「主に向かって賛美した」 Ⅱ歴代誌5章1.2. 11-14節
5:1 こうして、ソロモンが【主】の宮のためにしたすべての工事が完了した。ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の用具類を運び入れ、神の宮の宝物倉に納めた。
5:2 それからソロモンは、イスラエルの長老たち、および、イスラエルの部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムに召集した。ダビデの町シオンから【主】の契約の箱を運び上げるためであった。
5:11 祭司たちが聖所から出て来たときのことである。列席したすべての祭司たちは、務めの組分けにかかわらず自らを聖別していた。
5:12 また、歌い手であるレビ人全員、すなわち、アサフ、ヘマン、エドトン、および彼らの子たちや兄弟たちも、亜麻布を身にまとい、シンバル、琴および竪琴を手にして祭壇の東側に立ち、百二十人の祭司たちも彼らとともにラッパを吹き鳴らしていた。
5:13 ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、【主】を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルと様々な楽器を奏でて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と【主】に向かって賛美した。そのとき、雲がその宮、すなわち【主】の宮に満ちた。
5:14 祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。【主】の栄光が神の宮に満ちたからである。」
民たちが楽器を鳴らし、歌声を響かせて賛美した時、主の栄光が神の宮に満ちました。
私たちも、この日、ショートメッセージの後、楽器をもって、歌声で主を賛美し、主がなしてくださった御業を思い起こして証ししました。そして、素晴らしい神様のご臨在を感じ、神様のご栄光が表されました。主を賛美します!
「主の恵みはあなたに十分である」
Ⅱコリント12章7-10節 詩篇23:4
パウロは強いクリスチャンでした。最初はクリスチャンを迫害していましたが、ダマスコに向かう途中イエス様に出会って変えられ、主を愛し福音を宣ベ伝えるために人生を捧げました。彼は、たくさんの人を救いに導き、多くの教会をスタートし、賢くて賜物に恵まれて、新約聖書のおよそ半分を書きました。うぬぼれて自分の力でできると考えてしまってもおかしくありませんが、神様の憐れみによって肉体に一つのとげを与えられました。その試練によって彼はへりくだり、信仰は大きくなり、神様により信頼する者、神様の近くにいて神様のみ力を強く感じる者であり続けることが出来たのです。起きてくる全てのこと、病気、敵、金銭的困難、職場での問題、その全ては、理由があってのことなのだと気づきました。それらが全然なければ危険であると…祈りが少なくなり、天国への思いは薄れ、神様との関係も遠くなってしまう危険があります。問題を抱えている人に共感することが難しくなり、神様の恵み、憐れみ、力の深みを知ることがないでしょう。自分で何でもできると思い神様を忘れてしまうかもしれません。神様の知恵によって、パウロにはたくさんの困難が与えられました。弱さ、侮辱、苦悩、迫害、難船…しかし、彼が仕えている神様は大きく、強く、全ての問題課題に勝る方であることを知りました。あなたは弱いですか?神様は力を与えて下さいます。試練にあっていますか? 神様は恵みを与えて下さいます。神様は、モーセを40年間荒野で訓練し、イスラエルの柔和な指導者としました。甘やかされていた小さな少年ヨセフを一国の賢いリーダーに変えました。ずる賢かったヤコブは、神様に打たれて足を引きずるようになり、神様により頼む者、イスラエルの12部族の父となりました。神様の知恵は、試練や誘惑、困難を許し、私たちがもっとイエス様に似た者となるように導き、神様により頼む者となって神様の力を体験するようにしてくださいます。様々な困難に直面するとき神様に信頼しましょう。それらは、あなたの人生に対する神様のみ心を満たすために必要なものかもしれません。
「光があるうちに…」 ヨハネ12章27-41節
聖書の中には、読むのに躓きになるというか、理解不能と思えるような箇所がいくつかありますが、今日の箇所にもその一つがありますね。(39,40)神様が私たちを頑なにしておられるの?どういうこと? ここで言われている「光」とはイエス様のことです。(ヨハネ8:12、9:5)光が当たると「紙粘土」は固くなり、「油粘土」は柔らかくなります。それと同じように、
神様が光で照らせば照らすほど、恵みをもって近づこうとすれば近づくほど、また笑顔で近づけば近づくほど、神様を、イエス様を信じ救われ、愛する人たちは、柔らかく(嬉しく、憩いをえるように)なりますが、信じず、反抗し、自分の道に固守する人たちは、固く(いや、それ以上はもういい、頼むから離れてくれと言うようなことに)なってしまうのです。
1、「光はあなたがたの間にあります。闇があなたがを襲うことがないように、あなた方は光があるうちに歩きなさい」
ここを読むとき、光はイエス様であるとともに、「チャンス」「恵み」「あわれみ」とも理解しながら読んでみてください。
2、「あなた方は光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません」
自分の心の向くまま、欲するままに生きていたら、自分がどこに行くのかわからなくなりますよ。
3、「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい」
人の人生ははかないものですよ。(詩篇90:10)イエス様を信じてあなたも光の子どもとなって下さい。そして、光をもっともっと放てるものになることを願い、求めるようにしてください。(マタイ5:14-16)
最後にイエス様の模範を持て見ましょう。(27)イエス様は自分の願うようにではなく天のお父様のみ心を行われました。私たちも自分の気持ちや願いを優先する者でなく、神様のみ心を行う者でありましょう。光がある今、光のうちを歩みましょう。「心の一新によって自分を変えなさい」とローマ書にもあります。あなたや私もイエス様のように前進して行きましょう。そうすれば祝福されます。
「良い牧者と失われた羊」
ヨハネ10章9-11節・ルカ15:1-7. イザヤ53:6. ルカ19:10
2月にトルコとシリアで大きな地震があり、4万5千人以上の方が亡くなりました。世界中から救助隊が来て、地震から10日過ぎて人を助け出すことが出来た時には大きな喜びが広がりました。救助隊が生き残っている人を探して助け出すように、神様は失われている羊を探しておられます。聖書は、全ての人は神様から離れて迷っていると明言しています。さまよっている羊の危険性 人は神様に頼らずに自分で何とかしようとしますが、私たちは神様に創られ、実は毎日神様の力によって生かされているのです。そうであるのに、羊が自分でよりおいしい草地を見つけようとするように、人は神様のみ守りとお世話から迷い出ます。クリスチャンであってもなくても、病気や金銭の問題、家族間の問題などに直面します。そんな時、イエス様は羊飼いのように私たちを助け、守り、必要を備えてくださるのです。しかし、迷い出ている羊はどうなるでしょうか?羊飼いの守りから遠く離れています。お酒におぼれたり、パチンコで気を紛らわせたり、恨みが積もって苦々しい思いになったり、麻薬に手を出したりすることもあります。羊飼いの愛 羊飼いが一日の仕事を終えて疲れ切っていても1匹の羊が迷子になったことに気づくと、自分の食事も疲れていることも後回しにして探しに出るように、イエス様は探しに来てくださいました。誤解され、理解されず、独りぼっちで、迫害され、宗教指導者たちの嫉妬によって殺されることになると知っていながら、イエス様は自分が来て自分の命を捧げなければ、人は失われたままで希望がなく滅びる、そうならないためにこの地上に来て下さり、死んでくださいました。幸いな再会 暗い中探して、茨の中に落ち込んでいる羊を見つけて、自分自身傷だらけになりながらも羊を助け出して喜ぶ羊飼いのように、イエス様は神様から離れていた人が救われると懐に抱きお世話をして喜んでくださいます。あなたは迷い出ていますか?イエス様は探しておられます。あなたが「助けて」と声を出せば、イエス様は助け出してくださいます。
「主をほめたたえよ」 詩篇150篇
【新改訳2017】
150:1 ハレルヤ。神の聖所で神をほめたたえよ。御力の大空で神をほめたたえよ。
150:2 その大能のみわざのゆえに神をほめたたえよ。その比類なき偉大さにふさわしく神をほめたたえよ。
150:3 角笛を吹き鳴らして神をほめたたえよ。琴と竪琴に合わせて神をほめたたえよ。
150:4 タンバリンと踊りをもって神をほめたたえよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神をほめたたえよ。
150:5 音の高いシンバルで神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで神をほめたたえよ。
150:6 息のあるものはみな【主】をほめたたえよ。ハレルヤ。
天国の練習をしましょう。角笛、琴、竪琴、タンバリンなど様々な楽器で主を褒めたたえることは素晴らしいです。しかしそれ以上に、生かされている人間の声(ことば)で神を褒めたたえて礼拝すると、神様は喜ばれます。神様は愛、知恵深い、正義であり、憐れみ深く、きよい方、力強く、偉大で、創造主であり、救い主、平安を与える方ですから、主はすばらしい。心から主を賛美しましょう!
ショートメッセージの後、兄弟姉妹の証しと賛美、また聖書のみことばを分かち合い、心いっぱい主を褒めたたえました。
「癒し主であるイエス様」 ルカ13章10-17節
これは、イエス様による肉体の癒し(奇跡)についての話です。また、この話は、ユダヤ人の安息日に関することでもあり、イエス様は会堂で教えておられました。詳細は書かれていませんが、一緒に想像を膨らませてみましょう。1、この女性は縛られていました。彼女は、18年もの間病の霊につかれて腰が曲がっており、痛みと苦しみで絶望していたことでしょう。長年一人でこの重荷を負い続け、力尽きかけていました。2、しかし、彼女は忠実に出席していたのです。助けを得るこのできる場所にちゃんといました。神様以外に望みはないと、開かれる度毎に会堂にいたのです。今まで癒されなかったからと会堂(教会)を離れたりしていませんでした。教会を休む理由があるとしたら、彼女こそ理由がありましたが。3、彼女は愛されていました。神様は彼女を見ておられました。私たちも同じように、自分ではどうにもできない癖、罪、重荷、病気など、イエス様の助けを必要としています。彼女がイエス様について聞いて、その朝神様の御業が行われることを期待して来たことを、イエス様はご存じだったのではないでしょうか。4、彼女はイエス様に出会いました。イエス様が彼女を呼び寄せました。イエス様の助けを必要としている人々に同じようになさいます。その呼びかけに応えるか、無視して自分勝手な道を歩み続けるか…。イエス様は精神的に彼女を癒しました。まず、罪や恐れ、疑いなどによって苦しめられていた彼女の心を癒し、新しい霊、新しい心を与えました。それから、彼女の体を癒してくださいました。神様は、度々病気を用います。肉体的に精神的に弱ることによって神様に目を向けるようになりクリスチャンになった人はたくさんいます。
イエス様がこの地上におられたときだけでなく、今でも癒してくださいます。体の癒しではなく、赦しが必要ですか、傲慢、嫉妬、怒り…これらを何とかしていただきたいですか。イエス様は神様です。あなたの罪を赦す事がお出来になります。信じて全てを捧げましょう。
神様は私達の避け所
詩篇46篇1-11
詩篇46篇
指揮者のために。コラ人による。アラモテの調べにのせて。歌。
46:1 神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
46:2 それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
46:3 たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ
46:4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
46:5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。
46:6 国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。
46:7 万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ
46:8 来て見よ。【主】のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。
46:10 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
46:11 万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ
「デボーションの時の祈り」
イザヤ30章18-21節
神様は私たちとの交わりを欲しておられます。より深いコミュニケーションを望んでおられます。私たちが求めるなら、神様は、私たちに憐れみ、恵み、約束、力…を与えて下さいます。1、まず主を待ち望みましょう。私たちは世的で慌ただしい世に住んでいますから、神様のご臨在のうちに入るために時間がかかります。ゆっくりと時間をかけて主を待ち望み、創造主の御声を聞きましょう。教会に行き、日曜学校で教え、まだ救われていない人に手を差し伸べ、集会に行っても…、静かに主を待つという最も大切なことを怠ってはいないでしょうか? 良いことが、毎日主との時間をとるという最善のことより大切になってしまうと危険です。主のご臨在に入るために有益な方法として ・詩篇、イザヤ書、新約聖書の中の聖句を黙想する ・聖歌の歌詞を読む ・祈りに関する本を読む ・書き留めてある約束の御言葉を読む ・主を褒めたたえる ・すぐには何も求めず、主の御名を呼び求めて御言葉から語ってくださるように待つ ・神様が約束の御言葉を与えて下さるかもしれないので、紙とペンを準備しておく、など。2、求めなさい。そうすれば与えられます。神様は私たちに求めてほしいのです。神様は私たちの必要を全て持っておられますが、私たちが信仰によって求め、得るまで求め続けることを望んでおられます。リストを作って祈りましょう。具体的に、明確に祈りましょう。祈りを妨げるものを脇において祈りに集中するための実用的なヒント・早朝か夜遅くに祈る ・眠くなるようであれば歩きながら祈る、声を出して祈る ・色々なことが頭に浮かぶ場合は、それらを紙に書いておいて後でする ・携帯を近くに置かない。神様は非常に多くの祈りに応えて来られました…イサクの祈りに応えて双子が与えられました。ヤコブは、4百人を引き連れていた怒っている兄と穏やかに会うことが出来ました。アブラハムのしもべは、祈って、リベカに出会うことができました。エリヤもエリシャもヒゼキヤも祈りの応えを神様から受けました。神様は私たちの祈りにも応えたいのです。与えられないのは求めないからです。求めましょう。
「神の言葉で生きる…毎日のディボーション」
Ⅰ歴代16:10.11 マタイ4:1-4
私たちが食事をしなければ生きられないように、霊的なパンである神の御言葉を受けなければ霊的に生き続けることができません。あなたは御言葉を求めて飢え渇いていますか? 私たちの教会では土曜日の祈り会も入れて週に四回の集会がありますが、それだけでは十分ではありません。一人一人が霊的に強められ、教会が強くなり、生きた教会、キリストに似た教会となるには、個人的な日々のデボーションが欠かせないのです。どうやって時間を作ることができるでしょうか? アメリカでは平均3時間テレビを見る、日本では平均2時間45分インターネットなどを見る、また2時間45分テレビを見るというデーターがあります。その時間を削れば2時間はデホーションの時間を作ることができるのではないでしょうか。デホーションをする最適な時はいつでしょうか? 朝人々が動き出す前の静かな時間、仕事や学校に行く前。これはあなたの一日の中で最も大切なことであることを覚えましょう。幸いなデボーションの時を持てたらあなたの一日はより良くなります。聖書を読む。あなたは聖書を読み通したことがありますか? 一日に3章読んだら13カ月で全部読むことができます。旧約聖書2章と新約聖書1章、または、何章か読んだ上に詩篇を少し読む…など工夫してバランスよく読むといいでしょう。心に響いた御言葉に線を引いたり、日付を記したり。注解書も聖書を読む助けになります。アダム・クラークやジョン・ウェスレーなどの注解書や、日本リバイバリストに載っている注解書もいいと思います。聖歌。聖歌の言葉も私たちが主のご臨在に入る助けとなります。素晴らしいクリスチャンの伝記にも励まされます。日々のデボーションの本。カウマン婦人が書いた「荒野の泉」など。一年中毎日サンドイッチでは飽きるように、バランスよくバリエーション豊かに、工夫して、楽しく生きたデボーションを続けましょう。大切なのは、一貫して毎日、造り主であり、救い主である主との時間を過ごすことです。祈る。祈りのリストを書く、とりなしの祈りをする、時には断食する。あなたのデボーションが祝されますように!
「イエス様にとどまり…」 ヨハネ15章5-11節
1、キリストと完全な同一視(アイデンティティ) 私たちはキリストの一部です。キリストはぶどうの木で私たちは枝です。私たちはぶどうの木の一部ですから、もし私たちが本当にキリストの弟子であるならぶどうの実を結びます。ある人はカメレオンのように、場所や一緒にいる人に合わせて変わります。しかし、たくさんのクリスチャンが、日本ででも、死ぬことになってもキリストと一つであることを明言しました。キリストのために生き、もっとキリストのようになりましょう! 2、完全に委ねて服従する(ヨハネ15:9,10) キリストにとどまる最善の方法は、彼にしっかり従い、御心に身を委ね、彼の足跡をたどることです。もし私たちが自分の願いや計画を握りしめて離さず、神様の御声に聞き従いたくなければ、いつも心のうちに戦い(葛藤)があります。全てを委ねて従いましょう、一度全部捧げましたというだけでなくアップデートしていきましょう。全てをキリストに委ねて服従するクリスチャンの歩みは、神様にご栄光をお返しします。イエス様は御父を愛していたので、実に十字架の死にまで御父のご計画に完全に従われました。主を心から愛して、私たちの贖いのためにどれだけの犠牲を捧げてくださったかを思うとき、私たちは神様に100%従うことができるでしょう。中途半端なクリスチャンでなく100%捧げたクリスチャンに。3、全き喜び!(ヨハネ15:11)喜びとは何でしょうか? それは、幸せより深い、希望を含む満足と言えるでしょう。使徒パウロについて見てみると、彼は神様に全く服従していて、キリストと一つ(アイデンティティ)であり、たくさんの困難に直面しました。鞭でたたかれ、牢屋に入れられ、あざけられ、病気になり…。しかし、彼は喜びに満ちあふれていました! 彼の書簡の中に「喜び」という言葉が26回も出てきます。(ローマ14:17、ピリピ1:4 )幸いなクリスチャンは、喜んで神の御心を行い、喜んで捧げ、喜んで証しし、世が与えることのできない平安と喜びさえ持って迫害に苦しみ、キリストのために生きキリストのために死にます。主を喜ぶことはあなた方の力だからです。(ネヘミヤ8:10)
「信仰による祈り」 Ⅱ列王記4章18-37節
今日の箇所は、私も好きな個所の一つ、エリシャの話です。シュネムの女は、もてなしの心がある女性でエリシャたちが休んだり泊まったりできるように場所を備えてくれました。子供のいない彼女たちに、一年後には子どもができると預言し、その通りになりました。神様は私たちの心の願いを叶えてくださるお方です。しかし、その子が成長してお父さんの手伝いができるようになったころ「頭が痛い」と言って死んでしまいました。それでも彼女は信じて希望をなくしませんでした。エリシャのベッドに息子を寝かせて神の人エリシャのもとに行ったのです。彼女の胸は張り裂けそうでしたが主に助けを求めました。問題が起きた時私たちは誰の所に助けを求めて行くでしょうか? 「主は生きておられます。私は決してあなたを離しません。」何と大きな信仰でしょう。私たちが家族の救いを求める時、彼女のように神様の約束を握って、神様が応えてくださるまで離さないようにしましょう。人の救いは、緊急事態であると認識しなければなりません。エリシャが来て、子どものために祈り、彼の体に自分の体を当てました、信仰を行動に移したのです。そして、息子は生き返りました。信じて祈ったら、祈りが応えられるために自分のできることをしましょう。私たちができる少しのことをすると、神様が驚くばかりの力を働かせてくださり、それが合わさる時に素晴らしい奇跡が起こります。5千人の給食の時、少年が捧げたわずかなお弁当が用いられて大きな奇跡が起きたように。一般的で有効な祈りのコンディションを紹介します。①罪があると祈ることができません、まず悔い改めましょう ②心から神様を信じることができるために聖書の御言葉を読みましょう。神様が奇跡を行われた人の伝記も助けになります。③あきらめず、祈り続け、たたき続けましょう、応えはすぐそこまで来ているかもしれません。④一つか二つの大きな祈りの課題に注目して…救われて欲しいご主人、息子、娘…のことを覚えてその人のために断食して祈る。私たちは本気で神様を信じていますか? 私たちの行動で、祈りで、それを示しましょう。
「主の御心にかなう者となる」 創世記6章8-18節
罪深い時代にあっても、ノアは神の御心にかなう人でした。私たちも今の罪深い時代の中で、神の御心にかなう者として生きることができます。私たちの周りは変わっていきますが、イエス様だけは変わりません。私たちの錨であり土台となる方はイエス様だけです。ノアは「正しい人」でした。また、「全き人」でした。その秘訣は何でしょうか? 「神と共に歩む」ことです。では、私たちはどうすれば神と共に歩むことができるのでしょう。まず、イエス様のところに行って、きれいな心を受けることです。それから、そのきれいな心を保つために、日々神様に従って歩む、神様に対して従順になる、そのためにはきよめが必要です。自分勝手な道ではなく、神様の道を歩むのです。イエス様と一緒に一歩ずつ…。神様の御心の中に生きていると不思議と満足が与えられます。
ノアの時代、正しい人は彼と彼の家族だけでした。暴虐に満ちた世に住んでいながら、彼は神様に従ってコツコツと箱舟を造り続けました。「ヘブル 11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。」私たちも子供たちや家族を守るために霊的な箱舟を造りましょう。家庭礼拝をして、共に祈り、御言葉を読み、暗唱聖句をし…子供たちは外で悪い影響をたくさん受けていますから、彼らのために霊的な箱舟を造って、彼らの魂を守りましょう。私たちは、ノアよりも恵まれていますね。教会があり、兄弟姉妹もいて、共に励まし合うことができる、共に礼拝ができる。 今年の目標を定めましょう。もっと神様に近づきたい思いをもって、去年よりも神様との時間をもっともちます、ノアのように神と共に歩みます!今までより5分10分長く祈り、聖書を毎日読みます!そして、クリスチャンの光を隠すことなく輝かせます!そのようにして、主の御心にかなう者とならせてください。そうすれば、神様は天国
まで導いてくださいます。
「イエスとは誰でしょうか?」 詩篇19篇1節, 創世記1:1
イザヤ44:2, 43:4, ヨハネ1:3, マタイ11:28, ローマ10:11-13,
皆さんは、「どうしてクリスマスを祝うの?」と思われるかもしれません。イエス様が約2千年前にベツレヘムでお生まれになったというのは歴史的事実です。しかし、イエス様が普通の人であればこんなにも世界中でクリスマスを祝うことにはならなかったでしょう。イエス様はただの人ではなく神から来た、神の御子であり、33年間この地上で生きてくださり、十字架で死に、その三日後によみがえり、天に昇り、今も生きておられて全てを支配し、癒し、助けてくださっている、だから、クリスマスをお祝いするのです。それを信じるのは難しいと思うかもわかりませんが、信じる理由…①自然を見るときに偉大な唯一の創造者がいることが分かるからです。イエス様の名前を聞いたことがない人でも神様が創造されたものは創造者がいることを知らせています。美しい日の出を見てゴージャスだ、力強い、ユニークだと感じ、また、富士山を見て思わず拝みたくなる。自然は素晴らしいですね。しかし、それらは神ではなく、唯一真の造り主なる神様の偉大な力を表しているのです。その神様は愛です。私たちは神様の目には大事なのです。イエス様が神様であると信じる理由…②イエス様は病気の人を癒し、死んだ人をもよみがえらせました。イエス様は3年間、イスラエルを巡り、教え、語り、助けました。嵐を鎮め、目の見えない人耳の聞こえない人を癒し、5千人もの人に食べさせました。そして、私たちの罪を赦すために十字架にかかって、私たちが天国に行くことができるようにしてくださいました。③イエス様が私の心を変えてくださったからです。私は罪の癖に縛られていました。独善的で邪悪な心でしたが、イエス様が赦してきよくしてくださいました。私は変えられたのです。イエス様は私の友となって下さり、困難がある時にイエス様の御名を呼び求めると、聞いて、力を下さいます。あなたも天を見上げて造り主に話しませんか? 罪を悔い改めて赦しを得ませんか? クリスマスのこの日、イエス様を信じませんか?
「神に出会う準備」 ルカ16章19-31節、アモス4章12節
私たちは色々なことのために準備をします。両親は、子どもが小さい時から将来のために計画します。そして、子供は何年間も勉強し訓練を受けて働きに就きます。お母さんたちは日々何かの準備をしています。
しかし、一番大事な準備は、神様に会う日のための準備です。聖書には、全ての人はある日神様の御前に立つ時が来ると書かれています。
残念なことに、人には神様の御前に立つための準備をしない言い訳、理由がたくさんあるようです。①プライド(傲慢) クリスチャンになったら人はどう思うだろう…。病気の人や弱い人、問題を抱えている人が神様を求めるかもしれないけど、自分は強い、神様に頼る必要がない、と思っている方も多いようです。②自分の立場(ポジション) 教会の中でも牧師、役員、教師など、自分の立場が邪魔をして勝利がなくでも祈ることができない人もいます。ある人は、クリスチャンになったら嘘もつけなくなるし、お金を儲ける仕事に就けないだろう、と考えるようです。③中でも一番多い理由は、「今日ではない。あとで。もっと都合の良い時に。」と後回しにすることです。今ではない、と先延ばしにしているとチャンスのないまま人生を終えることになります。ですから、聖書は「主を求めよ。お会いできる間に」と言っています。今日が救いの日なのです。④金銭を愛しているから 貧しい国に行って福音を伝えると喜んで多くの人が求めますが、豊かな国では求める人が少なく、クリスチャンと言っても形だけである場合もあり、とても残念です。イエス様は天国についてよりも滅び(地獄)について多く語っておられます。ルカ16章19-31節もそうです。滅びに落ちたある金持ち、死んでいても感覚があり記憶もあることが分かります。生きていた時に神様に心を向けず、貧乏で困っているラザロにも目を向けていなかった、もっと良くしていたら、神様を求めていたら…後悔が地獄での一番の苦しみでしょう。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の生命です。」イエス様を信じて神様に会う準備をしましょう。
「模範となる忠実な先人たち」
マタイ10章37-39節Ⅰヨハネ3:16, ヨハネ15:13
55年前(1967年)12月9日、クリスマス集会を開くために阿多田島に向かっていた福音丸が転覆し、乗っていた10人のうち7人の命が失われました。
ボーマン師の子供たち9歳のテレサちゃん、7歳のゲイリー君、6歳のジョエル君、そして6カ月のダニーちゃん、みんなその日を楽しみにしていました。イエス様を信じて喜んで神様にお仕えしていたのです。
この事故で亡くなった林杏子姉妹は「祈りの人」でした。ボーマン師家族と一緒に住んでいた林杏子姉妹の部屋から心を注いでとりなしの祈りをする声が聞こえていました。今も彼女のような祈りの人が必要です。
藤岡勝兄弟は、「召されたクリスチャンの働き人」でした。救われてから2週間後にはきよめられ、光の中を走るように成長していきました。職場でも聖書の机の上に聖書を置いて、周りの人にも証しをし、メッセージをしたこともありました。「私は牧師になってボーマン先生の手伝いをしたい」神様からの召命を感じていました。あなたは、彼のように心を開いて、神様のご奉仕、働きをしたい、神様に従いたいという思いを持っていますか?今現在も神様はクリスチャンの働き手を必要とされています。
ロバート・ハッチャー兄弟は「犠牲を払い、心を尽くし、いのちを尽くして神を愛し、人を愛した人」でした。新しいクリスチャンだった彼は、福音丸での伝道について聞いた時、喜んで一緒に行きたいと言いました。彼は海軍の大尉で、からだも大きく、若くて泳ぎも上手だったので、自分だけであれば助かったでしょうが、子供たちや女性たちを助けようと、その場に残ってみんなを岸まで導こうとしました。自分のいのちをささげた大きな愛! 今はソフトで楽を好む時代ですが、あまり楽になってしまうと信仰もダメになる危険があります。私たちは、もう少し神様のために何かできるのではないでしょうか? 彼らの残した影響は今も続いています。心から熱心に神様に求めて必要な恵みをいただきましょう。
「ここまで主が私たちを助けてくださった」
Ⅰサムエル7章12節
【新改訳2017】
Ⅰサム 7:12 サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで【主】が私たちを助けてくださった」と言った。
この50年の主の助けを覚え、主に感謝し、褒めたたえます。
ここまでの歩みを振り返りながら…
1、 神様の御声を聞いて従う(従順)
ドン・ボーマン師、ヘッセルタイン師、高市師、猪坂師、浅林師、レスター師、ロバート・ボーマン師、アロン・ミラー師、ジャステン・ミラー師と次々宣教師や牧師が、神様の召しを受け、従い、献身しました。
2、 犠牲を払いながら神様の召しに従い、行う
宣教師として見知らぬ国に来ることは簡単なことではありませんが、犠牲を払って、しかし喜んで心から従って、一から働きを始めました。
3、 イエス様を知らない方にイエス様のことを伝える(伝道する)
たくさんの子供たちや大人たちにこの50年間伝道してきました。家庭集会や婦人会、英会話やクッキングクラスを通して。広瀬や大島などたくさんの場所で伝道してきました。
4、 救いやきよめを教えるだけでなくそのうちに生きる(実践)
ドン・ボーマン師は、事故の後に心えぐられる言葉を投げかけられましたが、その人を助けながら神様が与えて下さる素晴らしい愛を感じました。
この教会で昔から語られてきた救いときよめのメッセージを続けていきましょう。若者にも受けついで欲しい。伝道が難しい時代になっていますが、がっかりしてあきらめず、人々にイエス様による救いを伝え続けましょう。
「クリスチャンホーム」
詩篇127篇
<都上りの歌。ソロモンによる。>
127:1 【主】が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。【主】が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。
127:2 あなたがたが早く起き遅く休み労苦の糧を食べたとしてもそれはむなしい。実に主は愛する者に眠りを与えてくださる。
127:3 見よ子どもたちは【主】の賜物胎の実は報酬。
127:4 若いときの子どもたちは実に勇士の手にある矢のようだ。
127:5 幸いなことよ矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは門で敵と論じるとき恥を見ることがない。
1、 クリスチャンホームの土台は、イエス・キリストです
2、 夫も妻も神様の権威に従う必要があります
3、 妻は、夫に従うべきです
4、 夫は、キリストが教会を愛していのちを捧げたように妻を愛すべきです
犠牲的な愛は、自己中心な愛ではなく、きよい愛です
5、子供たちは、従順を教えられる必要があります
「賛美による勝利」
Ⅱ歴代誌20:1-15
旧約聖書に記されている戦いについて学ぶと、私たちの日々の生活の中での戦いについていろいろと教えられます。ヨシャファテ王は、自分たちでは太刀打ちできない大群が攻めて来ようとしたとき、軍の力や他の国の王様などに助けを求めるのではなく神様を求めました。
①祈りと断食をもって神様を求めた。昔の有名な伝道者の一人は、ダンスホールの真ん中に立ち、これから演奏が始まるときに「私は大切なことの前には必ず祈ります。」と言って祈り始めました。すると、そこに集まっていた人の中の大勢がその場で祈り、救われました。また、ボーマン姉妹は末娘が反抗して神様から離れていた時、一週間以上断食して祈り、遂に娘の心は神様の御前に打ち砕かれて恵の御座で祈り、救われ、その時から今まで神様が離れることなく今は牧師の奥さんになっています。数年前に開かれたイリノイ州の修養会で断食祈祷の結果、たくさんの人が祈って救われ、きよめられました。②神様に目を注ぐのみでした。他からの助けには期待できず、立ち向かえるものはいない、何もできない、ユダ中からみんな(大人も子供も)集まって、真剣に神様の助けを求めて祈りました。12節「あなたに目を注ぐのみです」私たちも自分では何もできない、どうしたらいいかわからないとき、神様に目を向けて、力を下さい、助けてください、知恵を下さいと神様を求めましょう。③預言者の言葉に従い、主の救いを見るまでしっかり立って動かずにいた。20節 預言者、今でいう牧師です。牧師が語る真実を聞いて従いましょう。④大声をあげて主を賛美した。21節 賛美には力があります。どんなに困難な状況であっても、「神様賛美します」と心から主を賛美して感謝しましょう。賛美は勝利の秘訣です。⑤賛美をしている間に敵は打ち負かされた。22節
ある人が幻を見ました。その人は天国にいて、祈ろうとしていましたが、祈ることが見つかりません。長く天国にいる人に「天国ではどう祈ればいいのですか。」と聞くと、「天国では祈る必要がありません。全て満たされているのですから。天国では賛美と感謝です。」と。今から賛美の練習をしておきましょうね。
「神よ、私を探り、私の心を知ってください」
Ⅱコリント13:5
私たちは定期的に健康診断をしてもらう必要がありますが、それ以上に霊的な健康診断が重要です。魂は永遠だからです。パウロは、Ⅱコリント13:5でそのことを述べています。病院で問診するように、霊的な健康診断のためにいくつかの質問をしてみます。・あなたは救われていますか? ・救われた後に罪を犯しましたか? ・もし罪を犯したならどうしましたか? その罪を告白して赦されましたか? ・きよめられましたか? ・きよめられていないなら、なぜ? ・きよめられないままなのは何が原因でしょうか? ・きよめられたいと願っていますか? ・恵みのうちに成長しているか、それともとどまっていますか? ・霊的に後退しているでしょうか? ・神様に対していつも「はい」と言っているでしょうか? ・神様の御心に対して反抗していますか、それとも委ねていますか? ・定期的に祈ったり聖書を読んだりしているでしょうか? ・それは形だけ、それとも神様との本当の交わりでしょうか? 自己診断だけでは不十分で、神様に吟味していただく、神様に探っていただく必要があります。時間を十分とって、神様と二人きりになり、神様の御言葉である聖書を開いて、「神様私の心を探って、示してください。」と求めましょう。(詩篇139:23,24)日本語で「傷ついた道」と訳されているヘブル語の単語には四つの意味があります。①痛み…感情的に、肉体的に。イエス様にあなたの痛みを告げなさい。イエス様はひどい痛みを知っておられますから、あなたの痛みを分かってくださいます。②傷跡…感情的に傷ついている。それらは霊的な妨げと成りえますから、癒し主であるイエス様の所に持って行きましょう。③罪…罪は神様との隔ての壁となります。どんな罪でも示していただいて罪から解放されましょう。④偶像…神様より愛しているもの…自分自身、お金、仕事、学校、所有物など。神様が第一であるべきです。全ての罪を告白して心からイエス様は神の御子であり私の個人的な救い主であると信じるなら、そしてイエス様に従って光のうちを歩み、日々罪に対して勝利し、はっきりとした証をもっている、御霊が証してくださる、これらが救いの証明となります。(ヤコブ4:6-8)神様に近づき、従いましょう。
「イエスは何百年先のご自分についての預言を成就する」
それぞれの宗教に経典と呼ばれるものがある中、聖書が真に神の御言葉であるとどうやって知ることができるでしょうか? 聖書が神の御言葉であるという一つの証拠は、何百というイエス様に関する預言が、数百年あるものは数千年前に預言されたにもかかわらずイエス様によって成就していることです。マタイ伝はユダヤ人に向けて書かれているので、メシヤについての預言がたくさん書かれています。
1、 処女が男子を生む イザヤ7:14, マタイ1:18-20
2、 ベツレヘム出身 ミカ5:2、マタイ2:1
3、 先駆者(ヨハネバプテスマ)についての預言 イザヤ40:3, マタイ3:1-3
4、 癒し主 マラキ4:2
5、 30枚の銀貨で売り渡される ゼカリヤ11:13, マタイ27:3,7
6、 十字架 詩篇22:1, マタイ27:46, 詩篇22:7,8, マタイ27:39,43
詩篇22:14, ヨハネ19:34, 詩篇22:15, ヨハネ19:28
詩篇22:16, ルカ24:39, 詩篇22:18, マタイ27:35
ある人はこう思うかもしれません。「イエス様の弟子たちが、イエス様が地上に来られたのちに旧約聖書を作り上げて聖書全体を書いたのでは?」と、いいえ旧約聖書はイエス様がメシヤであるとは信じていないユダヤ人によって書かれました。ユダヤ人は旧約聖書を書き写す時に、一字一句間違えないように、入浴して特別な服を着て気を付けて手書きで書き写しました。新約聖書は、すべての預言が世界の救い主であるイエス様によって成就されたのを見たクリスチャンによって書かれました。両者はある意味対立していたにもかかわらず、(預言と成就)一致しているのです。 ペンテコステの後すぐに、弟子たちはイエス様がメシヤについての預言をすべて成就したことを示しましたから、3千人、5千人と多くのユダヤ人が信じて救われたのです。
イエス様は私たちの罪のために十字架で死にました。私たちを救うために来られたのです。あなたもイエス様を救い主と信じ受け入れませんか?
「赦し」 マタイ18章21-35節 マルコ6:14ー15, ルカ23:33-34節
誰かを三回目までは赦す、つまり4回目からは赦さなくてよい、というのがユダヤ人の習慣でした。ですから、ペテロが21節で「…7回まででしょうか。」と言ったとき、彼は自分の心が広いと思っていました。しかし、イエス様は22節「…7回を70倍するまで…」と言われました。つまりは限りなく赦しなさいということです。イエス様は続けて、1万タラントの負債を免除してもらった家来が、王様に免除してもらったすぐ後に、自分に百デナリ借りのある仲間を責めて牢に放り込んだ、それを聞いた王様はその家来のことを怒って負債を全て返すまで獄使に引き渡したというたとえ話をされました。1万タラントの負債を負っていた家来のように私たちの負債はかなり大きいものでした。私たちは罪におぼれて、自分ではどうすることもできないでいました。傲慢、憎しみ、嘘、わがまま、争い、福音を拒む、堕落、偶像礼拝などなど。神様の恵みは、そんな私たちの罪を全て赦してくださったのです。赦された私たちは兄弟姉妹や周りの人々、敵をも赦しているでしょうか。神様にとって「赦し」は非常に重要です。私たちが赦さなければ私たちも赦されないと神様はおっしゃいます。イエス様は「赦しなさい」と言われただけでなく、ご自分を痛めつけて十字架につけた者たちを赦して「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られました。
コーリー・テン・ブームはオランダ人で、第二次世界大戦中にドイツの収容所に入れられとても苦しい中を生き延びました(ホロコースト生存者)。彼女はクリスチャンで、戦後ヨーロッパを回って赦しと癒しについて語りました。そんなある日、集会の後に一人のドイツ人男性が握手を求めてきました。彼は収容所で看守をしていた人で、それに気づいた彼女の心は凍り付いて…しかし、祈り、再び祈って握手したその時彼への赦しと愛の心で満たされました。それは自分の力ではできません。神様の力によらなければ! 本当の赦しはその相手を助けるだけでなくあなた自身を自由にします。
「教会は祈りと癒しと賛美の場です」
マタイ21章12-16節、使徒4章31節、ルカ13:10-13、へブル13章12-15節
エルサレムにある宮は、きよい場所でした。布で作られた幕屋から始まり、ソロモンの時代に金や切り石で美しい神殿が建てられました。その宮はバビロンによって壊され、クロスの時代に2番目の神殿が建てられましたが、あまり立派なものではありませんでした。イエス様の時代の宮はヘロデによって、ユダヤ人がメシヤの出現を望まず満足するために、ソロモンの時の神殿より素晴らしい宮が造られていました。しかし、形は立派でも神様の臨在はなく、金がたくさん使われていてもきよい礼拝はなく、儀式と形はあってもまことの礼拝は行われていませんでした。神様を礼拝する場が売り買いの商売の場となってしまっているのをご覧になったイエス様は聖なる憤りを覚え、売り買いしている者たちを追い出しました。その一方で、目の見えない人たちや足の不自由な人を癒されたのです。
神の家は祈りの場です。ハンナにはこどもがなく悲しい思いをしていましたが、宮に来て泣きながら主に祈り、後に偉大な預言者の一人となるサムエルが生まれました。また、イエス様の弟子たちはペンテコステを体験していましたが、祈るために集まっていた時に再び聖霊に満たされました(使徒4:31)。ここで持たれている土曜日の祈り会は、日曜日の各集会の祝福を求め、特別な祈りの課題について祈る素晴らしい時です。
癒し 宮で売り買いする者たちが追い出されたあとすぐに、イエス様は病気の人を癒し、目の見えない人の目を開き、歩けなかった人の足を直しました。ルカ13:10-13 今私たちは宮ではなく、教会や修養会場で神様を礼拝します。それらの場所をきよい場として捧げ、神様は何度もそこで私たちに出会って下さり、人々が救われ、きよめられてきました。特別な場所です。教会は癒しと祝福の場です。まことの従順と礼拝が形だけの死んだものにならないように、私たちの礼拝をきよいものとして保ちましょう。心から主を賛美し褒めたたえましょう。
「神の御声」 Ⅰサムエル3章1-10節、Ⅰヨハネ1章7節
これはイスラエルが堕落していた時のことで、士師が次々と変わっていき、モーセとヨシュアの栄光の日々からかけ離れていました。エリは年をとり、邪悪な二人の息子は好き勝手をして、宮は人々から軽視されていました。幼いサムエルはそんな周りの状況を理解していなかったでしょうが、忠実に日々のお勤めを行っており、彼は純真無垢で従順で熱心でした。ある日、神様は暗い時期を破って幼いサムエルに語られました。その時、サムエルは①すぐに反応しました。それは真夜中のことで、彼は疲れていたことでしょう。しかし、彼は呼ばれた時すぐにエリの所に行きました。エリが呼んだと思ったからです。神様は私たちが予期せぬ時、都合の悪い時に語られるかもわかりませんが、私たちはすぐに反応するでしょうか。また、サムエルは②続けて反応しました。彼はすぐにエリの所に行きましたが、エリは呼んでいないと答えました。他に人はいないのに変だなと思ったでしょうが、言われた通りにベッドに戻りました。再び名前を呼ばれて、またエリの所に行きましたが呼んでいないと。そして、三度目に名前を呼ばれたとき「はい、ここにおります」と答えました。③彼は完璧に従いました。おかしな出来事でしたが、サムエルは従順でした。どうしてエリはこんな夜中に自分を呼ぶんだろうと考えて時を無駄にすることもなく、すぐに従いました。エリが、おそらく神様が呼んでおられるのだ、と教えてくれた時…サムエルは部屋に戻って、エリが言った通りにしました。「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」
神様はあなたにも違う形で話されるでしょう。もしあなたが神様の近くを歩んでいて、従っているなら、小声でささやかれるでしょう。もしあなたが迷子になりかけているなら、あなたの耳がよそを向いているから少し大きな声で語られるでしょう。もし完全に神様の御心から外れているならあなたの人生に大変な試練を許して目を覚まさせようとされるでしょう。
あなたが神様の御声を聞いた最後の時はいつでしたか? 御声を聞いたら従いましょう。すぐに、完璧に!
「最後のアダムはいのちを与える」
創世記3章14.15節 これは来るべき救い主を見る最初の御言葉です。人類が犯した最初の罪、しかし、ここにすでに希望と贖いを見ることができます。サタンはイエス様のかかとを打つ…試み、苦しめ、遂には十字架の死に追いやる、しかし、神の御子であるイエス様は十字架で死ぬことによってサタンの頭を打ったのです。サタンの頭は今も痛んでおり、イエス様の十字架はサタンの国に打撃を与え、サタンは自分の時が短いことを知っています。いつか悪霊と一緒に火の海に投げ込まれ二度と苦しめることができない事を知っているのです。1.最初のアダムから罪に傾く性質が始まった アダムとエバが罪を犯した時から、人類は自らの欲とサタンの誘惑によって罪に引っ張られるようになりました。カインはアベルを殺し、地は神の前で堕落し暴虐で満ち、ソドムの人たちは主に対して甚だしく罪深かった。イエス様の時代にも悪霊につかれた人がたくさんいて、人は自分の欲の奴隷となり罪に悩まされており、本当の愛は少なかった。(イザヤ53:6 士師記17:6)2、神が私たちを救うために人となられた マタイ1:21,22 全く罪も汚れもない者でなければ、全世界の人の罪の身代わりとして死ぬことはできませんが、そんな人は一人もいませんでした。ですから、神様は一人子のイエス様を送ってくださったのです。ルカ4:18,19 イエス様は今も変わらず私たちを癒し、助け、罪から救って自由を与えて下さいます。3、最期のアダムであるイエス様はいのちを与える Ⅰコリント15:21,22 アダムとエバの行いが全ての人を罪の束縛に至らせたとは信じがたいことかもしれません。しかし、神様は公正なお方ですから、イエス様によってすべての人に罪から救われるチャンスを与えて下さったのです。アダムの罪の結果は死、病気、暗闇…しかし、イエス様の死によって私たちにいのちが与えられ、病気の癒しと暗闇の中にも光が与えられました。世がどんなに悪くなっても、どんなに暗くなっても、あなたの魂は神様の光と素晴らしいご臨在に満たされることができます。Ⅰコリント15:45,26-58 固く立って主の業に励んでいるなら生きている今も勝利、また死後はすぐに生ける救い主のみもとに行くことができます。
「最初の誘惑と結果」
創世記3章1-24節、ヤコブ4章7節、Ⅰコリント9章25-27節、
マタイ14節29-32節
アダムとエバが犯した罪の結果は広範囲に及びました。そして、今現在にまで至っています。 ●子どものような心を失った。 ●神様の御顔を避けた。 ●自分の罪をほかの人のせいにした。 ●苦しんで子どもを産むことになった。 ●夫が妻を支配することになった。 ●苦労して作物を植えて育てなければならなくなった。 ●アダムとエバのために始めて動物が殺された。 ●いのちの木の実を食べることができなくなった、つまり死ぬものとなった。 ●エデンの園から追放された。 ●彼らの子孫もまた罪をもって生まれ、罪と呪いのもとに置かれた。 ●約4千年後に神の御子が裏切られ、あざけられ、鞭打たれて十字架にかかって死なれた・・・・・一つの罪がこんなに多くの結果をもたらしました。この3章に挙げられていない結果をもあります。病気、戦争、離婚、飢餓、死。
誘惑についても考えてみましょう。どんなに霊的なクリスチャンでも誘惑にあいます。サタンはエバが神さまを疑うように仕向けました。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか?「あなたは決して死にません。」そして、その次には嘘を吹き込みました。「あなたは神様みたいになる」神様はあなたに良いことを教えないでいる、ひどいよね・・・そう思わせた。今ではサタンは、罪を犯してもそんなにひどい結果にならないよ、神様は何が最善か知らないのだ、などと語りかけて誘惑してきます。エバはサタンの巧みな誘いにのってしまいました。本当はサタンの話を聞き続けるのではなく逃げた方がよかったのに。誘惑に負けて罪を犯してしまうと必ずその結果(余波、波紋)が生じることを覚えておきましょう。小さな一つの罪は次の罪を産み、後悔することになります。
私たちは天国へのマラソンを走っているところです。最後まで走りぬきたいと思えば暑すぎるとか応援が少ないと言ってはいられません。邪魔する一切を許さず、ただゴールを目指して走ります。しかし、自分の力だけではできません。イエス様の助けが必要です。「イエス様助けて!」と叫びましょう。イエス様はすぐに手を差し伸べて助けてくださいます。
「私たちにも祈りを教えてください」 ルカ11章1-4節
聖歌230「たのしきいのりよ」を賛美しましたが、「楽しき祈りよ 浮きこの世離れ 御座に近づき 神と語らしむ」とありました。皆さんの祈りはこのような祈りとなっていますか? このような祈りの更に深い領域を味わうことができますように。一般的に根付いている偶像礼拝的信仰のスタイルがクリスチャンになってもそのままであれば、キトストと共に歩み語らう楽しさ、感謝や賛美は湧いてきません。天国は死んでから行くところではなく、生きている今入って行くところ、この地上で私たちの内に与えられた御国の心地がそのまま天国に繋がって行くものと考えます。ですから、生きている今イエス様と出会い、繋がり、共に歩み、その語らいを楽しむ…そのことの実際が「祈り」なのです。今日の御言葉の箇所で弟子たちがイエス様に「祈りを教えてください」と言い、それにイエス様が答えて「祈る時には、こう祈りなさい」と教えておられます。祈りと言うものをあえて三つに分けて説明してみます。①公の祈り これは教会などで大勢の人を代表して祈る祈りです。この時には、その集まりの祝福、神様の恵みが皆さんに注がれるようになど、その時と場に合った祈りをします。②神様と自分との交わりの祈り これは個人的な神様との語らいの時、本音を神様に打ち明け、願い事を知ってもらい、エデンの園で人と神様が語り合っていた時のようなデートの時にも似た祈りです。③執り成しの祈り 兄弟姉妹のため、牧師のため、家族や近隣の方々の今日の助けと祝福を求める祈りです。この②と③の祈りをすると、今年教会に与えられている年間聖句の実践ともなります。今日の箇所でイエスさまが教えられた祈りは②神様と自分との交わりの祈りに当てはまるでしょう。これを祈りの文言としてではなく祈りのアウトラインとして覚えてください。
「父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。」あなたの祈りが楽しき祈りの時となりますように。
「罪とは何ですか?」
創世記2章15-17節 創世記3:6-8,Ⅰヨハネ3:15, 出エジプト20:17, マタイ5:28,ガラテヤ5:19-21,ヤコブ2:19, マタイ7:21, Ⅰヨハネ1:9, ローマ8:13,14
人々は、人を傷つける、自然を破壊する、大半の人が同意する、これらを基準で何が正しく何が正しくないかを判断します。ですから、国や地域、時代によって変わってきます。しかし、聖書に書かれている罪は、国や文化に関わらず全ての人に当てはまるものです。最初の罪を見てみましょう。神様はとてもシンプルなルールを与えました。この園にある木から自由に食べて良い、ただ一つの木の実を除いて‥。神様のルールは合理的で従いやすいものでした。しかし、サタンはその取ってはいけない一本の木に人の注意を向けさせたのです。エバはじきにその木のことばかり考えるようになり、神様を疑うようになり、ついに神様が禁じた木の実を取って食べました。罪とは、神様の律法を知っていながらそれに反する意志の行為です。では、人はどうやって神様の律法を知ることができるでしょうか? あるものは、私たちの良心に記されています。他のものは神様の御言葉に書かれていますし、また、聖霊様によってクリスチャンに与えられます。人は盗みや殺人など表に現れる行為を罪としますが、神様はもっと深いところに隠れている心や思いの内にある憎しみやむさぼり、情欲を抱いて女を見る、ねたみ、そねみ、憤り、恨み、その段階からすでに罪とされます。このような思いを持ちながら、祈ることができますか?イエス様の御顔を見上げることができますか?それらは、あなたの体や精神に悪い影響を与えますし、あなたの喜びを奪います。私はイエス様を信じている、信仰がある!と言いながら内にねたみや憤りを抱えている…騙されないように気を付けて…ヤコブ2章19節には悪霊でも神は唯一だと信じて身震いしているとあります。マタイ7章21節には、主よ、主よ、という者がみな天国に入るのではない、とあります。もしあなたが罪を犯し続けているクリスチャンであるなら、主に赦しを求め罪に戻らないよう助けを求めましょう。聖霊様に心と思いをきよめていただき百パーセントあなたの人生を支配していただきましょう。