2024年7月14日 日曜礼拝メッセージです。
「潔い心と生活」 Ⅰペテロ1章15節
エペソ5:25-27、Ⅱテモテ2:19、ローマ8:15.16
今広がっている間違った教えがありますが、聖書には、(ヨハネ5:14、ヨハネ8:11)「良くなったのだからもう罪を犯してはなりません」と言われています。イエス様の十字架の恵みはすばらしいく、罪から解放し、新しい歩みをさせてくださいます。罪を犯し続けるのではない。
☆救われる時、きよめられるとき、聖霊様が証してくださる。Ⅱテモテ2:19…救われる時、自分が赦されたことを神様が示してくださる。ただ自分の思いではなく聖霊様が、心に示してくださる。ローマ8:15,16 イエス様の血潮によって贖われ、悪魔の子から、神の子とされた。なんと素晴らしい特権でしょう。
ガラテヤ4:6 ☆人間は、自由意志を与えられている。「神様に従って天国まで歩む」か、「いいえ、信じない、自分のやりたいようにやる」か、私たちが選ぶのです。必ずどちらかを選ぶことになる。この選択の結果は、大きく、最終的に天国か地獄か。☆一度救われた後、途中で、信仰を捨てて、神様に従わないなら、天国にはたどり着くことが出来ません。聖書にはっきりと書いてあります。マタイ10:22 黙示録2:10 ローマ6:18,19,22 救われてから、自分自身を神様に捧げるならきよめられます。以前は罪深くても、救われてから本当に変えられ、言葉も歩みも、行く場所も変わった、という証を聞きます。救われるまでは罪の奴隷で、悪魔に振り回され、自分の気の向くままに歩んでいたが、クリスチャンとなって、手も足も口も神様のために使う、神様にすべてを捧げ、信じるなら、きよめられます。Ⅰコリント9:27、ヨハネ15:4-6、Ⅰヨハネ1:8 Ⅰテモテ1:18-20、Ⅱテモテ4:6-8
へブル12:1,5:9、10:26、黙示録2:5 躓いたら、立ち上がって、祈り、悔い改め、もう一度走ろう。二心をきよめてもらって、心を一つにしてもらおう。神様はきよい心を与えて、正しい生活ができるようにしてくださる。自分ではできない、行いよっては救われない。イエス様の恵みによって救われる。神様に反抗する心ではなく、イエス様と心を一つにしていただき、最後まで走りましょう。
2024年7月07日 日曜礼拝メッセージです。
「永遠の土台」 ルカ6章47.48
「なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人がみな、どんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。」
エンパイアステートビルを建てた時、花こう岩の岩盤迄深く掘って、堅い土台の上に建てたので、今もしっかり建っています。しかしこれは、いつかは崩れるものです。今日は、永遠に続く土台、私たちの信仰の土台について語ります。聖書には、イエス様のことばを聞いて行う者は、堅い土台の上に家を建てた者である、と書いてあります。真のクリスチャンは、して、苦しみの中でも微笑んで、希望を持ち、忍耐して待つ、熱心に祈る、確信をもって信じる、そ最後には勝利を得るのです。黙示録12:11
永遠の土台を築くために必要なことは、まず、生きている御言葉の上に土台を築くことです。救われたとき霊の目が開かれましたが、まだ聖書の知識がありません。だから、日々聖書を読みながら、神様のみ心、計画を知っていく必要があるのです。聖書の真の著者は、真の神様、すべてをご存知で、永遠のお方。聖書には、すべての始まりから、お金の使い方、子どもの教育の仕方等々、私たちの必要の全てが書かれています。ですから、聖書を読みながら神様の御声を聞く日々のデボーションはとても大切です。神のみ言葉は朽ちることがなく、永遠に続きます マルコ13:31 Ⅰペテロ1:23 そして、オリジナルの聖書には間違いが一つもありません。Ⅱテモテ3:16 Ⅱペテロ1:21 悪魔は、神のみ言葉を滅ぼそうとしていますが、滅ぼせないので、神のみ言葉を疑うように働きかけてきます。アダムとエバが罪を犯した時から、すべての人間には、神様のみ言葉を疑う心があります。(神の警告 へブル3:12)しかし、神様は不信仰に対する解決もお持ちですから感謝します。また、私たちの永遠の土台は、イエス・キリストです。Ⅰコリント3:11 イエス・キリストは、私たちの人生の土台、揺るがない岩。また、私たちの救い、希望、いのちです。
み言葉をただ聞くだけの者でなく聞いて行う者とならせていただきましょう。
2024年6月30日 日曜礼拝メッセージです。
「聖霊があなた方の上に臨むとき」
使徒1章4-8節、Ⅰコリント1:27-31、申命記31:6-8
聖霊が臨むときあなたは三つのものを実感できます。
1、 父なる神の約束の成就を見る
よみがえりの主は、弟子たちにこの体験と恵みを「父の約束」と呼び、それを待ちなさい、そうすれば「授けられる」(5節)とおっしゃいました(6,7節)弟子たちが勘違いしてそれをエルサレムの再興と受け取ると、それが「いつとか、どんな時とかという事は、あなたがたの知るところではありません」とその見方をそこで断ち切り、8節では、「聖霊があなた方の上に臨むとき」…という実体験の具体的な話しについて語りだされたのでした。
ですから、皆さんも「聖め」「聖霊のバプテスマ」の体験もしかり、その聖霊が日々あなたの上に臨む時、あなたは父なる神(生ける神)の約束の成就を見、体験出来るのです。
2、 力を受ける
この言葉に人はいろんなイメージをもって受け取ってしまいます。「人知を超えた不思議な力」「魔法使いのような力」「今までの自分と違う自分に変えてくれる力」…そういうのを期待していた人は、何にも変わらないではないかというような結果になるでしょうね。ではどんな力か…それが次のことです。
3、 イエス・キリストの証人となる
「なんだ、そういうものか、それなら別にいらない…」という声が聞こえてきそうですね。でも、本来聖書が私たちに教えている、聖霊がもたらしてくれる力の本質はこれなのです。だって、主なる神様は、すべてのクリスチャンを力強いイエス・キリストの証人として、この世に遣わしたい、福音を伝えたいからです。(牧師や伝道者だけが遣わされている人々で、自分たちはただの平信徒などという考え方は筋が違っていますよ)
また、ある人々にはがっかりさせる例かもしれませんが、その実例を皆さんは目の前に見ているのです。「私です」皆さんは、私のことをどう見ておられるか分かりませんが、私は本当にたいしたことのない人間です。どちらかというと「あなたみたいな人は、講壇に立つ資格はない。素質もない」と言われるような者です。ただ主が、聖霊の力、知恵、忍耐、愛を下さり、満たしてくださり、また必要な言葉を下さり、私の代わりに伝えなさい…と言われるので「はい」と言ってやっているだけなのです。ここに(8節)のみことばの本質が表されています。つまり、取るに足りないものを主がその力を与えて用いる…そこに神の力と恵み深さが表されているという事なのです。(Ⅰコリント1:27-31)
この8節と同じスピリットで語られているのが皆さんもご存知で、好きな旧約聖書の御言葉です。(申命記31:6-8) あなたも聖霊で満たされて、キリストの証人としていただいて、主に用いられたい…そう本気で求めて見られませんか?
2024年6月23日 日曜礼拝メッセージです。
「あなたは、わたしに従いなさい」
ヨハネ21章15-23節、ヤコブ1:19.20
シモン・ペテロはイエス様のことが大好きで、「自分こそが一番弟子だ」と自負していました。しかし、彼は自分の内にある弱さ、もろさには気付いていませんでした、イエス様はそれを十字架の前に預言して、「あなたは私を三度知らないという」と…彼は「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決して躓きません」「たとえ、あなたと一緒には死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言いましたが…いざその時が来たら、彼は本能的に、また自分の身を守るためにイエス様を知らないと言ってしまったのです。今日は、ペテロを通して人の内にある三つの弱さを見てみましょう。
1、状況の変化とか、恐怖(危機感)が襲う時、人はもろくも崩れやすい
自分が弱い者であることを認識して、日々「主よ。弱い私ですから助けて、支えてください。もし逃げてしまったら、すぐに立ち返らせてください。」と祈りましょう。
2、人のことを気にする
ペテロはイエス様から、どのような死に方で栄光を現わすかを告げられた時、ヨハネのことを指して、「この人はどうなのですか」と聞きました。「あの人、この人はどうなのか」と気になるみたいですね。これ自体悪いこと、罪とかではありません。ただイエス様はこう言われました「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたになんの関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」…つまり、人がどうかは、あなたには関係ない事だ、あなたはわたしに従いなさい。
3、すぐに憶測で話を広めてしまう
イエス様がヨハネのことについて「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたになんの関わりがありますか。」と話すと、すぐに「その弟子は死なない」という話に受け取り、それが兄弟たちの間で広まったようですね。
私たちは、短絡的な解釈に走りやすい弱さがあります。その言葉の思いや、気持ちの真意とかを抜きにして〈理解しないまま〉、自分なりの答えの言葉に(解釈)して、それがその言葉だ!としてしまう…これも、それ自体罪とかの問題ではありません、弱さであり、罪から来た欠けなのです。だから聖書はこう教えています「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。 人の怒りは神の義を実現しないのです。」ヤコブ1:19.20 これもすぐに短絡的に走ってしまって、罪や失敗に至らないための教えなのです。これを肝に銘じて日々を過ごしていたら、いろんなあやまちや失敗から守られるでしょう。最後に22節を一緒に読んでみましょう。「イエスはペテロに言われた。『わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。』」
2024年6月16日 日曜礼拝メッセージです。
「父なる神の悲しみの背」 エレミヤ8章4-7節 Ⅱペテロ3:3-11
ここに悲しんでいる父なる神の後姿を見るようではありませんか?
神様がどんな方であるか? 三つのこと…
1、 背信者、神を知らない人たちが立ち返ってくることを待ち望んでおられる方です
5節「なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、いつまでも背信を続けているのか。彼らは偽りを握りしめ、帰ってくることを拒む」6節「空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山場とも燕も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知らない。」ここで言う「主の定め」というのは、「律法」とか「聖書の教え」というようなニュアンスよりも、先に語られているような本来造られたときに、人の心の中にも書き記されている定めです。空の鳥とかが季節を知り、どこに帰るかを知っているというのと同じで、人のうちにもあるものです。これは聖書を知っているとか、福音を知っているに関係なくあるものです。「良心」というものもそうです。人は生まれながらにして、「していいこと」と「してはいけないこと」を大体は知っているのです。それに背いているから「良心が痛む」という事があるのです。ところが人はその良心の痛むことをしながらも生きているのです…それが「主の定めを知らない」という事なのです。父なる神は、「帰って来い」と語り続けて下さっているのです。(放蕩息子の例えでもそれが表現されています)
2、 忍耐しておられる方です Ⅱペテロ3:3-11
3、 嘆いておられる方です
エレミヤ書を読んでいると、嘆き悲しみ、また怒っておられる神様の姿がしっかり記されています。そんな父なる神の御心を知り、立ち上がったのが、御子なるイエス・キリストです。神でありながら、その栄光を脱ぎ捨て、人となり、私たちのもとに来て下さったのでした。そして人の暮らしを、苦悩を、罪の痛みを実体験し、父なる神の御心を教え、天の御国を指し示してくださったのです。十字架で罪の贖いを成し遂げ、死んでよみがえり、希望と未来、天国への道を築いてくださいました。この道を一歩一歩歩んで行きましょう。
2024年6月9日 日曜礼拝メッセージです。
「舟の右側に網を打ちなさい」 ヨハネ21章1-7節(6節)
師であり、キリスト(油注がれた救い主)とも認めていたイエス様が、十字架で亡くなり、よみがえられましたが、以前のように一緒にいて下さらなくなって、なんとも寂しい、心細さを感じている弟子たちだったのではないでしょうか?約束のガリラヤにまで来ましたが、まだお会いできないままでした。
そしてペテロが言うのです「私は漁に行く」すると他の弟子たちも「私たちも一緒に行く」と…いったんは捨て置いてイエス様に従って行ったペテロたちでしたが、ここで今一度、舟で漁をすると言うのでした。(ここにも彼らの何とも言えない不安、心細さを感じます)。そこで一晩中網を打ったのですが、「何も捕れなかった」とあります。更に虚しさ、不安が彼らを覆ったことでしょう。そんな彼らに岸から声がありました「子どもたちよ、食べる魚がありませんね」と…「ありません」と答える弟子たちに主イエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」と…「そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚」が捕れたのでした。
主イエス様は、あなたや私にも「舟の右側に網を打ちなさい」と言っておられます。この時の弟子たちのように、キリストの弟子であるにもかかわらず、不安で、迷い、心細く、虚しさを感じている…一生懸命やったのに、一生懸命祈ったのに、かなわなかった。何も答えがなかったと思っていますか…あなたはイエス・キリストを確かに信じています。ただ、実際は何に頼っていますか?何を目当てとしていますか?頭でだけでなく、本当にキリストに信頼し、実行動に移しましょう。また、一生懸命やった、一生懸命祈ったことは、神様がご存知です。ただあなたの願った通りになることが神様の御心とは限りません。「神様の御心のままに」とは祈れないでしょうか。『では人が救われるように祈ることは御心』のはずなのになぜ祈っても、願ってもすぐにかなわないのでしょうか?神様に時間がかかるのではなく、その人が整えられるのに時間がかかるのです。忍耐をもって祈り続けましょう。祈りが続かない、途中からどう祈ったらいいのか分からなくなる、という方…願い事の祈りに感謝の祈りを加えてみてください。また、とりなしの祈りを、まずその人が飢え渇くように、神様を求めるように…救われるように、と段階をつけて祈ってみてはどうでしょうか。兄弟姉妹のためには、目につくことを裁くのではなく、祝福があるように、平安があるようにと祈りましょう。「北風と太陽」の話を思い出して、その人も暖かくなれば殻を脱ぎ出すようになれるでしょう。これらがあなたにとっての右側です。これには約束が伴っています(ルカ10:5,6) またそれが聖書的な生き方と言えるのではないでしょうか(ローマ12:10ー18)
2024年6月2日 日曜礼拝メッセージです。
「イエス様に触れる」 マルコ5章25-34節
多くの人がイエス様の周りに集まっていたとき、12年間長血を患っていた女の人もいました。イエス様の行った奇跡の数々を耳にして、今まで何をしてもダメだった、頼ることのできる人も全くいない、しかし、イエスさまなら…と最後の希望をもって来ました。
彼女は、これが最後のチャンスと必死な思いで来ました。中途半端に求めるなら、結果も中途半端ですが、彼女のように必死で求めるなら、その結果は素晴らしいのです。病気のために弱り果て、人の中に出ることも恥ずかしい、人も大勢でイエスさまに近づくのが難しい。でも、イエス様の衣の裾にでも触ることが出来れば癒される、と信じてイエス様に近づき、触りました。イエス様を求める時、多くのことが妨げとなります。家族や友達が反対するかもしれない、困難な状況が邪魔になるかもしれない。しかし、それらの妨げとなるものすべてを超えなければならないのです。そうしたとき、この女性はすぐに癒されました。イエス様は、「誰がわたしにさわりましたか」と聞きました。イエス様は、知っておられましたが、彼女が自分で告白するようにこの質問をしたのです。彼女は、震えていましたが、真実を告げました。私たちも本当に救われたいなら、真実を告げなければなりません。心を開いて、何も隠さず、罪を隠すこともせず、正直に告白しましょう。この女性は、「娘よ。あなたの信仰があなたを救った。」とイエスさまのお言葉をいただきました。私たちも信仰によって救われることが出来ます。今でも同じです。私たちは、これをやったら幸いかな、これで楽しいかなといろいろやってみるでしょうが、何をやっても空しい、心が満たされないのです。しかし、イエス様を求めて信じるなら、イエス様は私たちの心を喜びに満たしてくださいます。イエス様を信じるなら、決して失望させられることはありません。それだけでなく、心の奥底に平安をもいただくことが出来るのです。
あなたの抱えている問題が何であっても、イエス様はあなたの問題を解決することが出来ます。
2024年5月26日 日曜礼拝メッセージです。
「全き愛」 Ⅰコリント13章1-13節
13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。
13:9 私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、
13:10 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。
13:11 私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
2024年5月19日 日曜礼拝メッセージです。
「知られていない神」 使徒17章22⊸31節
パウロがギリシャのアテネにいた時のメッセージです。
人々はいろんな神々を拝んでいましたが、当時はやっていた疫病が止まなかったので、「知られていない神」がいるのでは、と「知られていない神」をつくりました。それを見たパウロは、アテネの人々に「あなたがたの知らない神について教えてあげましょう」と真の神について語りました。
今日は、この「知られていない神」について語りたいと思います。この真の神様は、すべての創造者です。車も家も誰かが設計して作りました、次の日起きてみたらできていたなどという事はありません。花や鳥、美しい自然は偶然に突然できたわけではありません。それらを設計し創った方、真の神様がいるのです。神様はこの世を創り、私たちにいのちを与え、天も地も神様がお創りになりました。また、神様は限りがなく、はじめも終わりもありません。遍在のお方、どこにでも同時におられます。人間の手で作られた神ではないのです。形ある神々は、人間が考えて作ったものです。口があっても話せず、耳があっても聞くことが出来ず、足があっても歩くことが出来ません。しかし、真の神様は、語ることが出来、祈りを聴くことが出来、共に居て下さるのです。遠くにおられる神ではなく、求める者は必ず見いだすことが出来ます。
神様は、真の神が分からず迷っている世の人々を見て、ご自身の一人子をこの世に遣わし、一人子イエス様を通して救われる道を備えてくださいました。罪を犯したことのない人はいません。罪を悔い改めて、イエス様を信じる人は救われます。罪を赦すことは人にはできませんが、唯一罪を犯したことのないきよいイエス様が、私たちの罪の罰を代わりに受けて、十字架で死んでくださいました。そして、よみがえってくださいましたから、イエス様は人の罪を赦すことが出来るのです。
私たちは死んで終わりではありません。肉体が死んでも、魂は生き、神様の御前に立ち、裁きを受ける時が来ます。今、今日が救いの時です。生かされている今、チャンスがある今祈りませんか?
2024年5月12日 日曜礼拝メッセージです。
「母親の責任とその報い」
箴言31章10,11,20,25⊸30、テトス2:1-5
今日は、「母の日」です。すべてのお母さん、また女性たちに感謝します。今日の箴言の御言葉は、「しっかりした女性」について書いてあります。お母さんたちの働きは一日中続きます。しかし、その報いは大きいのです。子どもたちを抱き育てる手が、世界を変えると言っても過言ではありません。
箴言31章
31:10 しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。
31:11 夫の心は彼女を信頼し、彼は収益に欠けることがない。
31:20 苦しむ人に手を差し出し、貧しい人に手を差し伸べる。
31:25 力と気品をまとい、ほほえみながら後の日を待つ。
31:26 知恵をもって口を開き、その舌には恵みのおしえがある。
31:27 家の者の様子をよく見守り、怠惰のパンを食べない。
31:28 その子たちは立ち上がって彼女をたたえ、夫も彼女をほめたたえて言う。
31:29 「力ある働きをする女は多いが、あなたは、そのすべてにまさっている」と。
31:30 麗しさは偽り。美しさは空しい。しかし、【主】を恐れる女はほめたたえられる。
忍耐と愛の限りを尽くして子供たちを育てましょう。その報いは大きいのですから。
2024年5月5日 日曜礼拝メッセージです。
「神は十分なお方」 詩篇145:8-21
145:8 【主】は情け深くあわれみ深く怒るのに遅く恵みに富んでおられます。
145:9 【主】はすべてのものにいつくしみ深くそのあわれみは造られたすべてのものの上にあります。
145:10 【主】よあなたが造られたすべてのものはあなたに感謝しあなたにある敬虔な者たちはあなたをほめたたえます。
145:11 彼らはあなたの王国の栄光を告げあなたの大能のわざを語ります。
145:12 こうして人の子らに主の大能のわざと主の王国の輝かしい栄光を知らせます。
145:13 あなたの王国は永遠にわたる王国。あなたの統治は代々限りなく続きます。
145:14 【主】は倒れる者をみな支えかがんでいる者をみな起こされます。
145:15 すべての目はあなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって彼らに食物を与えられます。
145:16 あなたは御手を開き生けるものすべての願いを満たされます。
145:17 【主】はご自分のすべての道において正しくそのすべてのみわざにおいて恵み深い方。
145:18 主を呼び求める者すべてまことをもって主を呼び求める者すべてに【主】は近くあられます。
145:19 また主を恐れる者の願いをかなえ彼らの叫びを聞いて救われます。
145:20 すべて主を愛する者は【主】が守られます。しかし悪しき者はみな滅ぼされます。
145:21 私の口が【主】の誉れを語りすべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。
2024年4月28日 日曜礼拝メッセージです。
「ロトの妻を思い出しなさい」
創世記13:12.13、 19:17.26 ルカ9:62, 17:32,
ロトはアブラハムの甥でした。信仰深いアブラハムのお陰でロトは祝福されていました。アブラハムから土地を選ぶように言われたときに、ロトは肥沃な土地、ソドムに近い場所を選びました。しかし、そのうちにソドムの中に住むようになり、そこで地位を得て家族で住んでいました。しかし、ソドムはとても汚れた地で、50人、45人…10人でも正しい人がいなかったのです。神様は邪悪な町ソドムを滅ぼす前に、天使をロトのもとに遣わして、彼らをその町から救い出そうとされたのです。いよいよソドムが滅ぼされる日、天使は、彼らの手を取って町から連れ出し、後ろを振り返ることなく高い山まで逃げるように言われたのです。
① ロトの妻の特権…彼女は信仰のある家族に繋がっていて霊的影響を受けて守られていました。今から起こる危険に関する忠告を受け、天使は手を引いてソドム(危険、滅び)から連れ出してくれました。しかし、彼女の心は邪悪な町に残っていたのです。
② ロトの妻の罪…彼女の罪は、「後ろを見てはいけない」とはっきり言われていたのに、その神様の言葉に従わず、後ろを振り返ったことです。旧約の時代は特に厳しかった。モーセは一度の不従順の結果、約束のカナンの地に入ることが出来ませんでした。ロトの妻は、神の言葉を疑い、信じず、もう一度振り返ってみるくらい大丈夫だろうと、手を引かれて走っている最中、振り返り、その瞬間に塩の柱になりました。私たちはどうでしょうか? 神様にいけないと言われたのに…一度くらいいいんじゃない、と。罪から救われたとき、もう嘘はつきません、偶像を拝みません…以前の生活を考えて、前の生活に少しだけ戻ろう、と振り返ると、塩の柱にはならなないけど、心が固くなってしまいます。
③ 彼女の罪の結果…滅ぼされた。塩の柱となり、次の時代の人にも語り伝えられた。イエス様が「ロトの妻を思い出しなさい」と言っておられます。彼女はすべてを失ったのです。
もう以前の罪の生活には戻らない、引き戻されない、と決心しましょう。
2024年4月21日 日曜礼拝メッセージです。
詩篇100篇 指揮者のために。ダビデの賛歌。
100:1 全地よ【主】に向かって喜びの声をあげよ。
「イスラエルよ」ではなく、「全地よ」つまり、日本も含まれています。「喜びの声をあげよ」には喜びジャンプしてという意味があります。日本ではあまり見られませんが、それぞれの仕方で、主に向かって喜びの声をあげましょう。
100:2 喜びをもって【主】に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
私たちは、今朝も喜び、歌いました。喜びと感謝の心で主に仕えていますか? それとも、教会でのご奉仕、あれもこれもしないといけない…と不平不満がありますか? 主へのご奉仕ができることは特権です。
100:3 知れ。【主】こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの主の民その牧場の羊。
進化論など多くの教えがありますが、主こそ神、造り主です。私たちは主に造られ、イエス様の血で贖われた者、主の牧場の羊です。主の羊は主の声を知っていて、ついて行きます。
100:4 感謝しつつ主の門に賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。
服、食べ物、車、家…私たちは主からたくさんの祝福を得ています。感謝しましょう。
100:5 【主】はいつくしみ深くその恵みはとこしえまでその真実は代々に至る。
主は、昨日も今日も明日も、いつまでも良いお方、いつくしみ深いお方です。すべての時代に神様の真実が届いています。ですから、今日も主を褒めたたえて証し、賛美しましょう。
メッセージのあと、特別賛美や兄弟姉妹の証があり、主のご臨在豊かな賛美礼拝でした。
2024年4月14日 日曜礼拝メッセージです。
「主イエスから目を離さないでいなさい」 へブル12章1⊸3節
イエス様を信じて救われてから、霊的風に吹かれて少しずつ天国へのコースからそれてしまう人がいます。そうならないように、イエス様から目を離さず最後まで走ることが大切です。マラソンを走る人が練習を重ねてレースにのぞむように、私たちも霊的なレースのために準備する必要があります。私たちは永遠に残る魂を持っていますから、このレースは地上のレースのように一時的なことではありません。永遠を天国で過ごすのか、永遠を滅びの場で過ごすのか…イエス様を心に受け入れて、イエス様から目を離さずにいるなら安心です。最後まで、天国まで走りましょう。神様は、すべての人が天国に行けるように道を作ってくださいました。素晴らしい福音です。
11章では、先に天国に着いた人々が私たちを応援していることが書かれています。私がマラソンに出た時も、応援してくれる人がいて励みになりました。この教会でもすでに天に召された信仰の先輩がいますが、私たちを応援してくれています。
マラソンする人は、練習の時わざわざ重りをつけて練習したりしますが、競争当日はそれらを外して軽くして走ります。そのように、天国への道を走りながら、これを持っていたら重荷となり天国へたどり着くのが難しい…そうであれば、それらを外して、捨てて、最後まで走り抜きましょう。どんなに価値があり、大切に思われるものも、いのちより大切なものは何もありません。霊的に重荷となり、妨げとなっているもの(こと)は何でしょうか? 祈れない、聖書を読めない…なぜでしょうか? 神様に対して心を開いているなら、神様は教えてくださいます。そして、神様の御声に聞き従うと、必ず祝福されます。神様は私たちの最善をご存知だからです。
どんなに立派な人でも、人を見ていると失望させられます。しかし、イエス様を見つめているなら、決して失望させられることはありません。
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」2節
2024年4月7日 イースター日曜礼拝2メッセージです。
「信仰のアップデート」 ヨハネ20章1⊸10節
へブル12:4-8,Ⅰコリント10:13,ローマ5:1-5,Ⅱコリント12:7-10,Ⅱペテロ1:5-9
今日皆さんの心に留めていただきたいのは、「信仰はアップデート(つまり更新)されるものだ」ということです。
今日の箇所で、ヨハネはペテロのあとにイエス様のお墓に入って、イエス様の体がなくなっている、体に巻いていた亜麻布がそのままあるのを見て「信じた」と記されています。その後9節で「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」と補足されています。ヨハネやペテロは、もちろんイエス様を信じている人でした。それなのに空っぽの墓を見て「信じた」というのです。これは、クリスチャンにとって大切なことなのです。クリスチャンの信仰は、過去形のものではなく、現在進行形なのです。「信じていますよ」と言いながら、お祈りしない、聖書も読まない、教会にも行かない…でも信じています、という方がおられます。困惑し、心が痛みますね。その方は、確かに信じる信仰をもったことがあるのです。救われた体験もあったのです。だから、「信じているよ」と。しかし、その後は…イエス様を信じる信仰が更新されていない、つまり、過去形の信仰なのです。過去形の信仰になると、神様を感じなくなり、神様からの恵みもわからなくなってあたりまえと思い、そのままだとイエス様を信じる信仰さえ「もういいや」となってしまいます。
みなさん、過去形の信仰に留まっていてはいけません。ヨハネたちは水がぶどう酒に代わる、5つのパンと2匹の魚で5千人以上が満腹し余りがある…などなど、イエス様と共に歩み、信仰が更新されていきました。あなたの信仰は? 現在進行形ですか? 実生活の中で、日々御言葉に親しみ、学び、悟り、それを実生活の中で行う、そして、祈りの中で何でも相談し、決断し…そのようにして、生ける主なる神とともに歩んでいると、信仰は更新されていきます。
「主の祈り」
に沿った祈りも助けとなります。信仰が更新されていくと、苦難さえも喜ぶ信仰、信仰には德、徳には知識…兄弟愛には愛、と加えられていくのです。現在進行形の喜びと確信に満ちた信仰生活をおくらせていただきましょう。
2024年3月31日 イースター日曜礼拝メッセージです。
「聖書とイースター」 ルカ24:1-8、ヨハネ11:25-26
ルカ24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
ヨハネ11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
2024年3月24日日曜礼拝メッセージです。
「受難週に見るキリストの道」 ルカ9章51節
日曜日・イエス様、ロバの子に乗ってエルサレムに入場
月曜日・イエス様はベタニアに住む三兄弟の家に行かれ、その時、マリアはナルドの香油をイエス様の足にかけて自分の髪の毛でぬぐいました。
火曜日・イエス様は、弟子たちに「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と告げ、ペテロにも「鶏がなくまでに、三度私を知らないと言う」と告げました。
水曜日・イスカリオテのユダは、祭司長たちのもとに行き、イエス様を引き渡す約束をします。
木曜日・弟子たちとの食事の場で、イエス様自ら弟子たちの足を洗い、「あなた方も互いにこのようにしなさい」と言われました。
金曜日・最後の晩餐の後、弟子たちとともにゲッセマネの園に行き、そこにユダに連れられた人々が来てイエス様を捕らえ、大祭司のところに連れて行きました。そして、ローマ総督ピラトのもとで裁判が行われ、朝の9時には十字架にかけられ、12時から3時まで天地が暗くなり、イエス様は「完了した」「父よわが霊をあなたの御手に委ねます」と言って息を引き取られました。その日のうちにそのお体はお墓に安置されました。
土曜日・ユダヤ人の安息日 一方ローマの兵士がお墓の見張りに立てられました。
日曜日・イエス様のよみがえり
2024年3月17日日曜礼拝メッセージです。
「福音の光を神様に感謝しましょう!」 Ⅱコリント4:6.7
4:6闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。
4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
3月17日は賛美礼拝でした。また、ジャステン先生家族が6カ月の一時帰休に入る直前の礼拝でした。
それぞれに主の救いや恵みに感謝し、また、ジャステン先生家族への感謝の気持ちを伝えました。子どもたちと一緒に家族での賛美に心温まる思いと希望をいただきました。また、素敵なフルートとピアノの演奏に合わせて神様を賛美することもできました。聖霊様のご臨在があり、共にみことばに耳を傾け、祈り、賛美するひと時、本当に幸いな礼拝でした。
2024年3月10日日曜礼拝メッセージです。
「自分の分を買ってください」
マタイ25:1-13、黙示録3:18、エゼキエル36:25-27、ピリピ4:19
マタイ25章1ー13節には、5人の賢い娘と5人の愚かな娘のたとえ話が書かれています。これは非常に重要な真理を説明しています。イエス様の再臨に備えなければならないこと。キリストは、妻(教会)が永遠に住むための家(天国)を準備して妻を迎えに来る夫にたとえられています。婚約している娘が自分を聖く保つように、今教会はイエス様から目を離さず、再臨を待っている時です。この10人の娘たちは、準備して花婿を待っていました。しかし、そのうちの5人は中途半端で不注意でした。不注意なクリスチャンは、クリスチャン生活について真剣に考えず、気が向いた時だけ教会に来て、聖書を読むこともなく、必要がある時だけ祈る…彼女たちの霊的なタンクはいつも空っぽで、彼女たちはそれに慣れていました。仕事、家族、楽しみ、お金、健康、感情…が優先されている世俗的なクリスチャン。他の5人は神様を第一にしました。新約聖書で油は聖霊を表しています。彼女たちは毎日聖書を読み、祈り、忠実に教会に来て、そのような霊的なことを最優先にしていました。神様に近づくと、神様も近づいて下さり、喜びの油(聖霊)で満たしてくださいます。夜中になり10人とも寝てしまいました。再臨前は霊的に眠くなる時代です。その時、花婿が来ました。愚かな娘たちのともしびは消えていました。不注意によって聖霊の光と油が消えてなくなっていたのです。神様との関係を修復しよう、不信仰を悔い改めようとしても教会に行くには遅すぎ、祈るには遅すぎ、神を第一に考えるには遅すぎました。イエス様は来られ、ご自分を待ちわびていたすべての人を迎え入れ、ドアを閉めました。このレッスンの要点は何でしょうか?クリスチャンとして空っぽで走り続けてはいけない。世俗的なつめたい空っぽの心に満足していてはいけない。聖霊は、すべてのクリスチャンに与えられており、神様の御許に来て、満たされることが出来る。神様に霊的な手術をしていただきましょう。神様は失敗しません。お任せしましょう。きよめを求めて受け、その後も油(聖霊)を満タンに保つために、祈り、御言葉を読み、毎日神様の御顔を慕い求めましょう。
イザヤ44:3,55:1、エペソ3:20、エレミヤ33:3、ルカ11:13
2024年3月03日日曜礼拝メッセージです。
「御救いを失うこと」
Ⅰテモテ1:18-20、4:1-3、5:8,5:11-15、6:9-10、黙示録3:19,2:5、Ⅰヨハネ1:9
一度クリスチャンになったらずっとクリスチャンでしょうか? 現代の教会の多くは、イエス様を一度信じてバプテスマを受けるだけで永遠のいのちが待っている、あとは好きなように生きればよい、と教えます。しかし、神のみ言葉はそのようなうすっぺらな教義を否定しています。私たちが生きている限り、神に仕えるか、罪を犯すかを選ぶ自由意志を持っています。救われる時、過去の罪を赦され天国行の切符を手にしまずが、自分から天国行の列車を飛び降りて切符を破り捨てるという選択肢もあります。バックスライド(背教)に至る5つの道について見てみましょう。①自分の良心を無視する(Ⅰテモテ1:18-20)罪の定義は「間違っていると分かっていながらする」ことです。良心の呵責を感じながら、その考え、行動、会話、罪を犯し続ける。ヒメナイたちは、その言葉のせいで倒れました。Ⅱテモテ2:16には、彼らが不敬で愚かな議論に参加したと書かれています。②惑わす霊と悪霊の教えに耳を傾ける(Ⅰテモテ4:1-3)サタンは多くの真実に少しの虚偽を加えて、多くの人を騙します。キリスト教に似たモルモン教、エホバの証人、クリスチャン・サイエンティスト…。また、カトリック教会には多くの良い教えがありますが、結婚を禁じるなど非聖書的な教えもあります。神の言葉の純粋な教えに背を向けると人は頑なになり、邪悪になります。神の言葉に留まりましょう。③家族をないがしろにする(Ⅰテモテ5:8)良いことをたくさん行っていても、家族をないがしろにしていると、神に対して罪を犯しているのです。私たちの第一の責任は、家族です。④初代教会は、やもめや孤児の生活全般の支援をしていました。しかし、あるやもめたちは、情欲にかられ、誓いを捨て、怠けてうわさ話に興じ、おせっかいな人になり、問題となっていました。これらの罪に口が大いに関係しています。私たちは心と言葉を聖く保つよう、主に求めなければなりません。⑤金銭を追い求める(Ⅰテモテも6:9)金銭を愛して追い求めると、心に闇が入り込み喜びや勝利を失います。これらの背教の道に落ちている人がいるなら、神様の御声を聞いて従い、悔い改めて初めの行いに立ちかえりなさい。そうすれば、赦しがあり、勝利があります。
2024年2月25日日曜礼拝メッセージです。
「人間の罪と神の義」
ローマ3章22-25 創世記3:1-5,ルカ1:74.75
義とは何でしょうか? それは問題の解決です。しかし、その前に、問題について見てみましょう。23節に「すべての人は罪を犯して」とあります。周りを見てみると、人間の罪の結果である深刻な問題がたくさんあります。
戦争、政治スキャンダル、非倫理的なビジネス…しかし、実は、すべての人間が神の律法を破り、神に対して罪を犯す原因となるものを心に持っていることが根本的な問題です。では、罪とは何でしょうか? 罪=四+非(四つの矛盾)と書きます。この漢字が教えてくれる最初の罪の背景を見てみましょう。①創世記3:1「…園の木のどれからも食べてはならないと神は本当に言われたのですか。」②創世記3:3「…それに触れても行けない。…」③創世記3:4「…あなたがたは決して死にません。」④創世記3:5「…あなた方が神のようになって…」これらは皆真実ではありませんでした。世界中の人は、今日もエバのように悪魔の嘘に耳を傾け、神の律法を破り続けています。
①神の言葉を疑わせ、②神の言葉を曲げて引用し、③罪が即罰っせられることはないので心配せず罪を楽しんで…、④神のようにより賢く、よりクールになりますよ…人間は、悪魔の嘘、自分の嘘、社会の嘘を信じて正しくないことをし続けます。罪は私たちの個人的な生活に問題を引き起こすだけでなく、永遠に影響を与えるのです。そのままでは天国に入ることが出来ないのです。しかし、神は愛なので、その解決を与えて下さいました。その解決が「神の義」です。義=我(ギザギザにとがったのこぎり)+羊(美しいもの、形良きもの)と書きます。昔、いけにえの羊は傷や病気のない良い羊でなければなりませんでした。イエス様は神の子羊として、その体、心、霊も完全で罪一つ犯したことがありませんでした。そのイエス様は、人類の罪のいけにえとして十字架で死なれたのです。
人間の醜い罪を全てその身に負ってくださったので、私たちは神の義にあずかることが出来るのです。あなたもこの無償の賜物を受け取りませんか? イエス様は、あなたが罪から解放されるために、ご自分の全てを捧げてくださいました。
2024年2月18日日曜礼拝メッセージです。
「イエス様の素晴らしい恵みに感謝」
使徒の働き26章18節
「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』」
この御言葉を見ると、クリスチャンとはなんと幸いなものでしょう。
兄弟姉妹と共に主を賛美し、救いときよめの証を聞いて励まされ、主にある幸いな礼拝の時となりました。感謝します。
2024年2月11日日曜礼拝メッセージです。
「たがいに愛し合う」
ヨハネ15章12節、マタイ19章4-6節、エペソ5章33節
神様は、結婚をデザインされた方です。バレンタインデイの由来を知っていますか? 1750年頃、クラウディウスⅡがローマの皇帝だった時、戦争のために兵士を募集するのに苦労しました。そこで、皇帝は結婚自体を違法としたのです。バレンタイン司祭は、愛し合っている二人がクリスチャンであれば、結婚は許されるべき、結婚は神が定めた恒久的な制度なのだからと考え、結婚式を執り行い続けました。その結果、逮捕され、斬首刑が確定しました。言い伝えによると、彼は刑務所で看守の盲目の娘と恋に落ち、彼が彼女のために祈ると、彼女の視力は回復しました。そして、彼は処刑される直前に彼女に手紙を書き、「あなたのバレンタインより」と署名したのです。彼が処刑された日、それは270年2月14日。その日、彼は天に召されました。この愛のストーリーは、私たちに何を教えてくれるでしょうか? 1、結婚は大切です 神様が結婚を定め、それはまさに社会の基盤です。2、困難な時にも正しいことをする 全ての人を愛するのは簡単ではありません。あなたを苛立たせる人もいるでしょう。やる気のない人、感謝しない人、あなたを傷つける人もいるでしょう。しかし、バレンタインが正しいことを愛して行ったように、私たちは隣人を愛し、同僚を愛し、家族を愛し、配偶者を愛すべきです。周りを見回して…ここにいるすべての人を愛していますか? もしそうでなければ、愛に満ちた心を下さいと神様に求めて下さい。神は愛であり、あなたに十分な愛を与えることが出来ます。3、愛は最終的には憎しみに勝つ 私たちは、義務やストレス、失望、罪に満ちた世界に住んでいます。しかし、神を愛し、人を愛するよう、神様に求められています。憎まれている時、忙しい時、邪悪に囲まれている時も…。自分がしてもらいたいように相手にもする、これは愛の一つの定義ですが、もう一つ…相手と自分は違うことも覚えましょう。相手の望みと私の望み、相手の好みと私の好みは違うかもしれない。配偶者の好みを見つけ、愛をもってそれを行いましょう。神様は、私たちがまだ罪人だった時に私たちを愛してくださいました。十字架でいのちを捨てるほどに愛し、私たちに愛を示す方法を見せてくださいました。そして、最後に…愛を行動に移しましょう。
2024年2月4日日曜礼拝メッセージです。
「イエス様のように安息日を守ろう」
今日は、キリスト教の安息日について、イエス様がどのようにそれを保ったか、そして、私たちがどのように彼の模範に従うべきかを学びたいと思います。安息日は、クリスチャンの歩みにとって重要な部分であり、私たちと神様との関係に直接影響を与えます。私たちは、この日を神様が定めたように確信し、扱いたいと思います。
まず考えたいのは、イエス様が安息日の主であることです。
マタイ12:8「人の子は安息日の主です。」世界の初めから、神様はすべての被造物が7日目に休息し、創造主を礼拝することを望んでおられました。では、今私たちは、どのようにその日を聖く保ち、また、どのように休めばよいでしょうか? その日は、働いたり、売ったり買ったりする日ではなく、休息の日です。
(出エジプト20:9-10、ネヘミヤ13:15-18)パリサイ人たちは安息日を守ることに関して旧約聖書で決められていたこと以上に付け足し、新しい規則を加えていました。しかし、イエス様は、安息日に売り買いしない、働かないことなどはそのまま残しましたが、安息日に良いことをすることに関しては変えたことが分かります。安息日でも、病気を治したり、悪霊を追い出したり…。
その日に主を賛美しました。(詩篇92:1)
また、その日は、私の日ではなく、神様の日です。
(イザヤ58:13-14)イエス様も安息日には、神を敬い、会堂に行って御言葉を読み、御言葉を教えました。
(マタイ12:9、ルカ4:16、マルコ1:21,6:2)
その後、キリスト教の安息日は、土曜日から日曜日に変わりました。イエス様は、十字架で死んで日曜日によみがえりました。日曜日は勝利の日です。また、ペンテコステも日曜日でした。初期のクリスチャンたちは日曜日に集まり神様を礼拝し、聖餐を行いました。イエス様の模範と聖書の教えに倣って、日曜日を素晴らしい日、礼拝の日、休息の日、神様の日とするには何が必要でしょうか? 土曜日までに適切な準備をすることが不可欠です。給油、買い物、家事、庭の手入れなど。神様に従って、日曜日を百パーセント神の日にすれば、あなたは祝福を得ます。
2024年1月28日日曜礼拝メッセージです。
ギデオン協会からの報告と証
なぜ福音を伝えるのか?
➀人生においてもっとも重要なのは、神との関係
☞生涯を賭けて得た栄誉や成果は、
永遠にとってどれだけの意味があるのでしょうか?…
②永遠の世界は、永久に続く
☞「今、ここに生きている」と知っていながらも、
永遠の主に迎え入れられていないなら…」
③この良い知らせは、すべてを変える
☞人の心と人生を変えることのできる方に出会う手伝い
福音を伝える(分ち合う)理由
あなたに質問です❤
「あなたがどのようにしてキリストに出会ったか?」
※私に起こった事実 「誰かが私に話してくれました💓」
☞誰かがあなたの永遠を心配して、あなたの人生に歩み寄り、
あなたにイエス・キリストのご愛を紹介してくれた。 (事実)
何故、あなたは他の誰かにこの「良い知らせ」を
伝えないで居られましょうか?! あなたはその人の永遠について
十分な心配してあげていますか?!
※次はあなたの出番です💦 (決意)
☞あなたも伝道支援者として、
さらに個人伝道で、隣人をキリストの救いに導こう❤
マルコ16:15
全世界の出て行き、すべての造られた者に福音を伝えなさい。
2024年1月21日日曜礼拝メッセージです。
「いつも主にあって喜びなさい」
ピリピ4章4ー7節、3章1節
4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。
4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
3:1 最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。
これらの御言葉からショート・メッセージがあり、その後、兄弟姉妹の証がありました。心から主を賛美し、礼拝することが出来、感謝なひと時でした。
2024年1月14日日曜礼拝メッセージです。
「ダニエルの勝利の秘訣」ダニエル6:10-16
ダニエル1:8, 4:9, 6:3, マタイ3:11, Ⅱコリント9:8
ユダの王エホヤキムの治世に、ダニエル少年はバビロンに連れて行かれました。そして、彼がまだ非常に若い時に、おそらく20才にも満たない時、彼はバビロンの王ネブカドネツァルの夢を解き明かしました。彼は、バビロンで約70年を過ごし、神の恵みにより、神に忠実であり続けました。幾度も試練と誘惑にあいましたが、それでも諦めることなく、異教の神々に身を委ねることを拒みました。その秘訣は何だったでしょう。
1、神様に仕えることを決心していた バビロンについてすぐ、バアルに捧げられた肉とぶどう酒を勧められましたが、偶像に捧げられた食物で身を汚したくないと、野菜と水を求め、他の男子よりも健康であったため認められました。あなたは、どんな状況でも、また、結果かどうであれ、神の前に正しいことをする、と決心していますか? 2、彼は、深くて強い信念、確信を持っていた 私たちは常に変化していく世に住んでいます。何が正しいか、間違っているか、何が正常で、何が異常であるか、考え方が変わって行きます。しかし、ダニエルは、神の言葉と祈りの土台に固く立っていました。罪に妥協せず、神に従って死ぬことになるなら喜んで死ぬ覚悟がありました。一貫性を保ち、感情や社会に支配されませんでした。3、彼には聖なる神の霊がともにあった ダニエルは、邪悪な環境の中で、毎日神様に忠実であり続けることができましたが、その秘訣は、聖霊様の力でした。歴史を見てみると、二つのグループのクリスチャンがいることがわかります。イエス様を信じて信仰を持っているが、罪との戦いに負けることが多い。彼らは、神を愛しながらもこの世をも愛している。神の霊に満ちているとは言えません。もう一方のクリスチャンは、ある日、罪に陥ることに疲れ、戦いに疲れ、世俗的な影響に屈することにうんざりして、神様が全ての全てとなって下さるように祈り求めました。そして、聖霊と火のバプテスマを受け、自己中心や嫉妬など焼き尽くされ、愛、喜び、平安…などの御霊の実を受けました。あなたも聖霊に満たされる必要があります。
2024年1月3日 ロジャー・L・モイヤー兄と姉~の便りですです。
2024年1月3日
岩国におられる親愛なるミラー家族、そして、兄弟姉妹
イエス様の素晴らしい御名を賛美し、ご挨拶を送ります。
昨日、皆さんからの最高に素敵な贈り物が届きました―私たちは、あなたが私たちのためにまとめてくださった本が大好きです。このありがとうの気持ちを十分に表す何らかの方法を知っていたらいいのにと思います。あなた方の個人的なメッセージが書かれたすべてのページを読むと、あなた方の愛を感じました。それがあなた方の心からのものだと感じ、私たちの心はあふれるばかりの思いで温かくなりました。またすぐに皆さんのところに戻りたい気持ちになりました。
私たちは今でも、リバイバル集会の前から、その最中も、そして、その時から、神様が行って下さった素晴らしい御業に感謝しています。神様はそこにおられた、そして、人々の心と生活に働いておられたことは疑う余地のない事実です。神様が望んでおられることを受け入れたすべての人々に感謝しています。神様に仕えて行けばいくほど、ホーリネスの素晴らしい道は更に良くなっていきます。
私たちは続けてあなた方のために祈っています―そして、アメリカにいる兄弟姉妹にも加わって一緒に祈ってくれるようにお願いしています。神様は、あなた方を見捨てることはありません。
ミラー先生、姉妹、あなた方の忠実な働きと祈りに感謝します。あなたの献身が、神様がなさることに貢献したことは確かです。そして、教会に出席している皆さん、ありがとうございました。私たちは言い表せないほどあなた方を愛し、感謝しています。イエス様はもうすぐ来られます。そして、キリストの花嫁が迎えられる時、備えをするためにしてきたことの全てが報われます。
私たちはあなた方を愛しています。
収穫を祈りつつ