2022年1月9日礼拝メッセージです。

「イエスの変貌、人の内にあるもの」 

            ヨハネ2章13-25節

イエス一行は、カナでの婚礼の後、一緒にユダヤの祭りである過ぎ越しの祭りを祝うために、エルサレムに上って行ったようです。今日の舞台はそのエルサレムの神殿となります。

 

イエス様は、宮に入ったとたん、突拍子もない行動に出ます。縄でムチを作り、生贄のために売られている牛や羊、鳩を追い散らし、両替人の台をひっくり返すという行動でした。人々は逃げまどい、その場は騒然とし、商売人たちの怒鳴り声…想像できますか?

 

 あなたのイメージしているイエス様の姿にこれはありますか?ぜひ、このような激しい一面もリストの中に加えておいてください。裁き主として来られるときには、こんな感じのイエス様ですよ。

 

ではイエス様の琴線に触れたものは何だったのでしょう。ルカ 19:46「『わたしの家は祈りの家でなければならない』それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」どうやら宮とか、教会は神に祈り、神を求めて近づくことが最優先であり、それを大切にするところなのに…もし商売人が、礼拝者を「客」「金づる」としか見てなかったら?そして販売を許可する祭司たちにリベートが渡り、双方がそれで私腹を肥やしていたとしたら…あの突然の過激なふるまいの謎が分かるのではないでしょうか。聖書には「人はうわべを見るが、【主】は心を見る」とあります。さて、私たちの心の中にはどんなものがあるでしょうか?最後の裁きの時、私たちはどんなイエス様を見たいでしょうか?優しくあわれみ深いイエスさまでしょうか?それとも厳しいイエスさまでしょうか?それを決めるのは、あなたや、私なのです。目を覚ましていましょう。


2022年1月2日礼拝メッセージです。

「心を尽くして主を愛し、隣人を愛しなさい」 ルカ10章27節

 

この御言葉がイエス様の口から出た背景は、マタイによる福音書では、「律法の中で一番大切な戒めは何ですか?」の質問に答えるように語られたのがこのことだったと分かりますし、このルカでは、永遠の命をいただくために必要なものは何か?の質問に、「律法には何と書かれているか」…と話しだされたのがこのことだったと分かります。つまり、この教え(この心)を押さえておけば、聖書の律法〈教え〉の全体、また永遠の命のカギを握ることができるというツボだというわけです。それで是非この一年、この御言葉を心に留めるとともに、意識して実践してみませんか?知識として知っているだけでなく、実際にそれを行い、「そうやってみたらどうなるか」を体験する一年にしてみませんか?神様からのチャレンジです。

 

二つのことを理解してこれに臨んでいただきたいです。

 

1、 この教えを行うなら、あなたは聖書の律法(教え)の全体を全うすることになります。       ローマ13:8-10 マタイ7:12

 

具体的にどうしたらいいか?日々の生活の中に実践の現場があります。そして「どうしたらいいか?」「どう話したらいいか?」はイエス様が言われるように、御霊に聞いてください。そうすれば分かります。マタイ10:20   これがいい実践の訓練です。

 

2、 神を第一にして愛することと、隣人を愛することは同調するものです。

 

信仰と実生活は、調和していますか?「これはこれ」「あれはあれ」と分かれてしまっていませんか?

 

ということで、今年与えられた御言葉、指針として皆さんに掲げるものはこの御言葉です。追い求めていきましょう

 


2021年12月26日礼拝メッセージです。

「主に信頼する人…」    エレミヤ17章7.8節

これが、2021年に掲げられていた御言葉です。

大切な事柄は、「主に信頼する」ということです。これには順番があります。まず、「主を信じ、受け入れることです」そして「その信じる方を信頼し、頼みとする」ことであり、人生が始まるのです。キリストを信じない人には、「キリストに信頼する」とか「主により頼む」というのは馬鹿らしいことの様にしか思えず、無理なことなのです。ぜひクリスチャンのみなさん、また主イエスを信じ、受け入れた方々、日々その主に信頼し、より頼んだ生き方をしてください。「ここまでそうしてこられたのなら、ますますそのように生きる決意をこの年の初めに新しくしてください。」とこの年の初めに示しました。

 

 そのような人は、「水のほとりに植わった木のよう」だと言われています。その木はふんだんに水分をその根から吸収することが出来ます。「主に信頼する人」とは、そのような人だというのです。詩篇では、「主の教えを喜びとする人」のことを「水のほとりに植わった木のようだ」と言っています。この二つの特徴は同じものなのです。「主の教えを喜びとする人だからこそ、主に信頼するだろうし、日々主により頼むのです」だから、「暑さが来ても暑さを知らず、日照りの年にも心配ない」というのです。道理にかなったことです。あなたもそういう人であり続けてください。そういう生き方をしてください。もし、あなたが主に信頼してさえいたら、必ずできるのです。この御言葉を掲げる年は終わりますが、この御言葉の真理は永遠に続きます。続けてこの御言葉の内にとどまりましょう。

 


2021年12月19日礼拝(クリスマス)メッセージです。

「人となって来られた言葉なる神」  ヨハネ1章1-4、14節 

 

「三本の木」のストーリーは昔からクリスチャンたちによって読み続けられてきたストーリーです。木を擬人化して大切な真理が教えられています、三本の木ともそれぞれに夢と希望を持っていましたが、まったく思い描いた通りにはなりませんでした。ところが彼らがある方と出会うことによって、負の運命が、神の栄光に溢れた運命に変えられていくのです。さて、その方とは誰でしょう、また聖書にはその方がどのように証されていますか?なんと、この万物を造られた言葉なる神と証され、その言葉なる神が人となって私たちの間に住んでくれるようになった、そして私たちに父なる神について教えてくださったと証言されています。ですから、今でもイエス・キリストを知れば知るほど、私たちは神がどのようなお方であるかを知るようになるのです。一本の木は、宝物入れになる夢を思い描いていましたが、それにまさる神の御子を抱く存在となれたとわかるのです。二本目の木は、立派な船になることを夢見ていましたが、実際には漁船…しかし、神の御子イエス様をお乗せする恵みにあずかる船となれたのです。三本目の木はこの丘に立って、神様を指し示す木になりたいと願っていましたが、無残にも切られて、処刑台の木になるのでした。しかしそれによって、永遠に神の御子を指し示す木になることができたのでした。あなたや私たちも、思い描くような人生に歩めないもどかしさに苦しみ、悩み、自分の運命を嘆いていませんか?あなたもこのクリスマスのキリストに出会えば、見え方、運命が変わってきますよ、あなた方は選ばれた人なのです。全ての人が神から愛され、目的をもって生まれてきているのです。ただ、多くの人がそれに気が付かない、知らないだけなのです。キリストに出会いましょう。


2021年12月12日礼拝メッセージです。

     「水がぶどう酒に変わる恵み」     

                                     ヨハネ2章1-12節

 

今日の箇所は、ガリラヤのカナというところで開かれていた婚礼の席でイエスがキリストとして栄光を現わされた次第について記されているところです。ここでイエスの母マリヤが「ぶどう酒がありません」…と窮地の時にイエスに求めるのでした。快諾していないとみえるイエスを目の前にして給仕をしている人たちに「この方の言うことは何でもしてください」と力を引き出す信仰の姿勢を向けるのでした。私たちは日々の中で起こってくる窮地の時、どうしていますか?誰に求めますか?このマリヤの姿勢は私たちに大切なことを教えているように思えます。するとイエスは、なんと水がめに入った水をぶどう酒に変えるという奇跡をなさるのでした。

 

みなさん、イエス様は、今でもこの「水をぶどう酒に変える奇跡」を行われることをご存知ですか?それは、イエス・キリストの御名によって、また聖霊の働きによって現在の私たちにもたらさられるものなのです。「イエスを信じ、受け入れる前の自分からイエスを信じ受け入れた自分。そしてイエスに従い、イエスを確信するに至った境地…自分を主の栄光のために用いてもらいたいと思うまでになった自分…その違いは、まさに水からぶどう酒への変化と同じです。また、それはその人の運命の変化においても言えます。救われる前の自分は、自分の思うまま、好むままの肉的な感覚で生きていた…それゆえ、聖書の言う罪にまみれた生活だった。その行きつく先は、滅びでした。しかし、イエスを信じ、その十字架の罪の贖いを受けた人は、イエス・キリストの死の身代わりという法則によって、今までの罪の一切が赦され、その罪から救われ、やがて天の御国に行くことができるという運命に変わるのです。


2021年12月5日礼拝メッセージです。

 

 

「何を求めているのですか」     ヨハネ1章35-51節

 

ここには、もともとバプテスマのヨハネの弟子であった二人がイエス・キリストを信じるようになり、その二人の証から次々とその兄弟、友人が信じるようになり、そして弟子になっていく様子が描かれていますね。二つの視点から学んでみたいと思います。

 

1、 イエスの語られた言葉

「あなた方は何を求めているのですか」

自分についてくる二人にイエス様の方から語りかけられた言葉です。

「来なさい。そうすれば分かります」

イエス様については、頭だけで考えていてもわかりませんよ。しかし実際ついて行けば分かってきます。

「わたしに従ってきなさい」

 これは、ピリポという人にイエス様から語りかけられた言葉ですね。「イエス・キリスト」信仰とは、ズバリ「イエス・キリストに従っていく」信仰のことだと言えます。

 

2、 一人一人の証が福音宣教の土台でした

 

先週も見ましたが、今週も、証人のことがクローズアップされていますね、謙虚な証人明確な確信を持つ証人腐ったり、いじけたりすることのない証し人にならせていただきましょうね。そして、イエス・キリストを紹介させていただきましょう、愛は、救いはこの方によってのみあるのです。

 

さあ、皆さん、今朝でも、イエス様は私たちに問うておられますよ。「あなた方は何を求めているのですか」と、あなたは今朝何と答えられるでしょうか?


2021年11月28日礼拝メッセージです。

「人の本性を超えた証人」     ヨハネ1章19-37節

 

今回は、バプテスマのヨハネの人と、なりとを通して主に喜ばれる信仰者の姿を学んでみました。

 

1、彼は謙虚な人でした 「あなたはキリストですか?」と問うてくる人に「私はキリストではありません」。「ではあなたは誰ですか?」「私は、預言者イザヤが言った『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です」「私の後に来られる方…私にはその方の履物のひもを解く値打ちもありません」と「謙虚」としか言いようのない返答ばかりなのです。

 

2、彼は明確な証を持っている人でした 自分を遣わした方が「御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者」…私はそれを見た、それでこの方が神の子であると証をしているのです。

 

3、彼は腐る(いじける)ことをしない人でした(35,36) パブテスマのヨハネが二人の弟子と一緒にいた時、イエスが歩いているのを見て、「見よ、神の小羊」と証しすると、その二人の弟子たちはイエスについて行ってしまいました。普通の人間的な観点だと、がっかりしたり、嫉妬したりしやすいものです。しかし、彼はそうしなかったのです。※こうやってみれば、なぜこのヨハネが神様から用いられたかがわかるのではないでしょうか?あなたも「人の本性を超えた証人」になっておられますか?救われる以前とは変えられて謙虚なものとされましたか?罪から救われたこと、罪から聖められたこと、また天国に行ける者とされた確信がありますか?腐る性質からもきよめられましたか?


2021年11月21日礼拝メッセージです。

「キリストの受肉の不思議」  

   ヨハネ1章6-18節

 この個所から、「人となられた言葉なる神」について「その不思議」を学ぶことができます。

 

1、気づかれなかった「ことばなる神」の存在(9―11)

 

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」これを読まれて、どう考えられますか?そんなに「言葉なる神」の存在はわかりにくい存在なのでしょうか? そうでなく、むしろその逆で、日頃当たり前のように存在し、接しているからこそ気が付かないということです。もし「ことばなる神」を知りたいなら、もっと「当たり前」の中をよく見てみることです。

 

2、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことは、イエス・キリストによって実現した」(17)秩序ある規則があり、神の恵みと真があってこそ「神の民」となれます。神の恵みとまことは、神がその在り方をおいて、人として下られたことの中にその真実さを見ることができるのです。

 

3、 人の本性を超えた証人バプテスマのヨハネ(6―8、15)

 

バプテスマのヨハネは少しお兄さんになります。それなのに、ヨハネはイエス様のことを自分より先におられた方、自分はその靴ひもを解く値打ちもないなどと証言し、イエスを高く上げようとしています。人の気性に反したこの証は、人から出た証ではないことが分かります。

 

4、人となって来られた言葉なる神を信じ受け入れる者は、新しく生まれる(12,13)現在、この御言葉に基いてイエス・キリストを信じる者をクリスチャンと呼び、神の子どもとされた、新しく生まれた者と言うようになっています。これも神からもたらされた奇跡です。

 


2021年11月14日礼拝メッセージです。

     「生ける神の御言葉・イエス」     

             ヨハネ1章1-5節

ヨハネがこの福音書を書いたときは90歳近くだったと言われています。すでに他の3福音書が書き上げられていましたが、ヨハネがあえて福音書を書いた理由は、他の福音書には記されてない出来事をどうしても人々に知ってもらいたかったからでしょう。他の3福音書と比較すると、ヨハネによる福音書にしか記されていない出来事や主イエスのことばが多く収められています。ヨハネがこの福音書を書いた目的は、20章31節にはっきりと宣言されてあります。

 

「 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」私たちもこれからヨハネの福音書を通して、なおイエス・キリストについて理解を深めさせていただきたいと思っています。そして最初の言葉は、こう証しています。

1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」

 すごいですね、最初からイエス・キリストこそ「ことばなる神」であり、創造主でもあると証されているのが分かります。

  このヨハネの福音書から、メッセージ箇所から、学びの助けとなるワークシートを作成してご提供させていただきます。個人で学びを深めてみたい方、またそれを使って、家庭集会などの学びを持たれるにもいいかと作成します。お入り用の方は声をかけてください。


2021年11月7日礼拝メッセージです。

   「患難を乗り越え、奇跡の勝利を見たローマ教会」

                    ローマ1617-27

 

16章前半から、この後起こるクリスチャン大迫害を乗り越えたローマ教会の特徴について学びました。一人一人のクリスチャンが伝道者であり、礼拝者だった。それで草の根のような信仰だったため、300年もの患難、命がけの信仰の中を通り抜けることができたとお話ししました。しかし、どうやって、信仰迫害の中でさらに増え、広がり、耐えることができたと思いますか?神様がチチンプイプイと奇跡を行ってくれたからでしょうか?ヒントは、人々は見てます、聞いています。クリスチャンたちの生き方、態度の方がどう見ても正しい、こっちの方が正当な道だ…と判断する人たちが味方するようになったからです。さて、聖書はどのように生きなさいと教えているでしょうか?

 

1、見極める目、見極める霊をしっかり働かせなさいと教えています(17

 

それを育成したため、安易に人を信じることのできない時代に、守られることができたのです。Ⅰヨハ 4:1

 

2、「善にはさとく、悪にはうとくありなさい」(19

 

聖書はこのようでありなさいと教えています。そうすれば20は約束です。

 

3、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして神を愛し、また隣人を自分自身のように愛しなさい」初代教会の兄弟姉妹たちは、それを実践していたゆえに、人々からの絶大な信頼を得たのです。

 

4、聖書は「幼子のように御言葉の乳を慕い求めなさい」と教えています。   御言葉は「あなた方を強くすることができる」のです。

 

 


2021年10月31日礼拝メッセージです。

 

                      「初代教会の体質       

                                             ローマ161-16

 

今日の箇所を読むと名のあがっている人たちが最低26人、それ以上いることが分かります。こうやって名をあげるということは、この方々がそのころのローマの教会の主なメンバーだったようです。そうだとすれば、今のこの岩国教会の規模とそんなに変わらないということになります。ここで皆さん歴史を見てみてください。この後ローマのクリスチャンたちは、迫害による困難な時代に入ります。それがAD64年から始まり、ネロ皇帝やディオクレティアヌス皇帝の時に最もひどく313年まで続く。313年にはキリスト教が認められ、AD392年には、ローマの国教として認められるようになるというまでになるのです。初めは、この教会のメンバーぐらいの規模の人たちの集まりだったのに、一時は、迫害と殺戮のために根絶えてしまうかも…という時があったのに。しかし、クリスチャンたちは、墓地の下に地下教会などを作って、礼拝を続けて、祈って、耐えて…そしてついに300年後には国まで変える存在となったというのです。それが歴史による証です。さて、規模は似ていると言いましたが、その教会の体質には違いがあることが分かります。ローマの教会(初代教会)の体質の特徴を示しましょう。二つ。

 

1、信徒の立場でありながらも、私財を使って、教会を又奉仕者を支援し仕える同労者がいました。ここで紹介されているフィベさんや、プリスカとアキラ夫妻などもそうです。こういう同労者がいる教会は体力のある教会となります。

 

2、初代教会は、「家の教会」で広がっていました。

 

草の根のように、一人一人のクリスチャンが伝道者でした

 


2021年10月24日礼拝メッセージです。

「希望、祈り、その結果」 ローマ15章14ー33節

 

ローマ書も終盤を迎え、内容も教えとか諭しでなく、「働きの回想、自分の希望、これからの計画、祈りの課題」というような色合いを帯びた内容になってきました。ここで二つのことが分かります。一つは、この書が記された年代です。それはパウロがまだ自由に伝道旅行ができていた時で、エルサレムの兄弟姉妹たちの窮乏のための愛献金をエルサレムに届ける…その後ローマに、そしてイスパニアに行く…と言っていた頃。このエルサレム行きで彼は捕らえられ、囚人の身となるのです。

 

もう一つは、パウロが抱いていた希望と計画、それに伴う祈りの課題、それがどのように成就したか、またどのようなことは成就されなかったか、そしてその後は?…です。私たちは、歴史をたどってその内容を検証できるわけです。さてどうでしたか?パウロはエルサレムに行き、その後ローマに行けましたか?そしてイスパニア(スペイン)に行けましたか?確かに守られ、神様の助けでローマまで行くことができました。しかしイスパニア伝道は許されませんでしたね。では、そこの伝道は頓挫しましたか?いいえ、神様は他の人たちによってそれを成し遂げました。ちなみに、日本伝道を最初にしたというザビエルはどこの国の人だったか覚えていますか?このイスパニア(スペイン)の人でしたね。なんだかロマンを感じます。

 

使徒パウロでも、「あなたはここまで」という時があったことを覚えましょう。確かに信仰による祈りは聞かれるものです。でもそれは、私たちが思うように聞かれるものとは限りませんね。それが使徒パウロを通して教えられるものです。


2021年10月17日礼拝メッセージです。

   「忍耐と励ましの神、希望の神」  

              ローマ15章1ー13節

(13)「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に溢れさせてくださいますように」という希望の祈りがパウロによって口にされていますが、今日皆さんにお伝えしなければならないことは、まさしくこれなのです。神様が皆さんに望んでおられることは、あなたも「信仰によるすべての喜びと平安で満たされ、聖霊の力によって希望にあふれ」ていることなのです。それはどのようにしたら実現するでしょう。

 

・まず、今日の御言葉の中に、「神様」がどのようなお方であると証されているでしょうか?「希望の神」「忍耐と励ましの神」(5)だと…今あなたにとって神様とはどのような方に見えていますか?信仰の目で「希望の神」「忍耐と励ましの神」と見ませんか?そうすればあなたの信じるように、神様はあなたにとってもそういう存在となるでしょう。そうすれば、先の御言葉があなたのうちに完成されますよ。

 

・また「何らかの助けが必要な人がいて、自分にできることなら、声をかけたり、手助けしたり」してみてください。1節の「力ある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべき」とは、そういうことと理解してください。聖書は教えています。キリストご自身もそのように「自分を喜ばせるより、隣人を喜ばせる」ように生き抜いて、あざけりさえ受けてくださったではないかと…とにかく理屈抜きでそれを実践してみてください。そうすれば、「希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に溢れさせてくださいます」

 

さあ、今日からそういう信仰を持たせていただきましょう。


2021年10月10日礼拝メッセージです。

「レムナント(残れる者たち)」    

                              黙示録3章1ー6節

 

サルディスの教会に宛てた手紙の箇所です。その教会には、信仰的に死んだ者や死にかけている者たちがいましたが、そんな中でも衣を汚さなかった白い衣を着た者たちが残されていました。

 

2節「死にかけている残りの者たちを力づけなさい」

 

霊的に目を覚ましていなさい。霊的に死にかけているなら危ない!牧師は目を覚ますように力づけますが、自分自身でも努力する必要があります。忙しく厳しい状況にあっても心から主を愛して忠実に教会に出席し、日々御言葉を読んで力づけられましょう。

 

3節「どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り…」救われた日を思い出してみて、なんと素晴らしい日。喜びの日。その日からイエス様に従ってイエス様と共に歩んでいくなら信仰は成長していきます。しかし、イエス様から離れてしまったと感じたら悔い改めて主に立ち返りましょう。何もせずにただ見ているなら信仰の火は消えていきます。悪魔は火に水をかけますから、それでも火が消えないようにするには、力を尽くして油を注ぎ続けなければなりません。

 

4節「わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる」暗い時代にでも、イエス様を愛して従い続けているふさわしい者が残っています。狭い門から入り、まっすぐな道を歩みながら、最期まで世の汚れから自分自身を守っている者がいます。

 

5節「 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない」イエス様を信じた日、天にあるいのちの書に名前を記していただいた、それは何よりも大切な素晴らしい日。あなたの名前も記されていますか?


2021年10月3日礼拝メッセージです。

 「イエス様とサマリヤの女」      

                   ヨハネ4章1ー42節

今日の箇所は、イエス様とサマリヤの女性の話です。ユダヤ人は、サマリヤ人を嫌っていたので遠回りをしてでもサマリヤを通らず旅をしていました。しかしイエス様は、サマリヤを通り水を汲みに来た女性に話しかけました。イエス様は人種差別の壁を打ち壊したのです。貧しい人への差別、外国人への差別、障害者への差別…神様は一人一人をそのままで愛しておられます。私たちも認めあって偏見を捨て、互いに親切にしましょう。イエス様は、全ての人を「わたしのもとに来なさい」と招いておられます。

 

イエス様は霊的な生ける水について話されました。イエス様を信じるなら満足が与えられ、コップ一杯のまた渇く水ではない、心の奥底から永遠のいのちへの水が湧き出る泉が与えられるのです。

 

イエス様は彼女の必要を示しました。「あなたの夫を呼んできなさい」彼女には5人の夫があったが今は夫でない人と暮らしていました。そのことをイエス様は言い当てたのです。イエス様に隠すことのできるものは一つもありません。

 

どのように礼拝したらいいか、に話は移ります。多くの人は知らずに礼拝しています。自分自身を、家族を、お金を、仕事を礼拝している人もいます。偶像に手を合わせている人もいます。「御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」と。あなたの心は主に向いていますか?心からの礼拝を捧げていますか?このサマリヤの女はすべてを言い当てたイエス様を「預言されているキリスト」と信じました。彼女のうちから喜びが溢れ町の人々に伝え、そこでリバイバルが起きました。あなたにもあふれ出る喜びの証がありますか?


2021年9月26日礼拝メッセージです。

 「戸口で罪が待ち伏せていますか?」

創世記4章1ー15節、

(Ⅰサムエル15:22、箴言15:8、Ⅰヨハネ3:15)

 

今日の箇所には、アダムとエバの二人の息子であるカインとアベルが出てきます。カインは農夫でアベルは羊を飼うものでした。アベルは信仰をもって神様に捧げものをしましたが、カインには信仰がありませんでした(へブル11:4)。アベルは、へりくだって神様の御前に出ましたが、カインは「自分のやり方でいいでしょう」と血を注ぎ出すこともなく自分勝手な方法で捧げものをしました。神様は、アベルとその捧げものを受け入れましたがカインとその捧げものには目を留めませんでした。(Ⅰサムエル15:22)カインは、弟に対しても神様に対しても怒りました。6,7節「【主】はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」愛深い神様は、カインに語りかけ悔い改めのチャンスを与えたのですが、カインはその忠告に耳を傾けず無視しました。そして、アベルを野に連れ出して殺したのです。9節で神様は、再びカインに語りかけてチャンスを与えますがアベルは、「知りません」と嘘をつきました。次々と罪を重ねていきます11,12節でついに神様が、カインへの罰を宣告します。この時にも悔い改めのチャンスがありましたがカインは、罰は嫌でしたが心からへりくだって悔い改めることはなかったのです。「罪は戸口で待ち伏せしている」神様に心を探っていただきましょう。もし罪があれば、イエス様の十字架を見上げて信じ、罪の赦しと平安をいただきましょう。


2021年9月19日礼拝メッセージです。

 「救われるためには、何をしなければなりませんか」

                              使徒16章25-34節

イエス様の弟子であるパウロとシラスは、ピリピで福音を伝えていました。人々を愛し、神様を愛し、救いの道を説いていたにも関わらず捕らえられて鞭で打たれ、足かせをつけなられて牢屋に入れられました。そのような状況にありながらも、彼らは牢の中で祈りをささげ神様を賛美していたと言うのです。自分の力ではできないことですね。すると真夜中頃地震が起きて牢の扉が開いた(神様からの祈りの答えでした)。看守は、囚人が逃げてしまったと思って責任をとるために自害しようとしましたが、パウロが「自害してはいけない。みんなここにいる。」と告げました。看守は、神様の御業だ!と感じて「救われるためには何をしなければなりませんか」と尋ねました。その答えが、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(31節)です。天の栄光を捨て処女マリヤを通してこの世に生まれ、貧しさもさびしさも味わってくださり、十字架にかかってあなたや私の罪の罰を代わりに受けて死んでくださったイエス様。しかし、死なれただけではなく三日目によみがえられた、死に勝利されたイエス様を私の救い主と信じるならだれでも救われるのです。永遠の命を受け、いつまでも残る平安をいただくことができます。(藤井圭子師の救いの証)

 

使徒4章12節「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

あなたもイエス様を信じませんか?


2021年9月12日礼拝メッセージです。

「霊的な教会の特徴」 

               エペソ5章19-27節

 

今日の箇所でイエス様は花婿、教会(クリスチャン)は花嫁にたとえられています。

 

イエス様が望んでいる花嫁(教会)は、しみもしわもない聖なる教会です。(26節、27節)アダムのあばら骨から妻のエバがつくられました。イエス様が十字架にかかられたときに脇腹を槍で刺され、そこから血と水が流れました。イエス様が流された血潮によって私たちの罪は赦され、きよめられるのです。私たちはキリストの花嫁です。ドン・ボーマン師の証の中に「ブラシでこすって水で汚れをながし、心の隅々まできれいにされた」とありました。ヤコブ1章27節「…この世の汚れにそまらないよう自分を守る…」とあります。神様の役割とともに私たち自身の役割もあるのです。自分の心を守るために戦う責任もあることを覚えましょう。そのためには、毎日祈る、祈るための時間を作る必要があります。使徒4章31節には、弟子たちが一つ所に集まり、心を一つにして祈っていると聖霊に満たされたことが書かれています。聖霊の満たしは、一度でいいのではなく度々必要です。

 

イエス様が望んでいる花嫁(教会)は、感謝する教会です。(20節)

 

「いつでも」「すべてのことについて」感謝しましょう。良いものについても不幸と思えることについても、です。職場や学校や家庭で、不当な扱いを受けていても、そのことをも感謝しましょう。ローマ8章28節にあるように、神様はそれらをも益と変えてくださるのです。

 

イエス様が望んでいる花嫁(教会)は、心から礼拝する教会です。(19節)どんな状況にあっても心から礼拝を捧げましょう。岩国教会が、聖く感謝に溢れる、心から礼拝する教会でありますように!


2021年9月5日礼拝メッセージです。

「イエス様はあなたに休息を与えられます」マタイ11章28-30節

 

あなたは日々の生活に疲れていますか? 罪を感じて罪悪感に苛まれていますか? 悲しみや苦しみ、病気で苦しんでいますか? イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(28)とおっしゃっています。ジョン・バンヤン著「天路歴程」には、天国までの旅をした一人の人が出てきます。その人は背中に背負っている重荷をおろしたくて旅に出ます。途中伝道者と出会って十字架の所に行けばおろせると聞き、ついにそこにたどり着き、十字架を見上げた時に背中からその重荷が転がり落ちました。あなたもイエス様に出会うと、そして十字架を見上げると罪の重荷もその他の重荷もおろすことができて休むことができる、喜びを受けることができます。その後、「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(29)とあるように、イエス様と一緒に愛のくびきを負い、イエス様に信頼してイエス様のペースで歩み、イエス差が右に曲がれば右に、止まれば止まる…そのように一緒に歩みながらイエス様から学んでいくと正しい歩みをすることができ、「たましいに安らぎを得」ることができます。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(30)イエス様はあなたの弱さもご存知ですから、「もう一歩も前に進めない」という時には、親が子を抱き上げるように、しばらくの間イエス様があなたを抱き上げてくださいます。イエス様を信じて十字架を見上げ、イエス様のくびきを負ってイエス様につき従い、第一の「休み」も第二の「たましいの安らぎ」もいただきましょう。あなたも今日求めませんか?