2021年11月21日礼拝メッセージです。

「キリストの受肉の不思議」  

   ヨハネ1章6-18節

 この個所から、「人となられた言葉なる神」について「その不思議」を学ぶことができます。

 

1、気づかれなかった「ことばなる神」の存在(9―11)

 

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」これを読まれて、どう考えられますか?そんなに「言葉なる神」の存在はわかりにくい存在なのでしょうか? そうでなく、むしろその逆で、日頃当たり前のように存在し、接しているからこそ気が付かないということです。もし「ことばなる神」を知りたいなら、もっと「当たり前」の中をよく見てみることです。

 

2、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことは、イエス・キリストによって実現した」(17)秩序ある規則があり、神の恵みと真があってこそ「神の民」となれます。神の恵みとまことは、神がその在り方をおいて、人として下られたことの中にその真実さを見ることができるのです。

 

3、 人の本性を超えた証人バプテスマのヨハネ(6―8、15)

 

バプテスマのヨハネは少しお兄さんになります。それなのに、ヨハネはイエス様のことを自分より先におられた方、自分はその靴ひもを解く値打ちもないなどと証言し、イエスを高く上げようとしています。人の気性に反したこの証は、人から出た証ではないことが分かります。

 

4、人となって来られた言葉なる神を信じ受け入れる者は、新しく生まれる(12,13)現在、この御言葉に基いてイエス・キリストを信じる者をクリスチャンと呼び、神の子どもとされた、新しく生まれた者と言うようになっています。これも神からもたらされた奇跡です。

 


2021年11月14日礼拝メッセージです。

     「生ける神の御言葉・イエス」     

             ヨハネ1章1-5節

ヨハネがこの福音書を書いたときは90歳近くだったと言われています。すでに他の3福音書が書き上げられていましたが、ヨハネがあえて福音書を書いた理由は、他の福音書には記されてない出来事をどうしても人々に知ってもらいたかったからでしょう。他の3福音書と比較すると、ヨハネによる福音書にしか記されていない出来事や主イエスのことばが多く収められています。ヨハネがこの福音書を書いた目的は、20章31節にはっきりと宣言されてあります。

 

「 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」私たちもこれからヨハネの福音書を通して、なおイエス・キリストについて理解を深めさせていただきたいと思っています。そして最初の言葉は、こう証しています。

1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」

 すごいですね、最初からイエス・キリストこそ「ことばなる神」であり、創造主でもあると証されているのが分かります。

  このヨハネの福音書から、メッセージ箇所から、学びの助けとなるワークシートを作成してご提供させていただきます。個人で学びを深めてみたい方、またそれを使って、家庭集会などの学びを持たれるにもいいかと作成します。お入り用の方は声をかけてください。


2021年11月7日礼拝メッセージです。

   「患難を乗り越え、奇跡の勝利を見たローマ教会」

                    ローマ1617-27

 

16章前半から、この後起こるクリスチャン大迫害を乗り越えたローマ教会の特徴について学びました。一人一人のクリスチャンが伝道者であり、礼拝者だった。それで草の根のような信仰だったため、300年もの患難、命がけの信仰の中を通り抜けることができたとお話ししました。しかし、どうやって、信仰迫害の中でさらに増え、広がり、耐えることができたと思いますか?神様がチチンプイプイと奇跡を行ってくれたからでしょうか?ヒントは、人々は見てます、聞いています。クリスチャンたちの生き方、態度の方がどう見ても正しい、こっちの方が正当な道だ…と判断する人たちが味方するようになったからです。さて、聖書はどのように生きなさいと教えているでしょうか?

 

1、見極める目、見極める霊をしっかり働かせなさいと教えています(17

 

それを育成したため、安易に人を信じることのできない時代に、守られることができたのです。Ⅰヨハ 4:1

 

2、「善にはさとく、悪にはうとくありなさい」(19

 

聖書はこのようでありなさいと教えています。そうすれば20は約束です。

 

3、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして神を愛し、また隣人を自分自身のように愛しなさい」初代教会の兄弟姉妹たちは、それを実践していたゆえに、人々からの絶大な信頼を得たのです。

 

4、聖書は「幼子のように御言葉の乳を慕い求めなさい」と教えています。   御言葉は「あなた方を強くすることができる」のです。

 

 


2021年10月31日礼拝メッセージです。

 

                      「初代教会の体質       

                                             ローマ161-16

 

今日の箇所を読むと名のあがっている人たちが最低26人、それ以上いることが分かります。こうやって名をあげるということは、この方々がそのころのローマの教会の主なメンバーだったようです。そうだとすれば、今のこの岩国教会の規模とそんなに変わらないということになります。ここで皆さん歴史を見てみてください。この後ローマのクリスチャンたちは、迫害による困難な時代に入ります。それがAD64年から始まり、ネロ皇帝やディオクレティアヌス皇帝の時に最もひどく313年まで続く。313年にはキリスト教が認められ、AD392年には、ローマの国教として認められるようになるというまでになるのです。初めは、この教会のメンバーぐらいの規模の人たちの集まりだったのに、一時は、迫害と殺戮のために根絶えてしまうかも…という時があったのに。しかし、クリスチャンたちは、墓地の下に地下教会などを作って、礼拝を続けて、祈って、耐えて…そしてついに300年後には国まで変える存在となったというのです。それが歴史による証です。さて、規模は似ていると言いましたが、その教会の体質には違いがあることが分かります。ローマの教会(初代教会)の体質の特徴を示しましょう。二つ。

 

1、信徒の立場でありながらも、私財を使って、教会を又奉仕者を支援し仕える同労者がいました。ここで紹介されているフィベさんや、プリスカとアキラ夫妻などもそうです。こういう同労者がいる教会は体力のある教会となります。

 

2、初代教会は、「家の教会」で広がっていました。

 

草の根のように、一人一人のクリスチャンが伝道者でした

 


2021年10月24日礼拝メッセージです。

「希望、祈り、その結果」 ローマ15章14ー33節

 

ローマ書も終盤を迎え、内容も教えとか諭しでなく、「働きの回想、自分の希望、これからの計画、祈りの課題」というような色合いを帯びた内容になってきました。ここで二つのことが分かります。一つは、この書が記された年代です。それはパウロがまだ自由に伝道旅行ができていた時で、エルサレムの兄弟姉妹たちの窮乏のための愛献金をエルサレムに届ける…その後ローマに、そしてイスパニアに行く…と言っていた頃。このエルサレム行きで彼は捕らえられ、囚人の身となるのです。

 

もう一つは、パウロが抱いていた希望と計画、それに伴う祈りの課題、それがどのように成就したか、またどのようなことは成就されなかったか、そしてその後は?…です。私たちは、歴史をたどってその内容を検証できるわけです。さてどうでしたか?パウロはエルサレムに行き、その後ローマに行けましたか?そしてイスパニア(スペイン)に行けましたか?確かに守られ、神様の助けでローマまで行くことができました。しかしイスパニア伝道は許されませんでしたね。では、そこの伝道は頓挫しましたか?いいえ、神様は他の人たちによってそれを成し遂げました。ちなみに、日本伝道を最初にしたというザビエルはどこの国の人だったか覚えていますか?このイスパニア(スペイン)の人でしたね。なんだかロマンを感じます。

 

使徒パウロでも、「あなたはここまで」という時があったことを覚えましょう。確かに信仰による祈りは聞かれるものです。でもそれは、私たちが思うように聞かれるものとは限りませんね。それが使徒パウロを通して教えられるものです。


2021年10月17日礼拝メッセージです。

   「忍耐と励ましの神、希望の神」  

              ローマ15章1ー13節

(13)「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に溢れさせてくださいますように」という希望の祈りがパウロによって口にされていますが、今日皆さんにお伝えしなければならないことは、まさしくこれなのです。神様が皆さんに望んでおられることは、あなたも「信仰によるすべての喜びと平安で満たされ、聖霊の力によって希望にあふれ」ていることなのです。それはどのようにしたら実現するでしょう。

 

・まず、今日の御言葉の中に、「神様」がどのようなお方であると証されているでしょうか?「希望の神」「忍耐と励ましの神」(5)だと…今あなたにとって神様とはどのような方に見えていますか?信仰の目で「希望の神」「忍耐と励ましの神」と見ませんか?そうすればあなたの信じるように、神様はあなたにとってもそういう存在となるでしょう。そうすれば、先の御言葉があなたのうちに完成されますよ。

 

・また「何らかの助けが必要な人がいて、自分にできることなら、声をかけたり、手助けしたり」してみてください。1節の「力ある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべき」とは、そういうことと理解してください。聖書は教えています。キリストご自身もそのように「自分を喜ばせるより、隣人を喜ばせる」ように生き抜いて、あざけりさえ受けてくださったではないかと…とにかく理屈抜きでそれを実践してみてください。そうすれば、「希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に溢れさせてくださいます」

 

さあ、今日からそういう信仰を持たせていただきましょう。


2021年10月10日礼拝メッセージです。

「レムナント(残れる者たち)」    

                              黙示録3章1ー6節

 

サルディスの教会に宛てた手紙の箇所です。その教会には、信仰的に死んだ者や死にかけている者たちがいましたが、そんな中でも衣を汚さなかった白い衣を着た者たちが残されていました。

 

2節「死にかけている残りの者たちを力づけなさい」

 

霊的に目を覚ましていなさい。霊的に死にかけているなら危ない!牧師は目を覚ますように力づけますが、自分自身でも努力する必要があります。忙しく厳しい状況にあっても心から主を愛して忠実に教会に出席し、日々御言葉を読んで力づけられましょう。

 

3節「どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り…」救われた日を思い出してみて、なんと素晴らしい日。喜びの日。その日からイエス様に従ってイエス様と共に歩んでいくなら信仰は成長していきます。しかし、イエス様から離れてしまったと感じたら悔い改めて主に立ち返りましょう。何もせずにただ見ているなら信仰の火は消えていきます。悪魔は火に水をかけますから、それでも火が消えないようにするには、力を尽くして油を注ぎ続けなければなりません。

 

4節「わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる」暗い時代にでも、イエス様を愛して従い続けているふさわしい者が残っています。狭い門から入り、まっすぐな道を歩みながら、最期まで世の汚れから自分自身を守っている者がいます。

 

5節「 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない」イエス様を信じた日、天にあるいのちの書に名前を記していただいた、それは何よりも大切な素晴らしい日。あなたの名前も記されていますか?


2021年10月3日礼拝メッセージです。

 「イエス様とサマリヤの女」      

                   ヨハネ4章1ー42節

今日の箇所は、イエス様とサマリヤの女性の話です。ユダヤ人は、サマリヤ人を嫌っていたので遠回りをしてでもサマリヤを通らず旅をしていました。しかしイエス様は、サマリヤを通り水を汲みに来た女性に話しかけました。イエス様は人種差別の壁を打ち壊したのです。貧しい人への差別、外国人への差別、障害者への差別…神様は一人一人をそのままで愛しておられます。私たちも認めあって偏見を捨て、互いに親切にしましょう。イエス様は、全ての人を「わたしのもとに来なさい」と招いておられます。

 

イエス様は霊的な生ける水について話されました。イエス様を信じるなら満足が与えられ、コップ一杯のまた渇く水ではない、心の奥底から永遠のいのちへの水が湧き出る泉が与えられるのです。

 

イエス様は彼女の必要を示しました。「あなたの夫を呼んできなさい」彼女には5人の夫があったが今は夫でない人と暮らしていました。そのことをイエス様は言い当てたのです。イエス様に隠すことのできるものは一つもありません。

 

どのように礼拝したらいいか、に話は移ります。多くの人は知らずに礼拝しています。自分自身を、家族を、お金を、仕事を礼拝している人もいます。偶像に手を合わせている人もいます。「御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」と。あなたの心は主に向いていますか?心からの礼拝を捧げていますか?このサマリヤの女はすべてを言い当てたイエス様を「預言されているキリスト」と信じました。彼女のうちから喜びが溢れ町の人々に伝え、そこでリバイバルが起きました。あなたにもあふれ出る喜びの証がありますか?


2021年9月26日礼拝メッセージです。

 「戸口で罪が待ち伏せていますか?」

創世記4章1ー15節、

(Ⅰサムエル15:22、箴言15:8、Ⅰヨハネ3:15)

 

今日の箇所には、アダムとエバの二人の息子であるカインとアベルが出てきます。カインは農夫でアベルは羊を飼うものでした。アベルは信仰をもって神様に捧げものをしましたが、カインには信仰がありませんでした(へブル11:4)。アベルは、へりくだって神様の御前に出ましたが、カインは「自分のやり方でいいでしょう」と血を注ぎ出すこともなく自分勝手な方法で捧げものをしました。神様は、アベルとその捧げものを受け入れましたがカインとその捧げものには目を留めませんでした。(Ⅰサムエル15:22)カインは、弟に対しても神様に対しても怒りました。6,7節「【主】はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」愛深い神様は、カインに語りかけ悔い改めのチャンスを与えたのですが、カインはその忠告に耳を傾けず無視しました。そして、アベルを野に連れ出して殺したのです。9節で神様は、再びカインに語りかけてチャンスを与えますがアベルは、「知りません」と嘘をつきました。次々と罪を重ねていきます11,12節でついに神様が、カインへの罰を宣告します。この時にも悔い改めのチャンスがありましたがカインは、罰は嫌でしたが心からへりくだって悔い改めることはなかったのです。「罪は戸口で待ち伏せしている」神様に心を探っていただきましょう。もし罪があれば、イエス様の十字架を見上げて信じ、罪の赦しと平安をいただきましょう。


2021年9月19日礼拝メッセージです。

 「救われるためには、何をしなければなりませんか」

                              使徒16章25-34節

イエス様の弟子であるパウロとシラスは、ピリピで福音を伝えていました。人々を愛し、神様を愛し、救いの道を説いていたにも関わらず捕らえられて鞭で打たれ、足かせをつけなられて牢屋に入れられました。そのような状況にありながらも、彼らは牢の中で祈りをささげ神様を賛美していたと言うのです。自分の力ではできないことですね。すると真夜中頃地震が起きて牢の扉が開いた(神様からの祈りの答えでした)。看守は、囚人が逃げてしまったと思って責任をとるために自害しようとしましたが、パウロが「自害してはいけない。みんなここにいる。」と告げました。看守は、神様の御業だ!と感じて「救われるためには何をしなければなりませんか」と尋ねました。その答えが、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(31節)です。天の栄光を捨て処女マリヤを通してこの世に生まれ、貧しさもさびしさも味わってくださり、十字架にかかってあなたや私の罪の罰を代わりに受けて死んでくださったイエス様。しかし、死なれただけではなく三日目によみがえられた、死に勝利されたイエス様を私の救い主と信じるならだれでも救われるのです。永遠の命を受け、いつまでも残る平安をいただくことができます。(藤井圭子師の救いの証)

 

使徒4章12節「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

あなたもイエス様を信じませんか?


2021年9月12日礼拝メッセージです。

「霊的な教会の特徴」 

               エペソ5章19-27節

 

今日の箇所でイエス様は花婿、教会(クリスチャン)は花嫁にたとえられています。

 

イエス様が望んでいる花嫁(教会)は、しみもしわもない聖なる教会です。(26節、27節)アダムのあばら骨から妻のエバがつくられました。イエス様が十字架にかかられたときに脇腹を槍で刺され、そこから血と水が流れました。イエス様が流された血潮によって私たちの罪は赦され、きよめられるのです。私たちはキリストの花嫁です。ドン・ボーマン師の証の中に「ブラシでこすって水で汚れをながし、心の隅々まできれいにされた」とありました。ヤコブ1章27節「…この世の汚れにそまらないよう自分を守る…」とあります。神様の役割とともに私たち自身の役割もあるのです。自分の心を守るために戦う責任もあることを覚えましょう。そのためには、毎日祈る、祈るための時間を作る必要があります。使徒4章31節には、弟子たちが一つ所に集まり、心を一つにして祈っていると聖霊に満たされたことが書かれています。聖霊の満たしは、一度でいいのではなく度々必要です。

 

イエス様が望んでいる花嫁(教会)は、感謝する教会です。(20節)

 

「いつでも」「すべてのことについて」感謝しましょう。良いものについても不幸と思えることについても、です。職場や学校や家庭で、不当な扱いを受けていても、そのことをも感謝しましょう。ローマ8章28節にあるように、神様はそれらをも益と変えてくださるのです。

 

イエス様が望んでいる花嫁(教会)は、心から礼拝する教会です。(19節)どんな状況にあっても心から礼拝を捧げましょう。岩国教会が、聖く感謝に溢れる、心から礼拝する教会でありますように!


2021年9月5日礼拝メッセージです。

「イエス様はあなたに休息を与えられます」マタイ11章28-30節

 

あなたは日々の生活に疲れていますか? 罪を感じて罪悪感に苛まれていますか? 悲しみや苦しみ、病気で苦しんでいますか? イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(28)とおっしゃっています。ジョン・バンヤン著「天路歴程」には、天国までの旅をした一人の人が出てきます。その人は背中に背負っている重荷をおろしたくて旅に出ます。途中伝道者と出会って十字架の所に行けばおろせると聞き、ついにそこにたどり着き、十字架を見上げた時に背中からその重荷が転がり落ちました。あなたもイエス様に出会うと、そして十字架を見上げると罪の重荷もその他の重荷もおろすことができて休むことができる、喜びを受けることができます。その後、「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(29)とあるように、イエス様と一緒に愛のくびきを負い、イエス様に信頼してイエス様のペースで歩み、イエス差が右に曲がれば右に、止まれば止まる…そのように一緒に歩みながらイエス様から学んでいくと正しい歩みをすることができ、「たましいに安らぎを得」ることができます。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(30)イエス様はあなたの弱さもご存知ですから、「もう一歩も前に進めない」という時には、親が子を抱き上げるように、しばらくの間イエス様があなたを抱き上げてくださいます。イエス様を信じて十字架を見上げ、イエス様のくびきを負ってイエス様につき従い、第一の「休み」も第二の「たましいの安らぎ」もいただきましょう。あなたも今日求めませんか?

2021年8月29日礼拝メッセージです。

「あなたは花婿なるイエスにお会いする準備は出来ていますか」

   マタイ25章1-13節 ルカ6:46、1コリント15:52、Ⅰテサロニケ5:6

 新約聖書27巻中23巻に再臨のことが書かれています。イエス様が、雲に乗って天に昇られたとき「また来る、迎えに来る」と約束されました。その時がいつであるのかわかりませんが、イエス様が迎えに来てくださる時の準備は出来ていますか?今日読んだマタイの箇所には、花婿を待っている10人の娘が出てきます。5人は愚かで5人は賢かった…5人の賢い娘は、前もって計画して注意深く、ともしびだけでなく入れ物に油を入れて持っていました。クリスチャンは聖霊の油が必要であることを認識しなければなりません。毎日忙しく神様のご奉仕をしながらも聖霊の油が少なくなっていく、リバイバルが必要、私の心にも聖霊様を注ぎ満たしてください、と。聖書を読み、祈り、神様の御声に忠実に従い、救われてきよめられている確信を保つことです。5人の愚かな娘は、前もって考えず、聞いても聞き流し、どうにかなるでしょうと不注意でした。「そこまでする必要はないでしょう」と油を準備していませんでした。花婿の到着が遅れたことにより10人とも眠くなり寝入ってしまいました。今の時代は霊的に眠い時代です。その時「花婿だ」と叫ぶ声がしました。5人は急いで油を入れてともしびを整えて間に合いましたが、愚かな5人は油を買いに行っている間に戸が閉じられました。「開けてください」と言っても「私はあなたを知りません」と、戸が開かれることはなかったのです。戸が閉じられてもう遅いという時が来るのです。ですから、目を覚ましていなさい、眠っているなら起きなさい、イエス様が来られるときのために備えていなさい。あなたの心の状態はどうですか? クリスチャンと言いながら神様を第一にしていますか? 以前は心からイエス様を愛していたけど今は? 聖書を読んだり教会に行ったり、前は楽しかったけど今は? あなたの心の火は今も燃えていますか?


2021年8月22日礼拝メッセージです。

 「聖なる道(ホーリネスの道)」   イザヤ35章8節

 

ヨハネ17:16-17、Ⅰヨハネ1:7、へブル13:12-13、ヨハネ17:20、へブル12:14、マタイ5:8、ローマ12:1-2、使徒15:8-9、ローマ15:16、へブル10:14-15

 

「聖なる道」とは、信仰の道であり私たちを天国まで導いてくれる道です。それはきよい道です。救われてしばらく経つと自分の心が二心であることに気づきます。神様を愛して従いたい心と神様に反抗する心。そのことに気づくことがきよめへの第一歩です。救われているのに罪に戻ろうとする、罪に傾く性質があることに気づいたら、神様にきよめを求めましょう。聖なる道はシンプルで分かりやすい道です。聖書の全てを知らなくても多くのことが分からなくても、求めるなら心がまず新幹線で、そして頭は普通電車で後からついて来ます(ドン・ボーマン師の証より)。きよめの必要性に気づきながらそのまま放って何もしないのは危険です。救われて嬉しい、でもまだ神様が備えてくださっているきよめの恵みがあるのならそれが欲しいです、と神様に求めましょう。自分自身を生きたささげものとして神様に捧げましょう。私の口も耳も目も手も足も…すべて神様のご栄光のためにお使いください、と。自分を傷つけた人を赦せないですか?自分の力や愛ではできないですが、神様の力と愛をいただくならできます。きよめは全き愛とも呼ばれます。心の御座に自分が座っているのではなく、イエス様に明け渡して御座に座っていただきましょう。神様に従いきるなら最後のステップは信仰です。人は信仰によってきよめられます。そして、聖霊様がそのことを証してくださるのです。きよめられても欠点はあります、アダムのようなきよさに至るのでもありません。弱さもありますが、故意に神様に反抗して罪を犯すことはありません。あなたもきよめを求めませんか?


2021年8月15日礼拝メッセージです。

「天国ってどんなところ!」 

                           黙示録21章1-7

天国について書いてある箇所が、聖書中に235カ所あります。天国は、私たちのために神様が備えてくださっている所です。

1、 天国はどんな所でしょうか? 1節に「新しい天」とあります。Ⅰコリント2:9にあるように、そこは今までに見たことも聞いたこともないほど素晴らしい所です。天の門は真珠、道は純金、城壁は碧玉でできているとあります。天国はイエス様の輝きで輝いていて、時間というものが無い永遠の所です。全てが正しく行われ、死も病気も悲しみも苦しみもありません。

2、 天国はどこにあるのでしょうか? 上、宇宙よりはるか上にあります

誰が天国に入ることができるのでしょうか?罪を悔い改めて子羊のいのちの書に名前が記されている者です。罪の重荷をおろして救われると霊の目が開かれて神様のことが分かるようになります。そして、生きるための新しい意味を見出すことができます。天国には心のきよい者が入ることができます。マタイ5:8 へブル12:14 詩篇24:3、4 勝利を得る者が天国に入ることができます。この地上にいるときはまだ試されている期間です。主にあって試練を乗り越えて勝利を得るものでありましょう。試練があっても、神様は私たちを愛しておられるので耐えることのできない試練には遭わせない、出口も備えてくださると約束してくださっています。人を恐れることなく神様を恐れ敬いましょう。黙示録12:11には、「子羊の血」によって悪魔に打ち勝つことができる、「自分たちの証のことばのゆえに」勝利を得ることができるとあります。黙示録21:27、19:6、11:15 Ⅰコリント2:9 あなたは天国に行く準備ができていますか? 黙示録22:17には神様の招きの言葉が書かれています

2021年8月1日礼拝メッセージです。

   「永続的な祈り」 ルカ11章5-13節、へブル11章6節

 

神様は、私たちが祈る前から全てをご存じなのに、どうして私たちは祈る必要があるのでしょうか?イエス様が「祈りなさい」と言っておられるからです。今日の箇所は、友達である旅人が夜中に訪れて何ももてなすことができないとき、隣人の所に行って「パンを分けてください」とお願いする、「真夜中だから起こさないでくれ」と断られてもあきらめずにしつこく頼み込んでついにはパンを分けてもらう話です。神様は、そのようにあきらめないでしつこく祈り続けなさい、と教えているのです。

 

1、 「求めなさい。そうすれば与えられます。」天のお父様は、人間のお父さんより愛深く、私たちのためにベストを望んで、私たちの霊のために良いものを与えてくださいます。すぐに答えてくださるときもあり、時間がかかる時もありますが、私たちが求める以上のものを与えてくださることを覚えましょう。

 

2、 「探しなさい。そうすれば見出します。」あきらめずに見出すまで、必死に祈りなさい。神様は一人として滅びることを望んでおられませんから、救われていない家族のために祈り続けましょう。

 

3、 「たたきなさい。そうすれば開かれます。」ハラム先生の長男は、18歳の時に神様にも両親にも反抗して教会からも離れました。しかし、数カ月前、罪深い生活に落ちていた彼はついに救われ、きよめられ、彼の奥さんも救われて、今では毎週1時間半かけて教会に通っています。あきらめずに求め、探し、たたき続けましょう。イギリスで孤児院を開いていたジョージ・ミューラーは、必要がある時には人には言わずに祈る人でした。ある時にはちょうど必要な時にミルクが届けられました。また、三人の友達のために40年間祈り続け、二人は彼が生きている間に救われ、もう一人は彼が天に召されてから救われました。神様の約束を信じて祈り続けましょう。


2021年7月25日礼拝メッセージです。

「あなたはまだ肉の人ですか」  Ⅰコリント3章1-9節

 

赤ちゃんが、ミルクを飲むのは当たり前ですが6歳になってあるいは大人になっていて、ミルクしか飲まないなら心配ですね。今日の箇所でパウロは、コリントの教会の人々に霊的に成長してほしい思いを伝えています。

 

1、 救いについて ヨハネ3章を読んでみるとニコデモという名のパリサイ人が、イエス様を尋ねて質問したときにイエス様は、「…人は新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ません。」と答えておられます。それは、肉体的に生まれることを指しているのではなく心(霊的)が新しくされることを指しています。どんなに罪深い者でも罪を認めて悔い改めるなら、神様は、全ての罪を赦して新しく生まれたものとしてくださいます。ヨハネ3章16節にあるように、神様は私たち人間を愛して一人子なるイエス様を世に遣わし、私たちの罪の罰を代わりに負わせてくださいました。このイエス様を信じるものは、誰でも救われることができます。全ての罪が贖われ、天国に行くことができるものとされるのです。

 

2、 救われてから(クリスチャンとされてから)もイエス様は日々導いてくださいます。(「いばらの垣根」というタイトルの実話について語られました)その大きないばらの垣根が人々を危険から守るためにつくられたように、聖書には、私たちクリスチャンを危険から守るための言葉がたくさん記されています。理解が難しくても、「イエス様がそう言われるのなら」と素直に従うと霊的な危険から守られます。ガードレールのように、天国への道を歩む私たちを悪魔の罠から守ってくださるのです。クリスチャンであるあなたは、神様を第一にしていますか?救われて長い年月が経っているのに成長しないままですか?神様を第一にして「神様がそう言われるなら‥」と聖書の言葉に素直に従っていくと霊的に成長することができます。

 


2021年7月18日礼拝メッセージです。

 「乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか」 

 

エレミヤ8章22節

 

パンデミックの最中、私たちの生活が変わり、「死にたくない。病気になりたくない。」という声をよく聞きます。しかし、今日は病気よりも深刻な影響を及ぼす罪とその解決〈癒し〉について話したいと思います。

 

エレミヤ8章までを見ると、イスラエルは背信を繰り返し、悔い改めず、主の定めを知らないだけでなく知ろうともせず、主の言葉を退け、預言者たちは平安がないにもかかわらず「平安だ。」と告げていたことがわかります。そのような民に向かって、エレミヤは「乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。」と問いかけています。

 

1、 罪が癒されます〈赦されます〉。

 

イエス様が十字架上で流してくださった血潮により、私たちの心の問題〈罪〉は癒されます。ゼカリヤ13:1「…罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」今でも、イエス様の血潮は人の心と人生を大きく変える力があるのです。イザヤ53:5 詩篇103:3 イエス様は私たちのすべての咎を赦し、神の子とし、義と認めてくださいます。

 

2、 私たちの二心の問題を解決してくださいます。へブル13:12       

 

救われてしばらくすると、神様に従いたいのに反抗する心があることに気づきます。霊的にアップダウンを繰り返すことに嫌気がさし、決心してきよめを求め始めるとなすべきことが示され、それに従うとついにきよめられます。そして、信仰が安定してきます。ホセア14:4 へブル7:25 ヤコブ4:8

 

3、 悩んでいる者に慰めが与えられます。

 

詩篇34:19 Ⅱコリント9:8 救われてきよめられていても、悩みがあります。学校で、職場で、家庭で…。病気、愛する人を亡くした悲しみ、心の痛み。しかし、イエス様を見上げると不平不満ではなく、泣きたい気持ちが賛美と感謝に変えられるのです。乳香はあります。医者はいます。それはイエス様です!あなたはその恵みを受けましたか?


2021年7月11日礼拝メッセージです。

 

「クリスチャンの心得3」     ローマ14

 

今日の14章では「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」という教えから始まっています。そもそも今日の箇所には、背景があります。それは「市場で売っている肉には、どうやら異教の神にささげられた肉のおさがりが混ざっているようだ。」そうであれば、私たちは肉を食べることによって間接的に偶像礼拝に加担することにもなるのでは…ということで、「市場で売っている肉は食べない方がいい」という人がいる「いやそこまで考えなくてもいいよ」という人もいる。これ結構大きな問題になっていました。そこから…

 

心しておく 6つの御言葉を心に刻みましょう。

 

1、        信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。(1

 

2、        ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(5

 

3、        「あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。」ということのないように。(10

 

4、        こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。(13

 

5、        私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。(19

 

6、        あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。 しかし、疑いを抱くなら、やめておきなさい。信仰によらないことは、みな罪です。(22,23

 

 

 


2021年7月4日礼拝メッセージです。

「クリスチャンの心得2」     ローマ13章

 

今日は13章から、先週とは違う方面からクリスチャンの心得をお語りしたいと思います。

 

(1、2)クリスチャンは国家権力に逆らう者ではなく、祈りによって支え、応援する存在です。あなたや私の祈りの中に、国の総理大臣や県知事さん、また市長さんや会社の上層部の人たち、裁判官や、警察の方々、また学校の先生たちのための祈りはあるでしょうか?聖書はその人たちのために祈りなさい。と教えています。

 

(3―5)クリスチャンはやましくない生き方をしている者でありなさい。

 

「支配者」を「警察」と置き換え、「剣」を「武器」と置き換えて(3ー5)を読んでみると理解しやすいのではないでしょうか?

 

(6-7)クリスチャンは良き国民、市民でありなさい。税金も正しく納め、恐れるべき人を恐れて敬いなさい…これはよくわかりますね。

 

(8-10)クリスチャンは、世とは一線を置き、愛に生きることを目指しなさい。「誰に対しても、何の借りもあってはいけません」とは、人や世に甘えてはいけないということにも通じます。だけど、「互いに愛し合う」というキリストの教えにしっかり生きることはクリスチャンに大切なことだということです。愛する者を苦しめたり、痛めたり、汚したいなどとは思いません。それは、クリスチャンでなくてもそうなのです。

 

(11―14)クリスチャン、欲望の衣でなく、主イエス・キリストを着ていなさい、平和を願うなら、またみんなが幸せを願うのであれば、あなたや私も「キリストを着ている」者でありたいですね。

 


2021年6月27日礼拝メッセージです。

 

「クリスチャンの心得」     ローマ12

 

この章は、ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます」ということばで始まっています。では、「どういうことのゆえに」勧められているのでしょうか?それは先週お語りしたことですが、覚えておられますか?ここまで語られていた「神の選び」の奥義。ユダヤ人たちがキリストを拒んだことによって、異邦人である私たちに「あわれみの器」としての神の選びが来た…しかし、それにもまた時があり、いつかその恵みの時代は終わり、再びユダヤ人が顧みられる時が来る…それは、異邦人の私たちの時が終わる時だ。しかし「神様には計画がある。それはいまだにまだ実現していない。いつの日か、必ず実現する」それもまた神の選びの計画だ…と先週お取次ぎしました。「ですから…私は神のあわれみによって、あなた方に勧めます」ということになるのです。だから「私たちはどういうふうに備えたらいいか」「どう心得たらいいか」ということが教えられているのがこの12章と言えるでしょう。では、まだ福音を知らない人々に知らせなさいと言っているのでしょうか?いいえ、どうやら「クリスチャンたち」また「教会」はどういうものであり、どうしていたらいいか…というようなことが諭されています。

 

 

1,2)神様が望む礼拝をしていなさい

 

3)「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません」と警告されています。

 

(4-21)クリスチャンの心得

 


2021年6月20日礼拝メッセージです。

 

「父なる神の壮大な救いプロジェクト」 ローマ11章(101-4節)

 

ここでは今まで触れてきました「神の選び」の究極的、最終的な真理が語られています。それは、「神様には計画がある。それはいまだにまだ実現していない。しかし、いつの日か、必ず実現する」「ユダヤ人がキリストを拒んだことにより、救いが異邦人に及んだ。しかしそれは何時か終わり、今度再びユダヤ人が顧みられる。彼らがキリストに立ち返り、恵みの内につなげられる」という「選び」の計画がある。そういうわけで、父の日に「父なる神の壮大な救いプロジェクト」という題で三つのことをお語りしたいと思っています。

 

   父なる神は、私たち人間の思いをはるかに超えて、時間を超えて御心を成し遂げておられます。

 

それを理解できない人間は、時に神の悪口を言い、何もしてくれないと言い、ひどいことをすると言い、私たちのことは何もわかってくれないという。そして神の御心を行い手伝おうとするものが何と少ないことか…しかし父なる神は、それでも黙々と御心を成し遂げようとしておられます。

 

   神は人の「失敗」「無知」「過ち」「脱落」による脱線をも、益と変えられます。(ローマ828節)

 

私たちはそのことの生き証人でもあるのです。「ただ、どれだけの方が、そう見ているか???」

 

   いつの時代も「高慢」「油断」「高ぶり」は禁物です。

 

ユダヤ人はそれによって恵みを逃し、見捨てられた民のように切られたのでした。今度は私たち(異邦人)にも同様のことが起こります。

 


2021年6月13日礼拝メッセージです。

 「宣ベ伝える人がいなければ」 

                                  ローマ10章14―21節

 ここまで「神の選び」について、そして「あわれみの器」について語られていて、先週は「どうやってその選びの器となれるか」ということについて学びました(13)「主の御名を呼び求める者はみな救われる」。そう救いは、罪の毒消しであるイエス・キリストを信じ、受け入れることによって成就するということでした。これが現在の神の「選び」の定義というものだともお話ししました。

 

そして今日の所では、話をさらに進めて「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣ベ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」とすでにその信仰にある私達に対する呼びかけがされています。預言者イザヤはこう言っています。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」(6:8)…あなたにもその呼びかけが聞こえませんか?しかし、多くの方々が言われます。でも私は上手に語れないから…って、どうやら、この福音宣教とか、証しというのは日本人にとって英会話に近いアレルギー反応があるようです。牧師も、神様も、そういう完ぺきな証、宣教というものを皆さんに期待していません。期待しているとしたら、「イエス様に出会う前の自分はどんなに罪深く、弱い者であったか…そしてイエス様に出会い、信じて、どのように変わったか…」「今どのように喜んでいるか」「感謝しているか」それが証しできればいいです。人々が知りたいのは、生きた証、力ある証なのです。喜んでいる証なのです。

 


2021年6月6日礼拝メッセージです。

 

                 「主イエスを信じなさい」 

                                       ローマ10113

 

ローマ9章からは、「神の選び」というテーマで学び、先週はその締めくくりで「あわれみの器」ということを学びました。その中で今、神様が選ばれているものは、この「あわれみの器」だと説明しました。その道を歩まず、自分たちの感覚で信仰を極めようとした宗教者たちには、イエス・キリストは「躓きの石、妨げの岩」としか見えなかったけど、信頼する者には「救いの道」「神から来たキリスト」と見えたのでした。今日の所では、どうやったら「あわれみの器」となれるのか…ということについて教えられています。今日は主なテーマとして二つあげたいと思います。

 

熱心な信仰に救いがあるのではありません。

 

イエスを主と告白する信仰に救いがある。

 

残念ながら、ユダヤ人たちは、神様から選び出されていた選民だったのに、神が約束通りもたらしてくれたメシヤ〈キリスト〉を拒み、救いの恵みを逃してしまったのでした。では、それだけユダヤ人たちが罪深かったのですか?いいえ、彼らは自分では、神を待ち望み、従っていると自負していました。とてもそれに熱心でした。ただ、その熱心さが神様の御心(思いと願い)と違っていたのです。それでイエスを十字架まで追いやってしまったのです。聖書は言っています。4節「律法が目指すものはキリストです。それで義は信じる者すべてに与えられるのです」それで言われています。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです」


2021年5月30日礼拝メッセージです。

 

「あわれみの器の選び」  ローマ91933

 

今私たちは、ローマ9章から「神の選び」ということについて学んでいます。有限の人間が無限のお方の考えることを学ぶのですから、理解が困難なのは当然のことと思います。ただ、これだけは先にはっきり言えることがあります。神様は意地悪な方ではなく、私たちを愛し、私たちの最善を見て計画しておられます。エレミヤ書にはこうあります「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(29:11まずこの信仰をもって読み進めて行けば、間違った解釈に至ることはありません。

 

今日は、ここから三つのことについてお話ししたいと思います。

 

・運命的考え、神の予知論について

 

皆さん、「神の予知」と「運命」的考えとを混同してはいけませんよ。神様が定めた運命、私たちには逆らうこともできない…という考え方ではなく、この人が今のまま生きていたら、先にはこういう運命、結果が待っていると神様は予知することができるというのが本筋なのです。ですから、人は自分の人生を、また運命を変えることができるということを教えているのがこの章の教えの最重要事項なのです。

 

・神様はみんなを同じように造られたのではなく、違った器として造られた。一人の人の体はいろんな器官で出来上がっているのと同じです。

 

・今の選びは、「あわれみの器」です。クリスチャンはこれです。

 


2021年5月23日礼拝メッセージです。

 「父の約束、聖霊の満たし」 

         ルカ24章44―49節

 

コロナで教会の礼拝を閉じたのが、くしくも「ペンテコステ」の礼拝からというのは、残念なことでもありますが、見方を変えたらそれでこそペンテコステの恵みがあらわされる時であると言えます。

 

ペンテコステの時に与えられたのは、聖霊でした。「助け主」「慰め主」「癒し主」である御霊(聖霊)が約束通り、父なる神様から送られたのでした。イエス様が去って行かれることを語られた時、弟子たちはよく理解できずに悲しみ、不安に思いました。そのため、イエス様は十字架にかかられる前にも復活後にも、「父の約束」として御霊が弟子たちに与えられることを教えられました。イエス様が天に戻って行かれ、姿が見えなくなっても、「助け主」なる御霊が弟子たちとともにおられ、真理を教え、力ある御業を行なわれることを語っておられたのです。そして全世界に出て行き福音を伝え、信じる人々を弟子とするように命じられましたが、その前に「父の約束」を待ち望み、聖霊のバプテスマ(満たし)を受け、聖霊の力を受けるよう語られたのです。ですからペンテコステは、まさに父の約束の成就の日となりました。イエス様の昇天の後、イエス様の教えを守って父の約束である聖霊のバプテスマ(満たし)を受け取ろうとして、弟子たち百二十人が祈りに専念していると、イエス様が地上を離れて行かれて10日後のペンテコステの日に、聖霊が激しく下られ、弟子たちはみな聖霊に満たされたのでした。その時から、聖霊の時代となり、今もなお働き、共にいて下るのですこのコロナの事態にも…家にいて自粛モードの中にもです…


2021年5月16日礼拝メッセージです。

   「神の選び」   

         ローマ91-18

 

きょうはこの9章から神の選びついて学びたいと思います。

 

1、 神の選びは、私たち人間の理解をはるかに超えたものです。

 

アブラハムには子孫の繁栄の約束が与えられていましたが、その子供が与えられたのは、100歳になった時でした。また神様は時間を超えて先のことをも予見することがお出来になります。この状態、この性格で生きて行くなら、こうなる…と。だから、私たち人間の理解を超えたことを語られることがよくあるのです。

 

2、 今、神はどのような選びをされているでしょうか?

 

神様の選びでは、全ての人を「神のみ前に聖なる、傷のないものにしようとあらかじめ定めておられるのです」(エペソ135節)ただ、多くの人たちがそれに気が付かず、ある者は反抗し、あるものは見向きもしないようにしています。(罪のうちに死んでいる状態だからそうしてしまっているのです。以前の自分たちもそうでした)。

 

「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」使徒1631節…今はこのように選ばれているのです。また、Ⅰコリント11829節…異邦人クリスチャンである私たちが大切にしたらいい選びの感覚はこれです。

 

3、 私たちは神の憐みと慈しみにすがるのが一番いいです。(15,16

 

  神様は私たちのために良い計画をたててくださっています。ただ信じ、信頼していましょう。私たちに必要なものは信仰と忍耐です。

 


2021年5月9日礼拝メッセージです。

      「あなたの父と母を敬いなさい」

                 エペソ6章1-4節

この御言葉には幸いな親子関係の図式が示されています。子供たちには、「主にあって自分の両親に従いなさい」「あなたの父と母を敬え」と諭され、父たち(親、保護者側)には、「自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい」と教えられています。この教え、戒めはある意味親子関係を秩序正しくし、互いを思い合う意図をもってもたらされた戒めなのです。ですからこれらには約束が伴っているのです。(3)「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。これは真理なのです。本当にそうなるのです。それで昔から、秩序ある国ではこのような教えが大切にされてきたのです。この日本でも、聖書の教えとしてではありませんが、昔からそのような精神は先人たちによって教えられ、大切にされてきました。

 

ところが、近年では、この当たり前の教えが口にしづらくなる傾向が強くなってきているのです。幼児虐待、育児放棄を受けた子供たちにはこの聖書の教えは、拷問のように思えるものとなっているのです。

 

 とても悲しい現実ですね、とてもつらい事実ですね、全てが曲げられ、変形してしまっています。これが聖書の教える「罪」の呪いなのです。罪が人を変え、罪が人の道を変形させ、神の面影である愛を隠させ、悪魔の形相、心、考えにさせているのです。神様は今も語ってくださっています「悔い改めなさい」「罪から救われなさい」と…「母の日」はそのような罪の親子関係の中に、一筋の光を投ずるものとなるでしょう。愛を示してみましょう。

 


2021年5月2日礼拝メッセージです。

「クリスチャンの必修体験事項」   

         ローマ8章26-39節

今回の箇所には、皆さんに是非とも体験して、知っていただきたい事柄がいくつか出てきます。神の祝福にあずかりたいと願う方々は、ぜひ、これらを心に留めて求めて見られませんか?

 

「自分は弱い」という事実です(26)

 

神の「御霊」が私たちを助けてくださる事実です。

 

この最初の二つを体験して、知ると(会得すると)バランスの取れた信仰を持つことができますよ。「自分は弱い」だけなら、卑屈的な信仰になってしまうし、「御霊が私たちを助けてくれる」だけなら、自分を特別なもののように見てしまって、行き過ぎてしまう可能性が出てしまいます。

 

御霊ご自身がとりなしの祈りをしてくださっていることです(26-27)

 

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となる」ことです(28)

 

「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになる」ことです(29,30)

 

(31,32)の証です。

 

(33,34)の証です。

 

(35-39)の証です。こう証していたのが初代クリスチャンです。彼らの時代には、キリストを信じる信仰は命がけでした。そんななか体験できたものですから、ぜひあなたも…


2021年4月25日礼拝メッセージです。

「クリスチャンはキリストともに共同相続人」 

                                          ローマ8章17-25節

先回は、このタイトルの話題のところで終わってしまいました。そこで今日は、この「共同相続人」って何を相続するのかを学んでみたいと思います。それはズバリ「キリストと栄光をともに受ける」と「その望みのゆえに苦難をも共にする」です。(17,18)

 

先の「キリストともに受ける栄光」は欲しいけど、後の「キリストともに受ける苦難」は正直欲しくない…というのが心の声の本音ではないでしょうか?ただ、覚えておいていただきたいのは、後に受ける「キリストとともに受ける栄光」というのは、それを受けた時、「ああ、頑張っていてよかった」「何度くじけそうになっただろうか、ただ神様のあわれみでここまで来ることができました」「よかった」と胸をなでおろす時となるでしょう。これは、後になって、お金を出すから、と言ってもどうにもなりませんよ。「地獄の沙汰は金次第」かもしれませんが、神の国についてはそういう理屈は通用しないものだということを覚えていてください。

 

人間が何のために造られたかを聖書はこう言っています(創世記1章26-28節)。つまり、この万物を管理する者とされたということなのです。さて、人間はちゃんとその働きできていると思いますか?年々地球環境は悪化し、多くの生物が絶滅の危機に瀕しています。それで被造物は神の子たちの来るのを待ち望んでいると言っているのです。 これを見ても、私たち人間が神の御心にかなっていないことがよくわかるのではないでしょうか?これが罪に落ちた人間の状態を表しているのです。さあ、私たちは、罪をかなぐり捨てて、神の御心に立ち返り、神の栄光を相続する者へと変身しましょう。

 


2021年4月18日礼拝メッセージです。

 「クリスチャンは神の子どもの特権を得た者」 

                                              ローマ8章11-17節

 イザヤ書にこんな御言葉があります。『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」ということばを開く。』皆さん、こういうのを体験して生きていますか?実際に声が聞こえるわけではありませんが、心にはっきりわかる導きがあるのです。昔から日本にも「虫の知らせ」という表現がありますが、それが近い感覚です。ですから、実際そういうものを感じているのに、そこに神の御霊を認めていない人が多いのです。もったいないですね…

 

 そして今日の箇所では、そんな神の御霊を受けたクリスチャンたちは、「神の子」どもとしての特権もいただいていること、さらにキリストともに共同相続人…なんて、すごいことが記されています。すごい特権ですね。クリスチャンの皆さん、そんな自覚ありましたか?その自覚なかったら、今日新たにしてください。

 

聖書はこう言っています。「 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです」。だから、もっともっと神様に近づいてください。親しく呼びかけて行ってください。頼ってください。いろんなことを尋ねてください。父なる神様はそのことを欲しておられますよ。イエス様は喜ばれますよ。御霊も「来なさい」と言ってくださっていますよ。そうしたらあなたも『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」ということばを開く。』を体験することができます。

 


2021年4月11日礼拝メッセージです。

「神の御霊を受け、その御霊によって歩むクリスチャン」  

                                          ローマ8章1-11節

 

7章からは、「内なる戦いから解放へ」という題で学びましたが、クリスチャンとして、神様との祝福の道を歩みたいと願う時、人は誰でも、この内なる自分との葛藤、戦いが起こるものです(神に従う道に歩むか、それとも自分の願う道を歩むかの戦い)。それは苦しいと思います。何かあるたびに、信仰をやめてしまおうかと迷ったり、戦ったり…

 

でもその内なる戦いから解放されてごらんなさい、それに勝利したときのことを考えてみてください。そこには突き抜けた信仰があります。もう迷いません、心は定まります。

 

内なる戦いを勝利するのに大きく貢献してくれるのが、クリスチャンが信じた時に受けた神の御霊です。この内なる神の御霊が力を与えてくださるのです。そうして内に神の御霊を持ち、この罪の影響を受けた肉体を持ちながらもクリスチャンとして新しく生き始めることが出来るのです。もう、肉体的な弱さも、欠点も十分承知の上です。ただ、今まで、自分の心のままに生きてきた、やってきた道が一番ではなく、二番になります。神の御霊に聞く、神の御霊に導かれてという新しい感覚を一番にして生きて行く。そう生きることで調和がとれている…なぜか平安がある。新しい発見があるという「神の子ども」としてのクリスチャン。突き抜けた信仰にあるクリスチャン。御霊に導かれるクリスチャンについて記されているのが今日学ぶところです。

 


2021年4月4日イースター礼拝メッセージです。

「クリスチャンは死んでも生きる」ヨハネ11章25,26節

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」   これはイエス様が兄弟ラザロの死を悲しむマルタという女性に語った言葉です。これを見るなら、クリスチャン、すなわちイエスを信じる者は「死んでも生きる」存在だし、「永遠に決して死ぬことが」ない存在だと教えられているのがわかります。ただ、多くの人がその教えをそのまま信じることができない事実があります。中には、クリスチャンの方でも、首をかしげる方がいるのも確かです。なぜなら、「でも、クリスチャンになっても死ぬではないですか」と見てしまっているからです。確かにクリスチャンになっても、この地上で永遠に生きることはありません。いつか死にます。それは十字架までかかって、イエス様が贖ってくださった「罪」のせいなのです。聖書は教えています「罪の支払う報酬は死です」と。(聖書が教えている「罪」というのは、俗にいう「犯罪」ではありません、それよりもっと前の存在、「的外れ」…「神様から離れた存在」という状態を表しているのです。的が外れているから犯罪まで犯してしまうこともあるし、神様から離れているから、良心がとがめながらも悪いことでも行えるのです)。しかし、イエス様は死んでよみがえりました。そうやって地上の死で終わらないいのちの道を開かれたのです。ですから、今では確かにイエス様を「信じる者は死んでも生きるのです。また、信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません」と言えるのです。