2021年1月10日礼拝メッセージです。

             「罪について」 

                   ローマ1章18-32節

聖書は「性善説」「性悪説」の両方を教えています。人が造られたとき、神のかたちに似せて造られ、全てが素晴らしいものだった。彼らが蛇の惑わしに乗ってしまうまでは、本当に幸せだった。神と人はエデンの園で幸いな交わりがあった。しかし、蛇の惑わしに乗ってしまって、これだけは取って食べてはいけない、食べると死ぬと言われていた「善悪の知識の木の実」を取って食べてしまった。その途端、彼らは自分たちが裸なのを恥ずかしいと思うようになり、悪いことをしてしまったという意識から、神様の呼び声がすると、隠れてしまった。これが善悪の知識の木の実を食べた結果だったのです。それゆえ、神は、彼らをエデンの園から追放してしまわれたのです。それ以降神と人との交わりは以前のようではなくなってしまいました。これが「死」の一つなのです。その時から、人は生まれた時から、皆罪の種をもって生まれてくるようになり、生を受けて、成長すると、天使のようなうぶな子供にも、罪の種から芽が出て、根が生え、人は生まれながらに罪を犯すようになってしまったのです。キリストが来られたのはその罪の問題から、影響力から、私たちを救うためだった。キリストの教えの多くは、本当の問題は、あなたがたのうちにある罪なのだ、という指摘でした。キリストの十字架は、罪の償いのため、自分の命と引き換えに、罪の毒消しを手にされたということなのです。ここではその罪がリストアップされています(26-32節)。ここに記されているような罪、あなたや私は大丈夫でしょうか?心にかかることは悔い改めましょう。

 


2021年1月3日礼拝メッセージです。

「私は福音を恥とは思いません」 

ローマ1章1-17節

 パウロは、クリスチャンの群れに、基礎的な教えをしっかり伝えておきたくて、この手紙を綴ったのだと言われています。ですから、これは手紙でありながら、論文(神学論、教理)のような要素を持ったものなのです。簡単にまとめてみますと、1章「自然による啓示」、3章「罪の普遍性」、「義認」、4章に入って、「信仰」、5章「原罪」、6章「キリストとの一致」、7章「きよめの必要性」、8章「きよめ、聖化」、9-11章「神の選び」

 

ここで皆さんの心にとどめていただきたいものは、「パウロのスピリット」です。彼がまだ会ったことも、見たこともない主にある兄弟姉妹たちにどれほど会いたがっていたことか。この章には有名な御言葉が二つ記されています。(14)「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」…パウロさんは、こんな気持ちで伝道していたようですね。これは「仕事として」…という感じではありませんね。(15,16)を読むと「本当に素晴らしいものだから、知ってもらいたいから…私だけでそれをとどめていたら…そんなの罰当たりだ」そんな感じでこの書が記されているのがわかります。また、(17)「義人は信仰によって生きる」…これも有名な御言葉です。パウロは、キリストの福音が「信仰に始まり信仰に進ませる」と教えています。ですから、私たちも聖書の御言葉を読み、触れ、心に留め、それに歩むことによってますます信仰に進ませていただけますように。

 


2021年元旦礼拝メッセージです。

 「主に信頼する…その人は、水のほとりに植わった木のように…暑さが来ても暑さを知らず…日照りの年にも心配ない。」

 

                        エレミヤ177,8

「主に信頼する」人には祝福があると言われています。そしてそのような人は、「水のほとりに植わった木のよう」だと言われています。水のほとりに植わった木の強さは、ふんだんな水分をその根が吸収することが出来るということですよね。「主に信頼する人」とは、そういうふうな人だというのです。詩篇では、「主の教えを喜びとする人」のことを「水のほとりに植わった木のようだ」と言っています。この二つの特徴は同じものなのです。「主の教えを喜びとする人だからこそ、主に信頼するだろうし、日々主により頼むのです」だから、「暑さが来ても暑さを知らず、日照りの年にも心配ない」というのです。道理にかなったことです。あなたもそういう人であってください。そういう生き方を今年してください。もし、あなたが主に信頼してさえいたら、必ずできるのです(そこには、あなたの強さとか、あなたの素晴らしさとかは関係ないですね。ただただ、主なる神のおかげさまで、あなたはそんな祝福された歩みができるということなのです)。

 

 今年のうちにも「暑さ」「日照り」のようなものが必ず訪れるでしょう。聖書は、「主に信頼し、主を頼みとする」人にも「暑さが来る」「日照りの年が来る」と言っているのです。しかし、「主に信頼し、主を頼みとする」人には、「蛙の面に…」というような感じで、それらで決して倒されることがない、その逆風を逆手にとってますます葉を茂らし、実をみのらせる」と言ってくださっているのです。どんな「暑さ」「日照り」が来るでしょうか、「天災」が押し寄せますか?「地震、台風、津波、疫病…」それでも主を信頼し続け、固く立っていましょう。あなたの信じる通りになります。ぜひ、この年の初めにこの御言葉を心に刻みましょう。

 

2020年12月20日礼拝メッセージです。

     「空室はないけれど…すべての人へご招待」 

                マタイ1章21節

キリストと呼ばれたイエスについて見てみましょう。神が、無力で、弱い立場の赤ちゃんとして天から来られた、しかも、このイエスが生まれたのは、馬小屋だったという…衛生面でも、環境面でも、最悪の中で生まれました。どうしてでしたか?彼らを迎え入れてくれる場所がなかったと…みんな忙しくて…幼子イエスを迎え入れてくれる場所はなかったのです。今の時代も似ていますね、「メリークリスマス」って祝っているというのに、そこにどれだけキリストを期待している心があるでしよう…みんな忙しくて、やらなければいけないことがいっぱいあって…現在にキリストが来られたとして、果たしてどれだけの人がキリストを迎えることが出来るでしょうか?それなのに、神様は、いろんな人たちに分かるようにその知らせをしてくださったのでした。東方の博士たちは、珍しい星の出現を発見し、調べてみて、それが聖書に記されている王(メシヤ、キリスト)の出現の印だと知り、迷いながらも、探して訪ねてきたのでした。また羊飼いたちは、天使の知らせと賛美を聞いて探して、訪ねてきました。では、他の人たちには、それらは見えなかったのでしょうか?いいえ見えたはずです。聞こえたはずです。ただ、自分のことに忙しすぎて、それらを気にしたり、見たり、調べたり、仕事を置いて、探して、駆けつけることが出来なかった(余裕がなかった)のではないでしょうか?今、独りぼっちで、寂しい人がいますか?誰も自分のことを気遣ってくれない…と言われる方。イエス・キリストはあなたの気持ちよくわかりますよ。彼もそうでしたから…彼は今もすべての人を招いておられます。メリークリスマス。

2020年12月13日礼拝メッセージです。

       「待つことの本質」  

             ルカ2章22-38節 

 

これだけ社会変化が早いと、ことにIT(情報技術)などが発達すればするほど、「待つ」ということが難しくなってきます。若い人たちの携帯メールの返信などはその良い例です。即答が四割。10分以内では七割といいます。これは若い人たちだけの問題ではなく、仕事そのものが「早く早く」という時代ですから、じっくり考えたり、待ったりすることが難しくなってきているのは確かです。いわゆる「キレる人」が多くなっているのも、こうした現代文化と決して無関係ではないと思います。

今日学ぶ、シメオンやアンナ、また救い主の到来を待った人々は「待つことの本質」を告げているようにも思えるのです。それは電車が来るのを今か今かと待つような、まただれかと待ち合わせ、時にイライラして待つような待ちかたではない種類のものです。つまり自己中心的な願望に支配され、待ちくたびれてしまうことのないものです。

 シメオンやアンナに見られる待つ世界は、自分の「願望」が中心ではなく、相手(神)を信じ、「希望」をもって待つというものでした。聖書はこれを「待ち望む」と記しています。 

 

現代は聖書の教える「愛すること、信ずること」が難しくなっている時代です。「希望をもって待つこと」もしかりですね。難しいのです。このような時代の中で神の導きの手を信じ、待つことのできる者でありたいと、自らを振り返りつつ思うのです。皆様はいかがでしょうか?

 

2020年12月6日礼拝メッセージです。

     「預言されていたキリスト」 

                                マタイ2章2-6節 

 

クリスマスを語るのに、まずお伝えしなければいけないのは、キリストについては、あらかじめ(聖書の中で)掲示されていた(預言されていた)ということです。ですから、クリスマスは、その預言の成就としてキリストが来てくださった…このイエスこそ、そのキリストです。という信仰告白と、神の真実さを覚え、祝う時ということなのです。それで、今日は皆さんで旧約聖書に記されているキリスト預言の一つ一つを見ながら、イエス・キリストとイメージを合わせてみたいと思います。

 

◎創世記 3:15この「女の子孫」は原語では単数形になっているそうです。つまり、その後にもあるように「彼は」という一人の人を指してしている、これがキリストのことなのです。

 

◎ミカ 5:2

 

◎詩篇 22篇※ここに十字架上のキリストの言葉や描写が七つ暗示されています。

 

◎イザヤ 7:14

 

◎イザヤ53章キリストがこのような扱いを受ける…ユダヤ人たちには信じられないことでした。「私だったらそうはしない」とだれもが言ったことでしょう。だから、これもユダヤ人には、理解困難な個所でもあったのです。

 

◎マルコ 8:27-29・・・あなたは、イエスを誰だと言いますか?ペテロのように「あなたは、キリストです」と言えたら幸いですね。その人には、真のクリスマスが訪れることでしょう。

 

2020年11月29日ボーマン先生追悼礼拝メッセージです。

「クリスチャンにとって死とは」  

                  コリント5章1-10節 黙示録21章3,4節

 ◎この地上の幕屋である肉体を脱ぎ、天からの住まいを着る時。

 ◎主の御許に行く時であり、いつまでも主と共にいるようになれる時。

  そこでは、目の涙はぬぐい取っていただき、もう死もなく、悲しみも、叫び、苦しみもない。

 

ボーマン先生も、やっと、愛してやまなかったイエス様と会いまみえ、興奮しているのではないかと思います。また、船の事故で亡くした愛する方々や、子供たちと再会を喜んでいるのではないかと思います。

 

みなさん。死とは、「この地上の幕屋である肉体を脱ぎ」、「主の御許に行く時であり」、「いつまでも主と共にいるようになる」時なのです。ここで考えてみてください。生きている間、この地上での生涯の間、神様を意識してこなかった人とか、軽く見てきた人たち、真剣に考えなかった、大切にしなかった、愛してこなかった人たちはこの地上を去る時、また、神様の前に立つ時…どんな思いになるでしょう。慌てるでしょうし、居心地が悪いでしょうね。真の神を見出し、真の救いを見出すこと、また、神を愛することは、神によって造られたこの世(この地上での生涯)でしかできません。

 

多くの人たちは、この世を見ても神様なんか見えない、感じないと言います。しかし聖書は、「私たちに弁解の余地はない」(ローマ1章19-21節)、とまで言っています。後で後悔しないためにも、今、しっかり求め、たたき、探しましょう。

2020年11月22日礼拝メッセージです。

      「主なる神の心を知る」   

            エゼキエル33章7-16節

 

皆さまは、神様があわれみ深い方であることをご存知でしょうか?人間というものは、何事もない時は、自分の思うままに生き、必要があるとすがってくる傾向がある。それで、良くしてくださるのですが、のど元過ぎれば、当たり前のように思い、恩義を感じることもなく、主なる神にねぎらいを語るでもなく、次の願い事ばかり言い、そうしてもらえないなら、「やっぱり神様なんかおらん」と言い出すような失礼で、罪深い者です。しかし、神様はそんな私たち人間を、見捨てることなく、むしろそんな罪深さから救うために、一人子の神を送ってくださるようなあわれみ深いお方です。

 

クリスチャンの方々は、その神のあわれみを実際受けて、イエス・キリストを信じ受け入れることによって、運命の道筋を変えさせていただくという恵みを味わった方々です。今朝は是非、皆様に知っておいていただきたい神様の特徴(恵み深い神様の特徴)をお話ししたいと思います。

 

1ただひたすら悪しき者がその道から立ち返ることを願い、奮闘しておられる方なのです。

 

2神のあわれみ深さは、正しい道へと目を上げている人には、あわれみと見えるが、視点がずれている人にとっては不公平で、ひどい方のように見える傾向がありす。

 

まだイエス様を信じ受け入れてない方は、早く御許に来てください。哀れみを受け入れてください。信じ受け入れている方は、主なる神様と同じ心を持つようになれますように。そうすればあなたもあわれみ深い者ともなれます。

 

2020年11月15日礼拝メッセージです。

 「神の国のことを証し続ける」  

      使徒28章16-31節      

 このところでは、ローマに住んでいるユダヤ人の主だった人たちに対してパウロが、朝から晩まで、神の国のことの証し、また旧約聖書によって、啓示されているキリストこそ、イエスのことだと説得しようとしたことが記録されています。ところが、「ある人々は信じたが、ある人々は信じようとしなかった」…いつの時代でも同じですね。その時、パウロはイザヤ書に記されてある御言葉を引用して「まさにその通りだ」と表現したのでした。この箇所から三つのことをお伝えします。一つは、これが現実だということです。現在でも、学があり、知識のある人でも、聖書の言っていることがわからない、神様ってわからない。キリストってわからない。それは、この世の知恵、価値観、常識で計るからです。それではわからなくて当然です。二つ目は、これが「生きているのに、死んでいる」ということだということなのです。 聖書の中に「生きているのに、死んでいる」とか「罪の中に死んでいる」という表現があります(黙示録3章1節)(エペソ2章1,2節)。これってどういうことだろう…意味わからない…と思われた方もいると思います。それがこの状態のことなのです。死んでいるので、「確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない」「心が鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからだ。」ということになっているわけです。三つ目は、「使徒の働き」の書の続きは、あなたの生涯です。使徒行伝は、完結していませんね。そうです、聖霊の働きは、パウロたちで終わったわけではなく、その後も続いているからです。…どうぞあなたも日々体験し、日々証してください。

 

2020年11月8日礼拝メッセージです。

 「自発的な親切、赦し、和合」     

          ピレモンへの手紙 

この書の中で主に語られているオネシモは、このピレモンのもとから逃げた奴隷でしたから、ピレモンは、何かの事業をしながらも、自分の家を解放して、「家の教会」として、「福音伝道」「礼拝」などをしていたということがわかります。また(4-7)を読むと、ピレモンは、とても愛ある働きをされているとパウロは証しています。ここでわかるのは、オネシモは、主人の扱いがひどくて、過酷な労働が嫌になって逃げた…ではなかったようです。むしろ、愛ある、やさしい環境の中なのに…おもしろくなくて、退屈で、もっと刺激を求めて…逃げたしたくなったのではないかと推測されます。〈オネシモ物語では、主人から預かったお金を持って逃げたと…〉何か似たようなお話があったのに気づきませんか?イエス様が話された「放蕩息子」の話です。オネシモが、どういういきさつでパウロと出会ったのかはわかりませんが、逃げてローマに来ていたみたいです。そしてパウロと出会い、主キリストにあって、自分のしたことも告白し、悔い改め、イエスを救い主として信じる者となったのです。(いろいろと辛い目にも会い、また自分のした主人ピレモンへの罪悪感からも救われたかったでしょう)

 

ここに、キリスト教会、クリスチャンにとって大切なことが二つ提示されています。一つは「赦し」です。二つ目は、「あなた方がしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけない」(14)です。赦し、赦され合うことがなくなるとキリスト教会でなくなります。また神様はあなたのこの自発的な、愛、信仰、礼拝、捧げものを喜ばれるということを心に刻んでいてください。

 

2020年11月1日礼拝メッセージです。

 「キリストの奥義が語れますように」   

                              コロサイ4章1-18節 

 

先週、4章1節まで読んで、「なんで、こんな切りの悪い区切り方をしたのだろう」と言いましたが、実は、この後の2-6節で語り勧められているのが、この1節で語られている、教会の中でも中核となっている、社会的位置のある「主人」の立場にある人たちに向けてなのです。社会的にも地位があり、力があるあなた方ですから、「自分たちも天に主人を持つものなのですから、奴隷(立場の弱い人たち)に対して正義と公平を示しなさい」と勧められています。また「たゆみなく祈りなさい」「感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい」と勧められています。また、教会以外での在り方にも触れられています。(5、6)これらは全てのクリスチャンにも言えることですね。「機会を十分に活かし」「知恵をもって行動し」「あなたの言葉がいつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい」…そうすれば、「一人一人にどのように答えたらよいかが分かります」と語られています。どうですか?皆さん、こういう心がけでいますか?イエス様はこう教えられました。ルカ12:11,12「何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」。クリスチャンの皆さん、日々こういうものを体験していますか?これ本当ですよ、是非、体験してください、そうすれば目が輝きますよ。これも3,4節で言われている「奥義」の一つでしょうね。神の知恵であるこの教えの一つ一つを日々実践してみられませんか?そうすれば、あなたも「キリストの奥義」の証人となれます。世の暗闇にたたずんでいる方々は、あなたのそんな証しを待っていますよ。

 

2020年10月25日礼拝メッセージです。

「主によって父なる神に感謝が捧げられるように」 

              コロサイ3章16-4章1節 

 今日の箇所の中心的な真理は、(17)「すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」そしてもう一つ(23節)「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように」…ということではないかと思われます。

 

(16,17)では、キリストの教えを心にとめ、そのことばによって、人生が豊かに潤されるようにしなさいと教えられています。そうです、まず自分が聖書を読み、自分が教えを受け、感動し、それに従ってみて得た恵みを証しすることが出来るようでありたいですね。その証が、それを聞く人々にも同様の恵みをもたらすことが出来るのです。それがキリストにある教え合い、戒め合いになります。

 

(18ー4章1節)ここに夫婦円満の秘訣、家庭円満の秘訣、また職場の人間関係円満の秘訣が教えられています。ここに挙げられているものには、相対する存在がそれぞれにあります。妻と夫。子供と父。従業員と雇い主。そしてキリストの教え(聖書の教え)は、その両者に向けて教えられています。片一方だけその教えを守り、もう片一方は守らないでは成り立たないものなのです。その目指すものは、真の愛〈アガベの愛〉に立つことと言っておきましょう。エロス(性愛)の愛、フィレオ(隣人愛、友愛)の愛、ストルゲー(親子愛)の愛だけでは、夫婦、家庭、職場の人間関係円滑にすることが出来ないでしょう。アガペーの愛(自己犠牲の愛)に立つことによって、私たちも、周りの人も、神様をあがめるようになることができるのです。そうなれたら幸いですね。

 

2020年10月18日礼拝メッセージです。

「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」 

                コロサイ3章3-15節 

 

なぜクリスチャンには、「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」と言われているのでしょうか?それはイエス・キリストを信じた時に、クリスチャンたちはキリストとの契約関係に入ったからです。そして2章でも見たように、キリストの十字架のゆえに、それまで抱えていた不利な、いや、攻め立てている罪の債務証書を無効にされ、十字架に釘づけにされ、葬り去られました(キリストとの契約関係に入ったからです)。だから「あなた方はすでに死んでおり」なのです。そして、今ではキリストのゆえに「神の内に隠されている(かくまわれている、守られている)」のです。だからそんなあなたですから「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」と言われているのです。

 

では、もっと具体的には、(5,8節)「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい」「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉…を捨てる」…クリスチャンになる前までは、私たちみんなが、こういう生き方の中でした。でも、キリストにあって、もうそんな生き方をやめたのです。もう死んだのです。だからもうそんな道に歩まず、天にあるものを思う、求める…ということをしましょう…ということですね。ぜひ(12-15)「深い同情心」「慈愛」「謙遜」「柔和」「寛容」を身に着けなさい。そして「たがいに忍び合い、誰かほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい」「これらすべての上に愛をつけなさい」「キリストの平和があなた方の心を支配するように」これらを求めましょう。

 

2020年10月11日礼拝メッセージです。

「神の御心とするクリスチャンのゆくえ3」 

 

           コロサイ2章16-3章3節 

今日のところは、先週学んだところの続きになりますが、どうやら、「割礼」の他にも、食べ物と飲み物について…祭りや新月、安息日のことについても言われていたようですね。【どれもユダヤ教徒から見たら、大切な事柄と信じているものです】しかしパウロは「これらは、キリストが来るまでの影的存在だった。キリストが来た今は、もうそこまでの意味を持たないものだと」説明します。要するに、クリスチャンの私たちは、すでにすべての儀式の原型であるキリストを受け入れたのですから、私たちはすでにキリストと共に死んで、キリストと共によみがえったものなのだから、この世の幼稚な教え「すがるな、味わうな。触るな…だからしちゃいけないのだ…という感覚」に生きるのではなく、私たちがキリストにあって生きること、つまりその教えの内を歩むことによって、ユダヤ教の方々からとやかく言われることのないように立派に確信をもって信仰をしなさい、ということです。

 

だから、すすめられていることは、(3:2)クリスチャンよ、「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」「肉のほしいままな欲望」に生きるのでなく。そうしたら、いろんな規則や律法があっても、縛られることなく、その中にありながらも自由人のように生きることが出来るのです。主なる神様の御心は、皆さんにこのような感覚の信仰を持ってほしいと願っておられます。

 

2020年10月4日礼拝メッセージです。

「神の御心とするクリスチャンのゆくえ2」                         コロサイ2章1-15節 

 

今日開かれた御言葉から、神様が私たちに何を望んでおられるか、どうなってほしいと思っておられるかを学んでみたいです。

 

1、 神の奥義であるキリストを知るように(2)

 

「心に励ましを受け」「愛によって結び合わされ」「理解をもって豊かな全き確信に達し」「神の奥義であるキリストを真に知るようになる」本来、クリスチャンとか、教会というものは、このように生きているのが神様の御心なのです。私たちもそんなクリスチャンを目指したいものです。また「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」…クリスチャンとは、そのキリストを信じ、持った人のことです。私たちにとってキリストこそ宝と思い、大切に大事にできると幸いですね。

 

2、 キリストを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい(6,7)

 

「キリストにあって歩む」とは、「キリストを信じ、頼り、軸として生きて行き、キリストの教えを実践して生きて行く」ということです。信仰と実生活が一つになれたら幸いですね。

 

3、 キリストにあって、罪赦された者、よみがえった者としての自覚をしっかり持ちなさい

 

クリスチャンとは、過去のすべての罪過ちから来る債務証書を赦され、解放され、取り除けられた者であり、新しくよみがえらせていただいたものだと聖書は教えています。しっかりその自覚、そしてそれにふさわしい確信に立って歩んでいきましょう。

 

2020年9月27日礼拝メッセージです。

 「偶像礼拝を避けなさい」 

 

      Ⅰコリント10章14節、マルコ4章35-41節 

 

ある日の夕方、イエス様と弟子たちが乗った船がガリラヤ湖を航行していると、激しい突風が起こり、船は波をかぶって、水でいっぱいになりました。元漁師だった弟子たちでも危険を感じてしまうほどでした。ところがそんな中イエス様は、船のともの方で、枕をして眠っておられたと記録されています。さあ、あなたはこの状況をどう思いますか?「イエス様が一緒に居るというのにこんなことが起こるとは」と疑問視しますか?またイエス様が一緒におられるのなら、悪いことは決して起こらない…と思っていたのに、なんで守ってくれなかったの?なんで助けてくれないの?弟子の一人がこう叫びました「先生。私たちがおぼれて死んでも、なんとも思われないのですか?」(これって完全にイエス様のこと疑っていますよね)。そんな彼らにイエスは答えます「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」と。何事も問題がなければ、「主よ、信じます。信頼します。」と言えるのに、いざ想定を超えた問題課題が降りかかるなら、「神様はどうして防いでくれなかったの?」「守ってくださらなかったの?」「私たちがおぼれて死んでも、なんとも思われないのですか?」というような思いになってしまう。これは、私たちがイエス様や、神様に抱いている信仰心、イメージを神様に裏切られた。「私はどうしたらいいの?どう考えたらいいの?」という心境になることから生じてくるものです。ここに一つの「偶像礼拝」の危険性があります。「自分の考えるイエス様」ではなく、御言葉で指し示されているイエス様を信仰したいものです。

 

2020年9月20日礼拝メッセージです。

「神の御心とするクリスチャンの行方」 

           コロサイ1章21-29節 

 

聖書は、「あなた方を、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるため…」にあのキリストの十字架があったと言っています。私たちが願っているだけでなく、神様も私たちが聖く、傷なく、非難されるところのない者となって欲しい、またそうなれるための手段もちゃんと整えている、と言ってくださっているのです。またこうも言っています「ただし、あなた方は、しっかりとした土台の上に立って、すでに聞いた福音の望みから外れることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません」と。では、どんな信仰に立ち、どんな信仰に踏みとどまる必要があるのでしょうか。もちろんイエス・キリストを信じる信仰です。でも、ただ、イエス様がいたと信じるとか、イエス様が神様だと信じる信仰だけでは弱いですね、だって、それらなら、悪霊でもそう信じているからです。一つは、「私もかつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は、御子イエスの十字架によって和解させてくださり、御前に立たせていただきました」このような信仰が欲しいですね。また、「私は神の国の奥義を知るようになりました、その奥義とは私たちのただ中におられるキリストです」というような信仰も欲しいですね。そしてまた「すべての人をキリストにある成人として立たせること」それが神の御心です、と言う信仰も欲しいですね。それでこそ、幼さを脱ぎ捨て、「キリストにある成人」「キリストにある成熟した者」になれる道です。さらに成長させていただきましょう。目指せ「キリストにある成人」

 

2020年9月13日礼拝メッセージです。

「御子のご支配の中に移されたクリスチャン」 

            コロサイ1章13-20節 

 今日の箇所には、クリスチャンの立ち位置、御子キリストの立ち位置について説明がなされています。

 

◎クリスチャンの立ち位置(13,14)

 「クリスチャンとは」また「救われた人とは」、ここに言われているように「御子のご支配の中に移して」もらった人ということになりますね。そして、御子のご支配の中を生きている人がクリスチャンだと言えるのです。またクリスチャンとは、イエス・キリストの十字架のゆえに、贖い、罪の赦しをいただいたものであり、今も赦された者として、互いに赦し合っている、忍び合っている。それがクリスチャンの群れなのです。ですから、私たちは日々、御子のご支配の中を生き続けるものでありたいですね。

◎御子キリストの立ち位置(15-20)

御子キリストとはどのようなお方かが語られているこの個所を読むと、御子キリストも創造主、造り主と言うことが出来ますね。まさしく「主」「ぬし」なんです。そして、聖書を読んで「イエス・キリスト」がどんな方かを知り、どんなことを考え、どんなことを欲しておられるかを知ることによって、神様が何を考え、どんなことを欲しておられるかを知ることが出来ることもわかります。そのためにも来られたのです。そして十字架の死にまで至って、神様と私たちの和解の道を開いてくださったんですね、ただただ感謝です。

 「神は実に、その一人子をお与えになったほどに世を愛された、それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためです」ヨハネ3章16節

2020年9月6日礼拝メッセージです。

「クリスチャンの祈りと願いの勘所」  

            コロサイ1章1-14節

 

この書が記されたのは、コロサイの教会に違った教えの脅威が及んでいたからです(ユダヤ教からは、律法に記されているものをちゃんと守らないと神様を喜ばせることは出来ない…。またギリシャの思弁的哲学からも、理屈的、神秘的な考え方が入ってきていました)。それで、その当時コロサイの教会で教え、導いていたエパフラスという人からの「どう導いたらいいか」という相談もあって、この手紙が記されました。今日の個所からですが、ここでは、細かい教えや論理でない、言ってみれば、大まかに、こういう歩み方、こういう祈りと願いをもって生きると良いですよ。という「勘所」的な教えが語られていると言えます。三つの祈り、願い事を示します。

 

1、 「あなた方があらゆる霊的な知恵と理解力によって、神の御心に関する真の知識に満たされますように」(9)神の御心に関する真の知識…もっともっと知りたいですね。そして満たされたいです。

 

2、 「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように」(10)「あらゆる点で主に喜ばれ」るという心持を大切にしたらいいですよ、そうしたら、「主にかなった歩みを」することは簡単になります。「しなければいけない」は苦しい心持です。

 

3、 「神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、光の中にある…父なる神に、喜びをもって感謝を捧げることが出来ますように。」これらの祈りの結果を見るのにも「忍耐と寛容を尽く」す必要があるようです。このような願いをもって祈っていきましょう。

 

2020年8月30日礼拝メッセージです。

 

 

「クリスチャンの実体験する奥義」 ピリピ4章8-23節 

 

あなたは現在の信仰、恵みで十分満足しておられますか?まだもっと上の信仰、恵みを求めておられますか?昔ユダの王様にヨアシュという王がいました。預言者エリシャが死の病を患っていると聞き、お見舞いに来たことがありました。その時、「弓と矢を取りなさい」とエリシャはいい、窓の外から地面に向けて撃ちなさい、その回数分アラムを打ち倒すことが出来ると言いました。するとヨアシュは、3回ほど打ちましたが、それで止めてしまいました。するとエリシャは怒って、「あなたは5,6回打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを絶ち滅ぼしたことだろう」と…確かに、欲深さはクリスチャンにはふさわしくありませんが、霊的な恵み、祝福に関してまでそうであってはいけませんね。そこで、このピリピ4章後半で言われている4つの奥義というか真理をぜひ皆さんに体験していただきたいのです。ぜひ求めてみてください。

 

1、 聖書から学び、受け、聞き、また見たことを実行し、平和の神が共いてくださることを実体験する(9)

 

2、 どんな境遇にあっても満ち足りることを体験する

 

3、 自分を強くしてくださる方によって、どんなことでもできること

 

4、 キリストにあるご自身の栄光の富をもって、必要をすべて満たしてくださること

 

ぜひ求めてみてください。そして体験してみてください。そうしたら、あなた自身の内から「勝利」「確信」「満足感」を伴う信仰が沸き上がってきますよ。

 

2020年8月23日礼拝メッセージです。

「心と思いがキリストにあって守られるための秘訣」  

                                        ピリピ4章1-7節

 

 ここまで見てきたピリピの教会にも一つ悩みというか問題がありました。それは、教会の中でも中核となる立場の「ユウオデヤとスントケ」という二人の女性が不仲というか、対立していたようです。二人とも、パウロから見たら、福音のために共に戦い、協力してくださった重要な人達でした。それが何らかの理由で、一致出来てなかったのです。それでそれらを越えて、主にあって(キリストにあって)一致して歩む必要があると、パウロはローマの牢獄から切に願っているのです。 そして4-7節で、こういう問題に関しても、またそうでない人たちにも、クリスチャンにとって大切な秘訣…「心と思いがキリストにあって守られるための秘訣」について語られています。ぜひ、みなさん、これを習得していただきたいです。

 

1、 いつも主あって喜びなさい

 

苦しい時こそ、気持ちを切り替えて、「喜び」「笑う」ことがそれを乗り越えさせる力となる…ということです。

 

2、 あなた方の寛容な心を、全ての人に知らせなさい

 

3、 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって捧げる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい

 

「何も思い煩わないで」…心配事がなくなることはこの地上ではありえません。ただ、心配しすぎることがないように…ということです。

 

そうたら、約束です…

 

「そうすれば、人の全ての考えにまさる神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」…信じましょう。

 

2020年8月16日礼拝メッセージです。

   「お盆に死者は戻ってくるのでしようか?」 

                  ルカ16章19-31節

 辞書で「お盆」とは、「日本で夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。」とありました。今日の箇所では、死んだ人のその後の運命、果たしてお盆休暇で現世に霊となって戻ってこられるか?そして生きている私達に死後の世界、運命について教えてくれたりすることが出来るのか?などがキリストによって語られています。今日はそこから学んでみたいと思います。まず、二人の相対する人のことが紹介されています。一人は、ある金持ちの人、いつも好きな服を着ることが出来て、おいしいものを食べて、毎日贅沢に遊び暮らしていた(多くの人が思い描き、理想とする生活をかなえた人とも言えるでしょう)。もう一人は、全身皮膚病でかゆみ、痛みに苦しみ、悩まされて、生活も困窮し、貧乏な状態にある人(多くの人がこんな風にはなりたくないという人生を、自分の意志に関係なく、歩ませられた人)です。ここでキリストは大切な真理を教えてくださいました。

 

1、この世でどんな人生を歩んだか、どんなに頑張ったか、どんなに苦しんだかに関係なく、皆、死を迎える(この地上での人生を終える)

 

 2、死後の世界がある、ということです。しかも、意識もそのままあるようです。そして、私たちは、死後にその世界で目覚めるようです。

 

 3、そこでは、私たちの意志に関係なく、生前の生き方とかで、行く場所が振り分けられるようです。(黙示録20章12,13節)(箴言24章12節)

 

4、死後の世界がどのようなところか?正しい生き方をしなさいというメッセージを告げるために、死者が遣わされるかというと、それは許されてないということです。

 

死後の世界をも正しく認識し、それを踏まえて今を大切に生きましょう。そうすれば、悔いのない人生を送れます。

 

2020年8月9日礼拝メッセージです。

「私たちの国籍は天にあります」     

         ピリピ3章17-21節

 今日の箇所の冒頭に「兄弟たち。私を見ならう者になってください」とかなり大胆なことが語られています。しかし、後の文章を読むと、これが決して傲慢や高ぶった思いから語られた言葉でないことがわかります。18節「私はしばしばあなた方に言って来たし、今も涙をもって言うのですが…」「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」これは一大事です。さて、それは一体どういうことなのでしょうか?またそうならないためにはどういうことに気を付けたらいいでしょうか?ひとつは、あなたも「私を見ならう者になってください」と言える者となってください。 そう言えるイコールあなたや私も恵みの内に歩めているというわけですから…言えないイコールやましいところがあるということになります。そこにもキリストの十字架の敵としての道があります。そこは祈って、悔い改めて、正して立ち返る必要のある部分ですね。

 

二つ目は、多くの人がそうであるように「キリストの十字架の敵として」歩むことがないように気を付けましょう。

 

三つ目は、欲望を神とすることを警戒し、多くの滅びゆく人たちのような「思いは地上のことだけ」になることがないように気を付けましょう。聖書は教えています。20節「私たちの国籍は天にあります」と。クリスチャンは天国人、今の人生、生涯は、一時のもので、いつかは、天に帰る、神様のもとに帰る…「死」は、そのきっかけの一つ、天国への入り口。という概念が持てるようになりました。だから、生きている今は、精いっぱい神様に喜ばれることをして、大切に生きて行こうではありませんか。

 

2020年8月2日礼拝メッセージです。

  「主にあって喜ぶキリストにある成人」 

            ピリピ3章1-16節

 15節に、「成人〈大人〉〈完全〉である者はみな、このような考え方をしましょう」と言われています。果たしてそれはどのような考え方を言っているのでしょう。それを見る前に、この言葉の続きには、「もし、あなた方がどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなた方に明らかにしてくださいます」と言われています。もし現在、信仰に倦怠感を感じておられるとか、喜べとよく聖書に記されているけど、何を喜んだらいいの?どうやって喜んだらいいの?自分には無理だ。と思われている方、それこそ、神が、あなたに間違った考え方を明らかにしてくださっているということではないでしょうか?そういう方は特に必見です。

 

一つは、「主にあって喜ぶ」ということが煩わしいものではなく、安全のためにも必要であるということ。二つ目は、「神の御霊によって礼拝し、キリストを誇り、人間的なものを頼みにしない生き方」の大切さ。三つ目は、安住せず、求め続ける信仰の大切さです。使徒パウロでも、「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」と、いまだに追い求めている姿勢を示しています。自転車もこぐのをやめると止まり、バランスが取れなくなり、転びますよ。「私はすでに得たものでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追及しているのです。」(12)また「私は、自分はすでに捕らえられたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」…私たちもこのような考え方の中を歩ませていただきたいものです。

 

2020年7月26日礼拝メッセージです。

「私たちの考え、求めるものは何?」  

                ピリピ2章19-30節

 

21節にパウロの本音というか、つぶやきの言葉とでもいうような一節が記されています。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」これは、その当時のことだけではなく、現在も同じだと思います。ですから、皆さんが人々に証ししようとしても、なかなか受け取ってもらえないというか、話ししようとしても、通じないような虚しい思いになったりするのです。また、これはクリスチャンと言われている人たちの中にも見られるものかもしれません。イエス様は教えられました「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」と。いかがでしょうか?私たちの祈り、求め、考え「思考」は何を求めているでしょうか?何を大切と思っているでしょうか?

 

 先日読んだものに、「自分が意識を向けるものに、自分はなる」と書かれてありました。だから、人生のネガティブなことだけに意識を向ければ、私たちはネガティブな人になります。会話を含めた人生全てがネガティブになるのです。喜びは失われ、惨めな人生を歩むようになるでしょう。それはすべて私たちの「考え」から始まるからです…と。

 

  そういうことから、私たちが何を考え、何を求めているか?を計ってみてください…そういう面からも、紹介されている(証しされている)テモテとエパフロデトのことを見てみると、やりは一生懸命にキリストのこと、教会と兄弟姉妹のことを思う人だったようですね。私たちもそういう者とならせていただきましょう。

 

2020年7月19日礼拝メッセージです。

   「神の御心にかなう生き方3つ」     

             ピリピ2章1-18節

 

「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(15,16)…この御言葉、どうですか?これが神様の御心なのです。このような者になれたらどんなに素晴らしいことでしょう。今日の箇所にはそうなれるための三つの秘訣が教えられています。

 

1、 一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志しを一つとしなさい。(2) イエス様は、「平和をつくる者は幸いです」と教えられました。これも同じです、派閥を作り、党派心をあおるのでなく、教会でも、家庭でも、職場でも平和、一致をつくる者となっていきませんか?

 

2、 キリストを見習って、へりくだり、謙遜に生き、他の人のことも顧みるようにしなさい。(3-11) 私たちの主イエス様ご自身、神の在り方を捨てて、私たちと同じような人間となり、天から下って来て下さり、へりくだりと謙遜の模範を示してくださいました。水戸黄門は、紋所をもって見事な裁きをしてくださいましたが、イエス様は、それをされず、むしろ、民の身代わりとなって、罪の贖いの罰を受けてくださったのでした。こんなへりくだった方は他にいません。

 

3、 キリストを見習って、従順に生き、つぶやかず、疑わずに行いなさい。(6-14)

 

このような者となれるよう祈り、求めていきましょう。

 

2020年7月12日礼拝メッセージです。

      「主にある奥義」  

          ピリピ1章12-30節

 

この個所で、使徒パウロは、普通、人が考えることもできないような「主にある奥義」というものを教えてくれています。

 

まず一つは、(12)「私の身に起こったこと(投獄と牢獄生活)が、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたい」と言っています。普通、人はこのように考えることは出来ないでしょう。そのようなことが起これば、もうこれで終わりと考えることでしょう、しかしこれがきっかけで、日頃会うこともできない、兵隊さんたちや、裁判官の人たちに出会うことが出来たとみたのです。ここに信仰による見方というものがあります。そうみると、不幸とか、もうこれで終わり、とは見られなくなりますね。

 

二つ目は、(20)「どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストが崇められることです」と、パウロの決心というか、願い、希望が語られています。多くの人は、死にたくない、とにかく生きていたい…と考えるものですが、キリストにつながる彼(クリスチャン)は死ぬことがあまり怖くないかのように証しています。むしろそうやってキリストと共にいる方がいいとも言っています。キリストにつながる者には、生きている意味も、死んだ後の未来も解決済みなんですね。

 

三つ目は、(29)「あなた方は、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです」深いですね、ここに奥義があります。心に留めておきましょう。

 

2020年7月5日礼拝メッセージです。

       「主にある希望と願い」  

               ピリピ1章1-11節

 

主にあってパウロが記している4つの希望、願いを紹介します。

 

1、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は固く信じているのです」

 

私たちが救われたときから、どのような良い働きを始められたのでしょうか?(主なる神を意識し始めました。主の花嫁となる資格を得た。罪の縄目から、解放してくださった(救い))

 

2、「あなた方の愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなた方が真にすぐれたものを見分けることが出来るようになりますように」  つまり、私たちの愛も、知識も、豊かに成長できるものなのです。

 

3、「あなた方が、キリストの日には純真で非難されるところがなく…」 これってクリスチャンに向けて語られているのです。神様は私たちを愛してくださっています、救ってくださっています。だからと言って気を抜いて、非難されないように気をつけましょう。

 

4、「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄と誉れが現わされますように」

 「義の実」って具体的にどういうものでしょうかね。他の箇所には「御霊の実」というものが紹介されています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」…それに「義」「正しさ」が加わったものと考えたらいいです。そういうものに「あなたが」「わたしが」満たされることが大切なんですね。

2020年6月28日礼拝メッセージです。

        「初心に立ち返れ」 

              エレミヤ31章31-34節

 

私たちは信仰がリバイバルされるのに、何が必要なのでしょうか?もっと何かすごい体験、恵みが必要なのでしょうか?

 

もし、クリスチャンでありながらも「救いの確信?」というと首を傾げ、「喜んでいるか?」と言われると、首を横に振り、「感謝していますか?」と言われると、「何に感謝したらいいのか?」と言い返す。また「主なる神様のことがわかりますか?」と尋ねられると、「よくわからない…」。もしこのようであるなら、必見です。「どうして主を知る」のでしょうか?それは、「神様が私たちの咎を赦し、以前の罪を二度と思い出さない」ようにしてくださったからだと記されています。つまり、これは救いの体験なのです。それらを体験したことのゆえに、はっきりと神様のことがわかる…ということなのです。(神様のことがわかるか、分からないかは、理屈じゃなく、体験的、実感的なものだというわけです。)イエス・キリストのこと、救われたことの恵みを数えてみてください。そうしたら、そこから、喜びが来ます。感謝が生まれます。またそれらがわかると、神様のことが理屈でなく、はっきりわかるようになりますよ。もっと救われたことの恵みを大切に、反芻するようにしましょう。

 

もう一つ、私たちクリスチャンは、「信仰」によって歩むことを心に刻んでおきましょう。「感情」で歩むと、神様を見失う危険性がありますよ。だって、「そう感じるか、感じないか」と言われたら、感じられないことが度々あります。でもそれは神様がおられないのではなく、見えて、感じられてないだけであって、神様はちゃんとおられるのです。

 

2020年6月21日礼拝メッセージです。

        「がんばれお父さんたち」  

                エペソ6章4節

 

父の日も母の日と同じように、教会から始まった記念日です(1909年から)。お父さんに語られている聖書の教えの代表的なものが、先週開きました、(エペソ6章4節)「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」でした。こうできたらいいのですが、なかなかできないというのがお父さんたちの本音でしょうか?お父さん大変ですね、家庭の問題、職場の問題。

 

さあ、お父さんたち、どうしたらいいでしょう。二つのことを大切にしてみてください。①神の御前にへりくだり、主なる神に信頼しなさい。(人にへつらい、人に頼るよりずっと安全ですよ)②聖書の教えの内にあなたの人生を構築してください。(聖書は教えています、妻を自分自身のように愛しなさい、大切にしてごらん)。実はこの二つを再構築したら、あとは全部丸く収まってきますよ〈子供のことも、職場でのこともです〉。職場のことについては、エペソ6章6,7節「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」。これをそのままやってみてください(人にへつらい、人に気に入られようとしてではなく、神の御前に、神に喜ばれるように聞いてごらんなさい、祝福されますよ)

 

さあ、がんばれ、お父さん。奥さんたち、子供たちもお父さんを応援し、祈るようにしてください。そうすれば、天の神様に喜ばれます。

 

2020年6月14日礼拝メッセージです。

                「クリスチャンの戦い、戦い方」  

                                              エペソ6章10-24節

 

「クリスチャンにも戦いがある」…というと、どういう戦いをイメージされるでしょうか?偶像礼拝、異教徒との戦い??また、同じキリスト教と言われるのに、違うという、カトリックとプロテスタントとの戦い??もし、そういうイメージがあったら、リセットしてください。ここで語られているのは、そういう戦い、戦い方ではありません。どちらが正統派か?と剣や銃を向けること自体が正統派でないのです。何故なら、イエス・キリストはそんなことを教えていないからです。「悪魔の策略」って、そういう「嘘」「見かけだけ」のものを見分けること、そういう「罠」にかからない、抜け出す、払いのけるというのが「クリスチャンの戦い」というものの本質なのです。ですから、その戦いのために身につけなさいと言われている「神の武具」というものを見てみてください、それらは防御ばかりで、人と戦うためのものは何一つないのです。唯一の武器と言われている「御言葉の剣」も、それは人に罪を示し、救いの手を差し伸べるものであって、人を傷つけ、殺すものではないのです。また「クリスチャンの戦い、戦い方」ということで、とても大切なことがあります。それは、「神の御心(神の本意)を知る」ということです。これがわからない人は簡単に騙されてしまいます。私はよく皆さんに、聖書を読むことをお勧めしています。それを読んでいたら、神様の思い、本意(こんな時どういわれるか…)がわかってくるようになります。「主にあって、その大能の力によって強められ」悪魔の放つ火矢を防ぎ、祈りと願い…そして忍耐の限りを尽くし戦う…それがクリスチャンの戦いです。

 

2020年6月7日礼拝メッセージです。

   「幸いな家庭、職場づくりの秘訣」  

        エペソ6章1-9節  カラテヤ5章22,23

 

このテーマでの教えは、実際のところ5章22節から始まっていました。まず語られているのが「夫婦円満の秘訣」について教えられています。そして次に、「子供たちへの教え」。そして「父たちへの教え」「奴隷(従業員)の立場にある人たちへの教え」そして「主人(雇い主)の立場にある人たちへの教え」と続いているのです。

 

ただ、これらの全ての教え、諭し、秘訣というものには、根底となる精神があります。それが5章21節に語られている「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい(互いに仕え合いなさい)」という精神(スピリット)なのです。つまりよく言われる「主にあって…をする」というものです。ですから、全ての幸いな家庭、職場づくりの秘訣は、まずキリストを恐れ尊び、互いに仕え合うスピリットから始まり、そして幸いな家庭、職場づくりの中でも、第一に大事なのが、なぜか夫婦円満ということですね。子育ての問題、職場での問題…でもその前に夫婦円満が大切であり、それが子育て、職場での精神状態の土台となるということも言えるでしょう。妻には、夫に従うこと、夫には妻を自分自身のように愛すること、子供には両親に従い、敬うことが教えられ、お父さんたちには、子供を(言動の矛盾などによって)怒らせないこと、尊敬される背中を見せる生き方によって育てなさいと、ここからお勧めしました。そして従業員の立場にある人たちは「主に仕えるように…」をモットーにし、雇い主の立場の人も、同じ気持ちで従業員に接することですね。

2020年5月31日礼拝メッセージです。

  「御霊に満たされなさい」 

           エペソ5章15-20節

 

「ペンテコステ」とは、イエス・キリストがかねがね語っておられた聖霊「御霊」が約束通りに下られた記念の日のことです。ヨハネ14:16-17,26,16:7.8.13-14などを読みますと、そのお方が来られると、まるでイエス様がいた時のように、その方が教え、導き、支えてくださる、というのがわかります。また「使徒1:8」を読むと、その方が臨むと、力を受けるとも約束されています。現在クリスチャンである方も、まだ今考えておられる方も、この聖霊に満たされる必要があります。まだクリスチャン信仰を持たれておられない方は、まずイエス・キリストを救い主として信じ受け入れることから始めてください。そうすれば聖霊を受けるでしょう。現在クリスチャンでる方は、信仰に入ったときに聖霊をいただいたはずです。しかし、頂いたのと、現在満たされているとでは別次元の問題です。 今日の箇所には、聖霊に満たされることと酒に酔うこととが比較して語られています。人は何のために酒に酔うことを好むのでしょうか?「いい気分になるため?」「楽しい雰囲気になるから?」「気分が変えられるから?」「我を忘れられるから?」それ全部「聖霊に満たされる」ことの中にありますよ。私も、疲れた時、苦しい時、やるせない時、時には人に会いたくない時もあります。しかし神様を賛美し、礼拝をするとき、不思議と帰りには、新しい力をいただいくことが毎週です。聖霊の満たしには、二日酔いや、健康を害することもありません。皆さんもこの聖霊に満たされ、力をいただいてください。聖霊に満たされ、それを保つために三つの秘訣があります。

 

Ⅰテサロニケ5:16-18です。「いつも喜ぶ」「絶えず祈る」「すべてのことについて感謝する」です。これらは、信仰によってなされるものです。感情、感覚で生きているならできない事柄です。実践してみてください。そして満たされてください。

 

2020年5月24日礼拝メッセージです。

「賢い人のように歩みなさい」   

                      エペソ5章1-16節

 

15-17節を通して、クリスチャンとしての歩み方、「主の御心は何か」を考える生き方は「賢い人の歩み方」なんだと二週にわたってお取次ぎしました。これは本当のことです。聖書には、何千年という歳月にわたる人の生き方とその結果、そして神の教えが記されています。それらを学び、それらから悟り学びを取り入れた生き方をするなら、多くの愚かな言動や失敗から守られることが出来ますよ。一度しかない人生です。大切に、そして幸いに生きなさいと神様もおっしゃっています。それらのことを心に留めつつ、

 

10節では、「酒に酔ってはいけませんそこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」と教えられています。これを通し、酒を飲むのがいけないのか、飲んでもいいのか…との議論がとかくクローズアッフされていますが、ここで心に留めていただきたいのは、その後の「御霊に満たされなさい」です。御霊に満たされることは、酒の酔いに勝る酔い、気分転換、うっぷん晴らし、活力を得ることが出来るのです。しかも二日酔いの辛さはありません。

 

また22-33節では、結婚式で必ず語られる神に祝福される夫婦の教えが記されています。では、どっちが先にこの教えを実践したらいいのでしょうか?妻が夫に従うのが先?それとも夫が妻を自分自身のように愛するのが先?これは、(20,21)に教えられている根底となる教えから言えば、「とにかく、自分から先にそうしなさい」です。キリストを恐れ尊んで、互いに(仕え合いなさい)・・・・これが聖書の教えです。こう生きるなら、賢く生きられますよ。

 

三つのことを心に留めていてください。主の御心は何かをよく悟りなさい。御霊に満たされなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従い(仕え合い)なさい。 日々の生活に活かしてみてください。

 

2020年5月17日礼拝メッセージです。

「クリスチャンらしくあること」                          エペソ5章1-16節

 

2週間の間が空きましたが、再びエペソ書に戻ります。以前学んでいたのは、3章17-19…これがクリスチャンの目指すもの。そして4章から、そのためにどんなことが必要か、についてお語りしてきました。

 

 さて、今日の箇所には「…らしく」とか「…にふさわしく」という表現が3回出てきます。4章では、「召されたあなた方は、その召しにふさわしく…」でした。一つは、「愛されている子どもらしく」(1)です。これは主なる神に愛されている子供らしくという意味です。だからみんなですね。ただその意識を持っている人といない人とでは、感じ方に違いが出てくるでしょう。「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」「愛の内に歩みなさい」と勧められています。二つ目は、「聖徒にふさわしく」(3)不品行も、どんな汚れもまたむさぼりも口にすることさえいけませんよ、と勧められています。そういう生き方が「偶像礼拝者」とも聖書は教えています。三つ目は、「光の子どもらしく歩みなさい」(8)です。クリスチャンのあなた、以前は暗闇でしたが、今は主によって光の子となったのですから…主に喜ばれることは何かを見分けなさい…実を結ばない暗闇の業の仲間入りしないことだよ、…と勧められています。私たちはどうでしょうか?

 

 題に上げた「クリスチャンらしさ」とはこの三つのことと言っていいでしょう。そして、「クリスチャンらしさ」とは、それらを目指して、求めて、歩んでいる中に存在するものです。「自転車」と同じです。こいでいるなら、バランスもとれてゆっくりでも進みます。快適です。でも、こぐのをやめると、だんだんと速度は落ち、ついにはバランスを保つこともできなくなり、転んでしまいます。だから、達成しているかどうかよりも、目指し続けましょう。

 

2020年5月10日礼拝メッセージです。

 

                   「イエスの母マリヤ」 

                             ルカ2章11-20節

 

イエス様ってどんな子供だっただろう。多くの方は、勝手に「いい子」「親孝行な子」「問題のない子」と決めつけているのではないでしょうか?でも、よく聖書の記述を見ると、そうとも言えなかった可能性があります。確かに相対的に見て「イエスはますます知恵が進み、背丈も大きくなり、神と人とに愛された」とありますから、そういう子供だったはずです。しかし、「時に、良く変わったことをいう子」、「突拍子もないことをする子」だったようです。12歳の時の宮詣の時も、一人宮に残って、人々と話をしていたり、心配しているマリヤに「わたしが父の家にいることをどうして知らなかったのですか」といったり、カナの婚礼の時、「ぶどう酒がありません」というマリヤに「あなたと私に何の関係があるのでしょう」などと言ったり、メシヤとして活動され出した時、心配して駆けつけた兄弟や、母を前にして「わたしの兄弟、母とは誰でしょう、神を敬う方々がそうなのではないでしょうか」などと、時に、無視、いろいろとハラハラ、ドキドキの子育てだった可能性があるのです。

 

そんなイエスをマリヤはどう育てたのでしょうか?一つは、「信じて(神様を信じて)、子育てをしていた」、彼については誕生前から、いろんなことがありましたから、とにかくいろんなことが起こるたびにそれらのことを心と留め、思いめぐらすということをしたのです。二つ目は、「期待していた」神様は決して私を裏切らない、見捨てない…と。必ずこの子は神の栄光を現わすと…そして三つ目は、「すべて心に収める」「思いを巡らせる」ということをした。

 

すぐに決めつけたり、批判したり、自分の思うように導いたり…ではなかったようですね。神様からの預かり者として、敬意を払いつつ、育てたようです。イエス様が最後にしたことが、母マリヤへのいたわり(親孝行)でした。

 

2020年5月3日礼拝メッセージです。

   「主に用いられた少年」      

           ヨハネ6章5-14節

5千人の給食の記事はすべての福音書に記されています。ただ、ヨハネだけが、その奇跡のもととなったパンと魚の出どころを記しています。それは少年が持っていたお弁当だったのです。どういういきさつでこの奇跡はなされたのでしょうか?イエス様がこの群衆にあなた方で食べさせなさいと言われたことが発端でした。「ええ?そんなの無理」というのが弟子たちみんなの考えで、うろたえていました。聖書には記されていませんが、そこに、少年が「僕持ってるよ」と自分のお弁当を差し出したので、アンデレがあるのはこれだけですと、とても無理だと言いたげにそのことを告げると、イエス様は、みんなに座るように命じ、祈り、パンを裂き、渡し始められたのです。弟子たちには、「これくらいしかない」「こんなもので何ができる」という見方でしたが、イエス様には「これがある」という見方だったのですね。どうやら、ここでイエス様の信仰によるチャレンジに信仰をもって答えたのは、この少年だけだったみたいですね。小さなお友達、あなたもこの少年のように、イエス様について行ってください。そして自分でもできることがあったら、「僕できるよ」「私お手伝いしたい」と参加するようにして見てください。神様の祝福がありますよ。大人の方々にもお話しします。いろんなことを学び、いろんなことを体験し、知恵がつき、知識が増すとともに、この子供らしさを失っていませんか?イエス様の言われた「幼子のようでありなさい」との言葉を思い起こしましょう。対人に関しては、大人の考えで接する必要がありますが、神様に対しては幼子の心を忘れないようにしましょう。

 

2020年4月26日礼拝メッセージです。

「クリスチャンが目指すもの2」

                               エペソ4章17-32節

 

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」3章17-19節

 

 これこそ、「クリスチャンの目指すもの」と言えるでしょう。そのために気を付け、また目指すものがあります。後半の部分から見てみたいと思います。

 

1、 もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。(17)

 

これを違う言葉で表現するなら、「救われる以前の生き方に戻ってはいけない」。「信仰を持っていなかった時のような虚しい生き方をしてはいけない」ということです。

 

2、 「ほんとうに…キリストに聞き、キリストにあって教えられる」ということを目指しましょう。(21)

 

3、 「以前の生活についていうならば、…古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなた方の心の霊において新しくされ…神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」これを目指しましょう。

 

※(26-32)には、具体的な事柄が記されてあります。ぜひ何度も読み、心に刻み、これらのことに気を付けて歩みましょう。

 

2020年4月19日礼拝メッセージです。

           「クリスチャンが目指すもの1」   

                                    エペソ4章1-16節

 

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」3章17-19節

 

 これこそ、「クリスチャンの目指すもの」と言えるでしょう。そのために目指すものがあります。それが今日の箇所にあります。

 

1、 召されたあなた方は、その召しにふさわしく歩む(1)

 

「クリスチャンらしい」というニアンスは負担ですか?でも、必要なものではないでしょうか?

 

2、 「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに愛をもって忍び合い、平和の絆で結ばれて、御霊の一致を熱心に保」つということ(2,3)

 

3、 「私たちがみな信仰の一致と神のみ子に関する知識との一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」

 

マタイ10章24,25「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。」これらを目指しましょう。前進しましょう。

 

2020年4月12日礼拝メッセージです。

   「死を打ち破り復活された神の子イエス」

               マタイ28章1-10節

 

御子イエスは十字架にかかられ死なれましたが、その三日目に、言われていたようによみがえられました。ですから、イースター(キリストの復活祭)は、人類の最大の敵であり、罪の結果である死に勝利した喜びの日なのです。

 

 現在、現実として、全ての人の前に「死」という最後の関門が待っています。これは誰も逃れることのできない事柄です。聖書は、3種類の「死」を語っています。一つは、肉体の死です。二つ目は、霊の死です。これは端的に言うと、神様から離れている状態です。神との霊の交わりがないので、神からの霊の命が流れてこない状態のことです。ほとんどの方々がこの死の中にあります。「生きる屍」とは、このようなことを言うのです。第三は、永遠の死です。第二の「霊の死」から救われ、回復を見ないままで、この人生を終えた方々は、チャンスを逃したということで、自動的にこの死に至ることになります。

 

 ところが、キリストのよみがえりは、それらの三つの死に解決をもたらしてくださったのです。肉体の死に対する勝利は、イエスを信じていただく罪の赦し、永遠の命ですから、この肉体の死に対して恐れではなく、むしろ、それを天の御国への入り口と考えられるようになり、この肉の体を脱ぎ捨て、霊の体をいただく時と確信できるようになることです。霊の死に対する勝利も、永遠の死に対する勝利もこのことのゆえにいただけるものなのです。

 

2020年4月5日礼拝メッセージです。

  「神の心、人知らず」       

        ルカ19章28-44節

 

今日は、キリスト受難週に入る日です。つまり、今日、キリストがロバの子に乗って、エルサレムに入場された記念の日ということです。この記念の日にちは、イースターから逆算しています。イースター(キリストの復活日)は、満月の次の日曜と定められています(それで毎年変わるのです)。

 

今朝見た御言葉は、イエス様がエルサレムに入場される時の箇所ですが、ここにルカの福音書にだけ記録されている事柄があります。それは(41)イエス様が都を見られ「泣かれた」ということです。なぜ、泣かれたのでしょう。それはその後を見ればわかります。ここはエルサレムを擬人化して言っているのですが、その民たちが「平和のことを知らない」「自分たちのことがわかってない」「これから起こる悲劇を知らない」「神の訪れの時を知らない」からと言われています。

 

それでこのキリスト受難を覚える一週間に、心を留めていただきたい事柄が2つあります。一つは、「先に起こることがわかっていながら、それに向かっていくことの難しさ」。イエス様には、これから先に起こることの全てがわかっていました。しかし、そのすべてを忍んで、耐えて、受け入れて歩み通されたのです。逃げなかった。

 

二つ目は、「分かっていない人を前にして、それを忍ぶことも辛い」。 ホサナと喜んでいる人たちも、苦虫をつぶしたような顔の宗教者たちも、12弟子でさえも、この後のことを知らなかった。ただ、イエス様は、すべてを飲み込んで、耐え通されたのです。

 

2020年3月31日礼拝メッセージです。

「パウロの切なる願い」       

          エペソ3章13-21節

 

今一緒に学んでいる書簡集は、「獄中書簡」と言って、パウロが牢獄の中から、各教会、クリスチャンたち一人一人を覚えつつ、したためた手紙となっています。それで(13)「ですから、私があなた方のために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。」というような言葉が入っているのです。

 

どんなことをパウロは神様に祈っていたのでしょうか?一つは、「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなた方の内なる人を強くしてくださいますように」です。そして次は、「キリストがあなた方の信仰によって、あなた方の心の内に住んでいてくださいますように」。ということです。そしてさらに、「愛に根ざし、愛に基礎をおいているあなた方が、全ての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようにな」ることでした。そうですね、私たちは弱く、罪深いものでしたが、神様はありのままの状態で受け入れてくださいました。だからと言ってそのままではもったいないですね。もっとその愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになることを神様は望んでおられるのです。さらにこうも祈られています。「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなた方が満たされますように」。目指しましょう…「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、私も満たされますように」と。そして求めましょう。

 

2020年3月22日礼拝メッセージです。

「不遜なものにならず、悟ろうとする者でありなさい」

 

       黙示録16章8-11節、Ⅰコリント2章14節

 

この黙示録の箇所に記されている事柄は、終わりの時代に起こるといわれる、艱難時代のことだといわれています。これがいつ起こるのかということは、多くの方々の関心あることだと思われますが、何時だとは言えないにしても、ここに記されているような特徴が人々のうちに見られるようになったら、その時期の近いことがわかるようになります。そういう視点からこの個所を見ると、神様が、ここまで打ったら、自分の罪を悔い改め、「神様助けてください、お赦し下さい」と、へりくだってくるかと思えば、そうすることもなく、むしろ、「これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった」。それで主なる神は次の災難をもたらしたが、それでも「自分の行いを悔い改めることせず、神に対して汚しごとを言う」・・・こうなると、神様も、もう堪忍袋の緒が切れてしまうのではないでしょうかね。それか最後の裁きの引き金となると思われます。ここで、二つのことを心に留めておいてください。

 

ひとつは、「終わりの時代、人々は、神様に対して、不遜な者となっていきます」。もう一つは、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません」(Ⅰコリント12:14)もう一つの言い方をすると、「まだ救われていない人間は…」ということになります。イエス様を信じて新しい命、聖霊をいただくまでは、神様のことはわからないのです。それは「ばかばかしいこと」「愚かなこと」「時代遅れもいいとこ」のようにしか思われないのです。今の時代、私たちは不遜な者にならず、悟ろうとする者となりましょう。

 

2020年3月15日礼拝メッセージです。

   「心の中にあるものが表に出る。だから…」 

               マタイ26章47-75

 

イスカリオテ・ユダの裏切りから、すべての流れは一変しました。その後いろんな人々の心模様を一緒に見てみました。

 

イスカリオテ・ユダ

もしかして彼は、「裏切ろう」と思ってやってなかったのではないかと思われる節があります。ただ単に、みんなの前で恥をかかされたから、腹が立ったから、ちょっといたずらをしてやろう、困らせてやりたい。どうせ彼はいつものようにやっつけるだろうから、なんせ彼はキリストですから・・・と。ところが予想外のことが起こったから、焦った彼は、大祭司のもとに。しかし、ここでやっと事の重大さに気づき、とっさに自殺をしてしまったのではないだろうか・… (あれほどイエス様が話しておられたのに、心の中に入ってなかったのですね)

 ペテロ

 彼も、ここに来るまで、自分の心の中にある、弱さ、もろさ、過信、(キリストに対する熱い愛もあった)に気づいてなかったみたいです。 

 祭司たち、パリサイ人たち

 彼らは、自分たちは、神に熱心な者、神に愛されている、正しい道を歩む者という認識があったようですが、本当のところ、神に喜ばれない、憎しみ、ねたみ、嫉妬、怒り、殺意が心の奥底に沸き立っていた。 

イエス・キリスト

 ここに見るイエス様の心の中には、「平安」「委ねる」「最後までやりきる」というものが見られます。※さて、私たちの内には何があるでしょうかね。それが「いざ」という時出るのです。

 

2020年3月8日礼拝メッセージです。

     「とりなしの祈り」   

    エレミヤ15章1節、エゼキエル14章12-20節

 

聖書のこの個所を読むとき、神様が怒っておられるのを感じることができます。聖書の中に義人として描かれている、モーセとか、サムエル、ノアやダニエル、ヨブなどがそこにいても…執り成したとしても、彼らが救えるのは、自分たちの命だけだ。もうわたしは、この民たちを赦さない、と言っておられますね。もうこれ以上許しておくわけにはいかない…という感じですね。世の終わりは、このようにしてくると覚えていてください。

 

 先週は、新型コロナウィルスの流行を通して、これらも最後の時代の前兆に記されてあったこと、私たちは、いつ主の日が来てもいいように、日頃から心の準備をして待っているものでいましょう、とお勧めしました。また、もし、モーセやサムエル、ノアやダニエル、ヨブなどが今の時代にいるとしたら、何をすると思いますか?やはり執り成しの祈りです。神様には、「お怒りの気持ちはわかりますが、そこはなんとか、もうしばらくお待ちください。赦してやってください」…と願い。人々に対しては、「いい加減にしなさいよ。神様は怒っておられますよ。悔い改めなさい、ヘリくださって赦しを願いなさい、あなた方がへりくだるならもしかすると主は怒りを鎮められるかもしれない」…と執り成しの祈りを捧げつつ、人々に語るのではないでしょうか?そうであるなら、それを私たちもさせていただきましょう。神様が彼らを愛されたように、そのようにしているあなたを主は格別愛してくださいますよ。

 

2020年3月1日礼拝メッセージです。

「新型コロナウイルスの広がりをどう理解するべきですか」

 

           ルカ21章5-36節(10,11) 

 

Q:新型コロナウイルスが世界に広がっています。本当に恐ろしい時代です。この問題は、聖書的にはどう考えたらよいでしょうか。

 

このような信者さんからの質問に中川健一先生が答えられた言葉から語らせていただきました。1番目に、疫病の存在は、被造世界が堕落した状態にあることを示しています。 質問者様は「本当に恐ろしい時代です」と言われましたが、実は、世界規模の疫病の被害は、歴史の転換点でたびたび起こっています。古代には天然痘、中世から近世にかけてはペスト、梅毒、19世紀にはコレラ、第一次世界大戦期にはスペイン風邪と言われたインフルエンザが、多くの人々の命を奪いました。(このようなものは、神様が造られた世界にはないものだった。)2番目に、疫病が霊的メッセージを持っている場合もあります。 つまり、神が疫病を通してお語りになるということです。出エジプトの時代、神はエジプトに疫病をもたらされました。目的は、ファラオにイスラエルの民を解放させるためです。カナンの地に定住して以降の時代、神はイスラエルの民に疫病をもたされました。目的は、イスラエルの民を悔い改めに導くためです。イエスは、すべての病を癒されました。これは、イエスが救い主であることを証明するしるしとなりました。さて、今神様これを通して何を語っておられるでしょう。3番目に、疫病は、患難期の予表と見ることができます。 終末時代に関して、イエスはこう語っておられます。 「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます」 (ルカ21:11)。