2021年7月25日礼拝メッセージです。

「あなたはまだ肉の人ですか」  Ⅰコリント3章1-9節

 

赤ちゃんが、ミルクを飲むのは当たり前ですが6歳になってあるいは大人になっていて、ミルクしか飲まないなら心配ですね。今日の箇所でパウロは、コリントの教会の人々に霊的に成長してほしい思いを伝えています。

 

1、 救いについて ヨハネ3章を読んでみるとニコデモという名のパリサイ人が、イエス様を尋ねて質問したときにイエス様は、「…人は新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ません。」と答えておられます。それは、肉体的に生まれることを指しているのではなく心(霊的)が新しくされることを指しています。どんなに罪深い者でも罪を認めて悔い改めるなら、神様は、全ての罪を赦して新しく生まれたものとしてくださいます。ヨハネ3章16節にあるように、神様は私たち人間を愛して一人子なるイエス様を世に遣わし、私たちの罪の罰を代わりに負わせてくださいました。このイエス様を信じるものは、誰でも救われることができます。全ての罪が贖われ、天国に行くことができるものとされるのです。

 

2、 救われてから(クリスチャンとされてから)もイエス様は日々導いてくださいます。(「いばらの垣根」というタイトルの実話について語られました)その大きないばらの垣根が人々を危険から守るためにつくられたように、聖書には、私たちクリスチャンを危険から守るための言葉がたくさん記されています。理解が難しくても、「イエス様がそう言われるのなら」と素直に従うと霊的な危険から守られます。ガードレールのように、天国への道を歩む私たちを悪魔の罠から守ってくださるのです。クリスチャンであるあなたは、神様を第一にしていますか?救われて長い年月が経っているのに成長しないままですか?神様を第一にして「神様がそう言われるなら‥」と聖書の言葉に素直に従っていくと霊的に成長することができます。

 


2021年7月18日礼拝メッセージです。

 「乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか」 

 

エレミヤ8章22節

 

パンデミックの最中、私たちの生活が変わり、「死にたくない。病気になりたくない。」という声をよく聞きます。しかし、今日は病気よりも深刻な影響を及ぼす罪とその解決〈癒し〉について話したいと思います。

 

エレミヤ8章までを見ると、イスラエルは背信を繰り返し、悔い改めず、主の定めを知らないだけでなく知ろうともせず、主の言葉を退け、預言者たちは平安がないにもかかわらず「平安だ。」と告げていたことがわかります。そのような民に向かって、エレミヤは「乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。」と問いかけています。

 

1、 罪が癒されます〈赦されます〉。

 

イエス様が十字架上で流してくださった血潮により、私たちの心の問題〈罪〉は癒されます。ゼカリヤ13:1「…罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」今でも、イエス様の血潮は人の心と人生を大きく変える力があるのです。イザヤ53:5 詩篇103:3 イエス様は私たちのすべての咎を赦し、神の子とし、義と認めてくださいます。

 

2、 私たちの二心の問題を解決してくださいます。へブル13:12       

 

救われてしばらくすると、神様に従いたいのに反抗する心があることに気づきます。霊的にアップダウンを繰り返すことに嫌気がさし、決心してきよめを求め始めるとなすべきことが示され、それに従うとついにきよめられます。そして、信仰が安定してきます。ホセア14:4 へブル7:25 ヤコブ4:8

 

3、 悩んでいる者に慰めが与えられます。

 

詩篇34:19 Ⅱコリント9:8 救われてきよめられていても、悩みがあります。学校で、職場で、家庭で…。病気、愛する人を亡くした悲しみ、心の痛み。しかし、イエス様を見上げると不平不満ではなく、泣きたい気持ちが賛美と感謝に変えられるのです。乳香はあります。医者はいます。それはイエス様です!あなたはその恵みを受けましたか?


2021年7月11日礼拝メッセージです。

 

「クリスチャンの心得3」     ローマ14

 

今日の14章では「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」という教えから始まっています。そもそも今日の箇所には、背景があります。それは「市場で売っている肉には、どうやら異教の神にささげられた肉のおさがりが混ざっているようだ。」そうであれば、私たちは肉を食べることによって間接的に偶像礼拝に加担することにもなるのでは…ということで、「市場で売っている肉は食べない方がいい」という人がいる「いやそこまで考えなくてもいいよ」という人もいる。これ結構大きな問題になっていました。そこから…

 

心しておく 6つの御言葉を心に刻みましょう。

 

1、        信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。(1

 

2、        ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(5

 

3、        「あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。」ということのないように。(10

 

4、        こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。(13

 

5、        私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。(19

 

6、        あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。 しかし、疑いを抱くなら、やめておきなさい。信仰によらないことは、みな罪です。(22,23

 

 

 


2021年7月4日礼拝メッセージです。

「クリスチャンの心得2」     ローマ13章

 

今日は13章から、先週とは違う方面からクリスチャンの心得をお語りしたいと思います。

 

(1、2)クリスチャンは国家権力に逆らう者ではなく、祈りによって支え、応援する存在です。あなたや私の祈りの中に、国の総理大臣や県知事さん、また市長さんや会社の上層部の人たち、裁判官や、警察の方々、また学校の先生たちのための祈りはあるでしょうか?聖書はその人たちのために祈りなさい。と教えています。

 

(3―5)クリスチャンはやましくない生き方をしている者でありなさい。

 

「支配者」を「警察」と置き換え、「剣」を「武器」と置き換えて(3ー5)を読んでみると理解しやすいのではないでしょうか?

 

(6-7)クリスチャンは良き国民、市民でありなさい。税金も正しく納め、恐れるべき人を恐れて敬いなさい…これはよくわかりますね。

 

(8-10)クリスチャンは、世とは一線を置き、愛に生きることを目指しなさい。「誰に対しても、何の借りもあってはいけません」とは、人や世に甘えてはいけないということにも通じます。だけど、「互いに愛し合う」というキリストの教えにしっかり生きることはクリスチャンに大切なことだということです。愛する者を苦しめたり、痛めたり、汚したいなどとは思いません。それは、クリスチャンでなくてもそうなのです。

 

(11―14)クリスチャン、欲望の衣でなく、主イエス・キリストを着ていなさい、平和を願うなら、またみんなが幸せを願うのであれば、あなたや私も「キリストを着ている」者でありたいですね。

 


2021年6月27日礼拝メッセージです。

 

「クリスチャンの心得」     ローマ12

 

この章は、ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます」ということばで始まっています。では、「どういうことのゆえに」勧められているのでしょうか?それは先週お語りしたことですが、覚えておられますか?ここまで語られていた「神の選び」の奥義。ユダヤ人たちがキリストを拒んだことによって、異邦人である私たちに「あわれみの器」としての神の選びが来た…しかし、それにもまた時があり、いつかその恵みの時代は終わり、再びユダヤ人が顧みられる時が来る…それは、異邦人の私たちの時が終わる時だ。しかし「神様には計画がある。それはいまだにまだ実現していない。いつの日か、必ず実現する」それもまた神の選びの計画だ…と先週お取次ぎしました。「ですから…私は神のあわれみによって、あなた方に勧めます」ということになるのです。だから「私たちはどういうふうに備えたらいいか」「どう心得たらいいか」ということが教えられているのがこの12章と言えるでしょう。では、まだ福音を知らない人々に知らせなさいと言っているのでしょうか?いいえ、どうやら「クリスチャンたち」また「教会」はどういうものであり、どうしていたらいいか…というようなことが諭されています。

 

 

1,2)神様が望む礼拝をしていなさい

 

3)「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません」と警告されています。

 

(4-21)クリスチャンの心得

 


2021年6月20日礼拝メッセージです。

 

「父なる神の壮大な救いプロジェクト」 ローマ11章(101-4節)

 

ここでは今まで触れてきました「神の選び」の究極的、最終的な真理が語られています。それは、「神様には計画がある。それはいまだにまだ実現していない。しかし、いつの日か、必ず実現する」「ユダヤ人がキリストを拒んだことにより、救いが異邦人に及んだ。しかしそれは何時か終わり、今度再びユダヤ人が顧みられる。彼らがキリストに立ち返り、恵みの内につなげられる」という「選び」の計画がある。そういうわけで、父の日に「父なる神の壮大な救いプロジェクト」という題で三つのことをお語りしたいと思っています。

 

   父なる神は、私たち人間の思いをはるかに超えて、時間を超えて御心を成し遂げておられます。

 

それを理解できない人間は、時に神の悪口を言い、何もしてくれないと言い、ひどいことをすると言い、私たちのことは何もわかってくれないという。そして神の御心を行い手伝おうとするものが何と少ないことか…しかし父なる神は、それでも黙々と御心を成し遂げようとしておられます。

 

   神は人の「失敗」「無知」「過ち」「脱落」による脱線をも、益と変えられます。(ローマ828節)

 

私たちはそのことの生き証人でもあるのです。「ただ、どれだけの方が、そう見ているか???」

 

   いつの時代も「高慢」「油断」「高ぶり」は禁物です。

 

ユダヤ人はそれによって恵みを逃し、見捨てられた民のように切られたのでした。今度は私たち(異邦人)にも同様のことが起こります。

 


2021年6月13日礼拝メッセージです。

 「宣ベ伝える人がいなければ」 

                                  ローマ10章14―21節

 ここまで「神の選び」について、そして「あわれみの器」について語られていて、先週は「どうやってその選びの器となれるか」ということについて学びました(13)「主の御名を呼び求める者はみな救われる」。そう救いは、罪の毒消しであるイエス・キリストを信じ、受け入れることによって成就するということでした。これが現在の神の「選び」の定義というものだともお話ししました。

 

そして今日の所では、話をさらに進めて「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣ベ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」とすでにその信仰にある私達に対する呼びかけがされています。預言者イザヤはこう言っています。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」(6:8)…あなたにもその呼びかけが聞こえませんか?しかし、多くの方々が言われます。でも私は上手に語れないから…って、どうやら、この福音宣教とか、証しというのは日本人にとって英会話に近いアレルギー反応があるようです。牧師も、神様も、そういう完ぺきな証、宣教というものを皆さんに期待していません。期待しているとしたら、「イエス様に出会う前の自分はどんなに罪深く、弱い者であったか…そしてイエス様に出会い、信じて、どのように変わったか…」「今どのように喜んでいるか」「感謝しているか」それが証しできればいいです。人々が知りたいのは、生きた証、力ある証なのです。喜んでいる証なのです。

 


2021年6月6日礼拝メッセージです。

 

                 「主イエスを信じなさい」 

                                       ローマ10113

 

ローマ9章からは、「神の選び」というテーマで学び、先週はその締めくくりで「あわれみの器」ということを学びました。その中で今、神様が選ばれているものは、この「あわれみの器」だと説明しました。その道を歩まず、自分たちの感覚で信仰を極めようとした宗教者たちには、イエス・キリストは「躓きの石、妨げの岩」としか見えなかったけど、信頼する者には「救いの道」「神から来たキリスト」と見えたのでした。今日の所では、どうやったら「あわれみの器」となれるのか…ということについて教えられています。今日は主なテーマとして二つあげたいと思います。

 

熱心な信仰に救いがあるのではありません。

 

イエスを主と告白する信仰に救いがある。

 

残念ながら、ユダヤ人たちは、神様から選び出されていた選民だったのに、神が約束通りもたらしてくれたメシヤ〈キリスト〉を拒み、救いの恵みを逃してしまったのでした。では、それだけユダヤ人たちが罪深かったのですか?いいえ、彼らは自分では、神を待ち望み、従っていると自負していました。とてもそれに熱心でした。ただ、その熱心さが神様の御心(思いと願い)と違っていたのです。それでイエスを十字架まで追いやってしまったのです。聖書は言っています。4節「律法が目指すものはキリストです。それで義は信じる者すべてに与えられるのです」それで言われています。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです」


2021年5月30日礼拝メッセージです。

 

「あわれみの器の選び」  ローマ91933

 

今私たちは、ローマ9章から「神の選び」ということについて学んでいます。有限の人間が無限のお方の考えることを学ぶのですから、理解が困難なのは当然のことと思います。ただ、これだけは先にはっきり言えることがあります。神様は意地悪な方ではなく、私たちを愛し、私たちの最善を見て計画しておられます。エレミヤ書にはこうあります「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(29:11まずこの信仰をもって読み進めて行けば、間違った解釈に至ることはありません。

 

今日は、ここから三つのことについてお話ししたいと思います。

 

・運命的考え、神の予知論について

 

皆さん、「神の予知」と「運命」的考えとを混同してはいけませんよ。神様が定めた運命、私たちには逆らうこともできない…という考え方ではなく、この人が今のまま生きていたら、先にはこういう運命、結果が待っていると神様は予知することができるというのが本筋なのです。ですから、人は自分の人生を、また運命を変えることができるということを教えているのがこの章の教えの最重要事項なのです。

 

・神様はみんなを同じように造られたのではなく、違った器として造られた。一人の人の体はいろんな器官で出来上がっているのと同じです。

 

・今の選びは、「あわれみの器」です。クリスチャンはこれです。

 


2021年5月23日礼拝メッセージです。

 「父の約束、聖霊の満たし」 

         ルカ24章44―49節

 

コロナで教会の礼拝を閉じたのが、くしくも「ペンテコステ」の礼拝からというのは、残念なことでもありますが、見方を変えたらそれでこそペンテコステの恵みがあらわされる時であると言えます。

 

ペンテコステの時に与えられたのは、聖霊でした。「助け主」「慰め主」「癒し主」である御霊(聖霊)が約束通り、父なる神様から送られたのでした。イエス様が去って行かれることを語られた時、弟子たちはよく理解できずに悲しみ、不安に思いました。そのため、イエス様は十字架にかかられる前にも復活後にも、「父の約束」として御霊が弟子たちに与えられることを教えられました。イエス様が天に戻って行かれ、姿が見えなくなっても、「助け主」なる御霊が弟子たちとともにおられ、真理を教え、力ある御業を行なわれることを語っておられたのです。そして全世界に出て行き福音を伝え、信じる人々を弟子とするように命じられましたが、その前に「父の約束」を待ち望み、聖霊のバプテスマ(満たし)を受け、聖霊の力を受けるよう語られたのです。ですからペンテコステは、まさに父の約束の成就の日となりました。イエス様の昇天の後、イエス様の教えを守って父の約束である聖霊のバプテスマ(満たし)を受け取ろうとして、弟子たち百二十人が祈りに専念していると、イエス様が地上を離れて行かれて10日後のペンテコステの日に、聖霊が激しく下られ、弟子たちはみな聖霊に満たされたのでした。その時から、聖霊の時代となり、今もなお働き、共にいて下るのですこのコロナの事態にも…家にいて自粛モードの中にもです…


2021年5月16日礼拝メッセージです。

   「神の選び」   

         ローマ91-18

 

きょうはこの9章から神の選びついて学びたいと思います。

 

1、 神の選びは、私たち人間の理解をはるかに超えたものです。

 

アブラハムには子孫の繁栄の約束が与えられていましたが、その子供が与えられたのは、100歳になった時でした。また神様は時間を超えて先のことをも予見することがお出来になります。この状態、この性格で生きて行くなら、こうなる…と。だから、私たち人間の理解を超えたことを語られることがよくあるのです。

 

2、 今、神はどのような選びをされているでしょうか?

 

神様の選びでは、全ての人を「神のみ前に聖なる、傷のないものにしようとあらかじめ定めておられるのです」(エペソ135節)ただ、多くの人たちがそれに気が付かず、ある者は反抗し、あるものは見向きもしないようにしています。(罪のうちに死んでいる状態だからそうしてしまっているのです。以前の自分たちもそうでした)。

 

「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」使徒1631節…今はこのように選ばれているのです。また、Ⅰコリント11829節…異邦人クリスチャンである私たちが大切にしたらいい選びの感覚はこれです。

 

3、 私たちは神の憐みと慈しみにすがるのが一番いいです。(15,16

 

  神様は私たちのために良い計画をたててくださっています。ただ信じ、信頼していましょう。私たちに必要なものは信仰と忍耐です。

 


2021年5月9日礼拝メッセージです。

      「あなたの父と母を敬いなさい」

                 エペソ6章1-4節

この御言葉には幸いな親子関係の図式が示されています。子供たちには、「主にあって自分の両親に従いなさい」「あなたの父と母を敬え」と諭され、父たち(親、保護者側)には、「自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい」と教えられています。この教え、戒めはある意味親子関係を秩序正しくし、互いを思い合う意図をもってもたらされた戒めなのです。ですからこれらには約束が伴っているのです。(3)「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。これは真理なのです。本当にそうなるのです。それで昔から、秩序ある国ではこのような教えが大切にされてきたのです。この日本でも、聖書の教えとしてではありませんが、昔からそのような精神は先人たちによって教えられ、大切にされてきました。

 

ところが、近年では、この当たり前の教えが口にしづらくなる傾向が強くなってきているのです。幼児虐待、育児放棄を受けた子供たちにはこの聖書の教えは、拷問のように思えるものとなっているのです。

 

 とても悲しい現実ですね、とてもつらい事実ですね、全てが曲げられ、変形してしまっています。これが聖書の教える「罪」の呪いなのです。罪が人を変え、罪が人の道を変形させ、神の面影である愛を隠させ、悪魔の形相、心、考えにさせているのです。神様は今も語ってくださっています「悔い改めなさい」「罪から救われなさい」と…「母の日」はそのような罪の親子関係の中に、一筋の光を投ずるものとなるでしょう。愛を示してみましょう。

 


2021年5月2日礼拝メッセージです。

「クリスチャンの必修体験事項」   

         ローマ8章26-39節

今回の箇所には、皆さんに是非とも体験して、知っていただきたい事柄がいくつか出てきます。神の祝福にあずかりたいと願う方々は、ぜひ、これらを心に留めて求めて見られませんか?

 

「自分は弱い」という事実です(26)

 

神の「御霊」が私たちを助けてくださる事実です。

 

この最初の二つを体験して、知ると(会得すると)バランスの取れた信仰を持つことができますよ。「自分は弱い」だけなら、卑屈的な信仰になってしまうし、「御霊が私たちを助けてくれる」だけなら、自分を特別なもののように見てしまって、行き過ぎてしまう可能性が出てしまいます。

 

御霊ご自身がとりなしの祈りをしてくださっていることです(26-27)

 

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となる」ことです(28)

 

「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになる」ことです(29,30)

 

(31,32)の証です。

 

(33,34)の証です。

 

(35-39)の証です。こう証していたのが初代クリスチャンです。彼らの時代には、キリストを信じる信仰は命がけでした。そんななか体験できたものですから、ぜひあなたも…


2021年4月25日礼拝メッセージです。

「クリスチャンはキリストともに共同相続人」 

                                          ローマ8章17-25節

先回は、このタイトルの話題のところで終わってしまいました。そこで今日は、この「共同相続人」って何を相続するのかを学んでみたいと思います。それはズバリ「キリストと栄光をともに受ける」と「その望みのゆえに苦難をも共にする」です。(17,18)

 

先の「キリストともに受ける栄光」は欲しいけど、後の「キリストともに受ける苦難」は正直欲しくない…というのが心の声の本音ではないでしょうか?ただ、覚えておいていただきたいのは、後に受ける「キリストとともに受ける栄光」というのは、それを受けた時、「ああ、頑張っていてよかった」「何度くじけそうになっただろうか、ただ神様のあわれみでここまで来ることができました」「よかった」と胸をなでおろす時となるでしょう。これは、後になって、お金を出すから、と言ってもどうにもなりませんよ。「地獄の沙汰は金次第」かもしれませんが、神の国についてはそういう理屈は通用しないものだということを覚えていてください。

 

人間が何のために造られたかを聖書はこう言っています(創世記1章26-28節)。つまり、この万物を管理する者とされたということなのです。さて、人間はちゃんとその働きできていると思いますか?年々地球環境は悪化し、多くの生物が絶滅の危機に瀕しています。それで被造物は神の子たちの来るのを待ち望んでいると言っているのです。 これを見ても、私たち人間が神の御心にかなっていないことがよくわかるのではないでしょうか?これが罪に落ちた人間の状態を表しているのです。さあ、私たちは、罪をかなぐり捨てて、神の御心に立ち返り、神の栄光を相続する者へと変身しましょう。

 


2021年4月18日礼拝メッセージです。

 「クリスチャンは神の子どもの特権を得た者」 

                                              ローマ8章11-17節

 イザヤ書にこんな御言葉があります。『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」ということばを開く。』皆さん、こういうのを体験して生きていますか?実際に声が聞こえるわけではありませんが、心にはっきりわかる導きがあるのです。昔から日本にも「虫の知らせ」という表現がありますが、それが近い感覚です。ですから、実際そういうものを感じているのに、そこに神の御霊を認めていない人が多いのです。もったいないですね…

 

 そして今日の箇所では、そんな神の御霊を受けたクリスチャンたちは、「神の子」どもとしての特権もいただいていること、さらにキリストともに共同相続人…なんて、すごいことが記されています。すごい特権ですね。クリスチャンの皆さん、そんな自覚ありましたか?その自覚なかったら、今日新たにしてください。

 

聖書はこう言っています。「 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです」。だから、もっともっと神様に近づいてください。親しく呼びかけて行ってください。頼ってください。いろんなことを尋ねてください。父なる神様はそのことを欲しておられますよ。イエス様は喜ばれますよ。御霊も「来なさい」と言ってくださっていますよ。そうしたらあなたも『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」ということばを開く。』を体験することができます。

 


2021年4月11日礼拝メッセージです。

「神の御霊を受け、その御霊によって歩むクリスチャン」  

                                          ローマ8章1-11節

 

7章からは、「内なる戦いから解放へ」という題で学びましたが、クリスチャンとして、神様との祝福の道を歩みたいと願う時、人は誰でも、この内なる自分との葛藤、戦いが起こるものです(神に従う道に歩むか、それとも自分の願う道を歩むかの戦い)。それは苦しいと思います。何かあるたびに、信仰をやめてしまおうかと迷ったり、戦ったり…

 

でもその内なる戦いから解放されてごらんなさい、それに勝利したときのことを考えてみてください。そこには突き抜けた信仰があります。もう迷いません、心は定まります。

 

内なる戦いを勝利するのに大きく貢献してくれるのが、クリスチャンが信じた時に受けた神の御霊です。この内なる神の御霊が力を与えてくださるのです。そうして内に神の御霊を持ち、この罪の影響を受けた肉体を持ちながらもクリスチャンとして新しく生き始めることが出来るのです。もう、肉体的な弱さも、欠点も十分承知の上です。ただ、今まで、自分の心のままに生きてきた、やってきた道が一番ではなく、二番になります。神の御霊に聞く、神の御霊に導かれてという新しい感覚を一番にして生きて行く。そう生きることで調和がとれている…なぜか平安がある。新しい発見があるという「神の子ども」としてのクリスチャン。突き抜けた信仰にあるクリスチャン。御霊に導かれるクリスチャンについて記されているのが今日学ぶところです。

 


2021年4月4日イースター礼拝メッセージです。

「クリスチャンは死んでも生きる」ヨハネ11章25,26節

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」   これはイエス様が兄弟ラザロの死を悲しむマルタという女性に語った言葉です。これを見るなら、クリスチャン、すなわちイエスを信じる者は「死んでも生きる」存在だし、「永遠に決して死ぬことが」ない存在だと教えられているのがわかります。ただ、多くの人がその教えをそのまま信じることができない事実があります。中には、クリスチャンの方でも、首をかしげる方がいるのも確かです。なぜなら、「でも、クリスチャンになっても死ぬではないですか」と見てしまっているからです。確かにクリスチャンになっても、この地上で永遠に生きることはありません。いつか死にます。それは十字架までかかって、イエス様が贖ってくださった「罪」のせいなのです。聖書は教えています「罪の支払う報酬は死です」と。(聖書が教えている「罪」というのは、俗にいう「犯罪」ではありません、それよりもっと前の存在、「的外れ」…「神様から離れた存在」という状態を表しているのです。的が外れているから犯罪まで犯してしまうこともあるし、神様から離れているから、良心がとがめながらも悪いことでも行えるのです)。しかし、イエス様は死んでよみがえりました。そうやって地上の死で終わらないいのちの道を開かれたのです。ですから、今では確かにイエス様を「信じる者は死んでも生きるのです。また、信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません」と言えるのです。