2025年1月12日 日曜礼拝メッセージです。

「大能の力によって強められなさい」

エペソ6:10-18

 ここにはクリスチャンの戦いという事が教えられています。ある人々は聖書の言葉を使って武力行使に走ってしまっている現実があります。しかし、今日の聖書の箇所にははっきりと「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」(12と言われています。クリスチャンたちが身につける武具とは、「腰には真理の帯」「胸には正義の胸当て」「足には平和の福音」「信仰の盾」「救いのかぶと」「御霊の剣、すなわち神の言葉」です。そして、今日読んだ御言葉の最後には「忍耐の限りを尽くして祈りなさい」と教えられています。

今日皆さんにお伝えしなければならないことは、現在の世間の流れの危険性について、そして、クリスチャンとして戦う必要があることについてです。その一つは、罪を容認してしまう危険性です。最近、ある小学生がこう言ったそうです「男同士でも結婚できるんだって」。それを聞いた時衝撃を受けました。このような考えは日本でも容認されてきています。しかし、神様は、ローマ1:2427にもあるように、容認しないと言っておられます。

また、私たちは洗脳の危険にもさらされています。「マインドコントロール」という言葉をご存知でしょう。ずっと同じことが教えられ、それが自分の考えとなり、当たり前となり、是非を問うこともなく行動となってしまう…。私たちの日常にもその危険性が高まってきていることにお気づきでしょうか。先に語った「罪の容認」にしても、私たちが日頃見聞きしているメディアを通して、「いけないと思っていたけどそうでもないんだ」「これでいいんだ」「あなたもそうしてみたら」…と洗脳されていく危険性。

クリスチャンは、黙示録に書かれている「666のことをご存知でしょう。それが獣の刻印であり、それがなければ売ることも買うこともできなくなる…そんな時はいつくるのか。すでにそうなりつつあると思います。

私たちは、日々何を見聞きするか、気をつけなければ、マインドコントロールされていき、罪を容認してしまう危険があります。もう一度神のみ言葉を読み、心に留めましょう。


2025年1月05日 日曜礼拝メッセージです。

「神の霊感による御言葉」 

Ⅱテモテ3:16.17

 神様はどうやって聖書を書いたのか疑問に思うかもしれません。神様はご自身の指で十戒を石に書きましたが、聖書の残りの部分は、様々な国に住む、様々な職種の40人の人を通して、1600年かけて書かれました。神様が何を書くべきかを導かれたので、聖書には間違いや矛盾がなく、66冊の小さな本を含んでいるにも関わらず、一つの本としてまとまっているのです。聖書は、最初は手で書き写されていき(写本)、1446年に印刷機が発明されてからは印刷され、これにより一般の人々が神の言葉を自分で読むことが出来るようになったのです。私たちは、聖書が重要な本であることを知っていますが、それが神様から与えられた神の言葉であると信じる理由は何でしょうか? 1、消え去ることがない マタイ24:35、マルコ13:31、ルカ21:33 無神論者、皇帝、独裁者たちが聖書を世界からなくそうと試みましたが、すべて失敗に終わりました。人がどんなに聖書を滅ぼそうとしても、神様は、神様の大切な言葉を守ってくださるのです。2、聖書中の預言が現実になっている 聖書の中の預言の多くはすでに実現しています。預言者エレミヤは、バビロンが破壊され、今後そこに人が住むことはないと預言し、その通りになっています…など。3、聖書の写本による保存

 

何百年もの間、聖書は手書きで書き写されてきましたが、間違うことなく、正しく書き写されていきました。タルムード学者(ユダヤ人筆記者)のグループは、単語、文字、点…細部に至るまで記憶から書くことは禁じられていて、全て直接写本を見て書き写さなければならない、など細かい規則を守って写本して行きました。私たちは聖書が間違いないと信じることが出来ます。4、写本の数 歴史的に有名な本でも、博物館に置かれている写本が6冊とか7冊、しかも、これらは原本ではなく、最初の本から作った写本で、原本が書かれてから千年余り経ってから写本が書かれています。しかし、聖書の写本は15万冊もあり、原本と写本のギャップはわずか二百から三百年です。5、私たちの心に語ってくださる 最も素晴らしいことは、聖書は生きている手紙であるという事です。神様は聖書を通して語ってくださいます。私たちの人生を導かれます。聖書を大切にしましょう。


2024年12月29日 日曜礼拝です。

2024年12月22日 日曜礼拝メッセージです。

「聖書における3つの最大の奇跡」

創世記1:1 イザヤ43:4 マタイ1:18-23 ヨハネ3:16

聖書を読んでみると、神様が人類のために行って下さった奇跡がたくさんあることが分かります。その中で、最大の奇跡が三つあります。

第一は、神様が無からすべてを創造されたという事実です。聖書の最初の言葉は、「はじめに神が天と地を創造された。」です。現代科学は、進化論だけでは宇宙や人類について説明しきれないことに気付き始めています。私たちは、偶然や間違いによって進化するには複雑すぎるのです。宇宙は非常に広大で、偶然に出来上がったとするには繊細でバランスがとれています。神様に創られた人間には、自由意志が与えられていますが、人類はその自由意志を用いて神様に背き、神の律法を破り、罪の深みに落ちました。

そこで、第二の奇跡が必要になったのです。それは、神の御子であるイエス様が天国から降りてきて、小さな人間の赤ちゃんとなり、33年間人間として生きることでした。神が人間の赤ちゃんとなってこの地上に生まれる、それは本当に大きな奇跡でした。このクリスマスの奇跡についてもっと詳しく知りたい場合は、ルカ2章を読んでみてください。イエス様はその当時の人々と共に生活し、人々を癒し、奇跡を行って養い、語り、助けましたが、それだけでは十分ではありませんでした。

 

第三の奇跡は、全ての世代と国の人々に適用されるものです。イエス様の時代の宗教指導者たちは、イエス様に嫉妬し、憎み、十字架につけて殺す計画を思いつきましたが、それもまた神様のご計画の一部でした。イエス様は、私たちの嘘、嫉妬、憎しみ、自己中心な思い、反逆、姦淫、更には殺人などの罪の罰を私たちの代わりにその身に負って、十字架で死んでくださったのです。それだけでなく、三日目によみがえり、今も生きて、私たちの祈りを聞いておられます。イエス様が世の救い主であり、あなたの罪のために死に、新しいいのちを与えるためによみがえったと信じるなら、あなたは罪の赦しと新しいいのちを体験できます。あなたは、このクリスマスをイエス様の愛と平和、喜びで祝うことが出来ます。


2024年12月15日 日曜礼拝メッセージです。

「愛? 憎しみ? どちらを選びますか?」

Ⅰヨハネ4:19-21,2:9-11、3:15、エペソ5:25,5:33、

ヨハネ8:34,36、   Ⅰヨハネ1:9、マタイ5:23-24、

エゼキエル36:25-27 

ここで見るように、「愛」の反対は「憎しみ」です。神様は、憎むことを選ぶ人々を盲目、嘘つき、殺人者と表現しています。神様にとって、白か黒か、だれかを愛するか、憎むかのどちらか…その中間はありません。

配偶者に対してはどうでしょうか? エペソ5:2533 私たちは、イエス様が教会を愛されたように妻を愛すべきです。妻のために犠牲を払うことを厭わず、妻のニーズを満たし、妻だけに目を向け続け、結婚の誓いを果たす。そして、妻は、夫を敬うべきです。言葉と態度で夫を励まし、引き上げ、尊敬を示す。いつも小言を言ったり、指摘するのではなく。配偶者のネガティブなことに焦点を当てがちですが、真の愛は、配偶者をほめることが出来る点に焦点を当てます。また、あなたはキリストにある兄弟姉妹を愛していますか?それとも、憎んでいますか? 周りを見回してみてください。あなたは、この一人ひとりを愛していますか?それとも、嫉妬、恨み、競争心、嫌悪感がありますか? 憎しみが心を占めていると、神様が入る余地がありません。神様は憎しみが占めている心にとどまることはできません。その憎しみにしがみつきますか、それとも、神様の助けによって手放しますか? 

 

地獄はサタンと悪霊たちのためにつくられました。サタンは非常に高慢で自分は神と同じくらいのものだと考えるようになり、天から落とされました。そして、サタンは神様に敵対し、神様が造った人間をも憎んで地獄に送るためにできる限りのことをしています。人が、神様の愛と赦しについて聞いても、兄弟を憎み、高慢になり、謝罪することを拒むなら、その人はまさに悪魔のようです。人は気付いていないと思いますが、それらを手放さないなら、地獄の鍵を握りしめているようなものです。もし、それが今のあなたの状態なら、あなたの罪を手放し、あなたを縛り付けている罪の鎖から解放してください、と神様に求めて下さい。神様は、あなたの心と人生に奇跡を行うことが出来ます。


2024年12月8日 福音丸記念礼拝メッセージです。

「愛はすべてを信じ、望み、すべてを耐え忍びます」

福音丸記念礼拝  Ⅰコリント134-8節、13

愛は試練に耐えます。愛は神の約束を信じ、神の愛に固く立ちます。イエス様の十字架は愛故でした。イエス様が十字架での恥と苦しみを耐え忍んだのは、私たちを愛し、罪から解放するためでした。救われ、きよめられるためでした。今日は、福音丸記念礼拝です。人々の魂と神の愛の故に大きな苦しみに耐えた方々を覚え、敬意を表したいと思います。私の祖父であるドン・ボーマンは、クリスチャンの家庭で育ちませんでしたが、大人になって海軍に入隊、19536月に救われ、その3ヶ月後にきよめられました。1954年、海軍の一員として岩国に向かう船の中で、メッセージをするように神様から呼びかけられた彼は、岩国に着くと、もうひとりのクリスチャンと一緒に日本人に福音を伝えました。20歳で除隊し、アイダホに帰り、設立したばかりの聖書宣教教会に加わり、グレース・ワトソンと結婚した後、牧師となりました。その間も日本のことを忘れたことはなく、1964年に、はっきりと日本への宣教師として神様からの召命を受けたのです。19654月、彼の家族は宣教師として日本に来て、家を借り、ホームチャーチをスタート…困難が多い中にも神様の助けがあり、人々が救われていきました。1967128日、ドン・ボーマン牧師夫妻と子どもたち4人(テレサちゃん、ゲイリーくん、ジョエルくん、ダニーくん)、藤岡勝兄、林杏子姉、ロバート・ハッチャー兄、ハーブ・クリスチャンソン兄はクリスマス集会を開くために阿多田島に向かいましたが、途中船の中に水が入って来て船は転覆、7名が天に召されました(9日)。

 

愛は「すべてを耐え」… 愛の故に、ボーマン夫妻は愛する人たちを失うという大きな重荷を背負いました。「すべてを信じ」…苦しみの中でも神を信じることをやめませんでした。「すべてを望み」…彼らは、天国というすばらしい希望を持っていました。ボーマン牧師夫妻は船の事故後も日本人に福音を伝え続けました。ドン・ボーマン師は今天国にいます。彼は忠実でしたが今はいない、もう人々に伝えることは出来ません。誰が彼の代わりになるのでしょうか? 誰がイエス様のことを話すのでしょうか


2024年12月1日 日曜礼拝メッセージです。

「愛は自分の利益を求めない」

Ⅰコリント131-8節、13節、イザヤ43:25

先週は5節の初めまでしか学ぶことが出来なかったので、今日は先週中断したところからこの学びを深めていきたいと思います。

 

「自分の利益を求めず」…神の愛に溢れている人は、自分のニーズより人のニーズを優先する方を選びます。夫と共に救世軍を創設したキャサリン・ブースは、メッセージを語り、祈り、与え、愛し、ロンドンのスラム街に住む人々の友となりました。13人の子どもを育てながら、困っている人のためにも服を縫い、たくさんの手紙を書き、たくさんの人を家に招きました。晩年に癌を患っても、自分の痛みではなく、どのように他の人を助けることが出来るか、愛することが出来るかを考えていました。私たちも自分自身のためだけでなく、イエス様と他の人々のために生きることが出来ますように。「苛立たず」…聖書は「怒っても罪を犯してはなりません」とも教えています。義憤、正しい怒り、罪に対しての怒りはあっても、その理由でその人を憎んだり軽蔑したりはしません。ストレスや疲れがたまってイライラすることがあっても、愛の心のある人は、怒りを激しくぶつけることは控え、神様の愛と平安で満たしてくださいと祈りますから、罪を犯さずに済みます。「人がした悪を心に留めず」…人の欠点を記録しない。数えたり、悪い方に結論付けたり、悪意があると想定しない。キリストにある兄弟姉妹を愛するためには、常に彼らのことを最善に考えることです。神の愛を持つ人は、自分に対して行われた過ちを赦し、忘れるよう最善を尽くします。イザヤ43:25 「不正を喜ばずに、真理を喜びます」…クリスチャンは、悪や邪悪を喜び祝いません。神を愛する人は、真理が説かれる時に心から喜び、感謝します。真理は受け入れやすい、聞きやすいことばかりではなく、時に私たちを不安にしたり不快にしたりもしますが、真理を受け入れて、愛することが出来ます。真の愛は、他の人を愛して相手にとっての最善を求める、他の人への怒りで燃えることはない、他の人の最善を考える、真実を喜ぶことを覚えましょう。


2024年11月24日 日曜礼拝メッセージです。

「愛は寛容であり、親切です」   コリント13章1-8節、13節

今日の箇所は、聖書の中で最も重要なトピックの一つです。

神様の愛(アガペーの愛)がなければ、私たちは今も罪の中にいたでしょう。神様の愛が私たちを救いました。

クリスチャン生活において、この神様の愛ほど必要なものはありません。この愛は、世界を変え、あなたとあなたの周りの人々を変えることが出来ます。

パウロは、どんなに才能があっても、どんなに勤勉でも、どんなに犠牲を払っていても、人々への愛、神の愛以外の理由で行っているなら、神の目には無益だと言っています。善を行う人の動機は何でしょうか? 見返りを求めている、良い人だと思われたい、社会に還元したい、世界をより良くしたい…これらは悪いことではなく、むしろ良いことですが、神の愛という非常に重要なものが欠けています。では、神の愛とは何でしょうか? 「愛は寛容であり、愛は親切です」「忍耐」と訳されているギリシャ語には、「長い心」つまり、人々の全ての弱点を通して苦しみながらも、それらよりも更に長く、神の御思いが最終的に勝利することです。「親切」は、日常的に表現される愛です。神の愛で満たされていると、立ち止まって、相手がどう感じるかを考えて優しく接することが出来ます。「愛は人をねたみません。神の愛が心にあると、人の成功を自分のことのように喜ぶことが出来ます。嫉妬は時間の無駄です。私の出来ないことを人はできる、自分は他の人が出来ないことが出来るかもしれない…私たちは皆キリストのからだ(手、耳、足、目…)です。「愛は自慢せず、高慢になりません」神と他の人への真の愛は、彼らを自分自身よりも高く引き揚げます。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず」完璧にマナーを守れなくても、神の規則と期待、人々の伝統と期待を尊重するはずです。神の愛を受け取る二つの方法は、聖霊様によって(ローマ5:5)、そして、神様の御言葉を読んで従うことによって(Ⅰヨハネ2:5)です。神様の愛を更に求めて祈りましょう。


2024年11月17日 日曜礼拝メッセージです。

「パウロの証」 使徒20:1724

 証とは何でしょうか? 救われていない人への証・目撃者となる  「公衆の前でも、家々でも、あますことなく、悔い改めについて、イエス様に対する信仰について証ししました」20,21節でパウロはこのように言っています。私たちは皆、イエス様が世の救い主である「良い知らせを伝えに行く」ように召されています。イエス様は、あなたを愛し、あなたの身代わりとなり十字架で死なれました。あなたが赦されて、敵をも赦すことが出来るようになるための道を造られました。そして、イエス様は三日目によみがえり、死をも征服されたので、死も恐れなくてよいのです。ストレス、仕事、苦難の真っただ中にいても深い平安と喜びを持つことが出来るのです。あなたはパウロのように証していますか? イエス様がしてくださったことを証していますか? 今もイエス様と共に居ますか? 他の人に分け与えることが出来る程、イエス様を十分に受けていますか?

教会への証 正直‥謙遜の限りを尽くし、涙を流しながら、試練を通りました」19節。謙遜、涙、試練など、人間である私たちは数々の戦いと弱さを持っています。それについて話しても良い、けれどそこにとどまってはいけません。個人的な説明責任・報告‥19節~21節には、パウロが神様のためにどんなことを行っているかが書いてあります。あなたが神様のために何をしているか伝えてください。神様があなたのために何をしてくださっているかも教えてください。神様があなたの人生でどのように働いていてくださるか、どのような事を語っておられるか、どのように導いておられるか、何を示してくださっているかを伝えて、神様を賛美してください。また、パウロは救いを強く確信していました。あなたが救いを確信していることを証しで伝えてください。「私は救われています」「きよめられています」「すべては祭壇にあります」「イエス様がわたしを愛していてくださることを知っています」「私は神様の光の中を歩んでいます」「イエス様は私の良き友です」「イエス様は私の魂を満足させてくださいます」「私は罪を赦され、天国への道を歩んでいます」…証してください。


2024年11月10日 日曜礼拝メッセージです。

「主はそこにおられる」

エゼキエル48:3547:21-23、Ⅰコリント1:27-28、マタイ1:22.23

罪深く、道徳的にも堕落し、各自が勝手に神々をイメージして礼拝するような国、カナンの地を裁くために、神様は、その当時小国であり弱々しかったイスラエルを用いられました。(Ⅰコリント1:27-29)ところが勝ち進み、カナンの地に安住したイスラエルは、油断し、神の恵みに甘え、それが当たり前かのように思うようになり、高慢となり、感謝もなくなり、出るのは不平、不満、愚痴。…信仰や礼拝、儀式などの宗教はちゃんとあったのですが、神の御心にかなうものではなく、やがては滅ぼされたカナン人よりも忌み嫌われる存在となったのでした。

 

 さて、今現在イスラエルは反対の声に耳もかさずガザ、西側にも進行しています。聖書に記されている再興されるイスラエルの姿は、現在のイスラエルが築こうとしている国家とは全く違います。(エゼキエル47:21-23)では、この預言の成就というのは、何を示しているのでしょうか? 理解の鍵となるのがこの最後の言葉「主はそこにおられる」です。この真理と同じ真理を表している新約聖書の言葉がマタイ1:22,23にあります。つまり、この預言は、十字架にかかられたイエス・キリストによって成就するものなのです。今のイスラエルは、今も頑なにこのイエスをキリスト(油注がれた王なるメシヤ)とは認めていませんから、イエス神が真に喜ばれるのは、悔いた砕かれた魂であり、神を愛するとともに、隣人を自分自身のように愛する信仰。敵のためにも祈り、愛を示すことが神の喜ばれることだ…と。様の教えに耳を傾けていません。彼らに信仰、宗教、儀式があっても、神の御心にかなうものではないのです。神が真に喜ばれるのは、砕かれた悔いた魂であり、神を愛するとともに、隣人を自分自身のように愛する信仰。敵のためにも祈り、愛を示すことが神の喜ばれることであるにもかかわらず…私たちの信仰はどうでしょうか? 罪の心は強情で自分を譲ることが出来ない、あわれです。私たちはこのような罪の恐ろしさを信じます。そして、御子イエスが十字架で尊い血潮を流して死んでくださり、罪の贖いを完成してくださったと信じます。イエス様は死なれただけでなく、三日目によみがえり、いのちへの希望の道を開いて下さったと信じます。そして、イエス様は天に昇り、聖霊が降りました。今やいつでも、どこでも、「神が私たちとともにおられる」「主はそこにおられる」のです。本当に素晴らしい、心から感謝です。


2024年11月3日 リバイバル日曜礼拝メッセージです。

礼拝

「私たちが他の人達への祝福となるように」

エゼキエル34:24-26、イザヤ43:2

 エゼキエルは預言者で、将来のビジョンを与えた。救い主イエス様が来られたら明るい将来がある、と。今も同じように、イエス様によって、暗い時代の中にあっても明るく輝く希望を示すことが出来る。悪魔はそうならないように働いていて、私たちが失望して賛美の歌が歌えないようにする。そうならないよう、私たちの将来を知っておられるイエス様に目を向けよう。

教会は、神様の祝福をいただくべき。クリスチャンは祝福を受けて、周りに祝福を与える者となることが出来る。私たちが神様に従うなら、神様の霊を受ける、という約束があり、平和をつくり、保つ者となる。まず自分自身が神様の祝福を十分に受けるなら、周りの人の祝福となることができる。

祝福をもたらす特徴(個性)…へりくだっている、忠実に神様の御心に従う。牧師や教師として召されていなくても、忠実な信徒の一人として教会の祝福となることができる。それぞれの個性に合った奉仕があり、神様の助けによって、祝福となる奉仕の場を見つけることが出来る。一つの奉仕の方法は、他の人のために祈ること。もう一つの方法は、人の話をゆっくり聞くこと。誰かを助けたいと思うなら、キーワードを探しながらその人の話を聞く、「魂を救う者は知恵深い」と御言葉にあるが、人の話を聞かないなら人を助けることも出来ない。あなたは聞き上手でしょうか? 聞いて、祈る。神様は、私たち全員を、他の人への祝福としたいのです。人生は一度だけ、イエス様の光を輝かせて、神様の栄光を表す者であれますように。

 

夕拝

「今立っているこの恵み」  ローマ5:1-5 


2024年10月27日 日曜礼拝メッセージです。

「兄弟を赦し、愛し、祝福する」      

ローマ12章10節、ローマ12:14-21、創世記37:3.4、37:28、39:7-9、45:4.5、創世記50:19-21、詩篇55:22

 お兄さんたちに酷いことをされても、奴隷となって仕えていた主人の奥さんに嘘をつかれて牢屋に入れられても、夢解きをして助けた人に忘れられても、いつでもどこでも神様に信頼し続け、赦し続け、忠実であったヨセフの生涯を通して語られました。あなたがたも、人に恨まれたり傷つけられたり、嘘をつかれたり、いじめられたりした経験があるでしょう…神様のお力によって、その相手を赦し、愛し、祝福しましょう。

11月1日(金) リバイバル集会 「良きサマリヤ人」 

ルカ10:25-37

 祭司もレビ人も、怪我をして倒れている人を見ても知らん顔をして通り過ぎて行きました。宗教だけでは足りないのです。しかし、一人のサマリヤ人はその人を助けようと近づき、手当てをし、宿屋まで運び、自分の財を使って助けました。このサマリヤ人は、イエス様を信じて、神の霊が留まっていたからです。キリストが人生の中心でないと彼のように「良き」人とはなれません。彼は私たちの良い模範です。私たちも、神の善良さを受けて、他の人を憐れむ心を持ち、助け、神の霊と力で人々を霊的に回復させ、祈りによって人々をイエス様の御許に運ぶ人となれますように。結果が見えなくても、忠実に神様に従う者であれますように。

11月2日(土)リバイバル集会

Ⅰテサロニケ13章 「あなたの信仰で不足しているもの」

 使徒17章にみられるように、パウロの第二伝道旅行の際、テサロニケの人々はイエス様を信じて救われ、変えられました。後に、そこに遣わされたテモテは、彼らが迫害にあってもなお信仰に留まっていることを伝えました。そして、「きよめ」について教える必要があることも。救われてしばらくすると、内にある肉欲に気付きます。その罪の性質からは赦しではなく、きよめられる必要があります。きよめは、神様のみ心なのです。