2020年9月13日礼拝メッセージです。

「御子のご支配の中に移されたクリスチャン」 

            コロサイ1章13-20節 

 今日の箇所には、クリスチャンの立ち位置、御子キリストの立ち位置について説明がなされています。

 

◎クリスチャンの立ち位置(13,14)

 「クリスチャンとは」また「救われた人とは」、ここに言われているように「御子のご支配の中に移して」もらった人ということになりますね。そして、御子のご支配の中を生きている人がクリスチャンだと言えるのです。またクリスチャンとは、イエス・キリストの十字架のゆえに、贖い、罪の赦しをいただいたものであり、今も赦された者として、互いに赦し合っている、忍び合っている。それがクリスチャンの群れなのです。ですから、私たちは日々、御子のご支配の中を生き続けるものでありたいですね。

◎御子キリストの立ち位置(15-20)

御子キリストとはどのようなお方かが語られているこの個所を読むと、御子キリストも創造主、造り主と言うことが出来ますね。まさしく「主」「ぬし」なんです。そして、聖書を読んで「イエス・キリスト」がどんな方かを知り、どんなことを考え、どんなことを欲しておられるかを知ることによって、神様が何を考え、どんなことを欲しておられるかを知ることが出来ることもわかります。そのためにも来られたのです。そして十字架の死にまで至って、神様と私たちの和解の道を開いてくださったんですね、ただただ感謝です。

 「神は実に、その一人子をお与えになったほどに世を愛された、それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためです」ヨハネ3章16節

2020年9月6日礼拝メッセージです。

「クリスチャンの祈りと願いの勘所」  

            コロサイ1章1-14節

 

この書が記されたのは、コロサイの教会に違った教えの脅威が及んでいたからです(ユダヤ教からは、律法に記されているものをちゃんと守らないと神様を喜ばせることは出来ない…。またギリシャの思弁的哲学からも、理屈的、神秘的な考え方が入ってきていました)。それで、その当時コロサイの教会で教え、導いていたエパフラスという人からの「どう導いたらいいか」という相談もあって、この手紙が記されました。今日の個所からですが、ここでは、細かい教えや論理でない、言ってみれば、大まかに、こういう歩み方、こういう祈りと願いをもって生きると良いですよ。という「勘所」的な教えが語られていると言えます。三つの祈り、願い事を示します。

 

1、 「あなた方があらゆる霊的な知恵と理解力によって、神の御心に関する真の知識に満たされますように」(9)神の御心に関する真の知識…もっともっと知りたいですね。そして満たされたいです。

 

2、 「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように」(10)「あらゆる点で主に喜ばれ」るという心持を大切にしたらいいですよ、そうしたら、「主にかなった歩みを」することは簡単になります。「しなければいけない」は苦しい心持です。

 

3、 「神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、光の中にある…父なる神に、喜びをもって感謝を捧げることが出来ますように。」これらの祈りの結果を見るのにも「忍耐と寛容を尽く」す必要があるようです。このような願いをもって祈っていきましょう。

 

2020年8月30日礼拝メッセージです。

 

 

「クリスチャンの実体験する奥義」 ピリピ4章8-23節 

 

あなたは現在の信仰、恵みで十分満足しておられますか?まだもっと上の信仰、恵みを求めておられますか?昔ユダの王様にヨアシュという王がいました。預言者エリシャが死の病を患っていると聞き、お見舞いに来たことがありました。その時、「弓と矢を取りなさい」とエリシャはいい、窓の外から地面に向けて撃ちなさい、その回数分アラムを打ち倒すことが出来ると言いました。するとヨアシュは、3回ほど打ちましたが、それで止めてしまいました。するとエリシャは怒って、「あなたは5,6回打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを絶ち滅ぼしたことだろう」と…確かに、欲深さはクリスチャンにはふさわしくありませんが、霊的な恵み、祝福に関してまでそうであってはいけませんね。そこで、このピリピ4章後半で言われている4つの奥義というか真理をぜひ皆さんに体験していただきたいのです。ぜひ求めてみてください。

 

1、 聖書から学び、受け、聞き、また見たことを実行し、平和の神が共いてくださることを実体験する(9)

 

2、 どんな境遇にあっても満ち足りることを体験する

 

3、 自分を強くしてくださる方によって、どんなことでもできること

 

4、 キリストにあるご自身の栄光の富をもって、必要をすべて満たしてくださること

 

ぜひ求めてみてください。そして体験してみてください。そうしたら、あなた自身の内から「勝利」「確信」「満足感」を伴う信仰が沸き上がってきますよ。

 

2020年8月23日礼拝メッセージです。

「心と思いがキリストにあって守られるための秘訣」  

                                        ピリピ4章1-7節

 

 ここまで見てきたピリピの教会にも一つ悩みというか問題がありました。それは、教会の中でも中核となる立場の「ユウオデヤとスントケ」という二人の女性が不仲というか、対立していたようです。二人とも、パウロから見たら、福音のために共に戦い、協力してくださった重要な人達でした。それが何らかの理由で、一致出来てなかったのです。それでそれらを越えて、主にあって(キリストにあって)一致して歩む必要があると、パウロはローマの牢獄から切に願っているのです。 そして4-7節で、こういう問題に関しても、またそうでない人たちにも、クリスチャンにとって大切な秘訣…「心と思いがキリストにあって守られるための秘訣」について語られています。ぜひ、みなさん、これを習得していただきたいです。

 

1、 いつも主あって喜びなさい

 

苦しい時こそ、気持ちを切り替えて、「喜び」「笑う」ことがそれを乗り越えさせる力となる…ということです。

 

2、 あなた方の寛容な心を、全ての人に知らせなさい

 

3、 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって捧げる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい

 

「何も思い煩わないで」…心配事がなくなることはこの地上ではありえません。ただ、心配しすぎることがないように…ということです。

 

そうたら、約束です…

 

「そうすれば、人の全ての考えにまさる神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」…信じましょう。

 

2020年8月16日礼拝メッセージです。

   「お盆に死者は戻ってくるのでしようか?」 

                  ルカ16章19-31節

 辞書で「お盆」とは、「日本で夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。」とありました。今日の箇所では、死んだ人のその後の運命、果たしてお盆休暇で現世に霊となって戻ってこられるか?そして生きている私達に死後の世界、運命について教えてくれたりすることが出来るのか?などがキリストによって語られています。今日はそこから学んでみたいと思います。まず、二人の相対する人のことが紹介されています。一人は、ある金持ちの人、いつも好きな服を着ることが出来て、おいしいものを食べて、毎日贅沢に遊び暮らしていた(多くの人が思い描き、理想とする生活をかなえた人とも言えるでしょう)。もう一人は、全身皮膚病でかゆみ、痛みに苦しみ、悩まされて、生活も困窮し、貧乏な状態にある人(多くの人がこんな風にはなりたくないという人生を、自分の意志に関係なく、歩ませられた人)です。ここでキリストは大切な真理を教えてくださいました。

 

1、この世でどんな人生を歩んだか、どんなに頑張ったか、どんなに苦しんだかに関係なく、皆、死を迎える(この地上での人生を終える)

 

 2、死後の世界がある、ということです。しかも、意識もそのままあるようです。そして、私たちは、死後にその世界で目覚めるようです。

 

 3、そこでは、私たちの意志に関係なく、生前の生き方とかで、行く場所が振り分けられるようです。(黙示録20章12,13節)(箴言24章12節)

 

4、死後の世界がどのようなところか?正しい生き方をしなさいというメッセージを告げるために、死者が遣わされるかというと、それは許されてないということです。

 

死後の世界をも正しく認識し、それを踏まえて今を大切に生きましょう。そうすれば、悔いのない人生を送れます。

 

2020年8月9日礼拝メッセージです。

「私たちの国籍は天にあります」     

         ピリピ3章17-21節

 今日の箇所の冒頭に「兄弟たち。私を見ならう者になってください」とかなり大胆なことが語られています。しかし、後の文章を読むと、これが決して傲慢や高ぶった思いから語られた言葉でないことがわかります。18節「私はしばしばあなた方に言って来たし、今も涙をもって言うのですが…」「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」これは一大事です。さて、それは一体どういうことなのでしょうか?またそうならないためにはどういうことに気を付けたらいいでしょうか?ひとつは、あなたも「私を見ならう者になってください」と言える者となってください。 そう言えるイコールあなたや私も恵みの内に歩めているというわけですから…言えないイコールやましいところがあるということになります。そこにもキリストの十字架の敵としての道があります。そこは祈って、悔い改めて、正して立ち返る必要のある部分ですね。

 

二つ目は、多くの人がそうであるように「キリストの十字架の敵として」歩むことがないように気を付けましょう。

 

三つ目は、欲望を神とすることを警戒し、多くの滅びゆく人たちのような「思いは地上のことだけ」になることがないように気を付けましょう。聖書は教えています。20節「私たちの国籍は天にあります」と。クリスチャンは天国人、今の人生、生涯は、一時のもので、いつかは、天に帰る、神様のもとに帰る…「死」は、そのきっかけの一つ、天国への入り口。という概念が持てるようになりました。だから、生きている今は、精いっぱい神様に喜ばれることをして、大切に生きて行こうではありませんか。

 

2020年8月2日礼拝メッセージです。

  「主にあって喜ぶキリストにある成人」 

            ピリピ3章1-16節

 15節に、「成人〈大人〉〈完全〉である者はみな、このような考え方をしましょう」と言われています。果たしてそれはどのような考え方を言っているのでしょう。それを見る前に、この言葉の続きには、「もし、あなた方がどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなた方に明らかにしてくださいます」と言われています。もし現在、信仰に倦怠感を感じておられるとか、喜べとよく聖書に記されているけど、何を喜んだらいいの?どうやって喜んだらいいの?自分には無理だ。と思われている方、それこそ、神が、あなたに間違った考え方を明らかにしてくださっているということではないでしょうか?そういう方は特に必見です。

 

一つは、「主にあって喜ぶ」ということが煩わしいものではなく、安全のためにも必要であるということ。二つ目は、「神の御霊によって礼拝し、キリストを誇り、人間的なものを頼みにしない生き方」の大切さ。三つ目は、安住せず、求め続ける信仰の大切さです。使徒パウロでも、「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」と、いまだに追い求めている姿勢を示しています。自転車もこぐのをやめると止まり、バランスが取れなくなり、転びますよ。「私はすでに得たものでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追及しているのです。」(12)また「私は、自分はすでに捕らえられたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」…私たちもこのような考え方の中を歩ませていただきたいものです。

 

2020年7月26日礼拝メッセージです。

「私たちの考え、求めるものは何?」  

                ピリピ2章19-30節

 

21節にパウロの本音というか、つぶやきの言葉とでもいうような一節が記されています。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」これは、その当時のことだけではなく、現在も同じだと思います。ですから、皆さんが人々に証ししようとしても、なかなか受け取ってもらえないというか、話ししようとしても、通じないような虚しい思いになったりするのです。また、これはクリスチャンと言われている人たちの中にも見られるものかもしれません。イエス様は教えられました「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」と。いかがでしょうか?私たちの祈り、求め、考え「思考」は何を求めているでしょうか?何を大切と思っているでしょうか?

 

 先日読んだものに、「自分が意識を向けるものに、自分はなる」と書かれてありました。だから、人生のネガティブなことだけに意識を向ければ、私たちはネガティブな人になります。会話を含めた人生全てがネガティブになるのです。喜びは失われ、惨めな人生を歩むようになるでしょう。それはすべて私たちの「考え」から始まるからです…と。

 

  そういうことから、私たちが何を考え、何を求めているか?を計ってみてください…そういう面からも、紹介されている(証しされている)テモテとエパフロデトのことを見てみると、やりは一生懸命にキリストのこと、教会と兄弟姉妹のことを思う人だったようですね。私たちもそういう者とならせていただきましょう。

 

2020年7月19日礼拝メッセージです。

   「神の御心にかなう生き方3つ」     

             ピリピ2章1-18節

 

「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(15,16)…この御言葉、どうですか?これが神様の御心なのです。このような者になれたらどんなに素晴らしいことでしょう。今日の箇所にはそうなれるための三つの秘訣が教えられています。

 

1、 一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志しを一つとしなさい。(2) イエス様は、「平和をつくる者は幸いです」と教えられました。これも同じです、派閥を作り、党派心をあおるのでなく、教会でも、家庭でも、職場でも平和、一致をつくる者となっていきませんか?

 

2、 キリストを見習って、へりくだり、謙遜に生き、他の人のことも顧みるようにしなさい。(3-11) 私たちの主イエス様ご自身、神の在り方を捨てて、私たちと同じような人間となり、天から下って来て下さり、へりくだりと謙遜の模範を示してくださいました。水戸黄門は、紋所をもって見事な裁きをしてくださいましたが、イエス様は、それをされず、むしろ、民の身代わりとなって、罪の贖いの罰を受けてくださったのでした。こんなへりくだった方は他にいません。

 

3、 キリストを見習って、従順に生き、つぶやかず、疑わずに行いなさい。(6-14)

 

このような者となれるよう祈り、求めていきましょう。

 

2020年7月12日礼拝メッセージです。

      「主にある奥義」  

          ピリピ1章12-30節

 

この個所で、使徒パウロは、普通、人が考えることもできないような「主にある奥義」というものを教えてくれています。

 

まず一つは、(12)「私の身に起こったこと(投獄と牢獄生活)が、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたい」と言っています。普通、人はこのように考えることは出来ないでしょう。そのようなことが起これば、もうこれで終わりと考えることでしょう、しかしこれがきっかけで、日頃会うこともできない、兵隊さんたちや、裁判官の人たちに出会うことが出来たとみたのです。ここに信仰による見方というものがあります。そうみると、不幸とか、もうこれで終わり、とは見られなくなりますね。

 

二つ目は、(20)「どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストが崇められることです」と、パウロの決心というか、願い、希望が語られています。多くの人は、死にたくない、とにかく生きていたい…と考えるものですが、キリストにつながる彼(クリスチャン)は死ぬことがあまり怖くないかのように証しています。むしろそうやってキリストと共にいる方がいいとも言っています。キリストにつながる者には、生きている意味も、死んだ後の未来も解決済みなんですね。

 

三つ目は、(29)「あなた方は、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです」深いですね、ここに奥義があります。心に留めておきましょう。

 

2020年7月5日礼拝メッセージです。

       「主にある希望と願い」  

               ピリピ1章1-11節

 

主にあってパウロが記している4つの希望、願いを紹介します。

 

1、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は固く信じているのです」

 

私たちが救われたときから、どのような良い働きを始められたのでしょうか?(主なる神を意識し始めました。主の花嫁となる資格を得た。罪の縄目から、解放してくださった(救い))

 

2、「あなた方の愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなた方が真にすぐれたものを見分けることが出来るようになりますように」  つまり、私たちの愛も、知識も、豊かに成長できるものなのです。

 

3、「あなた方が、キリストの日には純真で非難されるところがなく…」 これってクリスチャンに向けて語られているのです。神様は私たちを愛してくださっています、救ってくださっています。だからと言って気を抜いて、非難されないように気をつけましょう。

 

4、「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄と誉れが現わされますように」

 「義の実」って具体的にどういうものでしょうかね。他の箇所には「御霊の実」というものが紹介されています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」…それに「義」「正しさ」が加わったものと考えたらいいです。そういうものに「あなたが」「わたしが」満たされることが大切なんですね。

2020年6月28日礼拝メッセージです。

        「初心に立ち返れ」 

              エレミヤ31章31-34節

 

私たちは信仰がリバイバルされるのに、何が必要なのでしょうか?もっと何かすごい体験、恵みが必要なのでしょうか?

 

もし、クリスチャンでありながらも「救いの確信?」というと首を傾げ、「喜んでいるか?」と言われると、首を横に振り、「感謝していますか?」と言われると、「何に感謝したらいいのか?」と言い返す。また「主なる神様のことがわかりますか?」と尋ねられると、「よくわからない…」。もしこのようであるなら、必見です。「どうして主を知る」のでしょうか?それは、「神様が私たちの咎を赦し、以前の罪を二度と思い出さない」ようにしてくださったからだと記されています。つまり、これは救いの体験なのです。それらを体験したことのゆえに、はっきりと神様のことがわかる…ということなのです。(神様のことがわかるか、分からないかは、理屈じゃなく、体験的、実感的なものだというわけです。)イエス・キリストのこと、救われたことの恵みを数えてみてください。そうしたら、そこから、喜びが来ます。感謝が生まれます。またそれらがわかると、神様のことが理屈でなく、はっきりわかるようになりますよ。もっと救われたことの恵みを大切に、反芻するようにしましょう。

 

もう一つ、私たちクリスチャンは、「信仰」によって歩むことを心に刻んでおきましょう。「感情」で歩むと、神様を見失う危険性がありますよ。だって、「そう感じるか、感じないか」と言われたら、感じられないことが度々あります。でもそれは神様がおられないのではなく、見えて、感じられてないだけであって、神様はちゃんとおられるのです。

 

2020年6月21日礼拝メッセージです。

        「がんばれお父さんたち」  

                エペソ6章4節

 

父の日も母の日と同じように、教会から始まった記念日です(1909年から)。お父さんに語られている聖書の教えの代表的なものが、先週開きました、(エペソ6章4節)「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」でした。こうできたらいいのですが、なかなかできないというのがお父さんたちの本音でしょうか?お父さん大変ですね、家庭の問題、職場の問題。

 

さあ、お父さんたち、どうしたらいいでしょう。二つのことを大切にしてみてください。①神の御前にへりくだり、主なる神に信頼しなさい。(人にへつらい、人に頼るよりずっと安全ですよ)②聖書の教えの内にあなたの人生を構築してください。(聖書は教えています、妻を自分自身のように愛しなさい、大切にしてごらん)。実はこの二つを再構築したら、あとは全部丸く収まってきますよ〈子供のことも、職場でのこともです〉。職場のことについては、エペソ6章6,7節「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」。これをそのままやってみてください(人にへつらい、人に気に入られようとしてではなく、神の御前に、神に喜ばれるように聞いてごらんなさい、祝福されますよ)

 

さあ、がんばれ、お父さん。奥さんたち、子供たちもお父さんを応援し、祈るようにしてください。そうすれば、天の神様に喜ばれます。

 

2020年6月14日礼拝メッセージです。

                「クリスチャンの戦い、戦い方」  

                                              エペソ6章10-24節

 

「クリスチャンにも戦いがある」…というと、どういう戦いをイメージされるでしょうか?偶像礼拝、異教徒との戦い??また、同じキリスト教と言われるのに、違うという、カトリックとプロテスタントとの戦い??もし、そういうイメージがあったら、リセットしてください。ここで語られているのは、そういう戦い、戦い方ではありません。どちらが正統派か?と剣や銃を向けること自体が正統派でないのです。何故なら、イエス・キリストはそんなことを教えていないからです。「悪魔の策略」って、そういう「嘘」「見かけだけ」のものを見分けること、そういう「罠」にかからない、抜け出す、払いのけるというのが「クリスチャンの戦い」というものの本質なのです。ですから、その戦いのために身につけなさいと言われている「神の武具」というものを見てみてください、それらは防御ばかりで、人と戦うためのものは何一つないのです。唯一の武器と言われている「御言葉の剣」も、それは人に罪を示し、救いの手を差し伸べるものであって、人を傷つけ、殺すものではないのです。また「クリスチャンの戦い、戦い方」ということで、とても大切なことがあります。それは、「神の御心(神の本意)を知る」ということです。これがわからない人は簡単に騙されてしまいます。私はよく皆さんに、聖書を読むことをお勧めしています。それを読んでいたら、神様の思い、本意(こんな時どういわれるか…)がわかってくるようになります。「主にあって、その大能の力によって強められ」悪魔の放つ火矢を防ぎ、祈りと願い…そして忍耐の限りを尽くし戦う…それがクリスチャンの戦いです。

 

2020年6月7日礼拝メッセージです。

   「幸いな家庭、職場づくりの秘訣」  

        エペソ6章1-9節  カラテヤ5章22,23

 

このテーマでの教えは、実際のところ5章22節から始まっていました。まず語られているのが「夫婦円満の秘訣」について教えられています。そして次に、「子供たちへの教え」。そして「父たちへの教え」「奴隷(従業員)の立場にある人たちへの教え」そして「主人(雇い主)の立場にある人たちへの教え」と続いているのです。

 

ただ、これらの全ての教え、諭し、秘訣というものには、根底となる精神があります。それが5章21節に語られている「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい(互いに仕え合いなさい)」という精神(スピリット)なのです。つまりよく言われる「主にあって…をする」というものです。ですから、全ての幸いな家庭、職場づくりの秘訣は、まずキリストを恐れ尊び、互いに仕え合うスピリットから始まり、そして幸いな家庭、職場づくりの中でも、第一に大事なのが、なぜか夫婦円満ということですね。子育ての問題、職場での問題…でもその前に夫婦円満が大切であり、それが子育て、職場での精神状態の土台となるということも言えるでしょう。妻には、夫に従うこと、夫には妻を自分自身のように愛すること、子供には両親に従い、敬うことが教えられ、お父さんたちには、子供を(言動の矛盾などによって)怒らせないこと、尊敬される背中を見せる生き方によって育てなさいと、ここからお勧めしました。そして従業員の立場にある人たちは「主に仕えるように…」をモットーにし、雇い主の立場の人も、同じ気持ちで従業員に接することですね。

2020年5月31日礼拝メッセージです。

  「御霊に満たされなさい」 

           エペソ5章15-20節

 

「ペンテコステ」とは、イエス・キリストがかねがね語っておられた聖霊「御霊」が約束通りに下られた記念の日のことです。ヨハネ14:16-17,26,16:7.8.13-14などを読みますと、そのお方が来られると、まるでイエス様がいた時のように、その方が教え、導き、支えてくださる、というのがわかります。また「使徒1:8」を読むと、その方が臨むと、力を受けるとも約束されています。現在クリスチャンである方も、まだ今考えておられる方も、この聖霊に満たされる必要があります。まだクリスチャン信仰を持たれておられない方は、まずイエス・キリストを救い主として信じ受け入れることから始めてください。そうすれば聖霊を受けるでしょう。現在クリスチャンでる方は、信仰に入ったときに聖霊をいただいたはずです。しかし、頂いたのと、現在満たされているとでは別次元の問題です。 今日の箇所には、聖霊に満たされることと酒に酔うこととが比較して語られています。人は何のために酒に酔うことを好むのでしょうか?「いい気分になるため?」「楽しい雰囲気になるから?」「気分が変えられるから?」「我を忘れられるから?」それ全部「聖霊に満たされる」ことの中にありますよ。私も、疲れた時、苦しい時、やるせない時、時には人に会いたくない時もあります。しかし神様を賛美し、礼拝をするとき、不思議と帰りには、新しい力をいただいくことが毎週です。聖霊の満たしには、二日酔いや、健康を害することもありません。皆さんもこの聖霊に満たされ、力をいただいてください。聖霊に満たされ、それを保つために三つの秘訣があります。

 

Ⅰテサロニケ5:16-18です。「いつも喜ぶ」「絶えず祈る」「すべてのことについて感謝する」です。これらは、信仰によってなされるものです。感情、感覚で生きているならできない事柄です。実践してみてください。そして満たされてください。

 

2020年5月24日礼拝メッセージです。

「賢い人のように歩みなさい」   

                      エペソ5章1-16節

 

15-17節を通して、クリスチャンとしての歩み方、「主の御心は何か」を考える生き方は「賢い人の歩み方」なんだと二週にわたってお取次ぎしました。これは本当のことです。聖書には、何千年という歳月にわたる人の生き方とその結果、そして神の教えが記されています。それらを学び、それらから悟り学びを取り入れた生き方をするなら、多くの愚かな言動や失敗から守られることが出来ますよ。一度しかない人生です。大切に、そして幸いに生きなさいと神様もおっしゃっています。それらのことを心に留めつつ、

 

10節では、「酒に酔ってはいけませんそこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」と教えられています。これを通し、酒を飲むのがいけないのか、飲んでもいいのか…との議論がとかくクローズアッフされていますが、ここで心に留めていただきたいのは、その後の「御霊に満たされなさい」です。御霊に満たされることは、酒の酔いに勝る酔い、気分転換、うっぷん晴らし、活力を得ることが出来るのです。しかも二日酔いの辛さはありません。

 

また22-33節では、結婚式で必ず語られる神に祝福される夫婦の教えが記されています。では、どっちが先にこの教えを実践したらいいのでしょうか?妻が夫に従うのが先?それとも夫が妻を自分自身のように愛するのが先?これは、(20,21)に教えられている根底となる教えから言えば、「とにかく、自分から先にそうしなさい」です。キリストを恐れ尊んで、互いに(仕え合いなさい)・・・・これが聖書の教えです。こう生きるなら、賢く生きられますよ。

 

三つのことを心に留めていてください。主の御心は何かをよく悟りなさい。御霊に満たされなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従い(仕え合い)なさい。 日々の生活に活かしてみてください。

 

2020年5月17日礼拝メッセージです。

「クリスチャンらしくあること」                          エペソ5章1-16節

 

2週間の間が空きましたが、再びエペソ書に戻ります。以前学んでいたのは、3章17-19…これがクリスチャンの目指すもの。そして4章から、そのためにどんなことが必要か、についてお語りしてきました。

 

 さて、今日の箇所には「…らしく」とか「…にふさわしく」という表現が3回出てきます。4章では、「召されたあなた方は、その召しにふさわしく…」でした。一つは、「愛されている子どもらしく」(1)です。これは主なる神に愛されている子供らしくという意味です。だからみんなですね。ただその意識を持っている人といない人とでは、感じ方に違いが出てくるでしょう。「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」「愛の内に歩みなさい」と勧められています。二つ目は、「聖徒にふさわしく」(3)不品行も、どんな汚れもまたむさぼりも口にすることさえいけませんよ、と勧められています。そういう生き方が「偶像礼拝者」とも聖書は教えています。三つ目は、「光の子どもらしく歩みなさい」(8)です。クリスチャンのあなた、以前は暗闇でしたが、今は主によって光の子となったのですから…主に喜ばれることは何かを見分けなさい…実を結ばない暗闇の業の仲間入りしないことだよ、…と勧められています。私たちはどうでしょうか?

 

 題に上げた「クリスチャンらしさ」とはこの三つのことと言っていいでしょう。そして、「クリスチャンらしさ」とは、それらを目指して、求めて、歩んでいる中に存在するものです。「自転車」と同じです。こいでいるなら、バランスもとれてゆっくりでも進みます。快適です。でも、こぐのをやめると、だんだんと速度は落ち、ついにはバランスを保つこともできなくなり、転んでしまいます。だから、達成しているかどうかよりも、目指し続けましょう。

 

2020年5月10日礼拝メッセージです。

 

                   「イエスの母マリヤ」 

                             ルカ2章11-20節

 

イエス様ってどんな子供だっただろう。多くの方は、勝手に「いい子」「親孝行な子」「問題のない子」と決めつけているのではないでしょうか?でも、よく聖書の記述を見ると、そうとも言えなかった可能性があります。確かに相対的に見て「イエスはますます知恵が進み、背丈も大きくなり、神と人とに愛された」とありますから、そういう子供だったはずです。しかし、「時に、良く変わったことをいう子」、「突拍子もないことをする子」だったようです。12歳の時の宮詣の時も、一人宮に残って、人々と話をしていたり、心配しているマリヤに「わたしが父の家にいることをどうして知らなかったのですか」といったり、カナの婚礼の時、「ぶどう酒がありません」というマリヤに「あなたと私に何の関係があるのでしょう」などと言ったり、メシヤとして活動され出した時、心配して駆けつけた兄弟や、母を前にして「わたしの兄弟、母とは誰でしょう、神を敬う方々がそうなのではないでしょうか」などと、時に、無視、いろいろとハラハラ、ドキドキの子育てだった可能性があるのです。

 

そんなイエスをマリヤはどう育てたのでしょうか?一つは、「信じて(神様を信じて)、子育てをしていた」、彼については誕生前から、いろんなことがありましたから、とにかくいろんなことが起こるたびにそれらのことを心と留め、思いめぐらすということをしたのです。二つ目は、「期待していた」神様は決して私を裏切らない、見捨てない…と。必ずこの子は神の栄光を現わすと…そして三つ目は、「すべて心に収める」「思いを巡らせる」ということをした。

 

すぐに決めつけたり、批判したり、自分の思うように導いたり…ではなかったようですね。神様からの預かり者として、敬意を払いつつ、育てたようです。イエス様が最後にしたことが、母マリヤへのいたわり(親孝行)でした。

 

2020年5月3日礼拝メッセージです。

   「主に用いられた少年」      

           ヨハネ6章5-14節

5千人の給食の記事はすべての福音書に記されています。ただ、ヨハネだけが、その奇跡のもととなったパンと魚の出どころを記しています。それは少年が持っていたお弁当だったのです。どういういきさつでこの奇跡はなされたのでしょうか?イエス様がこの群衆にあなた方で食べさせなさいと言われたことが発端でした。「ええ?そんなの無理」というのが弟子たちみんなの考えで、うろたえていました。聖書には記されていませんが、そこに、少年が「僕持ってるよ」と自分のお弁当を差し出したので、アンデレがあるのはこれだけですと、とても無理だと言いたげにそのことを告げると、イエス様は、みんなに座るように命じ、祈り、パンを裂き、渡し始められたのです。弟子たちには、「これくらいしかない」「こんなもので何ができる」という見方でしたが、イエス様には「これがある」という見方だったのですね。どうやら、ここでイエス様の信仰によるチャレンジに信仰をもって答えたのは、この少年だけだったみたいですね。小さなお友達、あなたもこの少年のように、イエス様について行ってください。そして自分でもできることがあったら、「僕できるよ」「私お手伝いしたい」と参加するようにして見てください。神様の祝福がありますよ。大人の方々にもお話しします。いろんなことを学び、いろんなことを体験し、知恵がつき、知識が増すとともに、この子供らしさを失っていませんか?イエス様の言われた「幼子のようでありなさい」との言葉を思い起こしましょう。対人に関しては、大人の考えで接する必要がありますが、神様に対しては幼子の心を忘れないようにしましょう。

 

2020年4月26日礼拝メッセージです。

「クリスチャンが目指すもの2」

                               エペソ4章17-32節

 

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」3章17-19節

 

 これこそ、「クリスチャンの目指すもの」と言えるでしょう。そのために気を付け、また目指すものがあります。後半の部分から見てみたいと思います。

 

1、 もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。(17)

 

これを違う言葉で表現するなら、「救われる以前の生き方に戻ってはいけない」。「信仰を持っていなかった時のような虚しい生き方をしてはいけない」ということです。

 

2、 「ほんとうに…キリストに聞き、キリストにあって教えられる」ということを目指しましょう。(21)

 

3、 「以前の生活についていうならば、…古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなた方の心の霊において新しくされ…神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」これを目指しましょう。

 

※(26-32)には、具体的な事柄が記されてあります。ぜひ何度も読み、心に刻み、これらのことに気を付けて歩みましょう。

 

2020年4月19日礼拝メッセージです。

           「クリスチャンが目指すもの1」   

                                    エペソ4章1-16節

 

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」3章17-19節

 

 これこそ、「クリスチャンの目指すもの」と言えるでしょう。そのために目指すものがあります。それが今日の箇所にあります。

 

1、 召されたあなた方は、その召しにふさわしく歩む(1)

 

「クリスチャンらしい」というニアンスは負担ですか?でも、必要なものではないでしょうか?

 

2、 「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに愛をもって忍び合い、平和の絆で結ばれて、御霊の一致を熱心に保」つということ(2,3)

 

3、 「私たちがみな信仰の一致と神のみ子に関する知識との一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」

 

マタイ10章24,25「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。」これらを目指しましょう。前進しましょう。

 

2020年4月12日礼拝メッセージです。

   「死を打ち破り復活された神の子イエス」

               マタイ28章1-10節

 

御子イエスは十字架にかかられ死なれましたが、その三日目に、言われていたようによみがえられました。ですから、イースター(キリストの復活祭)は、人類の最大の敵であり、罪の結果である死に勝利した喜びの日なのです。

 

 現在、現実として、全ての人の前に「死」という最後の関門が待っています。これは誰も逃れることのできない事柄です。聖書は、3種類の「死」を語っています。一つは、肉体の死です。二つ目は、霊の死です。これは端的に言うと、神様から離れている状態です。神との霊の交わりがないので、神からの霊の命が流れてこない状態のことです。ほとんどの方々がこの死の中にあります。「生きる屍」とは、このようなことを言うのです。第三は、永遠の死です。第二の「霊の死」から救われ、回復を見ないままで、この人生を終えた方々は、チャンスを逃したということで、自動的にこの死に至ることになります。

 

 ところが、キリストのよみがえりは、それらの三つの死に解決をもたらしてくださったのです。肉体の死に対する勝利は、イエスを信じていただく罪の赦し、永遠の命ですから、この肉体の死に対して恐れではなく、むしろ、それを天の御国への入り口と考えられるようになり、この肉の体を脱ぎ捨て、霊の体をいただく時と確信できるようになることです。霊の死に対する勝利も、永遠の死に対する勝利もこのことのゆえにいただけるものなのです。

 

2020年4月5日礼拝メッセージです。

  「神の心、人知らず」       

        ルカ19章28-44節

 

今日は、キリスト受難週に入る日です。つまり、今日、キリストがロバの子に乗って、エルサレムに入場された記念の日ということです。この記念の日にちは、イースターから逆算しています。イースター(キリストの復活日)は、満月の次の日曜と定められています(それで毎年変わるのです)。

 

今朝見た御言葉は、イエス様がエルサレムに入場される時の箇所ですが、ここにルカの福音書にだけ記録されている事柄があります。それは(41)イエス様が都を見られ「泣かれた」ということです。なぜ、泣かれたのでしょう。それはその後を見ればわかります。ここはエルサレムを擬人化して言っているのですが、その民たちが「平和のことを知らない」「自分たちのことがわかってない」「これから起こる悲劇を知らない」「神の訪れの時を知らない」からと言われています。

 

それでこのキリスト受難を覚える一週間に、心を留めていただきたい事柄が2つあります。一つは、「先に起こることがわかっていながら、それに向かっていくことの難しさ」。イエス様には、これから先に起こることの全てがわかっていました。しかし、そのすべてを忍んで、耐えて、受け入れて歩み通されたのです。逃げなかった。

 

二つ目は、「分かっていない人を前にして、それを忍ぶことも辛い」。 ホサナと喜んでいる人たちも、苦虫をつぶしたような顔の宗教者たちも、12弟子でさえも、この後のことを知らなかった。ただ、イエス様は、すべてを飲み込んで、耐え通されたのです。

 

2020年3月31日礼拝メッセージです。

「パウロの切なる願い」       

          エペソ3章13-21節

 

今一緒に学んでいる書簡集は、「獄中書簡」と言って、パウロが牢獄の中から、各教会、クリスチャンたち一人一人を覚えつつ、したためた手紙となっています。それで(13)「ですから、私があなた方のために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。」というような言葉が入っているのです。

 

どんなことをパウロは神様に祈っていたのでしょうか?一つは、「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなた方の内なる人を強くしてくださいますように」です。そして次は、「キリストがあなた方の信仰によって、あなた方の心の内に住んでいてくださいますように」。ということです。そしてさらに、「愛に根ざし、愛に基礎をおいているあなた方が、全ての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようにな」ることでした。そうですね、私たちは弱く、罪深いものでしたが、神様はありのままの状態で受け入れてくださいました。だからと言ってそのままではもったいないですね。もっとその愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになることを神様は望んでおられるのです。さらにこうも祈られています。「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなた方が満たされますように」。目指しましょう…「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、私も満たされますように」と。そして求めましょう。

 

2020年3月22日礼拝メッセージです。

「不遜なものにならず、悟ろうとする者でありなさい」

 

       黙示録16章8-11節、Ⅰコリント2章14節

 

この黙示録の箇所に記されている事柄は、終わりの時代に起こるといわれる、艱難時代のことだといわれています。これがいつ起こるのかということは、多くの方々の関心あることだと思われますが、何時だとは言えないにしても、ここに記されているような特徴が人々のうちに見られるようになったら、その時期の近いことがわかるようになります。そういう視点からこの個所を見ると、神様が、ここまで打ったら、自分の罪を悔い改め、「神様助けてください、お赦し下さい」と、へりくだってくるかと思えば、そうすることもなく、むしろ、「これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった」。それで主なる神は次の災難をもたらしたが、それでも「自分の行いを悔い改めることせず、神に対して汚しごとを言う」・・・こうなると、神様も、もう堪忍袋の緒が切れてしまうのではないでしょうかね。それか最後の裁きの引き金となると思われます。ここで、二つのことを心に留めておいてください。

 

ひとつは、「終わりの時代、人々は、神様に対して、不遜な者となっていきます」。もう一つは、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません」(Ⅰコリント12:14)もう一つの言い方をすると、「まだ救われていない人間は…」ということになります。イエス様を信じて新しい命、聖霊をいただくまでは、神様のことはわからないのです。それは「ばかばかしいこと」「愚かなこと」「時代遅れもいいとこ」のようにしか思われないのです。今の時代、私たちは不遜な者にならず、悟ろうとする者となりましょう。

 

2020年3月15日礼拝メッセージです。

   「心の中にあるものが表に出る。だから…」 

               マタイ26章47-75

 

イスカリオテ・ユダの裏切りから、すべての流れは一変しました。その後いろんな人々の心模様を一緒に見てみました。

 

イスカリオテ・ユダ

もしかして彼は、「裏切ろう」と思ってやってなかったのではないかと思われる節があります。ただ単に、みんなの前で恥をかかされたから、腹が立ったから、ちょっといたずらをしてやろう、困らせてやりたい。どうせ彼はいつものようにやっつけるだろうから、なんせ彼はキリストですから・・・と。ところが予想外のことが起こったから、焦った彼は、大祭司のもとに。しかし、ここでやっと事の重大さに気づき、とっさに自殺をしてしまったのではないだろうか・… (あれほどイエス様が話しておられたのに、心の中に入ってなかったのですね)

 ペテロ

 彼も、ここに来るまで、自分の心の中にある、弱さ、もろさ、過信、(キリストに対する熱い愛もあった)に気づいてなかったみたいです。 

 祭司たち、パリサイ人たち

 彼らは、自分たちは、神に熱心な者、神に愛されている、正しい道を歩む者という認識があったようですが、本当のところ、神に喜ばれない、憎しみ、ねたみ、嫉妬、怒り、殺意が心の奥底に沸き立っていた。 

イエス・キリスト

 ここに見るイエス様の心の中には、「平安」「委ねる」「最後までやりきる」というものが見られます。※さて、私たちの内には何があるでしょうかね。それが「いざ」という時出るのです。

 

2020年3月8日礼拝メッセージです。

     「とりなしの祈り」   

    エレミヤ15章1節、エゼキエル14章12-20節

 

聖書のこの個所を読むとき、神様が怒っておられるのを感じることができます。聖書の中に義人として描かれている、モーセとか、サムエル、ノアやダニエル、ヨブなどがそこにいても…執り成したとしても、彼らが救えるのは、自分たちの命だけだ。もうわたしは、この民たちを赦さない、と言っておられますね。もうこれ以上許しておくわけにはいかない…という感じですね。世の終わりは、このようにしてくると覚えていてください。

 

 先週は、新型コロナウィルスの流行を通して、これらも最後の時代の前兆に記されてあったこと、私たちは、いつ主の日が来てもいいように、日頃から心の準備をして待っているものでいましょう、とお勧めしました。また、もし、モーセやサムエル、ノアやダニエル、ヨブなどが今の時代にいるとしたら、何をすると思いますか?やはり執り成しの祈りです。神様には、「お怒りの気持ちはわかりますが、そこはなんとか、もうしばらくお待ちください。赦してやってください」…と願い。人々に対しては、「いい加減にしなさいよ。神様は怒っておられますよ。悔い改めなさい、ヘリくださって赦しを願いなさい、あなた方がへりくだるならもしかすると主は怒りを鎮められるかもしれない」…と執り成しの祈りを捧げつつ、人々に語るのではないでしょうか?そうであるなら、それを私たちもさせていただきましょう。神様が彼らを愛されたように、そのようにしているあなたを主は格別愛してくださいますよ。

 

2020年3月1日礼拝メッセージです。

「新型コロナウイルスの広がりをどう理解するべきですか」

 

           ルカ21章5-36節(10,11) 

 

Q:新型コロナウイルスが世界に広がっています。本当に恐ろしい時代です。この問題は、聖書的にはどう考えたらよいでしょうか。

 

このような信者さんからの質問に中川健一先生が答えられた言葉から語らせていただきました。1番目に、疫病の存在は、被造世界が堕落した状態にあることを示しています。 質問者様は「本当に恐ろしい時代です」と言われましたが、実は、世界規模の疫病の被害は、歴史の転換点でたびたび起こっています。古代には天然痘、中世から近世にかけてはペスト、梅毒、19世紀にはコレラ、第一次世界大戦期にはスペイン風邪と言われたインフルエンザが、多くの人々の命を奪いました。(このようなものは、神様が造られた世界にはないものだった。)2番目に、疫病が霊的メッセージを持っている場合もあります。 つまり、神が疫病を通してお語りになるということです。出エジプトの時代、神はエジプトに疫病をもたらされました。目的は、ファラオにイスラエルの民を解放させるためです。カナンの地に定住して以降の時代、神はイスラエルの民に疫病をもたされました。目的は、イスラエルの民を悔い改めに導くためです。イエスは、すべての病を癒されました。これは、イエスが救い主であることを証明するしるしとなりました。さて、今神様これを通して何を語っておられるでしょう。3番目に、疫病は、患難期の予表と見ることができます。 終末時代に関して、イエスはこう語っておられます。 「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます」 (ルカ21:11)。


   「ギデオンが天から力を受けた秘訣」士師記6:33-40

 

「主の霊がギデオンをおおった」そして、「従順に神様の言われることを行った」、この二つが秘訣です。私たちも、主の霊に満たされることを求めて、主に従い通しましょう。そのようにして、イエス様の再臨を待ち望んでいましょう。

 


「救われるためには、何をしなければなりませんか」

                               使徒の働き16章25-34節(30) 

 

パウロとシラスは、イエス様を宣べ伝えたことにより牢屋に入れられました。苦しい牢屋の中で、彼らは神様に文句を言っていたでしょうか?いいえ、彼らは神様を褒めたたえ賛美していたのです。その時、地震が起きて、足枷や鎖が解け、牢の扉が開きました。看守は囚人が逃げてしまったと思い、自殺しようとしますが、パウロが止めます。誰も逃げていない、と。看守は「救われるためには何をすれば?」と聞き、その答えが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 

 

 

正しい人は一人もいません。そして、罪をもったままでは天国に行くことはできません。イエス様はそのような私たちの罪を赦すために、私たちの代わりに罪の罰を受けて十字架にかかって死んでくださいました。ですから、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言われたのです。

 

 


黙示録1:16-20、出エジプト15:6 「神の力強い右の手」

 

詩篇17:7、詩篇18:35,36、イザヤ49:16

 神様の右の手は力を象徴しています。敵である悪魔が私たちを倒そうとしても、神様の力は私たちを守り支えることができます。そして、その力強い神様の御手に握っていただくと、私たちは変わることできるのです。あなたは神様の御手に触れていただいたことがありますか?


エペソ3:14-21 「神の全能の力」

 

「愛に根ざし、愛に基礎をおいて」しっかり立っていましょう。神様の愛はすべての人に届くほど広く、天に届くまで高く、罪の深みにいる者にまで届くほど深いのです。


ガラテヤ5:19-26、ヨハネ17:17,20、エゼキエル36:25-28

 きよめられても完全になるわけではありません。完全なお方は神様だけです。また、きよめられると天使になるわけでもありません。罪を犯す可能性がなくなるわけでもありません。もう頂点に達したのだから成長もない…この考えも間違っています。きよめはゴールではなく、むしろスタート、これから成長するのです。きよめを追い求めましょう。


 マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」  創世記22章、Ⅰコリント4:7、マタイ16:24

 

神様は、アブラハムにイサクをささげよ、とおっしゃいました。彼にとっては一番大切な存在だったでしょう。そのイサクを捧げる決心をしたとき、彼は全てを神様に捧げました。全てを手放し、自分のものは何一つありません、全ては神様のものです、と言えたその時、天の御国はその人のものです。

2020年2月9日礼拝メッセージです。

    「神の奥義の内に生きる」     

           エペソ3章1-12節

 

パウロの言う「神の奥義」って何でしょう。

 

一つは、いつの日にか「いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる…私たちはキリストにあって御国を受け継ぐものともなった」ということのようです。(エペソ1章8-11節)

 

二つ目は、「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も(ユダヤ人も)共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということ」です。現在の私たちから見たら、「奥義」というか、それって当然のことなのではないか…と思うことなのではないでしょうか?ところが、キリスト前の人たちから見たら、すごい変化であり、とてもありがたい、それこそ「神の奥義」そのものなのです。パウロは、その奥義を人からではなく、神の啓示によって悟ったというのです。(3章3節)(ガラテヤ1章11-12節)

 

ここで皆さんも覚えていただきたいです。実は、神様は今も、「神の奥義」の扉をあなたの前に開いて、招いておられるのです。あなたにも教えよう、悟らせよう…と。しかし、神様はおっしゃっておられます。多くの人が「忙しい」「それどころではない」「後で」と言って、その扉をくぐろうとせず、通り過ぎてしまっている…と。

 

想像してみてください。日々聖書を読みながら、「神様そうなんですか?」「私もこうなりたいです」「これが欲しいです」と興奮しながら、発見の喜びに沸き立つ自分の姿を…主は待っておられますよ。「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」(12)

 

2020年2月2日礼拝メッセージです。

 「キリストこそ私たちの平和、和解、救い」

                                          エペソ2章11-22節

 

「神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、この私たちをキリストとともに生かし、救」ってくださり、神を知る者、天国に行くことのできる者としてくださったのです。ですから…そんな私たちですから、神の前、キリストの前では、異邦人の私たちも、割礼を受けている選民のユダヤ人でも、同じ扱いなのです。しかし、この罪の世では、差別的な格差の視点で見られ、いまだに差別の扱い、偏見、それに伴う怒り、憎しみなどが、この信仰の世界の中にもあります。しかし、イエス・キリストの十字架はそのような隔ての壁を打ち壊し、敵意を廃棄されたのだ。それで今はキリストにあって、また十字架によってすべてのものを一つにしたのだと力説されているのがこの個所なのです。

 

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し…敵意を廃棄された方です。」

 

このことのゆえに感謝しましょう。

キリストを、また十字架を誇りとしたいものですね。

 

またそんな私たちですから、私たちも差別的な格差の視点で人を見ることはやめましょう。偏見や怒り、憎しみも、敵意もみな振り払い、取り除けていただきましょう。私たちはキリストから来る平和の内を日々歩む者となりましょう。

2020年1月26日礼拝メッセージです。

「救われたとは・・・凄いこと」 

 

         エペソ2章1-10節

 

この個所は主にクリスチャンの体験した救いの証について記されてある箇所です。

 

6節の「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」に注目してみてください。

 

クリスチャンの皆さん、これがあなたのいただいた「救い」のもたらしたものなのです。

 

その確信ありますか?実感ありますか?あれば結構、日々感謝しつつ、その恵みの内に歩みましょう。もしないとしたら、1-5節までの御言葉は、その解決方法を教えてくれています。

 

 

 

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」以前の自分は死んでいたものであったことを思い出してください。

 

 

 

死んでいたから「分からなかったのです」「良いこともわかっていてもできなかったのです」また「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」そうです、そんな生き方だったことを思い出してください。

 

 

 

また「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」以前の自分は、そのような生き方をしていたものだった。

 

 

 

またこんな運命のもとにあったではないですか…

 

 

 

そんなところから「神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、この私たちをキリストとともに生かし、救」ってくださり、神を知る者、天国に行ける者としてくださったのです。確信を確かなものとしましょう。

 

 

2020年1月19日礼拝メッセージです。

「目が開かれ、はっきり分かるように」  

                                エペソ1章15-23節

 

1章後半の箇所は、「こういうわけで」という接続詞で始まっていますので、当然、前週に取り次いだ内容が関係しています。

つまり、時が満ちると、神はいっさいのものをキリストにあって

一つに集めることになる。

私たちは、キリストにあって、その救いの福音を聞き、信じて受け入れたことによって、約束の御霊の証印が押され、御国を受け継ぐ者となった者です。

またキリストに望みを置いて歩んでいるものです。

「こういうわけで…」とパウロは、絶えず、神に感謝を捧げ、あなた方のために祈っていると、その祈りの内容が記されています。

 

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなた方に与えてくださいますように。」(神を知るための知恵は聖書を読むときに与えられます。そしてその理解を助けてくださる御霊の存在…それがさらに豊かに…)

 

「また、あなた方の心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものなのか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか・・・(理解するように)」わかっているつもりで、そのほとんども知っていないということはないですか?さらに心の目がはっきり見えるようになること求めませんか?

 

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなた方が知ることができますように。」これらがパウロの祈りであり、神の御心でもあるのです。また教会の集まりにキリストが与えられている。教会はキリストの体なのだと言われています。私たちもそんな教会でありたいですね。

2020年1月12日礼拝メッセージです。

「神が私たちのために定めた道」 

          エペソ1章1-14節

2019年の11月まで「使徒の働きから」学んでいました。その書の最後は、パウロがローマでわりと自由のきく環境ではありましたが、牢獄で2年ほどつながれていたという記録で終わっています。その間にパウロは祈りつつ、諸国の教会(兄弟姉妹)に対して手紙を書き記したのです。それを獄中書簡(エペソ、ピリピ、コロサイ、ピレモン)と言います。これからそれらを通して学びたいと思っています。まずは、エペソ人への手紙です。

 

この書き出しの部分から、神様が私たちに対して立てている計画、希望、御心の姿などがいろんな方面から語られています。それをあえて世間一般で言われている「人間に定められている運命」という論説と比べながら、学んでみたいと思っています。世間一般に語られている運命論は、悲観的な論説が多いですが、聖書が語る神様の定めは、非常に希望の持てるものです。

 

(3)「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私達を祝してくださいました」

(4)「神は私たちを…キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のないものにしようとされました」

 

(5)「…私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです」

(11)「私たちは彼(キリスト)にあって御国を受け継ぐものともなったのです。…このようにあらかじめ定められていたのです」

 

神の定めた道はいいですね。ただそれを自分の運命として歩むかどうかはあなたや私にかかっているのです。あなたはどうしますか?

 

2020年1月5日礼拝メッセージです。

「祝福は御言葉を読むだけでなく、実行するにある」 

                マタイ7章13-27節

 

2020年の冒頭に掲げた御言葉は「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」 

勧めとして「毎日聖書を読み、何か一つのことでも心に留め」

「その心に留まったことを実際にやってみようと努力する」ということをやってみてくださいと、言いました。

 

この年の初めにチャレンジを決意してみられませんか?とお勧めしましたが、今日の箇所を読むと、イエス様の語っておられる言葉のニアンスは、もっと強いものであることがわかります。

「わたしに向かって『主よ、主よ。』というものがみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(21)とか、

「わたしのこれらの言葉を聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」また「わたしのこれらの言葉を聞いてそれを行わないものはみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」 イエス様の言葉や聖書の教えとかは、聞くだけでなく、また、知っているだけでもなく、それを行う(実践する)(生活に、人生に生かすこと)が大事なのだということが強く語られているのに気が付きます。

 

それこそが、イエス様の語られた狭き、細い道であり、いのちに至る道であるのです。

 

それを教えない、そこに導かない指導者は、偽預言者であるということになってくるのではないでしょうか…さあ、みなさん、聖書を読みましょう。

そして神の御心を知り、それに歩む者とならせていただきましょう。

2020年元旦礼拝メッセージです。