2022年6月19日礼拝メッセージです。

「クリスチャンホーム」 創世記35章1-4節

 

クリスチャンホームはとても大切です。クリスチャンホームが強く立っていたら教会も国も強くなります。ヤコブには13人の子供がいて大家族でした。ヤコブは日々忙しく弱さのある父親でしたが、今日の箇所を読むと彼の家庭にリバイバルが起きたことがわかります。「家庭にリバイバル」家庭の秩序は、神様が一番、父親がその次、そして、母親、子供の順で保たれます。それが神様の御心であることが聖書からわかります。家庭の柱であるお父さんがしっかりとした信仰をもって強いリーダーになると家庭が祝福されます。お父さんは家庭の霊的責任者です。神様はヤコブにベテルに戻るように言われました。「ベテル」はヤコブが以前兄エサウを恐れていた時に天使が上り下りしているのを見たところであり、ベテルの意味は、神の家です。そこに戻りなさい、「最初の信仰に立ち返りなさい」と言うことです。また、神の家「ベテル」は教会とも言えます。アメリカではたくさんの集会がありますが日本では少ない…礼拝、夕拝、祈祷会、祈り会。家族で教会に来て霊的な影響を受けることはとても大事です。世的な影響をたくさん受けていますからできるだけ教会の集会に集って霊的な影響を受けなければバランスがとれません。しかし、教会の集会だけではまだ足りません。神様は、ベテルに祭壇を築くように言われました。家族と礼拝しなさい、と言うことです。家庭礼拝(家拝)が必要です。子供たちと一緒に毎日神様を賛美し、暗唱聖句をし、聖書を読む、祈る…。家族が救われてクリスチャンとして歩む責任はお父さんにあることを覚えましょう。2節では偶像を捨てるように言われました。神様より大事なもの、それが偶像です。お金?仕事?子供…?神様より大事になっていませんか。また、神様は「身をきよめなさい」とも言われました。家の中に何を持ち込むか、家庭のルールを決めて家庭をきよく守ることもお父さんの役目です。お父さんの責任は多いですね。その中で一番大切なことは家族の信仰を守ることです。神様の力によってできます!


2022年6月12日礼拝メッセージです。

      「クリスチャンの祝福」

   詩篇34篇8節 ローマ5:8 マタイ9:2  ヨハネ14:16 

   へブル9:14 13:5  黙示録21:3-5 

 

私たちは祝福されているクリスチャンです。「数えてみよ 主の恵み」クリスチャンの祝福について考えてみましょう。神様はあなたを昨日も今日も明日も変わらず愛しておられます(ローマ5:8)罪人であった時でもご自身を与えて下さるほどに愛してくださり、今も愛していてくださいます。神様は、私たちの罪を赦してくださいます(マタイ9:2)だれでも、どんな罪を犯した者でも、傲慢な者でも、神様の御元に来ると赦されます。そして、神様はその罪を二度と思い出さないと約束してくださっています。聖霊様を送ってくださいました(ヨハネ14:16)自分の力でやろうとしても絶対にできませんが、聖霊様の助けがあればできます。聖霊様は、いつでも、どこでも、だれにでも続けて助けることがおできになります。聖霊は、助け主、慰め主、とりなしの祈りをする方、横にいて一緒に歩いてくださる方です。スッキリした良心をもつことができる クリスチャンも以前に罪を犯したことがありますから良心は汚れていました。しかし、その汚れた良心を神様の所にもっていったとき、罪赦され良心も新しくされました。安心してぐっすり眠ることができるようにされたのです。ですから、その新しい良心を守るために良心を訓練し、何か間違ったことをした時には「ごめんなさい」とあやまることはとても大切です。イエス様は私たちと一緒にいると約束してくださいました(へブル13:5)「決して捨てない」と続けて手を握っていてくださいます。天国の希望があります Ⅰコリント13章に、私たちは今ぼんやりとしか見えていないけれど、ある日はっきりと見えるようになると書いてあります。天国は今思い描いているよりはるかに素晴らしいところであり、いつかそこに入ることができるのです(黙示録21:3-5)その他にも、クリスチャンの祝福はたくさんあります。問題ばかりを見るのではなく祝福について考えて主を褒めたたえましょう。


2022年6月5日礼拝メッセージです。

       「イザヤの聖め」  イザヤ6章1-8節

イザヤ6:16,18, マタイ1:21 ローマ6:6 エゼキエル36:25-27 

 

創世記から黙示録までの間全てで聖霊様の働きを見ることができます。使徒行伝2章には、イエス様のお言葉に従って祈っていた弟子たちの上に聖霊が降った素晴らしい出来事が書かれています。そして、今日の箇所からも聖霊の働きが分かります。

 

ウジヤ王が死んだ年にイザヤは幻を見ました。イザヤは預言者であり、つまり神様を信じるクリスチャン、救われていた、説教もしていた。しかし、自分の力で頑張っているけど足りないと感じていました。そんな時、幻を見、神様の栄光を見たのです。①神のきよさ 幻の中で、セラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる…」と言いました。一度も罪を犯したことがない、嘘をついたこともない、完全なきよさをお持ちである神様。自分の頑張りなど比でもない。②イザヤの問題 神様のきよさを見ると、自分などダメだ、汚れている、足りない…と恥ずかしくなりました。ローマ7章を読むと、パウロも同じように、自分は良いことをしようとしてもできない、心のうちに戦いがあり惨めだと告白しています。その解決は8章にありますので読んでみてください。救われる時罪を告白して悔い改め、赦されます。きよめられるためには、罪の行いを告白するだけではなく、自分自身の心の中の汚れを見、自分の力ではどうにもできないと告白する。そうすると、聖霊様が近づいてきてくださいます。③イザヤのきよめ 天使が燃える炭火をとってイザヤの口に触れました。マタイ3:11 罪の根を聖霊様が火で燃やしてきよめてくださいます。自分の力がゼロになり、天のお父様の力、イエス様の血潮、聖霊様によってきよめられるのです。罪の根は赦されることはできず、イエス様と一緒に十字架につけて殺さなければ(燃えつくされなければ)なくなりません。殺さなければ問題は続き、内なる戦いは終わりません。今日はペンテコステ、救いの日、きよめの日です。時間をかけて祈りながら心の内を探り、祈り求めましょう。


2022年5月29日礼拝メッセージです。

「なぜ人は救われる必要がありますか?」  

 ローマ5章12節マタイ25:31-34,25:41, ルカ18:10-14,

   ロ−マ5:8, ヘブル11:31, Ⅱコリント6:2

クリスチャンが罪を犯すとどうなるのでしょうか。ペテロはクリスチャンでした。3年間イエス様と共にいていつもイエス様の側で多くの奇跡を見聞きし、一生懸命従っている人でした。しかし、彼でも罪に落ちました。イエス様が捕らえられた時怖くなって「イエス様など知らない」と3度も否定してしまったのです。イエス様から離れると救いからも離れてしまいます。罪赦された者はまた再び罪を犯さないように気を付けなければなりません(ヨハネ5:14,8:12)。しかし、もし罪を犯してしまったらどうなるのでしょうか。それで終わりでしょうか。もう希望はないのでしょうか。そんなことはありません。神様はあわれみ深いお方です。罪を犯してしまったら恥ずかしいからと隠すのではなく(Ⅰヨハネ2:1)、神様に告白して赦しを求め、悔い改めましょう。そうすればイエス様の十字架の血潮によって赦されます。

 

ダビデ王様は素晴らしい信仰を持っていました。若い時から神様を愛して従い、王様になりました。しかし、民たちが戦っている最中、自分は戦いに行かずに家の屋上でリラックスしていた時、人の妻が入浴しているのを見て姦淫の罪を犯しました。その上その罪を隠すために彼女の夫を激戦地に送り込んで殺し、彼女を自分の妻としたのです。9か月後、預言者ナタンがダビデの所に遣わされました。ナタンはダビデ王様の罪をはっきりと指摘しました。その時、ダビデは「私は罪人です」と告白して悔い改めました。その告白が詩篇51篇に記されています。罪を隠していると苦しいですね。神様との交わりがない、喜びもない、教会で証しできない、祈りも楽しくない…。しかし、罪を告白して悔い改めると罪赦されて神様との関係が回復します。その後きよめられると、罪を犯す可能性がなくなるわけではありませんが、聖霊様が心に留まってくださるので罪を犯す可能性は低くなります。今朝どうでしょうか?罪を隠しているなら是非神様に告白しましょう。神様は豊かに赦してくださいます。


2022年5月22日礼拝メッセージです。

      「なぜ人は救われる必要がありますか?」  

                  ローマ5章12節 マタイ25:31-34,25:41,

      ルカ18:10-14, ロ−マ5:8, ヘブル11:31, Ⅱコリント6:2

 

今日は「なぜ人は救われる必要があるのか」について考えてみましょう。すべての人は罪を犯したからです(ローマ5:12)アダムとエバから始まって罪は全人類に広がりました。神様のことを理解できない小さな子供や知的障害のある方は、神様の憐れみによって救いがあります。必ず天国に行くことができます。しかし、その他の人には罪があります。行いによる罪だけでなく心の中にある隠れた罪、憎しみ、妬み、傲慢…。罪の赦しはイエス様の血潮以外にありません。罪の罰は、神様から離れて地獄に行くことだからです(マタイ25:31)人は死んで永遠の時が始まるときに天国か地獄かに分けられます。地獄は、もともとサタンと悪霊のためにつくられた所ですが、神様のいない所であり光がない良いものの何一つない所です。良い行いによって地獄から救われることはないからです(ルカ18:10-14)世の中に良い人はたくさんいます。親切な人、礼儀正しい人、…しかし、例えば、良いことが100あって罪は一つだけという人が天国に入るなら天国には何百万の罪が入ることになりこの世と何ら変わりない所になってしまいます。神様は、イエス様をこの世に送って下さり、イエス様が十字架にかかってくださることによって救いの橋を備えてくださったのです。神様の愛を感じることができるためにも救いが必要です(ローマ5:8)救われて罪が赦されるとイエス様の愛を感じて心に平安がきます。私たちが罪人で神様に反抗していた時にも神様は愛してくださっていました。そして、今もこれからも愛してくださっていますが、救われて罪が取り除かれてスッキリすると、神様の愛を感じて神様との交わりが楽しくなります。神様との関係がないと真の可能性をもてないからです(へブル11:31)遊女ラハブは信仰によって救われ家族も救われ、イエス様の系図に名を連ねることになりました。神様を信じて救われるか、続けて自分勝手な道を進んでいくのか、選択するのはあなたです。Ⅱコリント6:2 今はチャンスがありますが明日のことは分かりません。祈りましょう。


2022年5月15日礼拝メッセージです。

「最後まで神様の愛で続けましょう」   マタイ24章12-14節

 

12節「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。」

悪が増大しています。一年一年世は悪くなっています。気を付けていなければ神様への愛はどんどん冷めていきます。温かい教会にいると神様の愛を感じて大丈夫・・・でも月曜日からは?冷たい中にずっといると自然と愛は冷めていくのです。どんなに忙しくても祈る時間をとって、聖書を読んで神様との関係を保ち愛が冷めないように気をつけましょう。

13節「 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」

救われたときにすべての罪が赦され感謝。しかし、そのまま生活していくと神様に従いたいのに従いたくないという気持ち、すなわち罪の根があることに気づきます。ローマ6章にあるように、その罪の根をイエス様の十字架につけて滅ぼしていただくときよめられて、聖霊様が心のうちに住んで下さり、神様の愛のしもべとなります。本当に素晴らしい!しかし、時間が経ってきて、忙しすぎて、聖書を読まない、祈らない生活が続くと、鳩のような聖霊様は「あー、忙しいんだ。時間がないんだ。寂しいなー。」と少しずつ少しずつ離れて行かれます。救われました。きよめられました。しかし、最期の救いは死ぬときに天国に行くことです。途中で信仰をなくしたら…最後の救いはないのです。自分の力が失われていることに気づかず戦いに出て行ったサムソンのように…悲しいことです。救われる前の状態に戻ってしまった、いや、前以上に悪くなる可能性もあるのです。愛が冷めないように必死になりましょう。私たちの愛が冷めないように、時に神様は試練や困難を許します。目覚めて必死に祈るためにです。ですから、困難に直面するとき文句を言うのではなく、神様の愛に感謝しましょう。

14節 時間がある今伝道しましょう。

救われている私たちが伝道しなければ誰がするのでしょう。あらゆる方法を用いて人々にイエス様のことを伝えましょう。トラクトを手渡すことも毎日やると簡単になってきます。心を尽くして伝えましょう。


2022年5月8日礼拝メッセージです。

「テモテのお母さん・・・真実の信仰」    Ⅱテモテ1:5

 

テモテの信仰は、母ユニケと祖母ロイスからつたえられてきました。私たちも子供や孫たちに信仰を継承していきたいですね。

 

「偽りのない信仰」・・・すばらしいですね。表裏がある信仰ではなく、浅くなく、日曜日だけの信仰でもない本当の信仰。それは、一歩ずつ神様に従っていって得られる信仰です。さて、お母さんの仕事はたくさんあって終わりがないほどです。家事や育児、時には子供たちの間を裁く裁判官、カウンセラー等々、クリスチャンの母親であればその上に子供たちと一緒に聖書を読んだり祈ったり、教会に連れて行ったりと責任は増えていきます。「あー、責任が多すぎる。疲れた。もうできない。」という時に助けになる御言葉・・・「しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」イザヤ40:31神様の御前に跪いて祈り求めると必要な力をいただくことができます。テモテの母親は、主の教育と訓戒によって子供を育てることが一番大切なことと考えていました。母親は、暗い罪の世の中にあって子供たちが安心できて一息つくことのできる存在です。アブラハム・リンカーン、ジョージ・ワシントン、ジョン・ウェスレーのお母さんたちは、子供に祈り、聖書を読むことを教え、聖書に基く訓練をし、子供たちを愛して育てました。母親の素晴らしい影響によって世の中を変えたのです。聖書に出てくるヨケベデやハンナは息子であるモーセやサムエルと数年しか共にいなかったにもかかわらず、神様への信仰をしっかりと伝えました。彼らは大きくなっても母の教えから離れませんでした。「ゆりかごを動かす手は、世界を支配する手です」母としての仕事は、神様の御前でとても大切な仕事なのです。自分の力ではできません。神様の力が必要です。Ⅲヨハネ1:4「私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。」家族の救いのため、クリスチャンホームが起こされるように一緒に祈っていきましょう。お母さんたちの祝福を祈ります。


2022年5月1日礼拝メッセージです。

     「サタンの嘘…神の真実」 

          エペソ6:12. ヨハネ8:44. ヨハネ8:31

 

サタンは創造主ではないので何かを創造することはできません。

ですから、サタンは神様が造ったものを壊す、嘘を混ぜ込む、ちょっと曲げて変えて悪くします。サタンは嘘つきの専門家です。逆に、神様は嘘をつくことができません。神様は真理です。私たちには二つの世界観、考え方、方法があります。サタンの嘘を信じて生きるか、神様の真実を信じて従って生きるか・・・。この二つの世界観のうちのどちらかで歩んでいます。クリスチャンはいつも悪魔の嘘と戦っています。ニュースや報道、学校での教え、職場環境、いたるところに悪魔の嘘が潜んでいます。本当のことにちょっと嘘が混ぜ込まれている・・・聖書と照らし合わせて見分けなければ、クリスチャンでも嘘を信じてしまう危険があります。悪魔の嘘の一つは、「人間は何もないところから少しずつ進化して今に至った」という進化論です。250年前くらいにこの考え方が出てきました。しかし、この考え方を信じるなら神様はいないことになります。聖書は、創造主がおられて全てを造られたと教えていますから、この両方を信じることは無理です。このサタンの嘘を信じてしまうと、私たちは動物よりちょっと高等な動物、何をしてもいいでしょうとなります。この世のことだけなら思い通りにいかなくて希望をなくしたら自殺するしかない、となります。そんな人が多くいます。それは違いますね。創造主が創り、いのちを与えて下さったから人間は特別です、良い仕事があってもなくても、思い通りの大学に行けても行けなくても、神様がおられるから大丈夫、神様が道を備えていてくださいますから。神様の真実は創世記1章27節にあります。二つ目のサタンの嘘は、「からだは自分のものだからなにをしてもいい」というものです。麻薬、アルコール、入れ墨、不品行、気持ちよければ何をやってもいいんじゃない・・・。神様の真実は、Ⅰコリント6章19節にあります。三番目の嘘は、「あなたの人生は、美人じゃないと、お金持ちじゃないと、賜物がたくさんないと無駄、価値がない」というものですが、神様の真実は、Ⅰペテロ3章4節にあります。サタンの嘘を信じないで!!  ゼパニヤ3章17節も読んでみてください。


2022年4月24日礼拝メッセージです。

「安息日を覚えて、聖なるものとせよ」

      出エジプト20章8-11節、黙示録1章10節

安息日に関するこの戒めは、戒めの中で最も長く説明してあることから、それだけ大切な戒めであることが分かります。6節には「6日間働いてすべての仕事をしなさい」と書かれています。アメリカでは最近働かずに怠けて暮らしている人が増えていて問題になっています。働かず時間がありすぎると誘惑が多くなりますから、一生懸命働くことは良いことです。

月曜日から土曜日まで働いて、日曜日は仕事を休む、この日は他の日とは全く違う日です。日曜日は自分の日ではなく「主の日」、特別な日ですから、その一日を主に捧げましょう。この日を「聖なる日」として守りましょう。霊的なことを考えて主を礼拝しましょう。神様が天地を創造されたとき,七日目には休んで、創造した全てのものを見てこれを「良し」とされました。私たちも日曜日には休んで創造主を見上げて礼拝しましょう。日曜日は一日中主の日、聖なる日です。また、この日は休む日です。機械でも働き続ければ故障します。私たちも休まず働き続けると健康が損なわれます。ですから、日曜日に休むことは私たちの健康のためにも必要なのです。神様は私たちのために計画してこの日を休みとされました。神様の計画されることは最善です。マタイ12:12「…安息日に良いことをすることは、正しいのです」教会に来ること、人を助けること、病気の人を見舞うこと・・・これらは日曜日にしてよいことです。6日間働いて収入を得て、7日目は休む・・・特例は、医者、消防、警察、看護師など人のいのちに係わる仕事です。神様に従うと必ず祝福されます。私たちは、経済的にも神様に信頼することができます。そのようにした人や企業は祝福されて、日曜日を休みにしてもそれ以上の収入を得、利益をあげています。  

 今日は「主の日」、これを聖なる日として守り、からだを休めましょう。神様に従うなら、神様の笑顔があり、私たちは元気になります。創造主の計画に従うと健康になり、全てが良い方向に変わり、祝福されます


2022年4月17日礼拝メッセージです。

「いのちの創造主、イエス様」   ヨハネ11章25,26節

イエス様の親しい友人であった。ラザロが病気になりましたがイエス様はわざわざ遅れて来られました。しかし、イエス様の時はいつも丁度良い最善の時であることを覚えましょう。

①イエス様はこの天地全てにいちのを与えました。光、酸素、重力、小さな原子、大きな星…これらすべてを造ったのは神様です。イエス様はいのちです。だからこそ、イエス様が十字架で死なれたときそれは終わりではありませんでした。弟子たちはそのことを忘れて恐れました。私たちは?クリスチャンにとって死は終わりではありません。②イエス様は死人にいのちを与えることができます。イエス様は、死んで四日もたっていたラザロを生き返らせました。イエス様は病気の人をいやすだけでなく死んだ人を生き返らせることができます。だから、イエス様が十字架で死なれたとき、それはすべての終わりではなくはじめ、救いのはじめでした。十字架は悪いものではなく私たちの救いの形、はじめです。サタンはイエス様が死んだとき「イエスに勝った」と思いながらも不安だったことでしょう、「三日目によみがえると言ってたな」と。そして、イエス様は本当によみがえり、お墓は空っぽになりました。③イエス様は私たちの魂にいのちを与えることができます。体が強くて元気でもイエス様を信じて救われていなければ魂は死んでいます。しかし、イエス様は、その魂(霊)にいのちを与えることができます。深い罪におぼれている人でも、イエス様を信じて救われたらその人の人生、全てが変わるのです。

イエス様のお墓は空っぽです。イエス様はよみがえられました。イエス様は死に勝利し、地獄よりも力があり、墓よりも強く、罪より恵みがあり、サタンより力がある。クリスチャンは、地獄を恐れなくてよい、イエス様がそのすべてをとってくださったから。お墓を怖がらなくてよい、魂(霊)は天国にいくから。罪は強くひどいものだが、神様の恵みによって日々勝利! サタンは強く私たちは自分の力で勝てないが、イエス・キリストの十字架とよみがえりの力により勝利できる。今日はお祝い、喜びの日、ハレルヤ!!


2022年4月10日礼拝メッセージです。

「アブラハムの礼拝」創世記221-13節 詩篇956節、Ⅱ歴代誌2021,22

アブラハムは神様に信頼して歩み、祝福されてお金持ちになり、しもべもたくさんいました。そしてついに百歳になって息子イサクを与えられました。神様は、アブラハムが神様と息子イサクのどちらを第一にするか試されました。①礼拝はオプションではなく必要なことです。神様はアブラハムに何度も祭壇を築いて礼拝するように語り、アブラハムは神様に従いました。私たちも心の祭壇を築いて神様を礼拝しましょう、自分勝手な道を歩んでいると生かされている意味がありません。イエス様は私たちを罪から贖うためにすべての血を注いでくださいましたから、私たちはこのお方を礼拝するべきです。このイエス様によって私は全く変えられました。感謝と喜びに溢れます。主を賛美し、主を礼拝します。②まことの礼拝には代価が伴います。クリスチャンになろうとすると家族が反対するかもわかりません。友達の誘いを断らないといけないときもあるでしょう。あなたはどちらを選びますか?神様を礼拝することを選びますか、それとも家族の気持ちや友達、習い事などを選びますか?まことの礼拝を捧げようとすると、代価がともないます。③まことの礼拝には従う心が必要です。アブラハムはイサクを捧げるように神様に言われたとき、文句も言わずすぐに従いました。私たちも従う心があれば心から喜んで礼拝することができます。従う心がなければ、賛美するときもメッセージを聞く時も本当に喜ぶことができません。本当の礼拝を捧げることができません。④まことの礼拝には報いがあります。祝福されます。アブラハムも祝福されました。この世にはたくさんの問題課題がありますが、クリスチャンの心はそんな中にあっても深い平安と喜びを持つことができます。この世が与えることのできない平安です。Ⅱ歴代20:2122を読むと、小規模の軍でありながら、武器を用いることなく、賛美によって勝利したことが記されています。凄いことですね。私たちは?問題がある時自分の力でなんとかしようとしますか、それとも主を賛美して主の力によって勝利しますか。私たちも主に従ってまことの礼拝を捧げて、報い祝福をいただきましょう。

 


2022年4月3日礼拝メッセージです。

「私は乏しいことがありません「詩篇23篇1節、ピリピ4章11節、へブル13章5節

「 【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」詩篇23:1

 私の羊飼いはイエス様、私は満足です。この詩篇を書いたダビデは王様になる前、サウル王に命を狙われて逃げ回らなければならなかった、野山を逃げ回りゆっくり休むこともできない、そのような状況にありながらも、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と言ったのです。黙示録に出てくるラオデキヤの教会は何も足りないものがない豊かな状態でしたが、イエス様は「あなたは貧しく、惨めで、目が見えず、裸である」とおっしゃいました。イエス様は心をご覧になります。彼らは霊的に貧しく惨めだったのです。この詩篇の言葉は、お金持ちであることを言っているのではなく、イエス様がお世話してくださるので、乏しいことはない、イエス様が何でも持っておられるから心配ない、お任せして平安であり満足です、と言う意味です。人は二人の主人に仕えることは出来ません。私たちはイエス様にお世話してもらっているのでなければ、悪魔に指導されているのです。天国への道にはガードレールがあり、ある人はそれを嫌がります。しかし、そのガードレールは罪に落ちないために、あなたや私を守るためにあるのです。悪魔の子であるなら、ガードレールはなく、代わりに鎖につながれています。イエス様は良い羊飼いで、良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。イエス様は十字架でご自分のいのちを捧げてくださいました。そこまでしてくださる羊飼い、イエス様が備えてくださるものをいただきましょう。満足することができます。へブル13:5欲を捨てて今持っているもの、与えられているもので満足しましょう。また、イエス様はあなたを見捨てず見放さないとも約束してくださっています。シンプルで謙遜なクリスチャンは、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と言うことができます。二心のクリスチャン、あなたにも解決の道があります。自分を捨て、神様の深い愛を下さい、神様の導きに全く従います、と祈って神様に従いましょう。そうすれば、あなたもダビデとともに「…私は乏しいことがありません」と言うことができるようになります。


2022年3月27日礼拝メッセージです。

「主は私の羊飼い」 詩篇231節、ヨハネ1011

「 【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」詩篇23:1

  主は私を造ってくださった創造主ですから、私の羊飼いです。

全ては主によって造られ、私たちも主に造られましたから、主は私の良い羊飼いです。必要を備えてくださり、守って下さり、約束を必ず守られます。私たちはこの良い羊飼いに自分のことも家族のことも全てお任せして頼ればいいのです。羊は自分を守る武器を持っていません。ひっくり返されると赤ちゃんのように何もできない、速く走ることもできない。私たち人間も弱く、愚かで、それぞれ自分勝手な道をさまよっていた者です(イザヤ53:6)イエス様は迷子の羊のような私たちを探して救うために来てくださいました。イエス様を信じて救われ、悪を避け、主の助けによってきよい歩をしている者は、羊飼いである主の声を知っていて主について行きます。

 

②主は私の身代わりとなって十字架にかかり、私の罪をあがなってくださいましたから、私の羊飼いです。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」ヨハネ10:11 一度も罪を犯したことのない神の一人子なるイエス様がご自分の命を捧げてくださったのです。それによって、私たちは永遠のいのちをいただくことができました。十字架で死んでよみがえられたイエス様は、今天におられて私たちのためにとりなしの祈りをしてくださっています。そして、助け主なる聖霊を送ってくださいました。クリスチャンになると自由がなくなると恐れている人がいますが、実は逆で、本当に自由にされるのです。イエス様は深い愛をもっておられ、誠実で、正しく約束を守るお方です。ここまで人に影響を与えた方は他にいません。最後に、主の羊には印が押されます。他とは違うのです。牛などに焼き印が押されることにより誰が所有者であるかわかるように、私たちがイエス様の羊となるとき心に焼き印を押されます。旧約時代に奴隷としての期間が過ぎても主人の所にとどまりたいなら耳に印をつけ、愛の奴隷(しもべ)となることができました。無理やりにではなく、愛ゆえに。あなたは主の愛のしもべですか?

 


2022年3月20日礼拝メッセージです。

 

「イエスから目を離さないでいなさい」マタイ14:22-33、へブル12:2

 

二匹の魚と五つのパンから男だけで五千人が食べて満腹するという素晴らしい奇跡が行われました。私たちが小さなものをイエス様に捧げると、イエス様が増やして十分に用いてくださるのです。その後、イエス様は弟子たちを舟に乗り込ませて、向こう岸に行くように言いました。弟子たちはイエス様のお言葉に従って舟を出しましたが嵐にあいました。

◎神様に従っていても嵐に遭遇する…「神様に従っているのになぜこんなことになるの?」と疑わないように気をつけましょう。◎イエス様は山の上で祈っていた…イエス様は私たちの模範です。何でもできるイエス様が一人になって祈っていたのであれば、私たちはどれほど祈りを必要としていることでしょう。また、私たちが一番苦しい時、イエス様が私たちのために祈っていてくださることを忘れないようにしましょう。◎全知全能の神様がすべてを見ておられて助けてくださる…弟子たちが恐れ叫んでいた時にイエス様は来て下さり、「わたしだ恐れることはない」と言ってくださいました。その言葉を聞いた時弟子たちは安心したのです。ペテロは「イエス様だったら私に来なさいと言ってください。」と言い、イエス様は「来なさい」と声をかけてくださいました。ペテロは水の上を、コンクリートの上を歩くように歩くことができたのです。ペテロがそのままイエス様から目を離さずに歩いていたらおぼれかけることはなかったのです。私たちの目をイエス様からそらすものがたくさんあります。たとえば、ニュース、恐れや不安をかきたてられます。家庭内の問題、職場での問題。他の兄弟姉妹を見てしまい、「あの人はクリスチャンなのに…」と思いだすとそれもイエス様を見つめる妨げとなります。この世の快楽も。ペテロのようにこれらのものに目を奪われてイエス様から目を離していませんか?イエス様から目を離してしまって信仰が弱くなっているなら、ペテロのようにイエス様に助けを求めましょう。イエス様は助けの手を差し伸べてあなたを強めてくださいます。 


2022年3月13日礼拝メッセージです。

 

はるかにまさる道」 Ⅰコリント13

 

聖霊が心をきよめてくださる時、この全き愛に満たされてクリスチャンにふさわしい生活をすることができるようになります。

 

コーリー・テン・ブームはナチスの収容所での経験を「わたしの隠れ家」という本に書いています。彼女には妹がいましたが、その妹に酷いことをして死に追いやった兵士に戦後あった時、彼はクリスチャンになっていて握手を求めてきたのですが、彼女は「握手なんてできない」と感じました。しかし、「私には愛が足りない、神様の愛を下さい」と祈った時神の愛に満たされて心から握手することができた、と証しています。人間の愛ではできない事です。とても意地悪な人の隣に引っ越してきたクリスチャン家族の証:何度もひどい意地悪をされても良い行い、愛の行いで返し続けてついにその隣人は「負けた。負けた。あなたの愛に負けた。」と悔い改めて救われました。そのような愛がほしいなら、自分のすべてをイエス様に明け渡して、聖霊で満たして全き愛を下さいと祈り求めてください。(ローマ5:5、使徒15:8,9)このアガベの愛を持っているなら喜んで神様に従うことができます。

 

イエス様を信じて罪を告白して救われることは素晴らしい!!しかし、その後、自分の内の二心に気づく、心の中の戦い、神様を愛しながらも罪(世)に引っ張られる心があることに気づき苦しくなってくる。パウロは「古き人」とも呼んでいる。この古き人を持ったままでは悔い改めを繰り返すことになる。神様はこの古き人を十字架につけてきよめ、二心をなくし、全き愛で満たしてくださる。もしまだこの全き愛を持っていないなら、神様に求めて受けましょう。

 

2022年3月6日礼拝メッセージです。

「私の恵みはあなたに十分である」

Ⅱコリント12章7-10節、ヨハネ1章14-16節

 パウロは肉体的なとげを持っていました。私たちもそれぞれに悩みや痛み、苦しみを通る時がありますが、神様の恵みは十分です。救いの恵み、きよめの恵み、その他にも日々守ってくださる恵み、苦しみの中でも助けてくださる恵み…どのような状況にあっても神様の恵みが十分なので、苦しみや試練を通ってなお信仰が強くなることができます。

 

1、肉体的(精神的)弱さ…私の義理の妹のご主人は7年もの間ずっとひどい痛みを抱えていました。七年後に不思議な神様の御業によって癒されたのですが、「あの苦しい7年をないものとしたいとは思わない。その苦しみを通して私は更に深く神様の恵みを知ることができたから」と証しています。小児麻痺で体の自由を失ったある婦人は、それでもなお神様を信じてついには小さな日曜学校をバス35台かかえて5千人の子供たちが集まる日曜学校にすることができました。全ては神様の恵みによります。2、侮辱、苦悩、迫害の中にあっても…家族や職場の人々からの迫害を受け、陰口を言われることもあるでしょう。しかし、イエス様の恵みはその中にも十分です。ロシアでひどい迫害を受けても神様から離れることなく集会に集い続け輝いていたナターシャの証、ついには迫害していたリーダーのロシア人が救われ彼は殉教の死を遂げました。苦しみや試練のときに恵みを使ってしまっても、神様は恵みの上に更に恵みを与えて下さり、恵みがなくなってしまうことはないのです。信仰が弱った時にも、私たちが躓かないための守りの恵みも充分にあります。


2022年2月27日礼拝メッセージです。

「罪のひどさと神の憐れみ」ローマ1:21-31,6:23

 

今日の箇所には罪が列挙されていますが、その根本は「神を知っていながら神を神としてあがめない」ことから生じています。

 

皆さんは放蕩息子の話を知っているでしょう。弟息子は父親が生きているときに財産の分け前を求め、遠い国に行って財産を湯水のように使いました。お金も友達も食べる物さえなくなった時、父親のことやそこでは使用人でもちゃんとしたものを食べていることを思い出し、使用人の一人にしてもらおう、と我に返って父の家に帰ります。すると、父親は喜んで息子として彼を受け入れます。

 

 罪とは「神の命令(律法)を破ることです。1、罪の結果は自分自身に及ぶ。罪を犯している間は楽しくても、その結果は悲惨で決して楽しいものではない。2、罪の結果は自分自身だけでなく周りにも及ぶ。波紋が広がるように家族や親せき、友達にまで及んでいく。3、罪とは、神の命令を破ること。子供が親の言うことを聞かず悪を行うなら親はどんな気持ちだろう? 父なる神様は私たちを造り、愛しているので私たちが罪を犯すと神様の心は痛む。全てを知っておられる神様は私たちを愛しているので、私たちを守るために律法を与えている。4、罪を犯すとは、神を知りながら神を拒むこと。イエス様の愛を「私はいりません」と拒むことである。罪を赦してあげよう、永遠のいのちをあげようと言ってくださる神様を拒むことは愚かなことです。(イザヤ55:6、7)神様が近くにおられるうちに神様を求めて、神に立ち返りましょう。神様はあわれみ豊かな方です。

 


2022年2月20日礼拝メッセージです。

 

「聖なる生きた捧げもの」   ローマ12:1-2

 

神様は私たちのことを全て知っていてくださるあわれみ深い神様です(エペソ2:1-5)。以前は罪の中に死んでいた私たちを恵みによって生かしてくださいました。ですから私たちは自分の欲で生きるのではなく「あなたがたの体を生きたささげものとして捧げなさい」と聖書は教えています。旧約時代の捧げものはしみもしわもない完全なものでなければなりませんでした。頭だけ手だけという部分的なものでもなく…私たちは? 「頭のてっぺんからつま先まですべてを神様の栄光のためにお使いください」と捧げているでしょうか? 「いつでも何でも神様のみ心のままに」という準備ができていますか?「聖なる」捧げもの…自分の心を自分で聖くは出来ませんがイエス様の血潮で聖くしていただくことができます。「ふさわしい礼拝」…日曜日だけのクリスチャンではなく、全てを神の栄光のために行う。「この世と調子を合わせず」…周りの人に考えを合わせるのではなく聖書の言葉に合わせる。見るもの聞くものから影響を受けることを覚えて注意する。「心を新たにすることで、自分を変えていただく」…幼虫からさなぎになり蝶になるとき努力が要るもように、私たちも救われるとき、心はすぐに変わるが考え方はすぐには変わらない。自分でも努力して考え方を御言葉や、祈りにより、また信仰良書により、教会生活によって新たにしていく。(ピリピ4:8)すべての真実なこと、正しいこと、きよいこと…このようなことに心を留めているなら鬱になることはない。私たちは神が代価を払って買い戻してくださったのですから自分のものではなく神様のものです。それを忘れず自分自身を神様に捧げて神の御心を行い生きましょう。

 


2022年2月13日礼拝メッセージです。

「あなたの信じる通りになれ」   ヨハネ4章43-54

 

サマリヤ滞在の二日後、イエス一行はやっと目的のガリラヤに向かうのです。ここでイエス様が語られた気になる言葉があります。(44)「預言者は自分の故郷では尊ばれない」…これどういうことか分かりますか?「先入観」ですよ。「あれはだれだれの子どもで、小さい時から知っている…」「あれは同級生で、とても預言者になるような奴じゃない」という先入観となり、そういう目で見る場合、あのイエス様でも、受け入れられないということが実際起こったわけです。これは、先入観から、不信仰に至る…仕組みです。ですから、私たちでも故郷では尊ばれない…ということは起こっても不思議はないのです。ところが、ガリラヤに来てみると、皆が歓迎したというではないですか…エルサレムで行われたわざを見ていた人たちがたくさんいたからです。ですから、ここでは、先入観でも、信仰と期待の先入観だったのです。そういう先入観で見ていると、神様の御業は次々と起こされていくわけです。さあ、私たちはどういう先入観、信仰をもって今の礼拝に臨み、また日々の実生活に臨んでいるでしょうか?「大した事ない」「いつものこと」…という先入観、信仰なら、何も得ることはないでしょうね。でも、主に期待して見ているなら、何かをいただくことができますよ。またこのことは「子育て」にも言えることです。「この子はこういう子」という先入観を持っていると、その子供のそれ以上のものが見えなくなる…成長、意外性、可能性を見てあげられなくなりますからね。将来と可能性を親が気が付かないがゆえに潰してしまうこともあるのです。同じ持つなら、「信仰と期待」でありたいですね。


2022年2月6日礼拝メッセージです。

 

「生ける水が溢れ出した人たち」   ヨハネ427-42

 

先回見たサマリアの女性がイエス様とお話しして変わりました。以前の彼女は自分の罪深い生活のゆえにあまり町の人々と会いたくないと思っていたのか、わざわざ人が集うことのない昼日中に水を汲みに来るというパターンの生活をしている人でした。寂しく、心も荒れていたのかもしれません。何をやっても満たされず、良かれと思ってすることも裏目、裏目に出る…という人生だったのかもしれません。でも、そんな彼女が水瓶を置いたまま町の人たちの所に知らせに行ったのです。「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか」と…えらい変わりようです。こういうのが聖書的な人の変わるという定義です。「聖人君子」、「完全無欠」になることではありません。これは誰もがイエスを信じ受け入れるだけで体験できる変身なのです。それはサマリアの町の人たちにも起こされました。彼らは言います「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです」と…これがリバイバルというものです。一方イエス様は弟子たちには、食事のことや種まき、刈り入れのことなどを通して、霊的な物事の見方を教えられたのでした。天国のことや霊的なことは、この地上の日常、身近なものからもその真理が教えられるのです。イエス様は今でもそれらを通して、私たちに教えてくれていますよ。ボーッと「当たり前」の価値観で生きるのでなく、それらのことにも目と心を向けさせていただきましょう。生ける水は今もイエス様を信じ受け入れる者のうちからあふれ出します。

 


2022年1月30日礼拝メッセージです。

 

「永遠のいのちへの水が湧き出る」   ヨハネ41-26

 

 今日の箇所はとても有名な「サマリアの女との対話」という箇所になります。はじめに、ぜひともイメージしていただきたいことがあります。それはこの女性像です。現在離婚歴のある方のことをよく、「バツ一」「バツ二」などと呼んだりしますが、それで言えば、この女性は「バツ五」で、しかも現在「同棲中」という人なのですね。それゆえでしょうか、近所の人たちとは顔を合わせたくない感じだったようです。一方4節には「しかし、サマリアを通って行かなければならなかった」…これはこの女性と出会うことが意図されたかのような書き方ですね。いいですか皆さん、イエス様はすべての人のことをよくご存じで、一人一人にチャンスを与え、イエス様の方が時を作り、一人一人と出会うようにしてくださっているのです。

 

「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(1314クリスチャンの皆さんがいただいた救いというものには、この要素が含まっているのです。もし信仰していても、心が空しいとか、面白くないとかいうのなら、何かが間違っていますよ。歯車がかみ合ってないですよ。

 

25,26)女性がキリストのことを話しすると、イエスは答えます「あなたと話しているこの私がそれです」…すごい。イエス様はっきり言って下さったのですね。でもこういうやり取り、あなたも体験してください、主は今もあなたにもそう証してくださいます。


2022年1月23日礼拝メッセージです。

 

主に祝福される人」  ヨハネ322-36

 

 ここにはいくつかのことを通して「主に祝福される人」の特徴が私たちに示されています。

 

1、  バプテスマのヨハネの模範です。

 

彼の考え方、物事のとらえ方、そして生き方は、幸いな人そのものです。(27,28)「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。」『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』(30)「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」彼は謙虚な人であり、自分の立場をしっかりわきまえている人でした。こういう人は幸いな人なのです。私たちもこのヨハネの模範に倣いましょう。

 

2、  イエスを信じ受け入れた人たちのことです。

 

人の本性のうちに(ほしいままに、思うままに)生きていたら、人は決してキリストのもとに来ません、いや、来ることができないのです。ですから、こうしてキリストのもとに来くることができたあなたは本当に幸いな人なのです。

 

3、  イエスを信じて永遠の命をいただいたこと、聖霊の印が押されていること。

 

クリスチャンの皆さんは、イエス様を信じ受け入れて、永遠の命をいただいていることを今一度感謝しようではありませんか。また聖霊の印が押されていることを覚えて、それを大切にさせていただきましょう。

 


2022年1月16日礼拝メッセージです。

 

「ニコデモに話された聖書の奥義」 ヨハネ31-21

 

何か尋ねようとしてきたニコデモというユダヤ人指導者に、イエス様はいろんな話をされました。人の心を知っておられるイエス様は彼の知りたかったことをすでに知っておられて、すぐにそのことについて話し始めました

 

1、 人が神の国に行くのに必要なのは何か?3

 

それについてイエス様は「新しく生まれること」が必要なのだと示されました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ません」…行けるかどうかの前に「人は新しく生まれなければ」神の国を見ることもできない…って。それでは「新しく生まれる」ってどういうことか?と人は聞いてくると思います。分からないからです。ニモデモもそうでした4

 

2、  人が新しく生まれるとはどういうことか?

 

イエス様は二つのことを示されました。5,6「人は、水と御霊によって生まれなければ」…「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」オギャーと生まれて来た私たちは、肉によって生まれた者なのです(永遠の命にあずかってない)。それが福音に触れ、イエス・キリストを信じ受け入れた。それによって御霊によって生まれた(永遠の命もいただいた)…だから救われた(洗礼も受ける)…となるのです。

 

3、 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません(14-21

 

イエス様はニコデモに神の御子の十字架の奥義を「モーセが荒野で蛇を上げた」要領で説明しています。民数記214-9これを仰ぎ見る者が救われる『癒される』それがキリストの十字架の奥義なのです。(16

あなたもイエス様の十字架を仰ぎ見て新しく生まれ、御霊によって生まれた者、神の国に行くことのできる者としていただきませんか。


2022年1月9日礼拝メッセージです。

「イエスの変貌、人の内にあるもの」 

            ヨハネ2章13-25節

イエス一行は、カナでの婚礼の後、一緒にユダヤの祭りである過ぎ越しの祭りを祝うために、エルサレムに上って行ったようです。今日の舞台はそのエルサレムの神殿となります。

 

イエス様は、宮に入ったとたん、突拍子もない行動に出ます。縄でムチを作り、生贄のために売られている牛や羊、鳩を追い散らし、両替人の台をひっくり返すという行動でした。人々は逃げまどい、その場は騒然とし、商売人たちの怒鳴り声…想像できますか?

 

 あなたのイメージしているイエス様の姿にこれはありますか?ぜひ、このような激しい一面もリストの中に加えておいてください。裁き主として来られるときには、こんな感じのイエス様ですよ。

 

ではイエス様の琴線に触れたものは何だったのでしょう。ルカ 19:46「『わたしの家は祈りの家でなければならない』それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」どうやら宮とか、教会は神に祈り、神を求めて近づくことが最優先であり、それを大切にするところなのに…もし商売人が、礼拝者を「客」「金づる」としか見てなかったら?そして販売を許可する祭司たちにリベートが渡り、双方がそれで私腹を肥やしていたとしたら…あの突然の過激なふるまいの謎が分かるのではないでしょうか。聖書には「人はうわべを見るが、【主】は心を見る」とあります。さて、私たちの心の中にはどんなものがあるでしょうか?最後の裁きの時、私たちはどんなイエス様を見たいでしょうか?優しくあわれみ深いイエスさまでしょうか?それとも厳しいイエスさまでしょうか?それを決めるのは、あなたや、私なのです。目を覚ましていましょう。


2022年1月2日礼拝メッセージです。

「心を尽くして主を愛し、隣人を愛しなさい」 ルカ10章27節

 

この御言葉がイエス様の口から出た背景は、マタイによる福音書では、「律法の中で一番大切な戒めは何ですか?」の質問に答えるように語られたのがこのことだったと分かりますし、このルカでは、永遠の命をいただくために必要なものは何か?の質問に、「律法には何と書かれているか」…と話しだされたのがこのことだったと分かります。つまり、この教え(この心)を押さえておけば、聖書の律法〈教え〉の全体、また永遠の命のカギを握ることができるというツボだというわけです。それで是非この一年、この御言葉を心に留めるとともに、意識して実践してみませんか?知識として知っているだけでなく、実際にそれを行い、「そうやってみたらどうなるか」を体験する一年にしてみませんか?神様からのチャレンジです。

 

二つのことを理解してこれに臨んでいただきたいです。

 

1、 この教えを行うなら、あなたは聖書の律法(教え)の全体を全うすることになります。       ローマ13:8-10 マタイ7:12

 

具体的にどうしたらいいか?日々の生活の中に実践の現場があります。そして「どうしたらいいか?」「どう話したらいいか?」はイエス様が言われるように、御霊に聞いてください。そうすれば分かります。マタイ10:20   これがいい実践の訓練です。

 

2、 神を第一にして愛することと、隣人を愛することは同調するものです。

 

信仰と実生活は、調和していますか?「これはこれ」「あれはあれ」と分かれてしまっていませんか?

 

ということで、今年与えられた御言葉、指針として皆さんに掲げるものはこの御言葉です。追い求めていきましょう

 


2021年12月26日礼拝メッセージです。

「主に信頼する人…」    エレミヤ17章7.8節

これが、2021年に掲げられていた御言葉です。

大切な事柄は、「主に信頼する」ということです。これには順番があります。まず、「主を信じ、受け入れることです」そして「その信じる方を信頼し、頼みとする」ことであり、人生が始まるのです。キリストを信じない人には、「キリストに信頼する」とか「主により頼む」というのは馬鹿らしいことの様にしか思えず、無理なことなのです。ぜひクリスチャンのみなさん、また主イエスを信じ、受け入れた方々、日々その主に信頼し、より頼んだ生き方をしてください。「ここまでそうしてこられたのなら、ますますそのように生きる決意をこの年の初めに新しくしてください。」とこの年の初めに示しました。

 

 そのような人は、「水のほとりに植わった木のよう」だと言われています。その木はふんだんに水分をその根から吸収することが出来ます。「主に信頼する人」とは、そのような人だというのです。詩篇では、「主の教えを喜びとする人」のことを「水のほとりに植わった木のようだ」と言っています。この二つの特徴は同じものなのです。「主の教えを喜びとする人だからこそ、主に信頼するだろうし、日々主により頼むのです」だから、「暑さが来ても暑さを知らず、日照りの年にも心配ない」というのです。道理にかなったことです。あなたもそういう人であり続けてください。そういう生き方をしてください。もし、あなたが主に信頼してさえいたら、必ずできるのです。この御言葉を掲げる年は終わりますが、この御言葉の真理は永遠に続きます。続けてこの御言葉の内にとどまりましょう。

 


2021年12月19日礼拝(クリスマス)メッセージです。

「人となって来られた言葉なる神」  ヨハネ1章1-4、14節 

 

「三本の木」のストーリーは昔からクリスチャンたちによって読み続けられてきたストーリーです。木を擬人化して大切な真理が教えられています、三本の木ともそれぞれに夢と希望を持っていましたが、まったく思い描いた通りにはなりませんでした。ところが彼らがある方と出会うことによって、負の運命が、神の栄光に溢れた運命に変えられていくのです。さて、その方とは誰でしょう、また聖書にはその方がどのように証されていますか?なんと、この万物を造られた言葉なる神と証され、その言葉なる神が人となって私たちの間に住んでくれるようになった、そして私たちに父なる神について教えてくださったと証言されています。ですから、今でもイエス・キリストを知れば知るほど、私たちは神がどのようなお方であるかを知るようになるのです。一本の木は、宝物入れになる夢を思い描いていましたが、それにまさる神の御子を抱く存在となれたとわかるのです。二本目の木は、立派な船になることを夢見ていましたが、実際には漁船…しかし、神の御子イエス様をお乗せする恵みにあずかる船となれたのです。三本目の木はこの丘に立って、神様を指し示す木になりたいと願っていましたが、無残にも切られて、処刑台の木になるのでした。しかしそれによって、永遠に神の御子を指し示す木になることができたのでした。あなたや私たちも、思い描くような人生に歩めないもどかしさに苦しみ、悩み、自分の運命を嘆いていませんか?あなたもこのクリスマスのキリストに出会えば、見え方、運命が変わってきますよ、あなた方は選ばれた人なのです。全ての人が神から愛され、目的をもって生まれてきているのです。ただ、多くの人がそれに気が付かない、知らないだけなのです。キリストに出会いましょう。


2021年12月12日礼拝メッセージです。

     「水がぶどう酒に変わる恵み」     

                                     ヨハネ2章1-12節

 

今日の箇所は、ガリラヤのカナというところで開かれていた婚礼の席でイエスがキリストとして栄光を現わされた次第について記されているところです。ここでイエスの母マリヤが「ぶどう酒がありません」…と窮地の時にイエスに求めるのでした。快諾していないとみえるイエスを目の前にして給仕をしている人たちに「この方の言うことは何でもしてください」と力を引き出す信仰の姿勢を向けるのでした。私たちは日々の中で起こってくる窮地の時、どうしていますか?誰に求めますか?このマリヤの姿勢は私たちに大切なことを教えているように思えます。するとイエスは、なんと水がめに入った水をぶどう酒に変えるという奇跡をなさるのでした。

 

みなさん、イエス様は、今でもこの「水をぶどう酒に変える奇跡」を行われることをご存知ですか?それは、イエス・キリストの御名によって、また聖霊の働きによって現在の私たちにもたらさられるものなのです。「イエスを信じ、受け入れる前の自分からイエスを信じ受け入れた自分。そしてイエスに従い、イエスを確信するに至った境地…自分を主の栄光のために用いてもらいたいと思うまでになった自分…その違いは、まさに水からぶどう酒への変化と同じです。また、それはその人の運命の変化においても言えます。救われる前の自分は、自分の思うまま、好むままの肉的な感覚で生きていた…それゆえ、聖書の言う罪にまみれた生活だった。その行きつく先は、滅びでした。しかし、イエスを信じ、その十字架の罪の贖いを受けた人は、イエス・キリストの死の身代わりという法則によって、今までの罪の一切が赦され、その罪から救われ、やがて天の御国に行くことができるという運命に変わるのです。


2021年12月5日礼拝メッセージです。

 

 

「何を求めているのですか」     ヨハネ1章35-51節

 

ここには、もともとバプテスマのヨハネの弟子であった二人がイエス・キリストを信じるようになり、その二人の証から次々とその兄弟、友人が信じるようになり、そして弟子になっていく様子が描かれていますね。二つの視点から学んでみたいと思います。

 

1、 イエスの語られた言葉

「あなた方は何を求めているのですか」

自分についてくる二人にイエス様の方から語りかけられた言葉です。

「来なさい。そうすれば分かります」

イエス様については、頭だけで考えていてもわかりませんよ。しかし実際ついて行けば分かってきます。

「わたしに従ってきなさい」

 これは、ピリポという人にイエス様から語りかけられた言葉ですね。「イエス・キリスト」信仰とは、ズバリ「イエス・キリストに従っていく」信仰のことだと言えます。

 

2、 一人一人の証が福音宣教の土台でした

 

先週も見ましたが、今週も、証人のことがクローズアップされていますね、謙虚な証人明確な確信を持つ証人腐ったり、いじけたりすることのない証し人にならせていただきましょうね。そして、イエス・キリストを紹介させていただきましょう、愛は、救いはこの方によってのみあるのです。

 

さあ、皆さん、今朝でも、イエス様は私たちに問うておられますよ。「あなた方は何を求めているのですか」と、あなたは今朝何と答えられるでしょうか?


2021年11月28日礼拝メッセージです。

「人の本性を超えた証人」     ヨハネ1章19-37節

 

今回は、バプテスマのヨハネの人と、なりとを通して主に喜ばれる信仰者の姿を学んでみました。

 

1、彼は謙虚な人でした 「あなたはキリストですか?」と問うてくる人に「私はキリストではありません」。「ではあなたは誰ですか?」「私は、預言者イザヤが言った『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です」「私の後に来られる方…私にはその方の履物のひもを解く値打ちもありません」と「謙虚」としか言いようのない返答ばかりなのです。

 

2、彼は明確な証を持っている人でした 自分を遣わした方が「御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者」…私はそれを見た、それでこの方が神の子であると証をしているのです。

 

3、彼は腐る(いじける)ことをしない人でした(35,36) パブテスマのヨハネが二人の弟子と一緒にいた時、イエスが歩いているのを見て、「見よ、神の小羊」と証しすると、その二人の弟子たちはイエスについて行ってしまいました。普通の人間的な観点だと、がっかりしたり、嫉妬したりしやすいものです。しかし、彼はそうしなかったのです。※こうやってみれば、なぜこのヨハネが神様から用いられたかがわかるのではないでしょうか?あなたも「人の本性を超えた証人」になっておられますか?救われる以前とは変えられて謙虚なものとされましたか?罪から救われたこと、罪から聖められたこと、また天国に行ける者とされた確信がありますか?腐る性質からもきよめられましたか?


2021年11月21日礼拝メッセージです。

「キリストの受肉の不思議」  

   ヨハネ1章6-18節

 この個所から、「人となられた言葉なる神」について「その不思議」を学ぶことができます。

 

1、気づかれなかった「ことばなる神」の存在(9―11)

 

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」これを読まれて、どう考えられますか?そんなに「言葉なる神」の存在はわかりにくい存在なのでしょうか? そうでなく、むしろその逆で、日頃当たり前のように存在し、接しているからこそ気が付かないということです。もし「ことばなる神」を知りたいなら、もっと「当たり前」の中をよく見てみることです。

 

2、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことは、イエス・キリストによって実現した」(17)秩序ある規則があり、神の恵みと真があってこそ「神の民」となれます。神の恵みとまことは、神がその在り方をおいて、人として下られたことの中にその真実さを見ることができるのです。

 

3、 人の本性を超えた証人バプテスマのヨハネ(6―8、15)

 

バプテスマのヨハネは少しお兄さんになります。それなのに、ヨハネはイエス様のことを自分より先におられた方、自分はその靴ひもを解く値打ちもないなどと証言し、イエスを高く上げようとしています。人の気性に反したこの証は、人から出た証ではないことが分かります。

 

4、人となって来られた言葉なる神を信じ受け入れる者は、新しく生まれる(12,13)現在、この御言葉に基いてイエス・キリストを信じる者をクリスチャンと呼び、神の子どもとされた、新しく生まれた者と言うようになっています。これも神からもたらされた奇跡です。

 


2021年11月14日礼拝メッセージです。

     「生ける神の御言葉・イエス」     

             ヨハネ1章1-5節

ヨハネがこの福音書を書いたときは90歳近くだったと言われています。すでに他の3福音書が書き上げられていましたが、ヨハネがあえて福音書を書いた理由は、他の福音書には記されてない出来事をどうしても人々に知ってもらいたかったからでしょう。他の3福音書と比較すると、ヨハネによる福音書にしか記されていない出来事や主イエスのことばが多く収められています。ヨハネがこの福音書を書いた目的は、20章31節にはっきりと宣言されてあります。

 

「 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」私たちもこれからヨハネの福音書を通して、なおイエス・キリストについて理解を深めさせていただきたいと思っています。そして最初の言葉は、こう証しています。

1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」

 すごいですね、最初からイエス・キリストこそ「ことばなる神」であり、創造主でもあると証されているのが分かります。

  このヨハネの福音書から、メッセージ箇所から、学びの助けとなるワークシートを作成してご提供させていただきます。個人で学びを深めてみたい方、またそれを使って、家庭集会などの学びを持たれるにもいいかと作成します。お入り用の方は声をかけてください。


2021年11月7日礼拝メッセージです。

   「患難を乗り越え、奇跡の勝利を見たローマ教会」

                    ローマ1617-27

 

16章前半から、この後起こるクリスチャン大迫害を乗り越えたローマ教会の特徴について学びました。一人一人のクリスチャンが伝道者であり、礼拝者だった。それで草の根のような信仰だったため、300年もの患難、命がけの信仰の中を通り抜けることができたとお話ししました。しかし、どうやって、信仰迫害の中でさらに増え、広がり、耐えることができたと思いますか?神様がチチンプイプイと奇跡を行ってくれたからでしょうか?ヒントは、人々は見てます、聞いています。クリスチャンたちの生き方、態度の方がどう見ても正しい、こっちの方が正当な道だ…と判断する人たちが味方するようになったからです。さて、聖書はどのように生きなさいと教えているでしょうか?

 

1、見極める目、見極める霊をしっかり働かせなさいと教えています(17

 

それを育成したため、安易に人を信じることのできない時代に、守られることができたのです。Ⅰヨハ 4:1

 

2、「善にはさとく、悪にはうとくありなさい」(19

 

聖書はこのようでありなさいと教えています。そうすれば20は約束です。

 

3、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして神を愛し、また隣人を自分自身のように愛しなさい」初代教会の兄弟姉妹たちは、それを実践していたゆえに、人々からの絶大な信頼を得たのです。

 

4、聖書は「幼子のように御言葉の乳を慕い求めなさい」と教えています。   御言葉は「あなた方を強くすることができる」のです。

 

 


2021年10月31日礼拝メッセージです。

 

                      「初代教会の体質       

                                             ローマ161-16

 

今日の箇所を読むと名のあがっている人たちが最低26人、それ以上いることが分かります。こうやって名をあげるということは、この方々がそのころのローマの教会の主なメンバーだったようです。そうだとすれば、今のこの岩国教会の規模とそんなに変わらないということになります。ここで皆さん歴史を見てみてください。この後ローマのクリスチャンたちは、迫害による困難な時代に入ります。それがAD64年から始まり、ネロ皇帝やディオクレティアヌス皇帝の時に最もひどく313年まで続く。313年にはキリスト教が認められ、AD392年には、ローマの国教として認められるようになるというまでになるのです。初めは、この教会のメンバーぐらいの規模の人たちの集まりだったのに、一時は、迫害と殺戮のために根絶えてしまうかも…という時があったのに。しかし、クリスチャンたちは、墓地の下に地下教会などを作って、礼拝を続けて、祈って、耐えて…そしてついに300年後には国まで変える存在となったというのです。それが歴史による証です。さて、規模は似ていると言いましたが、その教会の体質には違いがあることが分かります。ローマの教会(初代教会)の体質の特徴を示しましょう。二つ。

 

1、信徒の立場でありながらも、私財を使って、教会を又奉仕者を支援し仕える同労者がいました。ここで紹介されているフィベさんや、プリスカとアキラ夫妻などもそうです。こういう同労者がいる教会は体力のある教会となります。

 

2、初代教会は、「家の教会」で広がっていました。

 

草の根のように、一人一人のクリスチャンが伝道者でした

 


2021年10月24日礼拝メッセージです。

「希望、祈り、その結果」 ローマ15章14ー33節

 

ローマ書も終盤を迎え、内容も教えとか諭しでなく、「働きの回想、自分の希望、これからの計画、祈りの課題」というような色合いを帯びた内容になってきました。ここで二つのことが分かります。一つは、この書が記された年代です。それはパウロがまだ自由に伝道旅行ができていた時で、エルサレムの兄弟姉妹たちの窮乏のための愛献金をエルサレムに届ける…その後ローマに、そしてイスパニアに行く…と言っていた頃。このエルサレム行きで彼は捕らえられ、囚人の身となるのです。

 

もう一つは、パウロが抱いていた希望と計画、それに伴う祈りの課題、それがどのように成就したか、またどのようなことは成就されなかったか、そしてその後は?…です。私たちは、歴史をたどってその内容を検証できるわけです。さてどうでしたか?パウロはエルサレムに行き、その後ローマに行けましたか?そしてイスパニア(スペイン)に行けましたか?確かに守られ、神様の助けでローマまで行くことができました。しかしイスパニア伝道は許されませんでしたね。では、そこの伝道は頓挫しましたか?いいえ、神様は他の人たちによってそれを成し遂げました。ちなみに、日本伝道を最初にしたというザビエルはどこの国の人だったか覚えていますか?このイスパニア(スペイン)の人でしたね。なんだかロマンを感じます。

 

使徒パウロでも、「あなたはここまで」という時があったことを覚えましょう。確かに信仰による祈りは聞かれるものです。でもそれは、私たちが思うように聞かれるものとは限りませんね。それが使徒パウロを通して教えられるものです。


2021年10月17日礼拝メッセージです。

   「忍耐と励ましの神、希望の神」  

              ローマ15章1ー13節

(13)「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に溢れさせてくださいますように」という希望の祈りがパウロによって口にされていますが、今日皆さんにお伝えしなければならないことは、まさしくこれなのです。神様が皆さんに望んでおられることは、あなたも「信仰によるすべての喜びと平安で満たされ、聖霊の力によって希望にあふれ」ていることなのです。それはどのようにしたら実現するでしょう。

 

・まず、今日の御言葉の中に、「神様」がどのようなお方であると証されているでしょうか?「希望の神」「忍耐と励ましの神」(5)だと…今あなたにとって神様とはどのような方に見えていますか?信仰の目で「希望の神」「忍耐と励ましの神」と見ませんか?そうすればあなたの信じるように、神様はあなたにとってもそういう存在となるでしょう。そうすれば、先の御言葉があなたのうちに完成されますよ。

 

・また「何らかの助けが必要な人がいて、自分にできることなら、声をかけたり、手助けしたり」してみてください。1節の「力ある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべき」とは、そういうことと理解してください。聖書は教えています。キリストご自身もそのように「自分を喜ばせるより、隣人を喜ばせる」ように生き抜いて、あざけりさえ受けてくださったではないかと…とにかく理屈抜きでそれを実践してみてください。そうすれば、「希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に溢れさせてくださいます」

 

さあ、今日からそういう信仰を持たせていただきましょう。


2021年10月10日礼拝メッセージです。

「レムナント(残れる者たち)」    

                              黙示録3章1ー6節

 

サルディスの教会に宛てた手紙の箇所です。その教会には、信仰的に死んだ者や死にかけている者たちがいましたが、そんな中でも衣を汚さなかった白い衣を着た者たちが残されていました。

 

2節「死にかけている残りの者たちを力づけなさい」

 

霊的に目を覚ましていなさい。霊的に死にかけているなら危ない!牧師は目を覚ますように力づけますが、自分自身でも努力する必要があります。忙しく厳しい状況にあっても心から主を愛して忠実に教会に出席し、日々御言葉を読んで力づけられましょう。

 

3節「どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り…」救われた日を思い出してみて、なんと素晴らしい日。喜びの日。その日からイエス様に従ってイエス様と共に歩んでいくなら信仰は成長していきます。しかし、イエス様から離れてしまったと感じたら悔い改めて主に立ち返りましょう。何もせずにただ見ているなら信仰の火は消えていきます。悪魔は火に水をかけますから、それでも火が消えないようにするには、力を尽くして油を注ぎ続けなければなりません。

 

4節「わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる」暗い時代にでも、イエス様を愛して従い続けているふさわしい者が残っています。狭い門から入り、まっすぐな道を歩みながら、最期まで世の汚れから自分自身を守っている者がいます。

 

5節「 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない」イエス様を信じた日、天にあるいのちの書に名前を記していただいた、それは何よりも大切な素晴らしい日。あなたの名前も記されていますか?


2021年10月3日礼拝メッセージです。

 「イエス様とサマリヤの女」      

                   ヨハネ4章1ー42節

今日の箇所は、イエス様とサマリヤの女性の話です。ユダヤ人は、サマリヤ人を嫌っていたので遠回りをしてでもサマリヤを通らず旅をしていました。しかしイエス様は、サマリヤを通り水を汲みに来た女性に話しかけました。イエス様は人種差別の壁を打ち壊したのです。貧しい人への差別、外国人への差別、障害者への差別…神様は一人一人をそのままで愛しておられます。私たちも認めあって偏見を捨て、互いに親切にしましょう。イエス様は、全ての人を「わたしのもとに来なさい」と招いておられます。

 

イエス様は霊的な生ける水について話されました。イエス様を信じるなら満足が与えられ、コップ一杯のまた渇く水ではない、心の奥底から永遠のいのちへの水が湧き出る泉が与えられるのです。

 

イエス様は彼女の必要を示しました。「あなたの夫を呼んできなさい」彼女には5人の夫があったが今は夫でない人と暮らしていました。そのことをイエス様は言い当てたのです。イエス様に隠すことのできるものは一つもありません。

 

どのように礼拝したらいいか、に話は移ります。多くの人は知らずに礼拝しています。自分自身を、家族を、お金を、仕事を礼拝している人もいます。偶像に手を合わせている人もいます。「御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」と。あなたの心は主に向いていますか?心からの礼拝を捧げていますか?このサマリヤの女はすべてを言い当てたイエス様を「預言されているキリスト」と信じました。彼女のうちから喜びが溢れ町の人々に伝え、そこでリバイバルが起きました。あなたにもあふれ出る喜びの証がありますか?


2021年9月26日礼拝メッセージです。

 「戸口で罪が待ち伏せていますか?」

創世記4章1ー15節、

(Ⅰサムエル15:22、箴言15:8、Ⅰヨハネ3:15)

 

今日の箇所には、アダムとエバの二人の息子であるカインとアベルが出てきます。カインは農夫でアベルは羊を飼うものでした。アベルは信仰をもって神様に捧げものをしましたが、カインには信仰がありませんでした(へブル11:4)。アベルは、へりくだって神様の御前に出ましたが、カインは「自分のやり方でいいでしょう」と血を注ぎ出すこともなく自分勝手な方法で捧げものをしました。神様は、アベルとその捧げものを受け入れましたがカインとその捧げものには目を留めませんでした。(Ⅰサムエル15:22)カインは、弟に対しても神様に対しても怒りました。6,7節「【主】はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」愛深い神様は、カインに語りかけ悔い改めのチャンスを与えたのですが、カインはその忠告に耳を傾けず無視しました。そして、アベルを野に連れ出して殺したのです。9節で神様は、再びカインに語りかけてチャンスを与えますがアベルは、「知りません」と嘘をつきました。次々と罪を重ねていきます11,12節でついに神様が、カインへの罰を宣告します。この時にも悔い改めのチャンスがありましたがカインは、罰は嫌でしたが心からへりくだって悔い改めることはなかったのです。「罪は戸口で待ち伏せしている」神様に心を探っていただきましょう。もし罪があれば、イエス様の十字架を見上げて信じ、罪の赦しと平安をいただきましょう。


2021年9月19日礼拝メッセージです。

 「救われるためには、何をしなければなりませんか」

                              使徒16章25-34節

イエス様の弟子であるパウロとシラスは、ピリピで福音を伝えていました。人々を愛し、神様を愛し、救いの道を説いていたにも関わらず捕らえられて鞭で打たれ、足かせをつけなられて牢屋に入れられました。そのような状況にありながらも、彼らは牢の中で祈りをささげ神様を賛美していたと言うのです。自分の力ではできないことですね。すると真夜中頃地震が起きて牢の扉が開いた(神様からの祈りの答えでした)。看守は、囚人が逃げてしまったと思って責任をとるために自害しようとしましたが、パウロが「自害してはいけない。みんなここにいる。」と告げました。看守は、神様の御業だ!と感じて「救われるためには何をしなければなりませんか」と尋ねました。その答えが、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(31節)です。天の栄光を捨て処女マリヤを通してこの世に生まれ、貧しさもさびしさも味わってくださり、十字架にかかってあなたや私の罪の罰を代わりに受けて死んでくださったイエス様。しかし、死なれただけではなく三日目によみがえられた、死に勝利されたイエス様を私の救い主と信じるならだれでも救われるのです。永遠の命を受け、いつまでも残る平安をいただくことができます。(藤井圭子師の救いの証)

 

使徒4章12節「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

あなたもイエス様を信じませんか?


2021年9月12日礼拝メッセージです。

「霊的な教会の特徴」 

               エペソ5章19-27節

 

今日の箇所でイエス様は花婿、教会(クリスチャン)は花嫁にたとえられています。

 

イエス様が望んでいる花嫁(教会)は、しみもしわもない聖なる教会です。(26節、27節)アダムのあばら骨から妻のエバがつくられました。イエス様が十字架にかかられたときに脇腹を槍で刺され、そこから血と水が流れました。イエス様が流された血潮によって私たちの罪は赦され、きよめられるのです。私たちはキリストの花嫁です。ドン・ボーマン師の証の中に「ブラシでこすって水で汚れをながし、心の隅々まできれいにされた」とありました。ヤコブ1章27節「…この世の汚れにそまらないよう自分を守る…」とあります。神様の役割とともに私たち自身の役割もあるのです。自分の心を守るために戦う責任もあることを覚えましょう。そのためには、毎日祈る、祈るための時間を作る必要があります。使徒4章31節には、弟子たちが一つ所に集まり、心を一つにして祈っていると聖霊に満たされたことが書かれています。聖霊の満たしは、一度でいいのではなく度々必要です。

 

イエス様が望んでいる花嫁(教会)は、感謝する教会です。(20節)

 

「いつでも」「すべてのことについて」感謝しましょう。良いものについても不幸と思えることについても、です。職場や学校や家庭で、不当な扱いを受けていても、そのことをも感謝しましょう。ローマ8章28節にあるように、神様はそれらをも益と変えてくださるのです。

 

イエス様が望んでいる花嫁(教会)は、心から礼拝する教会です。(19節)どんな状況にあっても心から礼拝を捧げましょう。岩国教会が、聖く感謝に溢れる、心から礼拝する教会でありますように!


2021年9月5日礼拝メッセージです。

「イエス様はあなたに休息を与えられます」マタイ11章28-30節

 

あなたは日々の生活に疲れていますか? 罪を感じて罪悪感に苛まれていますか? 悲しみや苦しみ、病気で苦しんでいますか? イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(28)とおっしゃっています。ジョン・バンヤン著「天路歴程」には、天国までの旅をした一人の人が出てきます。その人は背中に背負っている重荷をおろしたくて旅に出ます。途中伝道者と出会って十字架の所に行けばおろせると聞き、ついにそこにたどり着き、十字架を見上げた時に背中からその重荷が転がり落ちました。あなたもイエス様に出会うと、そして十字架を見上げると罪の重荷もその他の重荷もおろすことができて休むことができる、喜びを受けることができます。その後、「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(29)とあるように、イエス様と一緒に愛のくびきを負い、イエス様に信頼してイエス様のペースで歩み、イエス差が右に曲がれば右に、止まれば止まる…そのように一緒に歩みながらイエス様から学んでいくと正しい歩みをすることができ、「たましいに安らぎを得」ることができます。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(30)イエス様はあなたの弱さもご存知ですから、「もう一歩も前に進めない」という時には、親が子を抱き上げるように、しばらくの間イエス様があなたを抱き上げてくださいます。イエス様を信じて十字架を見上げ、イエス様のくびきを負ってイエス様につき従い、第一の「休み」も第二の「たましいの安らぎ」もいただきましょう。あなたも今日求めませんか?