「御救いを楽しみ喜ぼう」 イザヤ25:1-9
25:1 【主】よ、あなたは私の神。私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、真実に成し遂げられました。
25:2 あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町から失せ、もう永久に建てられることはありません。
25:3 それゆえ、力強い民もあなたをほめたたえ、横暴な国々の都もあなたを恐れます。
25:4 あなたは弱っている者の砦、貧しい者の、苦しみのときの砦、嵐のときの避け所、暑さを避ける陰となられました。横暴な者たちの息は、壁に吹きつける嵐のようです。
25:5 砂漠の日照りのように、あなたは他国人の騒ぎを抑えられます。暑さが濃い雲の陰で鎮まるように、横暴な者たちの歌は鎮められます。
25:6 万軍の【主】は、この山の上で万民のために、脂の多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多い脂身とよくこされたぶどう酒の宴会を開かれる。
25:7 この山の上で、万民の上をおおうベールを、万国の上にかぶさる覆いを取り除き、
25:8 永久に死を?み込まれる。【神】である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。【主】がそう語られたのだ。
25:9 その日、人は言う。「見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。私たちを救ってくださる。この方こそ、私たちが待ち望んでいた【主】。その御救いを楽しみ喜ぼう。」
兄弟姉妹と共に心から主を賛美し、証し、全知全能の主をほめたたえました。ハレルヤ!!
「主の祈り」
マタイ6:9-13 エペソ4:32、詩篇66:18
弟子たちがイエス様に「祈りを教えてください」と言ったとき、イエス様がこのような祈りの手本を教えてくださいました。全く同じ言葉で祈らなくても、何をどのように祈ればいいかを知ることが出来ます。
「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。」これはクリスチャンの祈りです。私たちは神の子とされたので、神様は私たちのお父さんですから、幼い子供のように行けばよいのです。そして、神様のきよさを賛美し、皆がそのような神様をほめたたえるように、と賛美します。
「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」すべてのクリスチャンの願いは、私たちの周りが小さな天国のようになることです。この祈りの部分には、他の人のためのとりなしが含まれていると思います。あなたは失われている人のためにとりなしていますか?
「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」これは祈りの最も短い部分です。「たくさんお金を下さい。生活を楽にしてください。素敵なものを与えて下さい…」ではなく、「今日のパンを与えて下さい。」私たちが自分の役割を果たし、必要な時に神様に頼るなら、神様は私たちの霊的、肉体的必要を満たしてくださいます。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」これは、私たちの欠点、弱さ、失敗について言っています。神様は弱い私たちを知りつつ憐れんでくださっていますから、私たちも他の人の弱さや欠点を赦すことを学びましょう。ルカでは「罪」とありますが、「罪」とは、意図的に神様の律法を破ることです。(詩篇22:18)罪があると祈りはきかれませんから、謙虚になり、罪を告白して悔い改めましょう。神様は恵み深く赦してくださいます。
「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」
「国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」
主の祈りは、賛美で始まり、賛美で終わります。神様は私たちの賛美を受けるにふさわしいお方です!
「権力と能力によらず、主の霊によって」
ゼカリヤ4章1-10節、へブル10:25
長い間バビロンに捕囚になっていたイスラエルでしたが、ゼルバベルが4万2千人のユダヤ人を連れてエルサレムに戻り、崩れていた神殿の再建に取り掛かりました。しかし、数々の問題が起きて工事は中断され、人々はがっかりしていました。そんな時、神様がゼカリヤにこの幻(今日の箇所)を与えました。
「燭台」は教会を表しています。教会は私たちにとってなくてはならない恵みの場所です。教会は、私たちの魂への光と信徒の交わりを与え、信仰を強めてくれる場所です。「教会に行く必要はない。家で祈り、聖書を読める。そうすれば、責任を負うこともない。」とささやいて、サタンはあなたを孤立させようとします。しかし、集まることを止めてはいけません。(へブル10:25)
「ともしび」は教会に集まる人々を表しています。彼らは世の光です。神様は、私たちの心に愛、喜び、平安、親切、忠実さの温かい灯をともしました。その灯が消えないように気をつけましょう。
「管と枝」は、神様が私たちに語りかけ、私たちを通して働くための方法を意味します。神様は、私たちが天国に行きつくまでの助けを備えてくださいました。御言葉、説教(メッセージ)、祈り、聖霊の証、聖書によって形成された良心、奉仕における神の臨在など。
「2本のオリーブの木」は、継続的に油を供給してくれる生きた木であり、新鮮で絶え間ない神からの油注ぎを意味しています。私たちは神様なしでは何もできません。
ゼルバベルはキュロスの命により神殿の工事を開始しましたが、サマリア人の反対により工事は中断しました。16年間工事は中断したままでしたが、預言者ハガイとゼカリヤは工事の再開を促し、神様は彼らとともにおられて、ダレイオス王がキュロスの命令を更新して、神殿再建に必要な金などを提供しました。神様の御業です。
私たちも神様の油注ぎと助けによってできます。私たちの働きが何であれ、支配しておられる神様を覚え、神様の御力により頼みましょう。
「イエスを信じる者から弟子になる」
ルカ9章57-62節・ルカ10:25-28(29-37)
9:57 彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
9:58 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
9:59 イエスは別の人に、「わたしに従って来なさい」と言われた。しかし、その人は言った。「まず行って、父を葬ることをお許しください。」
9:60 イエスは彼に言われた。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
9:61 また、別の人が言った。「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」
9:62 すると、イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」40:1 私は切に【主】を待ち望んだ。主は私に耳を傾け助けを求める叫びを聞いてくださった。
10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」40:2 滅びの穴から泥沼から主は私を引き上げてくださった。私の足を巌に立たせ私の歩みを確かにされた。
「私は会衆の中で義を喜び知らせます」 詩篇40篇1-10節
40:1 私は切に【主】を待ち望んだ。主は私に耳を傾け助けを求める叫びを聞いてくださった。
40:2 滅びの穴から泥沼から主は私を引き上げてくださった。私の足を巌に立たせ私の歩みを確かにされた。
40:3 主はこの口に授けてくださった。新しい歌を私たちの神への賛美を。多くの者は見て恐れ【主】に信頼するだろう。
40:4 幸いなことよ【主】に信頼を置き高ぶる者や偽りに傾く者たちの方を向かない人。
40:5 わが神【主】よなんと多いことでしょう。あなたがなさった奇しいみわざと私たちへの計らいは。あなたに並ぶ者はありません。語ろうとしても告げようとしてもそれはあまりに多くて数えきれません。
40:6 あなたはいけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたはお求めになりませんでした。
40:7 そのとき私は申し上げました。「今私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。
40:8 わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。」
40:9 私は大いなる会衆の中で義を喜び知らせます。ご覧ください。私は唇を押さえません。【主】よあなたはご存じです。
40:10 私はあなたの義を心の中におおい隠さずあなたの真実とあなたの救いを言い表します。私はあなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しません。
証と賛美の集会、なんと幸いな集いでしょう。神様の真実と救いを言い表し、ご栄光を主にお返ししました。
「心を潤す水」
ヨハネ4章5-26節
その当時ユダヤ人はサマリアを避けて旅をしていましたが、イエス様はわざわざサマリアを通りました。そして、サマリアの町の井戸の傍らに座っておられた時、昼の12時、暑い盛りに一人の女の人が人目を避けるように水を汲みに来て、イエス様はその女の人に声を掛けました。
10節イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」イエス様は、私たち誰もが必要としている「生ける水」を持っておられるのです。イエス様は、それをみんなに分けてあげたいと思っておられるのに多くの人は間違ったところでそれを探しています。その女の人もなかなかイエス様の言っておられることを理解できませんでした。13,14節 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」これは、すべてのクリスチャンの中にある霊的な泉について言っています。私たちがイエス様との関係にとどまる時心の奥底から神の生ける水が湧き出続けます。彼女も自分の創造主と救い主を知る必要がありました。ここで、イエス様は彼女の問題の核心に触れました。「行ってあなたの夫をここに呼んできなさい。」イエス様は、彼女を裁くためではなく、深い人生の問題を引き起こしていた彼女の心のうちを洗い流すために来られ、そのためにこの質問をしたのです。イエス様が霊的なことについて話していることに気付いた女の人は、自分の宗教について語り始めます。イエス様は、聖なる山や建物ではない、真の神、創造主、全地の神をどこででも礼拝できる、だれでも心の中で神様を呼び求めるなら、天のお父様は聞いてくださることを教えました。イエス様は救い主です。そして、あなたの魂に生ける水を注ぎたいのです。あなたの心を綺麗にして、心の渇きを満たす事がお出来になります。今朝でも、あなたが求めるなら、イエス様はあなたの必要を満たしてくださいます。
「生きている信仰か、死んでいる信仰か」
エペソ2:1-10, ルカ6:44-46, 黙示録3:1.2, ヤコブ4:6-8
イエス様を信じるとはどういうことでしょうか?信仰とは何でしょうか?イエス様を信じることは多くの人が理解しているよりもはるかに深いことです。まず、霊的に新しく生まれるとは、私たちの行いによらず、信仰によるものです。献金をして、たくさん祈って、人に親切にし、宗教に熱心でも、これらによって救われることはできません。神様に対して罪を犯していることを認めて、イエス様が神の御子であると信じ、イエス様の血潮によってのみ罪の赦しを得ることが出来ると信じて、イエス様が十字架で死んで三日目によみがえられた、今も生きておられると信じて赦しを求めると、約束通りに救われるのです。
しかし、残念なのは、多くの人が救いに至る信仰にないことです。一度は信じたのに今は死んでいる、あるいは、最初から心を尽くして真の信仰を持っていなかった…。私たちの信仰が生きているか、救いに至る信仰かどうか、どうやって知ることが出来るでしょうか?(ルカ6:44-46 エペソ2:10)イエス様を礼拝し、イエス様を第一としているか、罪を憎み、再び罪に戻りたくないと思っているか、イエス様に祈り、イエス様と共に歩み、死をも恐れていないか、イエス様に従っているか?
死んでいる信仰とは、(黙示録3:1,2)死んでいる信仰は成長しません…10年前と同じです。真の信仰は生きた信仰であり、成長し成熟します。長年「信仰」を持っていたが成長していない、霊的な動きがない場合、それは死んだ信仰です。名目上はクリスチャンだが、日常で実践していない。死んだ信仰は、毎日キリストにとどまる代わりに、「私は信じた」バプテスマを受けた、教会員になったといった過去の経験に信頼を置きます。
あなたの信仰はどうですか?死んだ信仰ですか?それとも、毎日生きて成長していますか?(ヤコブ4:6,7)死んだ信仰の解決策は、イエス・キリストです。イエス様に近づきなさい!とどまりなさい!神の御言葉を読み、祈りに時間を費やし、聖霊様の満たしを求めましょう。
「神様からの尊いいのち」
創世記2:7、へブル9:27、イザヤ43:4、ヨハネ3:16、ヨハネ14:6
創 2:7 神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
ヘブル 9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。
ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
7月28日(金)から7月30日(日)まで、夏季学校が開かれました。
・神様の愛と力を知ること ・自然について学びながら神様と出会うこと ・すべてのものは偶然にできたのではなく、神様が創造されたことを知ること ・人間は特別な存在であることを知ること ・罪によって神様との関係がダメになったので、イエス様がその関係を修復するために十字架にかかり神様の愛を示してくださったことを知り、信じて神様の子どもになるよう…引き続き子どもたちのために祈りましょう。
「聖なる教会」 エペソ5章25-27節、Ⅰテサロニケ4章7節
岩国聖書宣教教会がどのような教会であるかお話ししてみましょう。
聖書宣教教会は、聖なる教会です。聖なる教会は、使徒行伝に記されているペンテコステの日に始まりました。
聖なる教会として始まった教会は、メソジスト教会、救世軍、自由メソジスト、ナザレン教会などです。
・私たちは、聖霊のバプテスマを受けてまったく罪から解放されることが出来ると信じています。
・心の中の罪の性質がキリストと共に十字架につけられ,義のしもべとなることが出来ると信じています。
・二つの恵みの働きを信じています。①神様があなたの罪の行為を赦し、あなたを神の子としてくださる時 ②あなたが全てを神に委ね、神があなたの内に完全に住むことが出来るように自己に死ぬ時、聖霊はあなたの心をきよめ、内に住んで下さいます。
・クリスチャンは、神と人の目に聖く、非難されるところのないものである、私たちは自分自身をこの世の汚れから守る必要があると信じます。
・神が愛するものを愛し、神が憎むものを憎むように、神の全き愛で満たされる必要があると信じます。
・人がきよめられている証拠として未知の言葉(言語でない音)で話さなければならないとは信じていません。
・神様のお言葉に意図的に従わないなら背教し、恵みから落ちることが可能であると信じています。
その他、聖なる教会の者がすること、しないことが具体的に示されました。
また、教団設立当初のすばらしい証しについても語られました。
「イエス様によって勝利」 Ⅰコリント15章1-4、55-58節
15:1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
15:2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
この日は、賛美と証の礼拝、と言うことで、兄弟姉妹からの特別賛美や証をもって心から主を礼拝しました。
聖霊様のご臨在を感じる幸いな礼拝の時を持つことが出来ました。
主を賛美します!
「罪に対して死に、聖霊によって歩む」
ガラテヤ5章16-25節Ⅰペテロ1:16, ガラテヤ5:17, ローマ6:6, ガラテヤ2:19, 使徒15:8.9, ユダ1:24
コリー・テン・ブームは著書の中に、救われた5分後に息を引き取ったユダヤ人男性について書いていました。彼は、人生の最後の数分で主イエスを救い主と信じて、信仰によって、救いの門をくぐり、すぐに天国に導き入れられました。…しかし、私たちは、すでにイエス様を信じて救いの門をくぐりましたが、まだ天国にはたどり着いていない…どの方向に行けばいい?どのように進んで行けば…。神様はクリスチャンがきよくなることを望んでおられます。神様がそのためにどんな備えをしてくださったか学んでみましょう。①神様の基準は私たちがきよくなることです Ⅰペテロ1:16、ヨハネ8:11、Ⅰコリント15:35、へブル12:14 まず私たちは、罪と人間の弱さの違いを知る必要があります。人間の弱さは、動機は純粋だが行動が間違っている。罪は、神様の戒めを分かっていながら意図的に違反することです。罪は天国には入れず、子羊の血で洗われ、きよめられなければなりません。②クリスチャンの悩みは罪(肉と御霊の戦い)です ガラテヤ5:17 聖書には、肉と御霊の間で苦しむクリスチャンの例がたくさんでてきます。イエス様を否定したペテロ、イエス様の復活を信じられなかったトマス、天から火を下して敵を滅ぼしましょうかと言ったヤコブとヨハネ。本当に私はみじめな人間ですと告白したパウロ…。クリスチャンが、絶えず悔い改め、失敗を繰り返し、浮き沈みの激しい、罪に対する真の勝利がない事にうんざりだ、というところに来た時
③罪に死に、自己中心に死んで、聖霊様に満たされ、罪に対する真の勝利を得ることができる(ローマ6:6) 古い人がキリストと共に十字架につけられ、もはや罪の奴隷でなくなることができるのです。ペンテコステの後、聖霊様がクリスチャンをきよめて満たした時、彼らは変えられました。ペテロは人を恐れず大胆に福音を語る者となり、トマスはイエス様のためにいのちを捧げました。ヨハネは愛の使徒に変えられました。神様は、私たちが罪に勝利し、神の愛で満たされて、光のうちを歩むのを助けてくださいます。
「キリストの者の愛」 Ⅰコリント13章13節
ルカ6:27-36, ヤコブ1:27
「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」Ⅰコリント13章13節
今日のルカの箇所を読むと、イエス様が弟子たちに、互いに愛し合い、敵をも愛して、自分にしてもらいたいように人にもしなさい、と教えておられます。クリスチャンとクリスチャンでない人の違いの一つは、敵をも愛する愛です。礼儀正しいだけでなく、義務からでもなく、敵をも愛して見返りを求めずに求める者に与える。初期のキリスト教が急速に成長した要因は、クリスチャンが愛に溢れていたからです。自分たちの中のやもめや孤児、困っている人に優しく世話をしただけでなく、異教の隣人にも同様にしました。
クリスチャンの愛の三つの表現を見てみましょう。①クリスチャンは寛大です ルカ6:30 使徒4章には、裕福な人は土地を売って貧しい人に分けたり、持ち物も分け合っていたことが記されています。使徒9章に出てくるドルカスは貧しい人ややもめに服を縫ってあげていました。私たちの教団の総理だったスペナサー・ジョンソン師は、訪問先の国や地域で、自分の服や靴を貧しい人にあげて、靴を履いていない人を見て可哀そうに思い自分がはいていた靴まであげて、裸足で帰国したこともありました。
②クリスチャンは敵をも愛します ニューギニアでの戦争中、負傷したアメリカ人兵士がもう駄目だと思ったとき、4人の日本兵が彼をそっと安全な場所に移してくれました。彼らはクリスチャンだったのです。
③クリスチャンは弱い者を助けます ヤコブ1:27「父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。」クリスチャンは、ホームレス、貧しい人、孤独な人を愛します。クリスチャンの兄弟姉妹を愛し、敵をも愛し、困っている人を愛する…このような愛は神様からのみ与えられます。神様に求めましょう。イエス様の模範に倣い、しもべとなり、愛しましょう。
「ダビデ王の背信」 Ⅰコリント10章12節
「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」
Ⅱサムエル11:1.2 詩篇38:3.4 51:1-7 箴言28:13 エレミヤ3:21.22 ホセア14:4
ダビデはイスラエルで最も偉大な王様でした。彼は少年の時に王として任命され、預言者サムエルによって油注がれました。羊飼いだった彼は、信仰深く勇敢に羊を守って熊ヤライオンと戦いました。竪琴を弾き、当時のサウロ王の気を静めました。巨人ゴリアテと戦って主にあって勝利しました。サウロ王に命を狙われていた時にも、王を討ち取るチャンスを拒んでゆるしました。サウロ王の親戚メフィボシェテを養い、30歳で王となってその後40年イスラエルを治めました。少年の時から主を愛し、信仰を持ち、神様の奇跡を体験し、王となっても心から神様を愛し仕えていました。誰の目にも、ダビデは百パーセント神の人でした。しかし、この地上に生きている限り、だれでも信仰を保たなければなりません。霊的に成長し続け、神様に近づいて行かなければ、霊的に後退していきます。
すべてがうまくいっている時が最も危険な時でもあります。サタンは、リラックスして霊的に不注意になっている人を狙います。ダビデは、王様になって物事が順調に進んでいた時、皆が戦いに出ていたのに自分は家に残ってくつろいでいました。誘惑にあっても逃げれば、罪を犯さずに済みます。しかし、ダビデは誘惑のうちにとどまり続け、ついに誘惑に陥りました。美しい女性が水浴びしているのを見て、見続けて、招き入れ、罪を犯しました。その上、彼女の夫が死ぬように仕向けたのです。それから約一年間、神様との交わりはなく、暗く、救いの喜びもない、神様への愛も礼拝もなく、霊的ないのちがない…、彼の罪が神様との関係を壊したのです。その後、勇敢な預言者ナタンが神様から遣わされて、ダビデは自分の罪を認めて悔い改めました。箴言28:13「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。」あなたはどうですか?救いの喜びを失っていますか?神様に対して罪を犯しましたか?神様はあなたを愛しておられて、あなたを暗闇から光へ引き出してあげたいと思っておられます。
「和合して 共に暮らすが 幸いぞ」 詩篇133篇
この詩篇の中心的なメッセージは「兄弟たちが一つになって共に生きることは、何という幸せ、何という楽しさだ…主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたから…だ」といえるのではないでしょうか。兄弟たちが、いいえ姉妹たちも一つになって共に生きていられたら本当に祝福なのです。神様はそのことを切に望んでおられます。またそのことは別に教会だけでなく、家庭でも同じ、職場でも同じ、学校でも同じことです。「みんな一つになって共に生きること…そこに幸せがある、楽しさがある」のではないでしょうか。そしてこのことは別にクリスチャンだけの願いではなく、そうでない世間一般の方々も同じ願いだと思います。…なのに、なぜできなのか?…そもそも教会でよく語られている「救い」とか「きよめ」「リバイバル」というものはそれを実現させるために語られ、勧められているものです。口喧嘩、陰口、罵り、憤り、党派心…そういう罪が生じてしまうと、教会の中も、家庭でも、職場でもギスギス、ケンケンしてしまいますね。そうなると「とこしえのいのちの祝福は」教会からも、家庭からも、職場からもなくなってしまうのです。「救い」「きよめ」はそこから罪に落ちた人を回復させ、リバイバルさせるものなのです。イエス様は教えられました。「人のことをとやかく言う人、そう、他人の目の塵をとやかく言っているあなたの目には、大きな「梁」があるではないか…まず自分の目の中の梁を取り除きなさい。そうしたら人の目の塵を上手に取ってあげることが出来るよ」…と。兄弟姉妹、あなた方一人一人が「カギとなる人」なのです。「とこしえに至る幸せ、喜び」があなたを通して、家庭や職場に、そして教会にもたらされますように切に祈っています。ゴールは「一つになって共に生きること、それを幸せ、楽しさと見」そこに「とこしえのいのちの祝福」を見いだすことです。
ここで歌を詠みました
「和合して 共に暮らすが 幸いぞ とわのいのちを ここに見出す」
「赦されたので赦しましょう」 マタイ6章14.15節
へブル10:17、使徒7:59.60、エペソ1:19.20
私たち自身の心を見てみましょう。私たちは人をゆるしましたか? 聖書は、イエス様が私たちをゆるしてくださったように、他の人をゆるさなければならないと教えています。「許す」…許可するが心の中では悪い感情を持っているかもしれない 「赦す」…クリスチャンの真の赦しは、心からのもので、他の人に対する悪い感情を抱かない。こちらが聖書で教えられている赦しです。イエス様が、ローマ兵に残酷に鞭打たれ、体全体から血を流し、今まさに死に直面していた時、驚くべき言葉を発せられました。(ルカ 23:34 )「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」神様は人が罪を犯すことを許して(許可して)おられません。しかし、背いて罪を犯した者が求めて主のみもとに行く時、神様は私たちを赦すことを選んでくださいます。イエスの血は私たちの罪を覆っています。そして、私たちが犯した罪を忘れてくださいます。思い起こすこともないのです。あなたはどうですか? 誰にも知られたくない秘密を他の人に言われた、子どもの時にクラスメイトにいじめられた、親が良くしてくれなかった、職場で上司に不当な扱いをされた…など、心から赦していますか? 私たちは自分の力で赦すことは出来ませんが、出来ないことを神様が命じることは決してありません。ステパノは自分を石で打ち殺そうとする人を赦して、彼らのために祈りました。また、時に私たちは自分自身を赦すことが出来ません。C.S.ルイスは、「神が私たちを赦したのに、私たちが自分を赦さないなら、私たちは神よりも高い位に自分の身を置いている。」と言いました。主にあって赦しましょう。では、いつ、何度まで赦すべきでしょうか? 私たちは毎日赦しと愛の態度を持つべきです。神様の助けと恵みによって、私たちに間違ったことをした人々を赦す、と前もって心を定めましょう。赦さないなら、自分自身が傷つくだけです。悪い気持ちを手放して、主に委ねましょう。神様はあなたが赦せるように助けてくださいます。
「自然を見て神様の愛が分かる」 詩篇19章1-4節 ヤコブ1:17
赤ちゃんが生まれる前に、赤ちゃんのために部屋や服など必要なものを準備するように、神様は、私たち人間のためにすべてを備えてから人間を創り、必要の全てが整った場所に住むようにして下さいました。不信仰な世界は、この壮大な世界がどのようにできたかを説明するのにビッグバンしか思いつきませんでしたが、その理論は答よりもはるかに多くの質問を生み出すだけです。私たちが心を開いて研究してみると、非常に知的で愛情深い創造主の証拠がたくさんあります。アダムが罪を犯した時、人間は堕落し、この世界も堕落しましたが、それでも、神様の愛が自然を通して私たちに表されています。①神は私たちに命を与えて下さった。私たちには、知性、感情、創造性があります。これらはみな神様からの賜物です。②神はいのちあふれる地球を与えて下さった。こんな惑星は他にありません。③神は水を与えて下さった。私たちは水を必要としており、地球の70%は水で覆われています。④神はいろんな種類の花を創られた。私たちを楽しませるために。⑤神は私たちの食物としていろいろな植物を与えて下さった。⑥神は私たちに食べられる海の魚を与えて下さった。海は美しいだけでなく、私たちに必要な食べ物を提供します。⑦神はたくさんの種類の動物を与えて下さった。私たちの楽しみのため、また食物として。⑧神は木を与えて下さった。木々は光合成して酸素をつくってくれて、家を建てる材料として、暑い日の木陰を提供し、紅葉の美しさで楽しませてくれます。⑨神は月と太陽を与えて下さった。月は美しさと光、地球のバランスのためにあり、四季を巡らせてくれます。太陽と月の引力は地球を回転させ、太陽を一周させます。太陽は、私たちに暖かさと光を与えてくれます。⑩神は山を与えて下さっています。山はとても大きくて、昔からあり、とても美しく、動かないので、山を見ると動かず変わらない偉大な神様を思うことが出来ます。ヤコブ 1:17 すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。