらに強まります。
では、「信仰」はどのように定義にしたらいいでしょうか? いくつかの定義を挙げます。
• ヘブル11章 1節 さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
• キリスト教の信仰とは、神は見えなくても存在するという強い確信、死後の世界は存在するという確信(私たちはまだそれを経験していませんが)、そして霊的な世界は私たちが見聞きし感じることができる物質世界よりもはるかに重要であるという世界観です。
とはいえ、私たちの信仰は盲信ではありません。聖霊は、自然界の驚異、キリスト教徒の愛と聖なる模範、そして私たちの良心を通して、私たちに神を啓示してくださる忠実なお方です。神と聖書は、この世の他のいかなる存在と同じように現実的で確固としたものであるという、膨大な証拠によって私たちは完全に確信することができます。
• 「信仰」と訳されているヘブライ語は、「支える、維持する、擁護する」という意味がります。受動態では、「堅固で、安定していて、忠実である」という意味です。
• 「信仰」と訳されているギリシャ語は、「信頼する」または「人であろうと物であろうと、それを信頼できると確信する」という意味です。
• 信仰の第一の要素は信頼です。自分自身への信頼ではなく、全能の神への信頼です
信仰は神とのあらゆる交流のきっかけとなるため、多くの表現と要素があります。信仰の様々な側面をいくつか見てみましょう。
救いに至る信仰 イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
ルカ 7:50
救いに至る信仰とは、「救いの条件であり救いをもたらすもの」を意味します。
信仰の第一義は信頼であるため、救いに至る信仰とは救い主への個人的な信頼です。それは単に真理への心の同意でも、心から生じる感情でもなく、道徳的義務への意志の同意だけでもありません。救いに至る信仰には、これらすべて、そしてそれ以上のことが含まれます。それは、イエス・キリストの贖いの業の功績への強い信頼です。救いに至る信仰とは、聖霊の影響下にある人間の全存在と全人格の行為です。(ワイリー師)
救いに至る信仰とは、私たち自身の義と知識という偽りの安心感から救い主イエス様の腕へと大胆に飛び込むことです。聖霊の導きによって、救いに至る信仰とは、見捨てることのない神への確信に満ちた信頼です。十字架の贖いの業が私の個人的な罪に適用され、完全な赦しと永遠の命を与えてくれるという信頼です。この信仰は、神のすべての約束を個人的なものにします。
きよめに至る信仰 わたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。使徒 26章 18節
救いを受けるときと同様にきよめられるためには信仰が必要です。自分が罪人であることを認めるには信仰が必要であり、クリスチャンであるにもかかわらず、心の中にまだ罪の問題を抱えていることを神に認めるには信仰が必要です。信仰によって私たちは神の御言葉と、聖霊が私たちの心に語るー罪の性質の認識と確信と同意します。きよめに至る信仰を持つ人はパウロが ローマ7:24~25にあるようにきよめ主に向かって叫び求めます。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」
信仰を通してパウロは、肉の罪深い性質からの解放を神に叫び求め、そして神が自分をすべての罪から解放してくださることを前もって感謝しているようです。ローマ8章を読み進めると、パウロが聖霊の力によって罪と死の律法から解放されたことがわかります。私たちも罪の性質の恐ろしさを感じて必死に聖霊様を求めると絶対に私たちをきよめてくださいます。「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」 テサロニケ 第一 5:24
生きた信仰 ヤコブ2:17 同じように、信仰も、行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです
「イエスが神様だと信じているから信仰がある」と言う人がいます。彼らはイエスが神であるという事実に知的同意はしますが、イエスについて行ったり、イエスに服従したり、イエスを知りたいと思うほど強い信念ではないようです。このような信仰は死んでる信仰です。枯れていて陳腐で、真の信仰とは言えません。真の信仰とは、生きた、元気な信仰です。そのような信仰はこう言います。「私はイエスが世界の救い主であると信じています。そして、イエスが私の罪を洗い流し、私を罪から守る力を持っていると信じています。私はイエスが神であり、イエスが言うことはすべて真実だと信じています。ですから、私はイエスを私の主にし、私の導き手として従います。イエス様、今日は私に何をしてほしいのですか?イエス様、あなたに今日、もっと近づきたいです。もっと知りたいです」私たちの信仰はどのような信仰でしょうか?それは真実に対する知的な同意だけでしょうか、それともイエスが言うこと、行うこと、そして私たちにしてほしいことすべてを心から受け入れることでしょうか。
癒しのための信仰
さてリステラで、足の不自由な人が座っていた。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがなかった。
彼はパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て、大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。使徒14章 8〜10節
神の癒しに関する私が聞いてきた話によると、病人は神が自分を癒してくれると信じなければならないこと、そして病人の癒しのために祈る人も神の癒しを信じなければならないことが明らかです。神は私たちの信仰、それが小さくても大きくても、それに応じて働いてくださいます。
信仰と祈り
イエスは答えられた。「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。
あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」
マタイ21章 21〜22節
• 私たちは神様を信じていますか?
• 救いのためだけでなく、他のことについても神様を信頼して信じていますか?
• 神様は常に善を行うと信じていますか?私たちの最善の利益を予定しておられると信じていますか?
• 神様を心から信頼していますか?
• 神様が癒してくださると信じていますか?
• 神が本当に私たちの家族を救ってくださると信じていますか?
信仰は勝利です!
9. 「信仰」 ワークシート
1.「信仰」を自分の言葉で定義してください。
2.自分の言葉で「救いに至る信仰」を定義してください。
3.聖霊様のきよめを受けたい方はどのようなことをしますか?
読書宿題
1.ヘブルの11章を読んで、印象に残ったことを書いてください。
2.ヤコブ 2:4~26 を読んで要約してください。