2021年4月11日礼拝メッセージです。

「神の御霊を受け、その御霊によって歩むクリスチャン」  

                                          ローマ8章1-11節

 

7章からは、「内なる戦いから解放へ」という題で学びましたが、クリスチャンとして、神様との祝福の道を歩みたいと願う時、人は誰でも、この内なる自分との葛藤、戦いが起こるものです(神に従う道に歩むか、それとも自分の願う道を歩むかの戦い)。それは苦しいと思います。何かあるたびに、信仰をやめてしまおうかと迷ったり、戦ったり…

 

でもその内なる戦いから解放されてごらんなさい、それに勝利したときのことを考えてみてください。そこには突き抜けた信仰があります。もう迷いません、心は定まります。

 

内なる戦いを勝利するのに大きく貢献してくれるのが、クリスチャンが信じた時に受けた神の御霊です。この内なる神の御霊が力を与えてくださるのです。そうして内に神の御霊を持ち、この罪の影響を受けた肉体を持ちながらもクリスチャンとして新しく生き始めることが出来るのです。もう、肉体的な弱さも、欠点も十分承知の上です。ただ、今まで、自分の心のままに生きてきた、やってきた道が一番ではなく、二番になります。神の御霊に聞く、神の御霊に導かれてという新しい感覚を一番にして生きて行く。そう生きることで調和がとれている…なぜか平安がある。新しい発見があるという「神の子ども」としてのクリスチャン。突き抜けた信仰にあるクリスチャン。御霊に導かれるクリスチャンについて記されているのが今日学ぶところです。

 


2021年4月4日イースター礼拝メッセージです。

「クリスチャンは死んでも生きる」ヨハネ11章25,26節

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」   これはイエス様が兄弟ラザロの死を悲しむマルタという女性に語った言葉です。これを見るなら、クリスチャン、すなわちイエスを信じる者は「死んでも生きる」存在だし、「永遠に決して死ぬことが」ない存在だと教えられているのがわかります。ただ、多くの人がその教えをそのまま信じることができない事実があります。中には、クリスチャンの方でも、首をかしげる方がいるのも確かです。なぜなら、「でも、クリスチャンになっても死ぬではないですか」と見てしまっているからです。確かにクリスチャンになっても、この地上で永遠に生きることはありません。いつか死にます。それは十字架までかかって、イエス様が贖ってくださった「罪」のせいなのです。聖書は教えています「罪の支払う報酬は死です」と。(聖書が教えている「罪」というのは、俗にいう「犯罪」ではありません、それよりもっと前の存在、「的外れ」…「神様から離れた存在」という状態を表しているのです。的が外れているから犯罪まで犯してしまうこともあるし、神様から離れているから、良心がとがめながらも悪いことでも行えるのです)。しかし、イエス様は死んでよみがえりました。そうやって地上の死で終わらないいのちの道を開かれたのです。ですから、今では確かにイエス様を「信じる者は死んでも生きるのです。また、信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません」と言えるのです。

 

2021年3月28日礼拝メッセージです。

 

父の神がわれら

 

    ,ちちのかみがわれら  信仰してる民に

 

   そなえられた住まい  そこにわれらは行く

 

   やがてわれら  きよい向こう岸で

 

  ともに手をば  とりて喜び合おう

 

 

 

   2,青い空に雲の  かけらすらも見えず

 

   そこでわれら声を  合わせてうた歌おう

 

    やがてわれら  きよい向こう岸で

 

  ともにてをば  とりて喜び合おう

 

 

 

   3,救い受けたわれら  み恵みの数々

 

  父の神の前で  ひろげよう感謝もて

 

  やがてわれら  きよい向こう岸で

 

    ともにてをば  とりて喜び合おう

 


2021年3月21日礼拝メッセージです。

「罪の奴隷から救われる」 ローマ6章15-23節

 今日の箇所には、人が自分自身で服従して罪の奴隷となっていることと、その奴隷の状態から救われる、解放されることができることが語られています。ある方々は、薬物、お酒やたばこ、またインターネット、ゲーム、テレビ、お金、仕事に対して「依存状態」になり、家族や友人が困り果てていると聞いたことがあります。習慣になり、依存状態になっている、それが「奴隷」化されているということなのです。またある方々は、「嘘、ごまかし」でうまく世間を渡っているつもりが、いつの間にか、それらの奴隷になってしまっていて、ばれないように嘘とごまかしを繰り返さなければいけなくなっています。それも「奴隷」化されているということです。またある方は「憎しみや嫉妬心、憤り」の奴隷になってしまっています。それで、「絶対赦さない」「絶対認めない、あの人が悪いのだから…」と自分の正当性を訴えつつも、ますます苦しく、つらい心境に陥っている方がいます。それらも「奴隷」化されているということなのです。そんな方々に聖書は語っています「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のもとに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます」また「赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたの父も、あなた方の過ちを赦してくださいます」また「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか」と。ありがたいですね、残された人生を罪から解放されて、感謝と喜びの人生とさせていただきましょう。

 


2021年3月14日礼拝メッセージです。

「クリスチャンはキリストにあって罪に死んだ者」

                                                   ローマ6章1-14節

 

今日読んだ個所に「あなたがたは罪に死んだ」とか「キリストにあって死んだ」という表現が出てきます。つまり、クリスチャンとは、罪に対してすでに死んだ者」となっているということなのです。そこで、今日は、「罪に死ぬとは、どういうものでないか?」また、「罪に死ぬとは、どういうものであるのか?」をお語りします。

 

① 罪に死ぬことは、罪の記憶が無くなったり、罪を犯せなくなることではありません。

 

②罪に死ぬとは、人間的弱さや欠点がなくなることでもありません。

 

③罪に死ぬとは、完璧な人間性になることでも、失敗しなくなることでもありません。

 

◎では「罪に対して死ぬとは、何であるか」

 

①すべての罪が赦された(リセットされた)ということです。

 

②罪とのかかわりに死んだ、救い出されたということです。

 

③もう自分の体の欲望に従って生きないということです。(12-14)

 

交通事故を起こし禁固5年の刑に決まった人のことを考えてみてください。有能な弁護士のおかげで、執行猶予となり、家に帰れるようになった…「これが救い」に近い感覚です。でもこれで終わりではない…行政上、民事上の処分を受け、深い反省の心と心を入れ替えた新しい人生でしっかり償いも果たす…この本当に反省した人に、「罪に死んだ」という表現がよくわかるのではないでしょうか?だから、罪が赦された(リセットされた)のは、「罪に死んだ」人生をしっかり生きて、変わった、反省しているという証を立てるためにそうしていただけるということなのです。)


2021年3月7日礼拝メッセージです。

「キリストの仇討ち、救いの道の完成」  ローマ5章12-21節

 キリストは「第二のアダム」とも言われています。キリストは、アダムが失敗し、罪を犯して、落ちたところを全部やり直してくださり、また〈仇を取ってくれたのです〉。キリストがメシヤとして初期にしてくださったことで、荒野での悪魔の誘惑にあうところがありました。あれは、エデンの園でアダムとエバが善悪の知識の木のもとで誘惑にあったことの逆バージョンです。アダムはそこで罪を犯しましたが、キリストは勝利されました。このようにキリストはアダムの失ったものをすべて敵の手から取り戻してくれているのです。一人の人の罪で全ての人が罪の呪いの内に生まれ、死が支配するように、キリストがもたらしてくださったものは、一人の人の従順で、全人類が義とされる道が開かれたということなのです。だから、「皆さん、罪を認めて、イエスを信じて受け入れて、命に入りなさい」なのです。

 

またイエス・キリストは死なれましたが、よみがえりました。彼が正しい方、人間の領域から離れて、神の領域に戻られた方ということなのです。それで、クリスチャンになっても、私たちの肉体は死にますが、彼により頼んでいる者は、彼のよみがえりの力で新しく生きることが出来るのです。ですから、「信じる者は、たとえ死んでも生きる」ということになるのです。

 

 イエス・キリストの十字架は、罪を全く贖ってくださったのです。人類を苦しめ、縛り付けている罪の呪いに対して彼は仇を討ってくださったのです。信じたクリスチャンはこの恵みにあずかっているのです。それを実感出来るとは何とすばらしいことでしょう。

 


2021年2月28日礼拝メッセージです。

「クリスチャンの特権を会得、修得しなさい」 

                                    ローマ5章1-11節

 

この箇所では、クリスチャンに与えられる特権がいくつか紹介されています。しかし、それらは与えられているのは確かなのですが、与えられているだけではわからないものみたいです、それをさらに会得、習得しようとしなければ、実感できないもののようです。(例えば、それは「有精卵」の卵のようです。草木の種のようです。いくら有精卵の卵でも、そのまま放っておけば、死にます。人肌ぐらいの温度で温めてあげないと…そうすれば、時が来ると、ヒヨコが生まれます。また草木の種もポケットや机の引き出しに入れていたのでは何にもなりません。土の中にまき、水と日光を与えると、時が来ると芽が出ます。更に育てると、ヒヨコは大人の立派な鳥になり、草木の芽も、大きく成長し、花を咲かせ、実を結ぶようになる。同じように、神様がクリスチャンに与えくださった特権も、使ってください、それを磨いてください。もっと掘り起こしてください。火の炉に入れて鍛錬してください。そうすれば、ますます役に立つもの、実感の伴うものになって、自分自身も、他の人も認めるようになるのです。「宝の持ち腐れ」ということわざがありますが、そのままだとそういう状態になります。さて、使って温めていただきたいクリスチャンの特権とは、

 

1、 主イエス・キリストによる神との平和を持つ(1)

 

2、 神の栄光を望んで大いに喜ぶ(2)

 

3、 患難さえも喜ぶという強さ、頼もしさ(3-5)

 

クリスチャンの皆さん、あなた方全員、イエス・キリストを信じ受け入れた時に、これらの特権も与えられているのです。

 


2021年2月21日礼拝メッセージです。

「アブラハムの信仰に倣いましょう」   ローマ4章1-25節

 

「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」と言われています。では、それはどんな「信じる」だったのでしょうか?

 

「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました」(18)

 

99歳の時、主なる神様は彼に「あなたの子孫を星の数ほど、海の砂のごとくにする」と約束してくださいました。まだ子供もいないのに、そしてこんなに年を取っているのに…しかし、その時でもアブラハムは、本気で信じた。

 

「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことを」しませんでした。(20)アブラハムが75歳の時、神様から「あなたの子孫にこのカナンの地を与える」と約束が与えられましたが10年たっても20年たっても子供は生まれませんでした。妻のサラはすでに通常の女性がもつ子供を産める可能性もない状態でした、「子供が与えられる」とのお告げがあったときでも、サラは笑いました。しかし、アブラハムは、主なる神様を純粋な気持ちで信じ、疑うようなことはしませんでした。

 

「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」これらがアブラハムの信仰です。私たちはどうでしょう、何度か祈っても何の変化も見えなかったら、すぐ諦め、つぶやいてしまっていませんか?アブラハムの信仰にならうとは、そうなる時も、「神様を信じて」つぶやかず、あきらめず、待ち続けるのです。神様は、私たちにも、アブラハムのような祝福を与えたいと願っておられるのです。


2021年2月14日礼拝メッセージです。

 

        「タダより高いものはない」      

                            ローマ321-31

 

変な題でしょう…普通これは、「ただで何かをもらうと、代わりに物事を頼まれたりお礼に費用がかかったりして、かえって高くつく」というようなことで、タダだから…無料だからと言ってすぐ飛びついたらダメ…という使い方で言われる言葉です。キリスト教で使われる「信じるだけで救われる」というものも現代社会では、これに近い言われ方をされて、敬遠されている傾向もあります。でも皆さん、なぜ、「信じるだけなのか?」その真意をぜひ皆様には知っていてほしいのです。今日の箇所にはそんなことが教えられています。

 

真意に近い表現は「あまりにも高価で、値段なんてつけることが出来ないから、求める人は来なさい。そういう人には与えます。使いなさい。自分のものにしなさい。」…でしょうか…でも、神様から与えられているものはみなそうではないですか?よくいいますが、この地球にある資源にしても、空気にしても、太陽からの明かり、熱にしても、みな無料です(払えと言われても、払える額ではないですね。だから、これが「神様からの恵み」というものなのです)

 

キリストが私たちに与えてくださった「贖いによる罪からの救い」もそうなのです。それで今では、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるようになったのです。またそれは、行いの原理ではなく、信仰による原理(これは、私たちのがんばったご褒美ではなく、ただ、ただイエス様の憐みのゆえにいただけるようになったものなのです。)そして、イエス・キリストの救い、教えは、神の律法をも全うする尊いものなのです。

 


2021年2月7日礼拝メッセージです。

 「すべての人が罪の下にある。そこに救いの道が示された」                                                     ローマ3章9-22節

 

今日の箇所では、神様が天から人を見下ろして、「神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかご覧になっている(詩篇14篇)…でも、なかなか見つからないで、ため息ながらに「誰も彼も腐り果てている。義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。善を行う者はいない。ひとりもいない」と嘆いている言葉が旧約聖書からの引用で描かれています。これは神様から見た、私たち人間の姿です。そしてこれが罪に落ち、「神からの栄誉を受けることが出来なくなった」(23)人間の姿なのです。今も昔も似たようなものだと思います、現在見聞きするニュースが伝えている事柄から見れば、もっと神様の悲しみは深まっているのではないかと思われます。しかし、人の内にある「罪」について考える時、間違ってしまうのは、「罪」を「犯罪」と考えてしまうことです。それで人々は聖書の言う「罪からの救い」に対して、私には関係ない、いらない…と、まるで人ごとのように考えてしまい、しっかりと罪の呪いの中に生きてしまうのです。皆さん、これらはどうですか?親子間、兄弟姉妹間、同僚、友達間、近所間で起こっている対立、仲たがい、赦し合わない、いざこざ、ねたみ、嫉妬、裏切り、悪口…これらは皆罪からもたらされている呪いなのですよ。誰も「私には関係ない」などと言えるものではないのです。悪いのは人の内にある「罪」なのです。言ってみればすべての人が罪の被害者なのです。「罪から救われなさい」とは、「あなたもそんな呪いを振り払いなさい、解放されなさい」ということなのです。

 


2021年1月31日礼拝メッセージです。

        「主は真実な方」 

                                    ローマ3章1-8節

 

「あしあと」(フット プリント)という詩をご紹介します。

 

ある夜、わたしは夢を見た。 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。 どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。 ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。 そこには一つのあしあとしかなかった。 それは、わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。 このことがいつもわたしの心を乱していたので、 わたしはその悩みについて主にお尋ねした。 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」 主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。  わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 

本当に感動的な詩です。人は、一人分の足跡を見て「主は私を一人にした」「あの時一緒に居てくれなかったのだ」と思いました。でも、それは間違っていました。あれは私たちを背負って歩いておられた主の足跡だったと…「主は真実な方」です。

 

2021年1月24日礼拝メッセージです。

        「キリストの福音がもたらすもの」 

                  ローマ2章12-29節

皆さんこんなこと考えたことないですか?キリストの福音が伝えられずに亡くなった人の死後はどのようになるのですか?神様はその人の生涯をどのように量られるのですか?やっぱり天国には行けないのですか?今日の箇所には、それらの答えが教えられています。

 

・キリストの福音が伝えられずに亡くなった人は、自分の内に記されてある律法(つまり良心)にのっとって裁かれます。

 

・キリストの福音が伝えられた人は、その福音の御言葉によって裁かれます。  ここで考えてください。律法というか、神の言葉〈キリストの福音〉によって量られるのと、自分の良心に基づいて量られるのとは、どちらが厳しいと思いますか?良心に基づいて裁かれると、心や、愛が不完全なゆえに、自分の感覚で、自分が許せなくて…こんな自分が嫌いで…って(15)というようなことが起こってきますよ。それに比べ聖書やキリストの福音には、罪について語られていると同時に、悔い改めの道、救いの道、贖いの道も記されています。そしてそれらによれば、確かに赦された、と確信するに至ることができるのです。 多くの人は、その人が「天国に行けたか?」を心配します。福音なしに亡くなられた方については、確証が持てないだけです。だってその人の良心を見て神様が決めることですから。だけど、福音によって裁かれるのなら、はっきりと確証が持てるわけです。断言ができるわけです。クリスチャンの方には、「福音」に対して、もっと自信を持っていただきたいと思います。


2021年1月17日礼拝メッセージです。

                  「罪について②」      

                                ローマ2章1-11節

 1章の18節からは具体的な罪の項目が記されていました。それらは、どれも「ああ、それはいけないことなんだろうな」と、多くの方々がどの信仰や宗教に関係なく周知する事柄ばかりだったと思います。ここ2章の1-11節では、罪というもののもう一面をご紹介することになります。1節「ですから、全て他人を裁く人よ。」とありますから、話が罪の列挙から、「他人を裁く人への諭し」のように感じるかもしれません。しかし少し読み進めていくと、「裁くあなたがそれと同じことを行っているからです」とあります。つまり、1章であげていた罪の列挙の一つ一つを行っている人を見て、「あんなことして」「馬鹿だな…」「自分ならあんなこと言わないし、しない」と批判する立場、裁く立場に立っている…しかし、そう言っていながら、自分も似たようなことを行っている…このような「自分のことは棚に上げて」というようなことも、ただ、発覚してないというだけのことで、神様の目には、同罪という風に見られているのです。ですから、「自分のことは棚に上げた」安易に「他人を裁く」ことが戒められているのです。最近SMSとかを使って、人の批判、陰口、文句、つぶやき(顔が見られない、誰だと知られないということが更なる大胆さを生んで)、面と向かっては決して言うことのできない言葉を心のままにぶつけることが、現代社会の中の問題になっていますね。神様はそのような人々のこともちゃんと見て、知っていますよ。裁きの時には、それらのこともちゃんと明らかにされ、神による裁きがなされます。気を付けたいものです。


2021年1月10日礼拝メッセージです。

             「罪について」 

                      ローマ1章18-32節

聖書は「性善説」「性悪説」の両方を教えています。人が造られたとき、神のかたちに似せて造られ、全てが素晴らしいものだった。彼らが蛇の惑わしに乗ってしまうまでは、本当に幸せだった。神と人はエデンの園で幸いな交わりがあった。しかし、蛇の惑わしに乗ってしまって、これだけは取って食べてはいけない、食べると死ぬと言われていた「善悪の知識の木の実」を取って食べてしまった。その途端、彼らは自分たちが裸なのを恥ずかしいと思うようになり、悪いことをしてしまったという意識から、神様の呼び声がすると、隠れてしまった。これが善悪の知識の木の実を食べた結果だったのです。それゆえ、神は、彼らをエデンの園から追放してしまわれたのです。それ以降神と人との交わりは以前のようではなくなってしまいました。これが「死」の一つなのです。その時から、人は生まれた時から、皆罪の種をもって生まれてくるようになり、生を受けて、成長すると、天使のようなうぶな子供にも、罪の種から芽が出て、根が生え、人は生まれながらに罪を犯すようになってしまったのです。キリストが来られたのはその罪の問題から、影響力から、私たちを救うためだった。キリストの教えの多くは、本当の問題は、あなたがたのうちにある罪なのだ、という指摘でした。キリストの十字架は、罪の償いのため、自分の命と引き換えに、罪の毒消しを手にされたということなのです。ここではその罪がリストアップされています(26-32節)。ここに記されているような罪、あなたや私は大丈夫でしょうか?心にかかることは悔い改めましょう。


2021年1月3日礼拝メッセージです。

「私は福音を恥とは思いません」 

ローマ1章1-17節

 パウロは、クリスチャンの群れに、基礎的な教えをしっかり伝えておきたくて、この手紙を綴ったのだと言われています。ですから、これは手紙でありながら、論文(神学論、教理)のような要素を持ったものなのです。簡単にまとめてみますと、1章「自然による啓示」、3章「罪の普遍性」、「義認」、4章に入って、「信仰」、5章「原罪」、6章「キリストとの一致」、7章「きよめの必要性」、8章「きよめ、聖化」、9-11章「神の選び」

 

ここで皆さんの心にとどめていただきたいものは、「パウロのスピリット」です。彼がまだ会ったことも、見たこともない主にある兄弟姉妹たちにどれほど会いたがっていたことか。この章には有名な御言葉が二つ記されています。(14)「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」…パウロさんは、こんな気持ちで伝道していたようですね。これは「仕事として」…という感じではありませんね。(15,16)を読むと「本当に素晴らしいものだから、知ってもらいたいから…私だけでそれをとどめていたら…そんなの罰当たりだ」そんな感じでこの書が記されているのがわかります。また、(17)「義人は信仰によって生きる」…これも有名な御言葉です。パウロは、キリストの福音が「信仰に始まり信仰に進ませる」と教えています。ですから、私たちも聖書の御言葉を読み、触れ、心に留め、それに歩むことによってますます信仰に進ませていただけますように。

 


2021年元旦礼拝メッセージです。

 「主に信頼する…その人は、水のほとりに植わった木のように…暑さが来ても暑さを知らず…日照りの年にも心配ない。」

 

                     エレミヤ177,8

「主に信頼する」人には祝福があると言われています。そしてそのような人は、「水のほとりに植わった木のよう」だと言われています。水のほとりに植わった木の強さは、ふんだんな水分をその根が吸収することが出来るということですよね。「主に信頼する人」とは、そういうふうな人だというのです。詩篇では、「主の教えを喜びとする人」のことを「水のほとりに植わった木のようだ」と言っています。この二つの特徴は同じものなのです。「主の教えを喜びとする人だからこそ、主に信頼するだろうし、日々主により頼むのです」だから、「暑さが来ても暑さを知らず、日照りの年にも心配ない」というのです。道理にかなったことです。あなたもそういう人であってください。そういう生き方を今年してください。もし、あなたが主に信頼してさえいたら、必ずできるのです(そこには、あなたの強さとか、あなたの素晴らしさとかは関係ないですね。ただただ、主なる神のおかげさまで、あなたはそんな祝福された歩みができるということなのです)。

 

 今年のうちにも「暑さ」「日照り」のようなものが必ず訪れるでしょう。聖書は、「主に信頼し、主を頼みとする」人にも「暑さが来る」「日照りの年が来る」と言っているのです。しかし、「主に信頼し、主を頼みとする」人には、「蛙の面に…」というような感じで、それらで決して倒されることがない、その逆風を逆手にとってますます葉を茂らし、実をみのらせる」と言ってくださっているのです。どんな「暑さ」「日照り」が来るでしょうか、「天災」が押し寄せますか?「地震、台風、津波、疫病…」それでも主を信頼し続け、固く立っていましょう。あなたの信じる通りになります。ぜひ、この年の初めにこの御言葉を心に刻みましょう。

 

2020年12月20日礼拝メッセージです。

     「空室はないけれど…すべての人へご招待」 

                マタイ1章21節

キリストと呼ばれたイエスについて見てみましょう。神が、無力で、弱い立場の赤ちゃんとして天から来られた、しかも、このイエスが生まれたのは、馬小屋だったという…衛生面でも、環境面でも、最悪の中で生まれました。どうしてでしたか?彼らを迎え入れてくれる場所がなかったと…みんな忙しくて…幼子イエスを迎え入れてくれる場所はなかったのです。今の時代も似ていますね、「メリークリスマス」って祝っているというのに、そこにどれだけキリストを期待している心があるでしよう…みんな忙しくて、やらなければいけないことがいっぱいあって…現在にキリストが来られたとして、果たしてどれだけの人がキリストを迎えることが出来るでしょうか?それなのに、神様は、いろんな人たちに分かるようにその知らせをしてくださったのでした。東方の博士たちは、珍しい星の出現を発見し、調べてみて、それが聖書に記されている王(メシヤ、キリスト)の出現の印だと知り、迷いながらも、探して訪ねてきたのでした。また羊飼いたちは、天使の知らせと賛美を聞いて探して、訪ねてきました。では、他の人たちには、それらは見えなかったのでしょうか?いいえ見えたはずです。聞こえたはずです。ただ、自分のことに忙しすぎて、それらを気にしたり、見たり、調べたり、仕事を置いて、探して、駆けつけることが出来なかった(余裕がなかった)のではないでしょうか?今、独りぼっちで、寂しい人がいますか?誰も自分のことを気遣ってくれない…と言われる方。イエス・キリストはあなたの気持ちよくわかりますよ。彼もそうでしたから…彼は今もすべての人を招いておられます。メリークリスマス。

2020年12月13日礼拝メッセージです。

       「待つことの本質」  

             ルカ2章22-38節 

 

これだけ社会変化が早いと、ことにIT(情報技術)などが発達すればするほど、「待つ」ということが難しくなってきます。若い人たちの携帯メールの返信などはその良い例です。即答が四割。10分以内では七割といいます。これは若い人たちだけの問題ではなく、仕事そのものが「早く早く」という時代ですから、じっくり考えたり、待ったりすることが難しくなってきているのは確かです。いわゆる「キレる人」が多くなっているのも、こうした現代文化と決して無関係ではないと思います。

今日学ぶ、シメオンやアンナ、また救い主の到来を待った人々は「待つことの本質」を告げているようにも思えるのです。それは電車が来るのを今か今かと待つような、まただれかと待ち合わせ、時にイライラして待つような待ちかたではない種類のものです。つまり自己中心的な願望に支配され、待ちくたびれてしまうことのないものです。

 シメオンやアンナに見られる待つ世界は、自分の「願望」が中心ではなく、相手(神)を信じ、「希望」をもって待つというものでした。聖書はこれを「待ち望む」と記しています。 

 

現代は聖書の教える「愛すること、信ずること」が難しくなっている時代です。「希望をもって待つこと」もしかりですね。難しいのです。このような時代の中で神の導きの手を信じ、待つことのできる者でありたいと、自らを振り返りつつ思うのです。皆様はいかがでしょうか?

 

2020年12月6日礼拝メッセージです。

     「預言されていたキリスト」 

                                マタイ2章2-6節 

 

クリスマスを語るのに、まずお伝えしなければいけないのは、キリストについては、あらかじめ(聖書の中で)掲示されていた(預言されていた)ということです。ですから、クリスマスは、その預言の成就としてキリストが来てくださった…このイエスこそ、そのキリストです。という信仰告白と、神の真実さを覚え、祝う時ということなのです。それで、今日は皆さんで旧約聖書に記されているキリスト預言の一つ一つを見ながら、イエス・キリストとイメージを合わせてみたいと思います。

 

◎創世記 3:15この「女の子孫」は原語では単数形になっているそうです。つまり、その後にもあるように「彼は」という一人の人を指してしている、これがキリストのことなのです。

 

◎ミカ 5:2

 

◎詩篇 22篇※ここに十字架上のキリストの言葉や描写が七つ暗示されています。

 

◎イザヤ 7:14

 

◎イザヤ53章キリストがこのような扱いを受ける…ユダヤ人たちには信じられないことでした。「私だったらそうはしない」とだれもが言ったことでしょう。だから、これもユダヤ人には、理解困難な個所でもあったのです。

 

◎マルコ 8:27-29・・・あなたは、イエスを誰だと言いますか?ペテロのように「あなたは、キリストです」と言えたら幸いですね。その人には、真のクリスマスが訪れることでしょう。

 

  2020年11月29日ボーマン先生追悼礼拝メッセージです。

「クリスチャンにとって死とは」  

                  コリント5章1-10節 黙示録21章3,4節

 ◎この地上の幕屋である肉体を脱ぎ、天からの住まいを着る時。

 ◎主の御許に行く時であり、いつまでも主と共にいるようになれる時。

  そこでは、目の涙はぬぐい取っていただき、もう死もなく、悲しみも、叫び、苦しみもない。

 

ボーマン先生も、やっと、愛してやまなかったイエス様と会いまみえ、興奮しているのではないかと思います。また、船の事故で亡くした愛する方々や、子供たちと再会を喜んでいるのではないかと思います。

 

みなさん。死とは、「この地上の幕屋である肉体を脱ぎ」、「主の御許に行く時であり」、「いつまでも主と共にいるようになる」時なのです。ここで考えてみてください。生きている間、この地上での生涯の間、神様を意識してこなかった人とか、軽く見てきた人たち、真剣に考えなかった、大切にしなかった、愛してこなかった人たちはこの地上を去る時、また、神様の前に立つ時…どんな思いになるでしょう。慌てるでしょうし、居心地が悪いでしょうね。真の神を見出し、真の救いを見出すこと、また、神を愛することは、神によって造られたこの世(この地上での生涯)でしかできません。

 

多くの人たちは、この世を見ても神様なんか見えない、感じないと言います。しかし聖書は、「私たちに弁解の余地はない」(ローマ1章19-21節)、とまで言っています。後で後悔しないためにも、今、しっかり求め、たたき、探しましょう。

2020年11月22日礼拝メッセージです。

      「主なる神の心を知る」   

            エゼキエル33章7-16節

 

皆さまは、神様があわれみ深い方であることをご存知でしょうか?人間というものは、何事もない時は、自分の思うままに生き、必要があるとすがってくる傾向がある。それで、良くしてくださるのですが、のど元過ぎれば、当たり前のように思い、恩義を感じることもなく、主なる神にねぎらいを語るでもなく、次の願い事ばかり言い、そうしてもらえないなら、「やっぱり神様なんかおらん」と言い出すような失礼で、罪深い者です。しかし、神様はそんな私たち人間を、見捨てることなく、むしろそんな罪深さから救うために、一人子の神を送ってくださるようなあわれみ深いお方です。

 

クリスチャンの方々は、その神のあわれみを実際受けて、イエス・キリストを信じ受け入れることによって、運命の道筋を変えさせていただくという恵みを味わった方々です。今朝は是非、皆様に知っておいていただきたい神様の特徴(恵み深い神様の特徴)をお話ししたいと思います。

 

1ただひたすら悪しき者がその道から立ち返ることを願い、奮闘しておられる方なのです。

 

2神のあわれみ深さは、正しい道へと目を上げている人には、あわれみと見えるが、視点がずれている人にとっては不公平で、ひどい方のように見える傾向がありす。

 

まだイエス様を信じ受け入れてない方は、早く御許に来てください。哀れみを受け入れてください。信じ受け入れている方は、主なる神様と同じ心を持つようになれますように。そうすればあなたもあわれみ深い者ともなれます。

 

2020年11月15日礼拝メッセージです。

 「神の国のことを証し続ける」  

      使徒28章16-31節      

 このところでは、ローマに住んでいるユダヤ人の主だった人たちに対してパウロが、朝から晩まで、神の国のことの証し、また旧約聖書によって、啓示されているキリストこそ、イエスのことだと説得しようとしたことが記録されています。ところが、「ある人々は信じたが、ある人々は信じようとしなかった」…いつの時代でも同じですね。その時、パウロはイザヤ書に記されてある御言葉を引用して「まさにその通りだ」と表現したのでした。この箇所から三つのことをお伝えします。一つは、これが現実だということです。現在でも、学があり、知識のある人でも、聖書の言っていることがわからない、神様ってわからない。キリストってわからない。それは、この世の知恵、価値観、常識で計るからです。それではわからなくて当然です。二つ目は、これが「生きているのに、死んでいる」ということだということなのです。 聖書の中に「生きているのに、死んでいる」とか「罪の中に死んでいる」という表現があります(黙示録3章1節)(エペソ2章1,2節)。これってどういうことだろう…意味わからない…と思われた方もいると思います。それがこの状態のことなのです。死んでいるので、「確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない」「心が鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからだ。」ということになっているわけです。三つ目は、「使徒の働き」の書の続きは、あなたの生涯です。使徒行伝は、完結していませんね。そうです、聖霊の働きは、パウロたちで終わったわけではなく、その後も続いているからです。…どうぞあなたも日々体験し、日々証してください。

 

2020年11月8日礼拝メッセージです。

 「自発的な親切、赦し、和合」     

          ピレモンへの手紙 

この書の中で主に語られているオネシモは、このピレモンのもとから逃げた奴隷でしたから、ピレモンは、何かの事業をしながらも、自分の家を解放して、「家の教会」として、「福音伝道」「礼拝」などをしていたということがわかります。また(4-7)を読むと、ピレモンは、とても愛ある働きをされているとパウロは証しています。ここでわかるのは、オネシモは、主人の扱いがひどくて、過酷な労働が嫌になって逃げた…ではなかったようです。むしろ、愛ある、やさしい環境の中なのに…おもしろくなくて、退屈で、もっと刺激を求めて…逃げたしたくなったのではないかと推測されます。〈オネシモ物語では、主人から預かったお金を持って逃げたと…〉何か似たようなお話があったのに気づきませんか?イエス様が話された「放蕩息子」の話です。オネシモが、どういういきさつでパウロと出会ったのかはわかりませんが、逃げてローマに来ていたみたいです。そしてパウロと出会い、主キリストにあって、自分のしたことも告白し、悔い改め、イエスを救い主として信じる者となったのです。(いろいろと辛い目にも会い、また自分のした主人ピレモンへの罪悪感からも救われたかったでしょう)

 

ここに、キリスト教会、クリスチャンにとって大切なことが二つ提示されています。一つは「赦し」です。二つ目は、「あなた方がしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけない」(14)です。赦し、赦され合うことがなくなるとキリスト教会でなくなります。また神様はあなたのこの自発的な、愛、信仰、礼拝、捧げものを喜ばれるということを心に刻んでいてください。

 

2020年11月1日礼拝メッセージです。

 「キリストの奥義が語れますように」   

                              コロサイ4章1-18節 

 

先週、4章1節まで読んで、「なんで、こんな切りの悪い区切り方をしたのだろう」と言いましたが、実は、この後の2-6節で語り勧められているのが、この1節で語られている、教会の中でも中核となっている、社会的位置のある「主人」の立場にある人たちに向けてなのです。社会的にも地位があり、力があるあなた方ですから、「自分たちも天に主人を持つものなのですから、奴隷(立場の弱い人たち)に対して正義と公平を示しなさい」と勧められています。また「たゆみなく祈りなさい」「感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい」と勧められています。また、教会以外での在り方にも触れられています。(5、6)これらは全てのクリスチャンにも言えることですね。「機会を十分に活かし」「知恵をもって行動し」「あなたの言葉がいつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい」…そうすれば、「一人一人にどのように答えたらよいかが分かります」と語られています。どうですか?皆さん、こういう心がけでいますか?イエス様はこう教えられました。ルカ12:11,12「何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」。クリスチャンの皆さん、日々こういうものを体験していますか?これ本当ですよ、是非、体験してください、そうすれば目が輝きますよ。これも3,4節で言われている「奥義」の一つでしょうね。神の知恵であるこの教えの一つ一つを日々実践してみられませんか?そうすれば、あなたも「キリストの奥義」の証人となれます。世の暗闇にたたずんでいる方々は、あなたのそんな証しを待っていますよ。

 

2020年10月25日礼拝メッセージです。

「主によって父なる神に感謝が捧げられるように」 

              コロサイ3章16-4章1節 

 今日の箇所の中心的な真理は、(17)「すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」そしてもう一つ(23節)「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように」…ということではないかと思われます。

 

(16,17)では、キリストの教えを心にとめ、そのことばによって、人生が豊かに潤されるようにしなさいと教えられています。そうです、まず自分が聖書を読み、自分が教えを受け、感動し、それに従ってみて得た恵みを証しすることが出来るようでありたいですね。その証が、それを聞く人々にも同様の恵みをもたらすことが出来るのです。それがキリストにある教え合い、戒め合いになります。

 

(18ー4章1節)ここに夫婦円満の秘訣、家庭円満の秘訣、また職場の人間関係円満の秘訣が教えられています。ここに挙げられているものには、相対する存在がそれぞれにあります。妻と夫。子供と父。従業員と雇い主。そしてキリストの教え(聖書の教え)は、その両者に向けて教えられています。片一方だけその教えを守り、もう片一方は守らないでは成り立たないものなのです。その目指すものは、真の愛〈アガベの愛〉に立つことと言っておきましょう。エロス(性愛)の愛、フィレオ(隣人愛、友愛)の愛、ストルゲー(親子愛)の愛だけでは、夫婦、家庭、職場の人間関係円滑にすることが出来ないでしょう。アガペーの愛(自己犠牲の愛)に立つことによって、私たちも、周りの人も、神様をあがめるようになることができるのです。そうなれたら幸いですね。

 

2020年10月18日礼拝メッセージです。

「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」 

                コロサイ3章3-15節 

 

なぜクリスチャンには、「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」と言われているのでしょうか?それはイエス・キリストを信じた時に、クリスチャンたちはキリストとの契約関係に入ったからです。そして2章でも見たように、キリストの十字架のゆえに、それまで抱えていた不利な、いや、攻め立てている罪の債務証書を無効にされ、十字架に釘づけにされ、葬り去られました(キリストとの契約関係に入ったからです)。だから「あなた方はすでに死んでおり」なのです。そして、今ではキリストのゆえに「神の内に隠されている(かくまわれている、守られている)」のです。だからそんなあなたですから「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」と言われているのです。

 

では、もっと具体的には、(5,8節)「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい」「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉…を捨てる」…クリスチャンになる前までは、私たちみんなが、こういう生き方の中でした。でも、キリストにあって、もうそんな生き方をやめたのです。もう死んだのです。だからもうそんな道に歩まず、天にあるものを思う、求める…ということをしましょう…ということですね。ぜひ(12-15)「深い同情心」「慈愛」「謙遜」「柔和」「寛容」を身に着けなさい。そして「たがいに忍び合い、誰かほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい」「これらすべての上に愛をつけなさい」「キリストの平和があなた方の心を支配するように」これらを求めましょう。

 

2020年10月11日礼拝メッセージです。

「神の御心とするクリスチャンのゆくえ3」 

 

           コロサイ2章16-3章3節 

今日のところは、先週学んだところの続きになりますが、どうやら、「割礼」の他にも、食べ物と飲み物について…祭りや新月、安息日のことについても言われていたようですね。【どれもユダヤ教徒から見たら、大切な事柄と信じているものです】しかしパウロは「これらは、キリストが来るまでの影的存在だった。キリストが来た今は、もうそこまでの意味を持たないものだと」説明します。要するに、クリスチャンの私たちは、すでにすべての儀式の原型であるキリストを受け入れたのですから、私たちはすでにキリストと共に死んで、キリストと共によみがえったものなのだから、この世の幼稚な教え「すがるな、味わうな。触るな…だからしちゃいけないのだ…という感覚」に生きるのではなく、私たちがキリストにあって生きること、つまりその教えの内を歩むことによって、ユダヤ教の方々からとやかく言われることのないように立派に確信をもって信仰をしなさい、ということです。

 

だから、すすめられていることは、(3:2)クリスチャンよ、「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」「肉のほしいままな欲望」に生きるのでなく。そうしたら、いろんな規則や律法があっても、縛られることなく、その中にありながらも自由人のように生きることが出来るのです。主なる神様の御心は、皆さんにこのような感覚の信仰を持ってほしいと願っておられます。

 

2020年10月4日礼拝メッセージです。

「神の御心とするクリスチャンのゆくえ2」                         コロサイ2章1-15節 

 

今日開かれた御言葉から、神様が私たちに何を望んでおられるか、どうなってほしいと思っておられるかを学んでみたいです。

 

1、 神の奥義であるキリストを知るように(2)

 

「心に励ましを受け」「愛によって結び合わされ」「理解をもって豊かな全き確信に達し」「神の奥義であるキリストを真に知るようになる」本来、クリスチャンとか、教会というものは、このように生きているのが神様の御心なのです。私たちもそんなクリスチャンを目指したいものです。また「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」…クリスチャンとは、そのキリストを信じ、持った人のことです。私たちにとってキリストこそ宝と思い、大切に大事にできると幸いですね。

 

2、 キリストを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい(6,7)

 

「キリストにあって歩む」とは、「キリストを信じ、頼り、軸として生きて行き、キリストの教えを実践して生きて行く」ということです。信仰と実生活が一つになれたら幸いですね。

 

3、 キリストにあって、罪赦された者、よみがえった者としての自覚をしっかり持ちなさい

 

クリスチャンとは、過去のすべての罪過ちから来る債務証書を赦され、解放され、取り除けられた者であり、新しくよみがえらせていただいたものだと聖書は教えています。しっかりその自覚、そしてそれにふさわしい確信に立って歩んでいきましょう。

 

2020年9月27日礼拝メッセージです。

 「偶像礼拝を避けなさい」 

 

      Ⅰコリント10章14節、マルコ4章35-41節 

 

ある日の夕方、イエス様と弟子たちが乗った船がガリラヤ湖を航行していると、激しい突風が起こり、船は波をかぶって、水でいっぱいになりました。元漁師だった弟子たちでも危険を感じてしまうほどでした。ところがそんな中イエス様は、船のともの方で、枕をして眠っておられたと記録されています。さあ、あなたはこの状況をどう思いますか?「イエス様が一緒に居るというのにこんなことが起こるとは」と疑問視しますか?またイエス様が一緒におられるのなら、悪いことは決して起こらない…と思っていたのに、なんで守ってくれなかったの?なんで助けてくれないの?弟子の一人がこう叫びました「先生。私たちがおぼれて死んでも、なんとも思われないのですか?」(これって完全にイエス様のこと疑っていますよね)。そんな彼らにイエスは答えます「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」と。何事も問題がなければ、「主よ、信じます。信頼します。」と言えるのに、いざ想定を超えた問題課題が降りかかるなら、「神様はどうして防いでくれなかったの?」「守ってくださらなかったの?」「私たちがおぼれて死んでも、なんとも思われないのですか?」というような思いになってしまう。これは、私たちがイエス様や、神様に抱いている信仰心、イメージを神様に裏切られた。「私はどうしたらいいの?どう考えたらいいの?」という心境になることから生じてくるものです。ここに一つの「偶像礼拝」の危険性があります。「自分の考えるイエス様」ではなく、御言葉で指し示されているイエス様を信仰したいものです。

 

2020年9月20日礼拝メッセージです。

「神の御心とするクリスチャンの行方」 

           コロサイ1章21-29節 

 

聖書は、「あなた方を、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるため…」にあのキリストの十字架があったと言っています。私たちが願っているだけでなく、神様も私たちが聖く、傷なく、非難されるところのない者となって欲しい、またそうなれるための手段もちゃんと整えている、と言ってくださっているのです。またこうも言っています「ただし、あなた方は、しっかりとした土台の上に立って、すでに聞いた福音の望みから外れることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません」と。では、どんな信仰に立ち、どんな信仰に踏みとどまる必要があるのでしょうか。もちろんイエス・キリストを信じる信仰です。でも、ただ、イエス様がいたと信じるとか、イエス様が神様だと信じる信仰だけでは弱いですね、だって、それらなら、悪霊でもそう信じているからです。一つは、「私もかつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は、御子イエスの十字架によって和解させてくださり、御前に立たせていただきました」このような信仰が欲しいですね。また、「私は神の国の奥義を知るようになりました、その奥義とは私たちのただ中におられるキリストです」というような信仰も欲しいですね。そしてまた「すべての人をキリストにある成人として立たせること」それが神の御心です、と言う信仰も欲しいですね。それでこそ、幼さを脱ぎ捨て、「キリストにある成人」「キリストにある成熟した者」になれる道です。さらに成長させていただきましょう。目指せ「キリストにある成人」

 

2020年9月13日礼拝メッセージです。

「御子のご支配の中に移されたクリスチャン」 

            コロサイ1章13-20節 

 今日の箇所には、クリスチャンの立ち位置、御子キリストの立ち位置について説明がなされています。

 

◎クリスチャンの立ち位置(13,14)

 「クリスチャンとは」また「救われた人とは」、ここに言われているように「御子のご支配の中に移して」もらった人ということになりますね。そして、御子のご支配の中を生きている人がクリスチャンだと言えるのです。またクリスチャンとは、イエス・キリストの十字架のゆえに、贖い、罪の赦しをいただいたものであり、今も赦された者として、互いに赦し合っている、忍び合っている。それがクリスチャンの群れなのです。ですから、私たちは日々、御子のご支配の中を生き続けるものでありたいですね。

◎御子キリストの立ち位置(15-20)

御子キリストとはどのようなお方かが語られているこの個所を読むと、御子キリストも創造主、造り主と言うことが出来ますね。まさしく「主」「ぬし」なんです。そして、聖書を読んで「イエス・キリスト」がどんな方かを知り、どんなことを考え、どんなことを欲しておられるかを知ることによって、神様が何を考え、どんなことを欲しておられるかを知ることが出来ることもわかります。そのためにも来られたのです。そして十字架の死にまで至って、神様と私たちの和解の道を開いてくださったんですね、ただただ感謝です。

 「神は実に、その一人子をお与えになったほどに世を愛された、それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためです」ヨハネ3章16節

2020年9月6日礼拝メッセージです。

「クリスチャンの祈りと願いの勘所」  

            コロサイ1章1-14節

 

この書が記されたのは、コロサイの教会に違った教えの脅威が及んでいたからです(ユダヤ教からは、律法に記されているものをちゃんと守らないと神様を喜ばせることは出来ない…。またギリシャの思弁的哲学からも、理屈的、神秘的な考え方が入ってきていました)。それで、その当時コロサイの教会で教え、導いていたエパフラスという人からの「どう導いたらいいか」という相談もあって、この手紙が記されました。今日の個所からですが、ここでは、細かい教えや論理でない、言ってみれば、大まかに、こういう歩み方、こういう祈りと願いをもって生きると良いですよ。という「勘所」的な教えが語られていると言えます。三つの祈り、願い事を示します。

 

1、 「あなた方があらゆる霊的な知恵と理解力によって、神の御心に関する真の知識に満たされますように」(9)神の御心に関する真の知識…もっともっと知りたいですね。そして満たされたいです。

 

2、 「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように」(10)「あらゆる点で主に喜ばれ」るという心持を大切にしたらいいですよ、そうしたら、「主にかなった歩みを」することは簡単になります。「しなければいけない」は苦しい心持です。

 

3、 「神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、光の中にある…父なる神に、喜びをもって感謝を捧げることが出来ますように。」これらの祈りの結果を見るのにも「忍耐と寛容を尽く」す必要があるようです。このような願いをもって祈っていきましょう。

 

2020年8月30日礼拝メッセージです。

「クリスチャンの実体験する奥義」 

            ピリピ4章8-23節 

 

あなたは現在の信仰、恵みで十分満足しておられますか?まだもっと上の信仰、恵みを求めておられますか?昔ユダの王様にヨアシュという王がいました。預言者エリシャが死の病を患っていると聞き、お見舞いに来たことがありました。その時、「弓と矢を取りなさい」とエリシャはいい、窓の外から地面に向けて撃ちなさい、その回数分アラムを打ち倒すことが出来ると言いました。するとヨアシュは、3回ほど打ちましたが、それで止めてしまいました。するとエリシャは怒って、「あなたは5,6回打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを絶ち滅ぼしたことだろう」と…確かに、欲深さはクリスチャンにはふさわしくありませんが、霊的な恵み、祝福に関してまでそうであってはいけませんね。そこで、このピリピ4章後半で言われている4つの奥義というか真理をぜひ皆さんに体験していただきたいのです。ぜひ求めてみてください。

 

1、 聖書から学び、受け、聞き、また見たことを実行し、平和の神が共いてくださることを実体験する(9)

 

2、 どんな境遇にあっても満ち足りることを体験する

 

3、 自分を強くしてくださる方によって、どんなことでもできること

 

4、 キリストにあるご自身の栄光の富をもって、必要をすべて満たしてくださること

 

ぜひ求めてみてください。そして体験してみてください。そうしたら、あなた自身の内から「勝利」「確信」「満足感」を伴う信仰が沸き上がってきますよ。

 

2020年8月23日礼拝メッセージです。

「心と思いがキリストにあって守られるための秘訣」  

                                        ピリピ4章1-7節

 

 ここまで見てきたピリピの教会にも一つ悩みというか問題がありました。それは、教会の中でも中核となる立場の「ユウオデヤとスントケ」という二人の女性が不仲というか、対立していたようです。二人とも、パウロから見たら、福音のために共に戦い、協力してくださった重要な人達でした。それが何らかの理由で、一致出来てなかったのです。それでそれらを越えて、主にあって(キリストにあって)一致して歩む必要があると、パウロはローマの牢獄から切に願っているのです。 そして4-7節で、こういう問題に関しても、またそうでない人たちにも、クリスチャンにとって大切な秘訣…「心と思いがキリストにあって守られるための秘訣」について語られています。ぜひ、みなさん、これを習得していただきたいです。

 

1、 いつも主あって喜びなさい

 

苦しい時こそ、気持ちを切り替えて、「喜び」「笑う」ことがそれを乗り越えさせる力となる…ということです。

 

2、 あなた方の寛容な心を、全ての人に知らせなさい

 

3、 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって捧げる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい

 

「何も思い煩わないで」…心配事がなくなることはこの地上ではありえません。ただ、心配しすぎることがないように…ということです。

 

そうたら、約束です…

 

「そうすれば、人の全ての考えにまさる神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」…信じましょう。

 

2020年8月16日礼拝メッセージです。

   「お盆に死者は戻ってくるのでしようか?」 

                  ルカ16章19-31節

 辞書で「お盆」とは、「日本で夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。」とありました。今日の箇所では、死んだ人のその後の運命、果たしてお盆休暇で現世に霊となって戻ってこられるか?そして生きている私達に死後の世界、運命について教えてくれたりすることが出来るのか?などがキリストによって語られています。今日はそこから学んでみたいと思います。まず、二人の相対する人のことが紹介されています。一人は、ある金持ちの人、いつも好きな服を着ることが出来て、おいしいものを食べて、毎日贅沢に遊び暮らしていた(多くの人が思い描き、理想とする生活をかなえた人とも言えるでしょう)。もう一人は、全身皮膚病でかゆみ、痛みに苦しみ、悩まされて、生活も困窮し、貧乏な状態にある人(多くの人がこんな風にはなりたくないという人生を、自分の意志に関係なく、歩ませられた人)です。ここでキリストは大切な真理を教えてくださいました。

 

1、この世でどんな人生を歩んだか、どんなに頑張ったか、どんなに苦しんだかに関係なく、皆、死を迎える(この地上での人生を終える)

 

 2、死後の世界がある、ということです。しかも、意識もそのままあるようです。そして、私たちは、死後にその世界で目覚めるようです。

 

 3、そこでは、私たちの意志に関係なく、生前の生き方とかで、行く場所が振り分けられるようです。(黙示録20章12,13節)(箴言24章12節)

 

4、死後の世界がどのようなところか?正しい生き方をしなさいというメッセージを告げるために、死者が遣わされるかというと、それは許されてないということです。

 

死後の世界をも正しく認識し、それを踏まえて今を大切に生きましょう。そうすれば、悔いのない人生を送れます。

 

2020年8月9日礼拝メッセージです。

「私たちの国籍は天にあります」     

         ピリピ3章17-21節

 今日の箇所の冒頭に「兄弟たち。私を見ならう者になってください」とかなり大胆なことが語られています。しかし、後の文章を読むと、これが決して傲慢や高ぶった思いから語られた言葉でないことがわかります。18節「私はしばしばあなた方に言って来たし、今も涙をもって言うのですが…」「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」これは一大事です。さて、それは一体どういうことなのでしょうか?またそうならないためにはどういうことに気を付けたらいいでしょうか?ひとつは、あなたも「私を見ならう者になってください」と言える者となってください。 そう言えるイコールあなたや私も恵みの内に歩めているというわけですから…言えないイコールやましいところがあるということになります。そこにもキリストの十字架の敵としての道があります。そこは祈って、悔い改めて、正して立ち返る必要のある部分ですね。

 

二つ目は、多くの人がそうであるように「キリストの十字架の敵として」歩むことがないように気を付けましょう。

 

三つ目は、欲望を神とすることを警戒し、多くの滅びゆく人たちのような「思いは地上のことだけ」になることがないように気を付けましょう。聖書は教えています。20節「私たちの国籍は天にあります」と。クリスチャンは天国人、今の人生、生涯は、一時のもので、いつかは、天に帰る、神様のもとに帰る…「死」は、そのきっかけの一つ、天国への入り口。という概念が持てるようになりました。だから、生きている今は、精いっぱい神様に喜ばれることをして、大切に生きて行こうではありませんか。

 

2020年8月2日礼拝メッセージです。

  「主にあって喜ぶキリストにある成人」 

            ピリピ3章1-16節

 15節に、「成人〈大人〉〈完全〉である者はみな、このような考え方をしましょう」と言われています。果たしてそれはどのような考え方を言っているのでしょう。それを見る前に、この言葉の続きには、「もし、あなた方がどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなた方に明らかにしてくださいます」と言われています。もし現在、信仰に倦怠感を感じておられるとか、喜べとよく聖書に記されているけど、何を喜んだらいいの?どうやって喜んだらいいの?自分には無理だ。と思われている方、それこそ、神が、あなたに間違った考え方を明らかにしてくださっているということではないでしょうか?そういう方は特に必見です。

 

一つは、「主にあって喜ぶ」ということが煩わしいものではなく、安全のためにも必要であるということ。二つ目は、「神の御霊によって礼拝し、キリストを誇り、人間的なものを頼みにしない生き方」の大切さ。三つ目は、安住せず、求め続ける信仰の大切さです。使徒パウロでも、「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」と、いまだに追い求めている姿勢を示しています。自転車もこぐのをやめると止まり、バランスが取れなくなり、転びますよ。「私はすでに得たものでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追及しているのです。」(12)また「私は、自分はすでに捕らえられたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」…私たちもこのような考え方の中を歩ませていただきたいものです。

 

2020年7月26日礼拝メッセージです。

「私たちの考え、求めるものは何?」  

                ピリピ2章19-30節

 

21節にパウロの本音というか、つぶやきの言葉とでもいうような一節が記されています。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」これは、その当時のことだけではなく、現在も同じだと思います。ですから、皆さんが人々に証ししようとしても、なかなか受け取ってもらえないというか、話ししようとしても、通じないような虚しい思いになったりするのです。また、これはクリスチャンと言われている人たちの中にも見られるものかもしれません。イエス様は教えられました「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」と。いかがでしょうか?私たちの祈り、求め、考え「思考」は何を求めているでしょうか?何を大切と思っているでしょうか?

 

 先日読んだものに、「自分が意識を向けるものに、自分はなる」と書かれてありました。だから、人生のネガティブなことだけに意識を向ければ、私たちはネガティブな人になります。会話を含めた人生全てがネガティブになるのです。喜びは失われ、惨めな人生を歩むようになるでしょう。それはすべて私たちの「考え」から始まるからです…と。

 

  そういうことから、私たちが何を考え、何を求めているか?を計ってみてください…そういう面からも、紹介されている(証しされている)テモテとエパフロデトのことを見てみると、やりは一生懸命にキリストのこと、教会と兄弟姉妹のことを思う人だったようですね。私たちもそういう者とならせていただきましょう。

 

2020年7月19日礼拝メッセージです。

   「神の御心にかなう生き方3つ」     

             ピリピ2章1-18節

 

「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(15,16)…この御言葉、どうですか?これが神様の御心なのです。このような者になれたらどんなに素晴らしいことでしょう。今日の箇所にはそうなれるための三つの秘訣が教えられています。

 

1、 一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志しを一つとしなさい。(2) イエス様は、「平和をつくる者は幸いです」と教えられました。これも同じです、派閥を作り、党派心をあおるのでなく、教会でも、家庭でも、職場でも平和、一致をつくる者となっていきませんか?

 

2、 キリストを見習って、へりくだり、謙遜に生き、他の人のことも顧みるようにしなさい。(3-11) 私たちの主イエス様ご自身、神の在り方を捨てて、私たちと同じような人間となり、天から下って来て下さり、へりくだりと謙遜の模範を示してくださいました。水戸黄門は、紋所をもって見事な裁きをしてくださいましたが、イエス様は、それをされず、むしろ、民の身代わりとなって、罪の贖いの罰を受けてくださったのでした。こんなへりくだった方は他にいません。

 

3、 キリストを見習って、従順に生き、つぶやかず、疑わずに行いなさい。(6-14)

 

このような者となれるよう祈り、求めていきましょう。

 

2020年7月12日礼拝メッセージです。

      「主にある奥義」  

          ピリピ1章12-30節

 

この個所で、使徒パウロは、普通、人が考えることもできないような「主にある奥義」というものを教えてくれています。

 

まず一つは、(12)「私の身に起こったこと(投獄と牢獄生活)が、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたい」と言っています。普通、人はこのように考えることは出来ないでしょう。そのようなことが起これば、もうこれで終わりと考えることでしょう、しかしこれがきっかけで、日頃会うこともできない、兵隊さんたちや、裁判官の人たちに出会うことが出来たとみたのです。ここに信仰による見方というものがあります。そうみると、不幸とか、もうこれで終わり、とは見られなくなりますね。

 

二つ目は、(20)「どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストが崇められることです」と、パウロの決心というか、願い、希望が語られています。多くの人は、死にたくない、とにかく生きていたい…と考えるものですが、キリストにつながる彼(クリスチャン)は死ぬことがあまり怖くないかのように証しています。むしろそうやってキリストと共にいる方がいいとも言っています。キリストにつながる者には、生きている意味も、死んだ後の未来も解決済みなんですね。

 

三つ目は、(29)「あなた方は、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです」深いですね、ここに奥義があります。心に留めておきましょう。

 

2020年7月5日礼拝メッセージです。

       「主にある希望と願い」  

               ピリピ1章1-11節

 

主にあってパウロが記している4つの希望、願いを紹介します。

 

1、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は固く信じているのです」

 

私たちが救われたときから、どのような良い働きを始められたのでしょうか?(主なる神を意識し始めました。主の花嫁となる資格を得た。罪の縄目から、解放してくださった(救い))

 

2、「あなた方の愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなた方が真にすぐれたものを見分けることが出来るようになりますように」  つまり、私たちの愛も、知識も、豊かに成長できるものなのです。

 

3、「あなた方が、キリストの日には純真で非難されるところがなく…」 これってクリスチャンに向けて語られているのです。神様は私たちを愛してくださっています、救ってくださっています。だからと言って気を抜いて、非難されないように気をつけましょう。

 

4、「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄と誉れが現わされますように」

 「義の実」って具体的にどういうものでしょうかね。他の箇所には「御霊の実」というものが紹介されています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」…それに「義」「正しさ」が加わったものと考えたらいいです。そういうものに「あなたが」「わたしが」満たされることが大切なんですね。

2020年6月28日礼拝メッセージです。

        「初心に立ち返れ」 

              エレミヤ31章31-34節

 

私たちは信仰がリバイバルされるのに、何が必要なのでしょうか?もっと何かすごい体験、恵みが必要なのでしょうか?

 

もし、クリスチャンでありながらも「救いの確信?」というと首を傾げ、「喜んでいるか?」と言われると、首を横に振り、「感謝していますか?」と言われると、「何に感謝したらいいのか?」と言い返す。また「主なる神様のことがわかりますか?」と尋ねられると、「よくわからない…」。もしこのようであるなら、必見です。「どうして主を知る」のでしょうか?それは、「神様が私たちの咎を赦し、以前の罪を二度と思い出さない」ようにしてくださったからだと記されています。つまり、これは救いの体験なのです。それらを体験したことのゆえに、はっきりと神様のことがわかる…ということなのです。(神様のことがわかるか、分からないかは、理屈じゃなく、体験的、実感的なものだというわけです。)イエス・キリストのこと、救われたことの恵みを数えてみてください。そうしたら、そこから、喜びが来ます。感謝が生まれます。またそれらがわかると、神様のことが理屈でなく、はっきりわかるようになりますよ。もっと救われたことの恵みを大切に、反芻するようにしましょう。

 

もう一つ、私たちクリスチャンは、「信仰」によって歩むことを心に刻んでおきましょう。「感情」で歩むと、神様を見失う危険性がありますよ。だって、「そう感じるか、感じないか」と言われたら、感じられないことが度々あります。でもそれは神様がおられないのではなく、見えて、感じられてないだけであって、神様はちゃんとおられるのです。

 

2020年6月21日礼拝メッセージです。

        「がんばれお父さんたち」  

                エペソ6章4節

 

父の日も母の日と同じように、教会から始まった記念日です(1909年から)。お父さんに語られている聖書の教えの代表的なものが、先週開きました、(エペソ6章4節)「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」でした。こうできたらいいのですが、なかなかできないというのがお父さんたちの本音でしょうか?お父さん大変ですね、家庭の問題、職場の問題。

 

さあ、お父さんたち、どうしたらいいでしょう。二つのことを大切にしてみてください。①神の御前にへりくだり、主なる神に信頼しなさい。(人にへつらい、人に頼るよりずっと安全ですよ)②聖書の教えの内にあなたの人生を構築してください。(聖書は教えています、妻を自分自身のように愛しなさい、大切にしてごらん)。実はこの二つを再構築したら、あとは全部丸く収まってきますよ〈子供のことも、職場でのこともです〉。職場のことについては、エペソ6章6,7節「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」。これをそのままやってみてください(人にへつらい、人に気に入られようとしてではなく、神の御前に、神に喜ばれるように聞いてごらんなさい、祝福されますよ)

 

さあ、がんばれ、お父さん。奥さんたち、子供たちもお父さんを応援し、祈るようにしてください。そうすれば、天の神様に喜ばれます。