2020年7月5日礼拝メッセージです。

       「主にある希望と願い」  

               ピリピ1章1-11節

 

主にあってパウロが記している4つの希望、願いを紹介します。

 

1、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は固く信じているのです」

 

私たちが救われたときから、どのような良い働きを始められたのでしょうか?(主なる神を意識し始めました。主の花嫁となる資格を得た。罪の縄目から、解放してくださった(救い))

 

2、「あなた方の愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなた方が真にすぐれたものを見分けることが出来るようになりますように」  つまり、私たちの愛も、知識も、豊かに成長できるものなのです。

 

3、「あなた方が、キリストの日には純真で非難されるところがなく…」 これってクリスチャンに向けて語られているのです。神様は私たちを愛してくださっています、救ってくださっています。だからと言って気を抜いて、非難されないように気をつけましょう。

 

4、「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄と誉れが現わされますように」

 「義の実」って具体的にどういうものでしょうかね。他の箇所には「御霊の実」というものが紹介されています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」…それに「義」「正しさ」が加わったものと考えたらいいです。そういうものに「あなたが」「わたしが」満たされることが大切なんですね。

2020年6月28日礼拝メッセージです。

        「初心に立ち返れ」 

              エレミヤ31章31-34節

 

私たちは信仰がリバイバルされるのに、何が必要なのでしょうか?もっと何かすごい体験、恵みが必要なのでしょうか?

 

もし、クリスチャンでありながらも「救いの確信?」というと首を傾げ、「喜んでいるか?」と言われると、首を横に振り、「感謝していますか?」と言われると、「何に感謝したらいいのか?」と言い返す。また「主なる神様のことがわかりますか?」と尋ねられると、「よくわからない…」。もしこのようであるなら、必見です。「どうして主を知る」のでしょうか?それは、「神様が私たちの咎を赦し、以前の罪を二度と思い出さない」ようにしてくださったからだと記されています。つまり、これは救いの体験なのです。それらを体験したことのゆえに、はっきりと神様のことがわかる…ということなのです。(神様のことがわかるか、分からないかは、理屈じゃなく、体験的、実感的なものだというわけです。)イエス・キリストのこと、救われたことの恵みを数えてみてください。そうしたら、そこから、喜びが来ます。感謝が生まれます。またそれらがわかると、神様のことが理屈でなく、はっきりわかるようになりますよ。もっと救われたことの恵みを大切に、反芻するようにしましょう。

 

もう一つ、私たちクリスチャンは、「信仰」によって歩むことを心に刻んでおきましょう。「感情」で歩むと、神様を見失う危険性がありますよ。だって、「そう感じるか、感じないか」と言われたら、感じられないことが度々あります。でもそれは神様がおられないのではなく、見えて、感じられてないだけであって、神様はちゃんとおられるのです。

 

2020年6月21日礼拝メッセージです。

        「がんばれお父さんたち」  

                エペソ6章4節

 

父の日も母の日と同じように、教会から始まった記念日です(1909年から)。お父さんに語られている聖書の教えの代表的なものが、先週開きました、(エペソ6章4節)「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」でした。こうできたらいいのですが、なかなかできないというのがお父さんたちの本音でしょうか?お父さん大変ですね、家庭の問題、職場の問題。

 

さあ、お父さんたち、どうしたらいいでしょう。二つのことを大切にしてみてください。①神の御前にへりくだり、主なる神に信頼しなさい。(人にへつらい、人に頼るよりずっと安全ですよ)②聖書の教えの内にあなたの人生を構築してください。(聖書は教えています、妻を自分自身のように愛しなさい、大切にしてごらん)。実はこの二つを再構築したら、あとは全部丸く収まってきますよ〈子供のことも、職場でのこともです〉。職場のことについては、エペソ6章6,7節「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」。これをそのままやってみてください(人にへつらい、人に気に入られようとしてではなく、神の御前に、神に喜ばれるように聞いてごらんなさい、祝福されますよ)

 

さあ、がんばれ、お父さん。奥さんたち、子供たちもお父さんを応援し、祈るようにしてください。そうすれば、天の神様に喜ばれます。

 

2020年6月14日礼拝メッセージです。

                「クリスチャンの戦い、戦い方」  

                                              エペソ6章10-24節

 

「クリスチャンにも戦いがある」…というと、どういう戦いをイメージされるでしょうか?偶像礼拝、異教徒との戦い??また、同じキリスト教と言われるのに、違うという、カトリックとプロテスタントとの戦い??もし、そういうイメージがあったら、リセットしてください。ここで語られているのは、そういう戦い、戦い方ではありません。どちらが正統派か?と剣や銃を向けること自体が正統派でないのです。何故なら、イエス・キリストはそんなことを教えていないからです。「悪魔の策略」って、そういう「嘘」「見かけだけ」のものを見分けること、そういう「罠」にかからない、抜け出す、払いのけるというのが「クリスチャンの戦い」というものの本質なのです。ですから、その戦いのために身につけなさいと言われている「神の武具」というものを見てみてください、それらは防御ばかりで、人と戦うためのものは何一つないのです。唯一の武器と言われている「御言葉の剣」も、それは人に罪を示し、救いの手を差し伸べるものであって、人を傷つけ、殺すものではないのです。また「クリスチャンの戦い、戦い方」ということで、とても大切なことがあります。それは、「神の御心(神の本意)を知る」ということです。これがわからない人は簡単に騙されてしまいます。私はよく皆さんに、聖書を読むことをお勧めしています。それを読んでいたら、神様の思い、本意(こんな時どういわれるか…)がわかってくるようになります。「主にあって、その大能の力によって強められ」悪魔の放つ火矢を防ぎ、祈りと願い…そして忍耐の限りを尽くし戦う…それがクリスチャンの戦いです。

 

2020年6月7日礼拝メッセージです。

   「幸いな家庭、職場づくりの秘訣」  

        エペソ6章1-9節  カラテヤ5章22,23

 

このテーマでの教えは、実際のところ5章22節から始まっていました。まず語られているのが「夫婦円満の秘訣」について教えられています。そして次に、「子供たちへの教え」。そして「父たちへの教え」「奴隷(従業員)の立場にある人たちへの教え」そして「主人(雇い主)の立場にある人たちへの教え」と続いているのです。

 

ただ、これらの全ての教え、諭し、秘訣というものには、根底となる精神があります。それが5章21節に語られている「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい(互いに仕え合いなさい)」という精神(スピリット)なのです。つまりよく言われる「主にあって…をする」というものです。ですから、全ての幸いな家庭、職場づくりの秘訣は、まずキリストを恐れ尊び、互いに仕え合うスピリットから始まり、そして幸いな家庭、職場づくりの中でも、第一に大事なのが、なぜか夫婦円満ということですね。子育ての問題、職場での問題…でもその前に夫婦円満が大切であり、それが子育て、職場での精神状態の土台となるということも言えるでしょう。妻には、夫に従うこと、夫には妻を自分自身のように愛すること、子供には両親に従い、敬うことが教えられ、お父さんたちには、子供を(言動の矛盾などによって)怒らせないこと、尊敬される背中を見せる生き方によって育てなさいと、ここからお勧めしました。そして従業員の立場にある人たちは「主に仕えるように…」をモットーにし、雇い主の立場の人も、同じ気持ちで従業員に接することですね。

2020年5月31日礼拝メッセージです。

  「御霊に満たされなさい」 

           エペソ5章15-20節

 

「ペンテコステ」とは、イエス・キリストがかねがね語っておられた聖霊「御霊」が約束通りに下られた記念の日のことです。ヨハネ14:16-17,26,16:7.8.13-14などを読みますと、そのお方が来られると、まるでイエス様がいた時のように、その方が教え、導き、支えてくださる、というのがわかります。また「使徒1:8」を読むと、その方が臨むと、力を受けるとも約束されています。現在クリスチャンである方も、まだ今考えておられる方も、この聖霊に満たされる必要があります。まだクリスチャン信仰を持たれておられない方は、まずイエス・キリストを救い主として信じ受け入れることから始めてください。そうすれば聖霊を受けるでしょう。現在クリスチャンでる方は、信仰に入ったときに聖霊をいただいたはずです。しかし、頂いたのと、現在満たされているとでは別次元の問題です。 今日の箇所には、聖霊に満たされることと酒に酔うこととが比較して語られています。人は何のために酒に酔うことを好むのでしょうか?「いい気分になるため?」「楽しい雰囲気になるから?」「気分が変えられるから?」「我を忘れられるから?」それ全部「聖霊に満たされる」ことの中にありますよ。私も、疲れた時、苦しい時、やるせない時、時には人に会いたくない時もあります。しかし神様を賛美し、礼拝をするとき、不思議と帰りには、新しい力をいただいくことが毎週です。聖霊の満たしには、二日酔いや、健康を害することもありません。皆さんもこの聖霊に満たされ、力をいただいてください。聖霊に満たされ、それを保つために三つの秘訣があります。

 

Ⅰテサロニケ5:16-18です。「いつも喜ぶ」「絶えず祈る」「すべてのことについて感謝する」です。これらは、信仰によってなされるものです。感情、感覚で生きているならできない事柄です。実践してみてください。そして満たされてください。

 

2020年5月24日礼拝メッセージです。

「賢い人のように歩みなさい」   

                      エペソ5章1-16節

 

15-17節を通して、クリスチャンとしての歩み方、「主の御心は何か」を考える生き方は「賢い人の歩み方」なんだと二週にわたってお取次ぎしました。これは本当のことです。聖書には、何千年という歳月にわたる人の生き方とその結果、そして神の教えが記されています。それらを学び、それらから悟り学びを取り入れた生き方をするなら、多くの愚かな言動や失敗から守られることが出来ますよ。一度しかない人生です。大切に、そして幸いに生きなさいと神様もおっしゃっています。それらのことを心に留めつつ、

 

10節では、「酒に酔ってはいけませんそこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」と教えられています。これを通し、酒を飲むのがいけないのか、飲んでもいいのか…との議論がとかくクローズアッフされていますが、ここで心に留めていただきたいのは、その後の「御霊に満たされなさい」です。御霊に満たされることは、酒の酔いに勝る酔い、気分転換、うっぷん晴らし、活力を得ることが出来るのです。しかも二日酔いの辛さはありません。

 

また22-33節では、結婚式で必ず語られる神に祝福される夫婦の教えが記されています。では、どっちが先にこの教えを実践したらいいのでしょうか?妻が夫に従うのが先?それとも夫が妻を自分自身のように愛するのが先?これは、(20,21)に教えられている根底となる教えから言えば、「とにかく、自分から先にそうしなさい」です。キリストを恐れ尊んで、互いに(仕え合いなさい)・・・・これが聖書の教えです。こう生きるなら、賢く生きられますよ。

 

三つのことを心に留めていてください。主の御心は何かをよく悟りなさい。御霊に満たされなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従い(仕え合い)なさい。 日々の生活に活かしてみてください。

 

2020年5月17日礼拝メッセージです。

「クリスチャンらしくあること」                          エペソ5章1-16節

 

2週間の間が空きましたが、再びエペソ書に戻ります。以前学んでいたのは、3章17-19…これがクリスチャンの目指すもの。そして4章から、そのためにどんなことが必要か、についてお語りしてきました。

 

 さて、今日の箇所には「…らしく」とか「…にふさわしく」という表現が3回出てきます。4章では、「召されたあなた方は、その召しにふさわしく…」でした。一つは、「愛されている子どもらしく」(1)です。これは主なる神に愛されている子供らしくという意味です。だからみんなですね。ただその意識を持っている人といない人とでは、感じ方に違いが出てくるでしょう。「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」「愛の内に歩みなさい」と勧められています。二つ目は、「聖徒にふさわしく」(3)不品行も、どんな汚れもまたむさぼりも口にすることさえいけませんよ、と勧められています。そういう生き方が「偶像礼拝者」とも聖書は教えています。三つ目は、「光の子どもらしく歩みなさい」(8)です。クリスチャンのあなた、以前は暗闇でしたが、今は主によって光の子となったのですから…主に喜ばれることは何かを見分けなさい…実を結ばない暗闇の業の仲間入りしないことだよ、…と勧められています。私たちはどうでしょうか?

 

 題に上げた「クリスチャンらしさ」とはこの三つのことと言っていいでしょう。そして、「クリスチャンらしさ」とは、それらを目指して、求めて、歩んでいる中に存在するものです。「自転車」と同じです。こいでいるなら、バランスもとれてゆっくりでも進みます。快適です。でも、こぐのをやめると、だんだんと速度は落ち、ついにはバランスを保つこともできなくなり、転んでしまいます。だから、達成しているかどうかよりも、目指し続けましょう。

 

2020年5月10日礼拝メッセージです。

 

                   「イエスの母マリヤ」 

                             ルカ2章11-20節

 

イエス様ってどんな子供だっただろう。多くの方は、勝手に「いい子」「親孝行な子」「問題のない子」と決めつけているのではないでしょうか?でも、よく聖書の記述を見ると、そうとも言えなかった可能性があります。確かに相対的に見て「イエスはますます知恵が進み、背丈も大きくなり、神と人とに愛された」とありますから、そういう子供だったはずです。しかし、「時に、良く変わったことをいう子」、「突拍子もないことをする子」だったようです。12歳の時の宮詣の時も、一人宮に残って、人々と話をしていたり、心配しているマリヤに「わたしが父の家にいることをどうして知らなかったのですか」といったり、カナの婚礼の時、「ぶどう酒がありません」というマリヤに「あなたと私に何の関係があるのでしょう」などと言ったり、メシヤとして活動され出した時、心配して駆けつけた兄弟や、母を前にして「わたしの兄弟、母とは誰でしょう、神を敬う方々がそうなのではないでしょうか」などと、時に、無視、いろいろとハラハラ、ドキドキの子育てだった可能性があるのです。

 

そんなイエスをマリヤはどう育てたのでしょうか?一つは、「信じて(神様を信じて)、子育てをしていた」、彼については誕生前から、いろんなことがありましたから、とにかくいろんなことが起こるたびにそれらのことを心と留め、思いめぐらすということをしたのです。二つ目は、「期待していた」神様は決して私を裏切らない、見捨てない…と。必ずこの子は神の栄光を現わすと…そして三つ目は、「すべて心に収める」「思いを巡らせる」ということをした。

 

すぐに決めつけたり、批判したり、自分の思うように導いたり…ではなかったようですね。神様からの預かり者として、敬意を払いつつ、育てたようです。イエス様が最後にしたことが、母マリヤへのいたわり(親孝行)でした。

 

2020年5月3日礼拝メッセージです。

   「主に用いられた少年」      

           ヨハネ6章5-14節

5千人の給食の記事はすべての福音書に記されています。ただ、ヨハネだけが、その奇跡のもととなったパンと魚の出どころを記しています。それは少年が持っていたお弁当だったのです。どういういきさつでこの奇跡はなされたのでしょうか?イエス様がこの群衆にあなた方で食べさせなさいと言われたことが発端でした。「ええ?そんなの無理」というのが弟子たちみんなの考えで、うろたえていました。聖書には記されていませんが、そこに、少年が「僕持ってるよ」と自分のお弁当を差し出したので、アンデレがあるのはこれだけですと、とても無理だと言いたげにそのことを告げると、イエス様は、みんなに座るように命じ、祈り、パンを裂き、渡し始められたのです。弟子たちには、「これくらいしかない」「こんなもので何ができる」という見方でしたが、イエス様には「これがある」という見方だったのですね。どうやら、ここでイエス様の信仰によるチャレンジに信仰をもって答えたのは、この少年だけだったみたいですね。小さなお友達、あなたもこの少年のように、イエス様について行ってください。そして自分でもできることがあったら、「僕できるよ」「私お手伝いしたい」と参加するようにして見てください。神様の祝福がありますよ。大人の方々にもお話しします。いろんなことを学び、いろんなことを体験し、知恵がつき、知識が増すとともに、この子供らしさを失っていませんか?イエス様の言われた「幼子のようでありなさい」との言葉を思い起こしましょう。対人に関しては、大人の考えで接する必要がありますが、神様に対しては幼子の心を忘れないようにしましょう。

 

2020年4月26日礼拝メッセージです。

「クリスチャンが目指すもの2」

                               エペソ4章17-32節

 

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」3章17-19節

 

 これこそ、「クリスチャンの目指すもの」と言えるでしょう。そのために気を付け、また目指すものがあります。後半の部分から見てみたいと思います。

 

1、 もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。(17)

 

これを違う言葉で表現するなら、「救われる以前の生き方に戻ってはいけない」。「信仰を持っていなかった時のような虚しい生き方をしてはいけない」ということです。

 

2、 「ほんとうに…キリストに聞き、キリストにあって教えられる」ということを目指しましょう。(21)

 

3、 「以前の生活についていうならば、…古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなた方の心の霊において新しくされ…神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」これを目指しましょう。

 

※(26-32)には、具体的な事柄が記されてあります。ぜひ何度も読み、心に刻み、これらのことに気を付けて歩みましょう。

 

2020年4月19日礼拝メッセージです。

           「クリスチャンが目指すもの1」   

                                    エペソ4章1-16節

 

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」3章17-19節

 

 これこそ、「クリスチャンの目指すもの」と言えるでしょう。そのために目指すものがあります。それが今日の箇所にあります。

 

1、 召されたあなた方は、その召しにふさわしく歩む(1)

 

「クリスチャンらしい」というニアンスは負担ですか?でも、必要なものではないでしょうか?

 

2、 「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに愛をもって忍び合い、平和の絆で結ばれて、御霊の一致を熱心に保」つということ(2,3)

 

3、 「私たちがみな信仰の一致と神のみ子に関する知識との一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」

 

マタイ10章24,25「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。」これらを目指しましょう。前進しましょう。

 

2020年4月12日礼拝メッセージです。

   「死を打ち破り復活された神の子イエス」

               マタイ28章1-10節

 

御子イエスは十字架にかかられ死なれましたが、その三日目に、言われていたようによみがえられました。ですから、イースター(キリストの復活祭)は、人類の最大の敵であり、罪の結果である死に勝利した喜びの日なのです。

 

 現在、現実として、全ての人の前に「死」という最後の関門が待っています。これは誰も逃れることのできない事柄です。聖書は、3種類の「死」を語っています。一つは、肉体の死です。二つ目は、霊の死です。これは端的に言うと、神様から離れている状態です。神との霊の交わりがないので、神からの霊の命が流れてこない状態のことです。ほとんどの方々がこの死の中にあります。「生きる屍」とは、このようなことを言うのです。第三は、永遠の死です。第二の「霊の死」から救われ、回復を見ないままで、この人生を終えた方々は、チャンスを逃したということで、自動的にこの死に至ることになります。

 

 ところが、キリストのよみがえりは、それらの三つの死に解決をもたらしてくださったのです。肉体の死に対する勝利は、イエスを信じていただく罪の赦し、永遠の命ですから、この肉体の死に対して恐れではなく、むしろ、それを天の御国への入り口と考えられるようになり、この肉の体を脱ぎ捨て、霊の体をいただく時と確信できるようになることです。霊の死に対する勝利も、永遠の死に対する勝利もこのことのゆえにいただけるものなのです。

 

2020年4月5日礼拝メッセージです。

  「神の心、人知らず」       

        ルカ19章28-44節

 

今日は、キリスト受難週に入る日です。つまり、今日、キリストがロバの子に乗って、エルサレムに入場された記念の日ということです。この記念の日にちは、イースターから逆算しています。イースター(キリストの復活日)は、満月の次の日曜と定められています(それで毎年変わるのです)。

 

今朝見た御言葉は、イエス様がエルサレムに入場される時の箇所ですが、ここにルカの福音書にだけ記録されている事柄があります。それは(41)イエス様が都を見られ「泣かれた」ということです。なぜ、泣かれたのでしょう。それはその後を見ればわかります。ここはエルサレムを擬人化して言っているのですが、その民たちが「平和のことを知らない」「自分たちのことがわかってない」「これから起こる悲劇を知らない」「神の訪れの時を知らない」からと言われています。

 

それでこのキリスト受難を覚える一週間に、心を留めていただきたい事柄が2つあります。一つは、「先に起こることがわかっていながら、それに向かっていくことの難しさ」。イエス様には、これから先に起こることの全てがわかっていました。しかし、そのすべてを忍んで、耐えて、受け入れて歩み通されたのです。逃げなかった。

 

二つ目は、「分かっていない人を前にして、それを忍ぶことも辛い」。 ホサナと喜んでいる人たちも、苦虫をつぶしたような顔の宗教者たちも、12弟子でさえも、この後のことを知らなかった。ただ、イエス様は、すべてを飲み込んで、耐え通されたのです。

 

2020年3月31日礼拝メッセージです。

「パウロの切なる願い」       

          エペソ3章13-21節

 

今一緒に学んでいる書簡集は、「獄中書簡」と言って、パウロが牢獄の中から、各教会、クリスチャンたち一人一人を覚えつつ、したためた手紙となっています。それで(13)「ですから、私があなた方のために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。」というような言葉が入っているのです。

 

どんなことをパウロは神様に祈っていたのでしょうか?一つは、「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなた方の内なる人を強くしてくださいますように」です。そして次は、「キリストがあなた方の信仰によって、あなた方の心の内に住んでいてくださいますように」。ということです。そしてさらに、「愛に根ざし、愛に基礎をおいているあなた方が、全ての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようにな」ることでした。そうですね、私たちは弱く、罪深いものでしたが、神様はありのままの状態で受け入れてくださいました。だからと言ってそのままではもったいないですね。もっとその愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになることを神様は望んでおられるのです。さらにこうも祈られています。「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなた方が満たされますように」。目指しましょう…「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、私も満たされますように」と。そして求めましょう。

 

2020年3月22日礼拝メッセージです。

「不遜なものにならず、悟ろうとする者でありなさい」

 

       黙示録16章8-11節、Ⅰコリント2章14節

 

この黙示録の箇所に記されている事柄は、終わりの時代に起こるといわれる、艱難時代のことだといわれています。これがいつ起こるのかということは、多くの方々の関心あることだと思われますが、何時だとは言えないにしても、ここに記されているような特徴が人々のうちに見られるようになったら、その時期の近いことがわかるようになります。そういう視点からこの個所を見ると、神様が、ここまで打ったら、自分の罪を悔い改め、「神様助けてください、お赦し下さい」と、へりくだってくるかと思えば、そうすることもなく、むしろ、「これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった」。それで主なる神は次の災難をもたらしたが、それでも「自分の行いを悔い改めることせず、神に対して汚しごとを言う」・・・こうなると、神様も、もう堪忍袋の緒が切れてしまうのではないでしょうかね。それか最後の裁きの引き金となると思われます。ここで、二つのことを心に留めておいてください。

 

ひとつは、「終わりの時代、人々は、神様に対して、不遜な者となっていきます」。もう一つは、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません」(Ⅰコリント12:14)もう一つの言い方をすると、「まだ救われていない人間は…」ということになります。イエス様を信じて新しい命、聖霊をいただくまでは、神様のことはわからないのです。それは「ばかばかしいこと」「愚かなこと」「時代遅れもいいとこ」のようにしか思われないのです。今の時代、私たちは不遜な者にならず、悟ろうとする者となりましょう。

 

2020年3月15日礼拝メッセージです。

   「心の中にあるものが表に出る。だから…」 

               マタイ26章47-75

 

イスカリオテ・ユダの裏切りから、すべての流れは一変しました。その後いろんな人々の心模様を一緒に見てみました。

 

イスカリオテ・ユダ

もしかして彼は、「裏切ろう」と思ってやってなかったのではないかと思われる節があります。ただ単に、みんなの前で恥をかかされたから、腹が立ったから、ちょっといたずらをしてやろう、困らせてやりたい。どうせ彼はいつものようにやっつけるだろうから、なんせ彼はキリストですから・・・と。ところが予想外のことが起こったから、焦った彼は、大祭司のもとに。しかし、ここでやっと事の重大さに気づき、とっさに自殺をしてしまったのではないだろうか・… (あれほどイエス様が話しておられたのに、心の中に入ってなかったのですね)

 ペテロ

 彼も、ここに来るまで、自分の心の中にある、弱さ、もろさ、過信、(キリストに対する熱い愛もあった)に気づいてなかったみたいです。 

 祭司たち、パリサイ人たち

 彼らは、自分たちは、神に熱心な者、神に愛されている、正しい道を歩む者という認識があったようですが、本当のところ、神に喜ばれない、憎しみ、ねたみ、嫉妬、怒り、殺意が心の奥底に沸き立っていた。 

イエス・キリスト

 ここに見るイエス様の心の中には、「平安」「委ねる」「最後までやりきる」というものが見られます。※さて、私たちの内には何があるでしょうかね。それが「いざ」という時出るのです。

 

2020年3月8日礼拝メッセージです。

     「とりなしの祈り」   

    エレミヤ15章1節、エゼキエル14章12-20節

 

聖書のこの個所を読むとき、神様が怒っておられるのを感じることができます。聖書の中に義人として描かれている、モーセとか、サムエル、ノアやダニエル、ヨブなどがそこにいても…執り成したとしても、彼らが救えるのは、自分たちの命だけだ。もうわたしは、この民たちを赦さない、と言っておられますね。もうこれ以上許しておくわけにはいかない…という感じですね。世の終わりは、このようにしてくると覚えていてください。

 

 先週は、新型コロナウィルスの流行を通して、これらも最後の時代の前兆に記されてあったこと、私たちは、いつ主の日が来てもいいように、日頃から心の準備をして待っているものでいましょう、とお勧めしました。また、もし、モーセやサムエル、ノアやダニエル、ヨブなどが今の時代にいるとしたら、何をすると思いますか?やはり執り成しの祈りです。神様には、「お怒りの気持ちはわかりますが、そこはなんとか、もうしばらくお待ちください。赦してやってください」…と願い。人々に対しては、「いい加減にしなさいよ。神様は怒っておられますよ。悔い改めなさい、ヘリくださって赦しを願いなさい、あなた方がへりくだるならもしかすると主は怒りを鎮められるかもしれない」…と執り成しの祈りを捧げつつ、人々に語るのではないでしょうか?そうであるなら、それを私たちもさせていただきましょう。神様が彼らを愛されたように、そのようにしているあなたを主は格別愛してくださいますよ。

 

2020年3月1日礼拝メッセージです。

「新型コロナウイルスの広がりをどう理解するべきですか」

 

           ルカ21章5-36節(10,11) 

 

Q:新型コロナウイルスが世界に広がっています。本当に恐ろしい時代です。この問題は、聖書的にはどう考えたらよいでしょうか。

 

このような信者さんからの質問に中川健一先生が答えられた言葉から語らせていただきました。1番目に、疫病の存在は、被造世界が堕落した状態にあることを示しています。 質問者様は「本当に恐ろしい時代です」と言われましたが、実は、世界規模の疫病の被害は、歴史の転換点でたびたび起こっています。古代には天然痘、中世から近世にかけてはペスト、梅毒、19世紀にはコレラ、第一次世界大戦期にはスペイン風邪と言われたインフルエンザが、多くの人々の命を奪いました。(このようなものは、神様が造られた世界にはないものだった。)2番目に、疫病が霊的メッセージを持っている場合もあります。 つまり、神が疫病を通してお語りになるということです。出エジプトの時代、神はエジプトに疫病をもたらされました。目的は、ファラオにイスラエルの民を解放させるためです。カナンの地に定住して以降の時代、神はイスラエルの民に疫病をもたされました。目的は、イスラエルの民を悔い改めに導くためです。イエスは、すべての病を癒されました。これは、イエスが救い主であることを証明するしるしとなりました。さて、今神様これを通して何を語っておられるでしょう。3番目に、疫病は、患難期の予表と見ることができます。 終末時代に関して、イエスはこう語っておられます。 「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます」 (ルカ21:11)。


   「ギデオンが天から力を受けた秘訣」士師記6:33-40

 

「主の霊がギデオンをおおった」そして、「従順に神様の言われることを行った」、この二つが秘訣です。私たちも、主の霊に満たされることを求めて、主に従い通しましょう。そのようにして、イエス様の再臨を待ち望んでいましょう。

 


「救われるためには、何をしなければなりませんか」

                               使徒の働き16章25-34節(30) 

 

パウロとシラスは、イエス様を宣べ伝えたことにより牢屋に入れられました。苦しい牢屋の中で、彼らは神様に文句を言っていたでしょうか?いいえ、彼らは神様を褒めたたえ賛美していたのです。その時、地震が起きて、足枷や鎖が解け、牢の扉が開きました。看守は囚人が逃げてしまったと思い、自殺しようとしますが、パウロが止めます。誰も逃げていない、と。看守は「救われるためには何をすれば?」と聞き、その答えが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 

 

 

正しい人は一人もいません。そして、罪をもったままでは天国に行くことはできません。イエス様はそのような私たちの罪を赦すために、私たちの代わりに罪の罰を受けて十字架にかかって死んでくださいました。ですから、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言われたのです。

 

 


黙示録1:16-20、出エジプト15:6 「神の力強い右の手」

 

詩篇17:7、詩篇18:35,36、イザヤ49:16

 神様の右の手は力を象徴しています。敵である悪魔が私たちを倒そうとしても、神様の力は私たちを守り支えることができます。そして、その力強い神様の御手に握っていただくと、私たちは変わることできるのです。あなたは神様の御手に触れていただいたことがありますか?


エペソ3:14-21 「神の全能の力」

 

「愛に根ざし、愛に基礎をおいて」しっかり立っていましょう。神様の愛はすべての人に届くほど広く、天に届くまで高く、罪の深みにいる者にまで届くほど深いのです。


ガラテヤ5:19-26、ヨハネ17:17,20、エゼキエル36:25-28

 きよめられても完全になるわけではありません。完全なお方は神様だけです。また、きよめられると天使になるわけでもありません。罪を犯す可能性がなくなるわけでもありません。もう頂点に達したのだから成長もない…この考えも間違っています。きよめはゴールではなく、むしろスタート、これから成長するのです。きよめを追い求めましょう。


 マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」  創世記22章、Ⅰコリント4:7、マタイ16:24

 

神様は、アブラハムにイサクをささげよ、とおっしゃいました。彼にとっては一番大切な存在だったでしょう。そのイサクを捧げる決心をしたとき、彼は全てを神様に捧げました。全てを手放し、自分のものは何一つありません、全ては神様のものです、と言えたその時、天の御国はその人のものです。

2020年2月9日礼拝メッセージです。

    「神の奥義の内に生きる」     

           エペソ3章1-12節

 

パウロの言う「神の奥義」って何でしょう。

 

一つは、いつの日にか「いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる…私たちはキリストにあって御国を受け継ぐものともなった」ということのようです。(エペソ1章8-11節)

 

二つ目は、「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も(ユダヤ人も)共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということ」です。現在の私たちから見たら、「奥義」というか、それって当然のことなのではないか…と思うことなのではないでしょうか?ところが、キリスト前の人たちから見たら、すごい変化であり、とてもありがたい、それこそ「神の奥義」そのものなのです。パウロは、その奥義を人からではなく、神の啓示によって悟ったというのです。(3章3節)(ガラテヤ1章11-12節)

 

ここで皆さんも覚えていただきたいです。実は、神様は今も、「神の奥義」の扉をあなたの前に開いて、招いておられるのです。あなたにも教えよう、悟らせよう…と。しかし、神様はおっしゃっておられます。多くの人が「忙しい」「それどころではない」「後で」と言って、その扉をくぐろうとせず、通り過ぎてしまっている…と。

 

想像してみてください。日々聖書を読みながら、「神様そうなんですか?」「私もこうなりたいです」「これが欲しいです」と興奮しながら、発見の喜びに沸き立つ自分の姿を…主は待っておられますよ。「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」(12)

 

2020年2月2日礼拝メッセージです。

 「キリストこそ私たちの平和、和解、救い」

                                          エペソ2章11-22節

 

「神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、この私たちをキリストとともに生かし、救」ってくださり、神を知る者、天国に行くことのできる者としてくださったのです。ですから…そんな私たちですから、神の前、キリストの前では、異邦人の私たちも、割礼を受けている選民のユダヤ人でも、同じ扱いなのです。しかし、この罪の世では、差別的な格差の視点で見られ、いまだに差別の扱い、偏見、それに伴う怒り、憎しみなどが、この信仰の世界の中にもあります。しかし、イエス・キリストの十字架はそのような隔ての壁を打ち壊し、敵意を廃棄されたのだ。それで今はキリストにあって、また十字架によってすべてのものを一つにしたのだと力説されているのがこの個所なのです。

 

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し…敵意を廃棄された方です。」

 

このことのゆえに感謝しましょう。

キリストを、また十字架を誇りとしたいものですね。

 

またそんな私たちですから、私たちも差別的な格差の視点で人を見ることはやめましょう。偏見や怒り、憎しみも、敵意もみな振り払い、取り除けていただきましょう。私たちはキリストから来る平和の内を日々歩む者となりましょう。

2020年1月26日礼拝メッセージです。

「救われたとは・・・凄いこと」 

 

         エペソ2章1-10節

 

この個所は主にクリスチャンの体験した救いの証について記されてある箇所です。

 

6節の「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」に注目してみてください。

 

クリスチャンの皆さん、これがあなたのいただいた「救い」のもたらしたものなのです。

 

その確信ありますか?実感ありますか?あれば結構、日々感謝しつつ、その恵みの内に歩みましょう。もしないとしたら、1-5節までの御言葉は、その解決方法を教えてくれています。

 

 

 

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」以前の自分は死んでいたものであったことを思い出してください。

 

 

 

死んでいたから「分からなかったのです」「良いこともわかっていてもできなかったのです」また「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」そうです、そんな生き方だったことを思い出してください。

 

 

 

また「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」以前の自分は、そのような生き方をしていたものだった。

 

 

 

またこんな運命のもとにあったではないですか…

 

 

 

そんなところから「神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、この私たちをキリストとともに生かし、救」ってくださり、神を知る者、天国に行ける者としてくださったのです。確信を確かなものとしましょう。

 

 

2020年1月19日礼拝メッセージです。

「目が開かれ、はっきり分かるように」  

                                エペソ1章15-23節

 

1章後半の箇所は、「こういうわけで」という接続詞で始まっていますので、当然、前週に取り次いだ内容が関係しています。

つまり、時が満ちると、神はいっさいのものをキリストにあって

一つに集めることになる。

私たちは、キリストにあって、その救いの福音を聞き、信じて受け入れたことによって、約束の御霊の証印が押され、御国を受け継ぐ者となった者です。

またキリストに望みを置いて歩んでいるものです。

「こういうわけで…」とパウロは、絶えず、神に感謝を捧げ、あなた方のために祈っていると、その祈りの内容が記されています。

 

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなた方に与えてくださいますように。」(神を知るための知恵は聖書を読むときに与えられます。そしてその理解を助けてくださる御霊の存在…それがさらに豊かに…)

 

「また、あなた方の心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものなのか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか・・・(理解するように)」わかっているつもりで、そのほとんども知っていないということはないですか?さらに心の目がはっきり見えるようになること求めませんか?

 

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなた方が知ることができますように。」これらがパウロの祈りであり、神の御心でもあるのです。また教会の集まりにキリストが与えられている。教会はキリストの体なのだと言われています。私たちもそんな教会でありたいですね。

2020年1月12日礼拝メッセージです。

「神が私たちのために定めた道」 

          エペソ1章1-14節

2019年の11月まで「使徒の働きから」学んでいました。その書の最後は、パウロがローマでわりと自由のきく環境ではありましたが、牢獄で2年ほどつながれていたという記録で終わっています。その間にパウロは祈りつつ、諸国の教会(兄弟姉妹)に対して手紙を書き記したのです。それを獄中書簡(エペソ、ピリピ、コロサイ、ピレモン)と言います。これからそれらを通して学びたいと思っています。まずは、エペソ人への手紙です。

 

この書き出しの部分から、神様が私たちに対して立てている計画、希望、御心の姿などがいろんな方面から語られています。それをあえて世間一般で言われている「人間に定められている運命」という論説と比べながら、学んでみたいと思っています。世間一般に語られている運命論は、悲観的な論説が多いですが、聖書が語る神様の定めは、非常に希望の持てるものです。

 

(3)「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私達を祝してくださいました」

(4)「神は私たちを…キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のないものにしようとされました」

 

(5)「…私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです」

(11)「私たちは彼(キリスト)にあって御国を受け継ぐものともなったのです。…このようにあらかじめ定められていたのです」

 

神の定めた道はいいですね。ただそれを自分の運命として歩むかどうかはあなたや私にかかっているのです。あなたはどうしますか?

 

2020年1月5日礼拝メッセージです。

「祝福は御言葉を読むだけでなく、実行するにある」 

                マタイ7章13-27節

 

2020年の冒頭に掲げた御言葉は「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」 

勧めとして「毎日聖書を読み、何か一つのことでも心に留め」

「その心に留まったことを実際にやってみようと努力する」ということをやってみてくださいと、言いました。

 

この年の初めにチャレンジを決意してみられませんか?とお勧めしましたが、今日の箇所を読むと、イエス様の語っておられる言葉のニアンスは、もっと強いものであることがわかります。

「わたしに向かって『主よ、主よ。』というものがみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(21)とか、

「わたしのこれらの言葉を聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」また「わたしのこれらの言葉を聞いてそれを行わないものはみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」 イエス様の言葉や聖書の教えとかは、聞くだけでなく、また、知っているだけでもなく、それを行う(実践する)(生活に、人生に生かすこと)が大事なのだということが強く語られているのに気が付きます。

 

それこそが、イエス様の語られた狭き、細い道であり、いのちに至る道であるのです。

 

それを教えない、そこに導かない指導者は、偽預言者であるということになってくるのではないでしょうか…さあ、みなさん、聖書を読みましょう。

そして神の御心を知り、それに歩む者とならせていただきましょう。

2020年元旦礼拝メッセージです。

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」 

                ヨハネ11章40節

 

2020年の冒頭に掲げる御言葉です。

主なるイエス様は、私たちにこう語っておられます「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と。「もしあなたが信じるなら」この言葉には二つの意味があります。

ひとつは、「あなたがイエスを自分の主として、神として信じ受け入れるなら」

という意味と、「すでに信じている方々、今この瞬間にも、主を信じて、主に賭けて、頼っていくなら」というものです。

ですから、未信者の方でも、長い信仰生活を積んでこられた方でも、一様に「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と語られているのです。その実現のために二つのことをお勧めします。

一つは、毎日聖書を読み、何か一つのことでも心に留めるのです。それには、その箇所の意味が必ずしも完全に分かる必要はありません。神様が自分に教えようとしている真理をつかもうとすればいいのです。

二つ目は、その心に留まったことを実際にやってみようと努力してみるのです。

ある事柄は、その言葉通りにやってみるといいのです。またある事柄は、「そうできるように助けてください」という祈りに変えて、求め始めるようにしてみればいいのです。大切なことは、主イエスを信じる、だからその教えを(御心を)実行する。

決して読んだだけ、学んだだけにせず、何か、あなたの一日に、あなたの生涯に、あなたの人格に生かそうとしてみるのです。そうすればあなたは神の栄光を見ることになるのです。この年の初めにチャレンジを決意してみられませんか?

 

2019年12月22日のメッセージです。

「神の御子の喜ぶプレゼントは」  

          マタイ7章12節

世の中のクリスマスを見ると、一つの疑問が頭をよぎります。それは、「誕生日にお祝いされるのは誰なのか?」「誰がプレゼントをもらうのだろうか?」当然その本人ですよね?ところが、クリスマスに人々が思うことは、今年はどんなプレゼントをもらえるだろうか?ということなのではないでしょうか?つまり、本人不在の誕生パーティーをみんなは楽しんでいるような感じです。イエス・キリストがこの世に生を受けてくださったときも、彼には産湯を使う部屋さえ与えられてなかったのです。現在も同じような状況なのではないでしょうか?

 

さて、ではイエス様が来てくださったことを記念して、プレゼントを捧げるとしたら、いったいどんなプレゼントを喜ばれるだろうか?「クリスマスの鐘の音」という紙芝居を読んでいただきましたが、神様が喜ばれるプレゼントを捧げたら、教会の鐘の音が鳴るということで、みんな自分の才能や、財力を尽くして高価なプレゼントをしましたが、全く鐘は鳴りませんでした。しかし貧しいながらも気持ちの優しい兄弟が、教会に行く途中で行き倒れの人を介抱し、心からの祈りを捧げたところ、教会の鐘がいきなり鳴り響いたというお話でした。聖書の中に、病気の人を見舞い、牢につながれている人を訪ね、飢えた人に食べさせ、渇いている人に飲ませたりしたのは、「わたしにしたのだ」とイエス様は語っておられます。皆が、自分にしてもらいたいことをほかの人にもし、してもらいたくないことは、自分も人に対してしない…こういうキリストの律法のうちに生きたらどうでしょう。世の中平和が生まれるのではないでしょうか?これが主の喜ぶプレゼントです。

 

2019年12月15日のメッセージです。

「東方の博士が見出したもの」    

         マタイ2章1-18節

 

東方の博士たちは、当時のペルシャ帝国から来た天文学の博士(マギ)たちでした。彼らは、変わった星を見つけ、それが何の印なのか調べ上げ、それこそ、預言されていたユダヤに新しい王の生まれたことの印だと結論付け、確認と、お祝いに駆け付けたのです。そして最後には、その変わった星に導かれ、その星のとどまった家で、幼子イエスを見出し、贈り物を捧げ、礼拝して帰っていきました。

 

そんな彼らから三つのことが学べます

一つは、神様は、求める者には、導きを与え、ご自分に引き寄せられる、ということです。東方の博士たちもそうでしたが、現在の私たちも、それぞれに教会や、信仰に導かれた経緯や、動機は違っていても、よくよく見れば、それらを通して神様が確かに導いてくださったことを見ることができます。現在も、神様はご自分の御許に、求める人々を招いておられるのです。

二つ目は、東方の博士たちのように、途中、主の導きの星にではなく、人に聞いたことによって大変なロスと危険が発生することになる。博士たちは、当然ユダヤ人はみな喜んでお祝いしていると思い込んでいたのでしょう。しかし現実は、誰も気づいてもいなかったのです。この博士たちのもたらした知らせと、資料をもとに、嫉妬にかられた王が当時の2歳以下の男児を殺害するという最悪の事態になっていくのです。博士たちは城から出てあの導きの星を見出した時、どれほど安心したことでしょう。

三つ目は、博士たちが学び得たのは、神の真実さと導きに従うことの大切さだった。時間がかかっても、神様は言われていたことを本当になさるのです。神様は今でも、私たちの心に事の善悪にしても、右に、左にとアドバイスを下さいます。それに従う道が一番安全ですよ。

 

2019年12月8日のメッセージです。

                「愛には恐れがありません」      

                                   Ⅰヨハネ4章18節

 

52年前の12月8日、午後5時半。阿多田島の子供たちとクリスマス会をするために、福音丸で出発したドン・ボーマン師を含む10名のクリスチャンたちが遭遇した、遭難事故、尊い7名の殉教を覚え、一緒に顧みる時を持ちました。

 

今の時期の午後5時半は、すでに陽が落ち、暗闇に覆いつくされる頃です。今一度その時間に岸壁に立ってみると、「よくこんな中、出発しようという気になったな」と思わされるとともに、彼らが、そんな中にも、喜び、期待をもってこの暗闇迫る岸壁を出発したことに、「愛には恐れがありません」という御言葉が思わされます。そうです、私たちの先輩たちは、燃えるような愛と、喜び、信仰のうちに伝道していたのです。それはちょうど、天使の御告げを受けて、赤子のイエス様を見つけて礼拝した羊飼いたちが、喜びいさんで人々に神のなされた真実さを証ししたような姿だったと言えるでしょう。「それなのになぜ?」と皆さん思われると思います。それはある意味当然の疑問だと思います。答えは、天国に行ったときにはっきり分かるものとなるでしょう。

 

ただ三つのことをお伝えします。

一つは、「目先のものに焦点を当てるばかりでなく、遠く(天国、永遠の命)にも焦点を当てなさい」。どこに焦点を合わせるかで、見え方、感じ方が違ってくるからです。天国に焦点を当てるなら、今の窮地にも脱出の道が見えてきますよ。

二つ目は、「すべてのことは決して無駄にならない」です。「すべてのことを働かせて益とする」というのが神様からの約束です。

最後は、「神様の真実さを証しし続けなさい」です。どうぞ、生ける神の真実さを日々体験し、知らない人、気づいていない人に教えてあげてください。

 

2019年12月1日のメッセージです。

「イザヤ書に見るイエス・キリスト」      

 

イザヤという預言者は、キリスト誕生前、約700年も昔に用いられた神の器です。そしてイザヤは神の霊感によって見させていただいた(聞かせていただいた)神の啓示を書き留めたのがこの書ですが、歴史を知り、聖書の内容を知る私たちから見たら、ここにはっきりキリストについて見ることができるのです。

 

7章14節、キリストが処女から誕生することが預言されています。

 

9章6節、キリストが何と呼ばれるかが語られています。真の神であり、真の人であるという不思議な存在であることがわかります。

 

11章1-5節、キリストとなる方が、エッサイ(ダビデのお父さん)の子孫から生まれる、またどのような存在となるかが語られています。

 

52章13-15節、十字架に向かうイエスの姿が語られています。

 

イザヤ53章、じっくり読んでみてください。十字架のイエスの姿がはっきり描かれています。

 

クリスマスは、このような預言が本当に起こったのだ、神様は語られていたことを本当に行われたのだ、神は真実なお方なのだ、と祝う日なのです。ですから、このクリスマスの時期に、まずこのことを一緒に見させていただきました。

 

700年後に成就した預言。ということはすごいことですよ。言ってみれば、鎌倉時代に語られていた預言が、現在社会で成就を見るというスケールの大きなことなのです。今一度、そのことについて考えてみましょう。

 

心整えられて、クリスマスを迎えることができますように!

 

2019年11月24日のメッセージです。

「悪魔のトリック」「罪による死」      

                                イザヤ46章

 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。」

これは、偶像の神々について聖書の神が言い表している言葉です。運んでもらわなければ、どこにも行けないような神に願い事をしてどうなるのか?そのものは、疲れた獣の重荷となっているのだと…神様は言われます。

 

それに比べ、「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時から担われており、生まれる前から運ばれた者よ。」つまり、神様が、私たちを生まれる前の母の胎内にいた時から担ってきたのだよ、と神様は言っておられます。そうなのです、あなたや私達の命、時間の全ての中に生きて、共にいてくださるのが造り主の神様なのです。

 

ところが、私たち人間が偶像を礼拝することで、とても残念なことに、その物の存在のゆえに、真の神様(愛の神様)が見えなく(感じられなく)なってしまっているのです。そこに人間の内にある「罪による死」の現実が見えると思います。残念ですね、死んでいるから、分からないのです。また偶像礼拝は、自己満足礼拝(自分流の礼拝)とも言えます。神様をそれに見立てているからです。でもそれゆえ真の神様は、寂しく、悲しい思いをしておられるのです。ここに、悪魔のトリックがあるのです。そして多くの人たちが、そのトリックに引っかかってしまっていて、真の神様への道(命への道)もわからないまま滅びの道に歩んでしまっているのです。ここにも罪による死の現実の姿が見えるのです。皆さん、救われてください。

 

2019年11月17日のメッセージです。

      「感謝の法則」

              ピリピ4章4-7節、Ⅰテサロニケ5章16-18節

「感謝」の法則というものに三つあります。

 

1、 感謝と健康には深い相関関係がある

 

感謝する心を持った人は、積極的で前向きな人生を歩むようになります。そうなると、心が健やかになると同時に、体も健康になる傾向があります。日本にも、「病は気から」ということわざがありますね。

 

2、 人格的に成長すると、感謝することが多くなる

 

意識して感謝を始めると、不思議なことに、感謝することがどんどん増えてきます。それは感謝することによって、自分の感性が磨かれていくからです。(その逆もしかりです)試練の中にある「隠れた祝福」というものがあるのをご存知ですか?同じ苦しいところを通るなら、不平不満、愚痴よりも、そこから得られる祝福を見て、感謝できるようになりたいものです。

 

3、 感謝の言葉は、それを受ける人に癒しと慰めをもたらす

 

聖書に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて、感謝しなさい」これは、不幸や、悲劇をも感謝しなさいという意味ではありません。これは、決して変わらない神様がおられるから、信頼して、意識的に感謝することを選び取りなさいという意味なのです。そうしたら、逆境の時でも感謝の心を失わない、状況にも左右されることのない人になりますよ。

2019年11月10日のメッセージです。

「神の国とイエスについて証しし続けた」 

                                     使徒28章16-31節

 使徒の働きの最後に三つのことを軸としてお話ししました。

一つ目は、「パウロは異邦人には、異邦人に対するように語り、ユダヤ人には、ユダヤ人に対するように語った」ということです。パウロは未信者の中では、神の愛と真実さをもって、その生きざまを通して証しし、ユダヤ人の中では、御言葉の知識をもって預言の成就としてのキリストを語ったのです。私たちもこの両面をしっかり持っている者でありたいですね。

二つ目は、「信じる者と信じない者の両者が起こることは避けられない」ということです。パウロが語っても、いいえ、イエス様が語っても同じでした。それは、「この民の心は鈍くなり」・・・これが原因だというのです。この言葉の意味は、「満腹になっている」「十分に足りている」だから、それ以上求めないということなのです。だからイエス様は、「心の貧しいものは幸いだ」と言われたのですね。こののち、キリスト教の教えは、ローマの町中に浸透し、それゆえ激しい迫害が起きてきます。しかし、300年後には、ローマ皇帝が、キリスト教を国教として受け入れるようになります。私たちも元気を出して、証しし続けましょう。

三つ目のことは、「なおも、福音は、語り続けられる」ということです。

結局、ユダヤ人は、イエスをキリストとして認め、受け入れなかったので、この救いは異邦人に送られることになっていきます 。この「使徒の働き」は、完結されていません。何故なら、聖霊の働きは、今もなお、あなたや私達を通して続けられているからです。あなたも日々聖霊に導かれながら、主を体験して、証しできるものとならせていただきましょう。

 

2019年11月3日のメッセージです。

 「主は共に働き、御言葉を確かなものとされた」

                 使徒28章1-15節

 以前、パウロの立ち位置と現在日本に住む私達クリスチャンとには、共通するものがあると言いました。一つは、周り中に、神を信じない者、未信者の人々がおられる中での日々。もう一つは、囚人として立つパウロは、決して社会的な信用を与えられていない、ということでした。ただパウロは、信じているがゆえに、主のみ教えの内に生き続けるのです。そして行く先々で主もご栄光を現わされました。ここでも、しばを束ねた薪を運び、くべるパウロの手にマムシが噛みついた時、島の人々は今にこの人は死ぬだろうと言っていましたが、何の害も受けないのを見て、「この人は神様だ」と言い出したのでした。人の見る目はころころ変わりますね。そんなものです。また熱病で苦しんでいる人をいつものように癒し、神のご栄光がそこでも現れました。こうしてパウロは行く先々で祝されて、ローマにたどり着きました。  ここに天国を目指すクリスチャンが心に留めておくべきことがあります。

日々のいつもの生活の中に突如としてマムシが出てくることがあるということです。サタンというマムシ、罪というマムシです。その時は慌てることなく、パウロのように振り払いましょう。そうすれば、主はあなたを守ってくださいます。

イエス様が歩まれたように、私たちも、必要があるところに手を差し伸べ、み教えを実行する者でありましょう。困っている人のために祈るのは、牧師だけでなくあなたにもできます。(マルコ16章15-18節)

キリストにある兄弟姉妹たちを大切にしましょう。そうすれば守られます。

 

2019年10月27日のメッセージです。

      「主を信じ続ける、従い続けるとは」    

                     使徒27章

 ここから見るパウロの立ち位置と現在日本に住む私達クリスチャンとには、共通するものがあると思います。一つは、周り中に、神を信じない者、未信者の人々がおられる中での日々。もう一つは、囚人として立つパウロは、決して社会的な信用を与えられていない。現在の私たちもクリスチャンということで、人々から注目されるような、期待されるような信用はないでしょう。むしろ疑いの目で見られることも多いと思います。ただ、そんな中でも、使徒パウロはどこにいても主の僕として生き生きと生きていました。これは私たちの見習うべき模範だと言えます。ところで皆さんは、「主を信じ続けることと、従い続けることとに違いがあると思いますか?」ある方は、違いがあると言います。従えなくても、信じ続けることはできるでしょう…と言われるのです。もしあなたが信仰に満足しておらず、力がない、恵みが足らないと言われるなら、原因はそこにあるかもしれませんね。使徒パウロは、信じる、だから従う…とそれらは全く一つもののようです。パウロが主にあって、航海が危険だと忠告しても、誰も耳を傾けませんでした。でもパウロはがっかりしたり、いじけたり、怒ったりしませんでした。この後起こる災難もわかっていながら、すべてを受け入れたのです。主を信じていましたから、クリスチャンはどういう態度をとるべきか教えられている通りに従ったからです。また、嵐の後には、主の言葉を伝えて皆を励まし、どうするべきかを教えました。

 

私たちも多くの未信者の中で、パウロのように主を信じるがゆえに、主の教えを実践し続ける者とならせていただきましょう。

 

2019年10月20日のメッセージです。

             「みな、私のようになってくださることです」    

                                                  使徒26章

 待たせるだけ待たせて、取り次いだ箇所でした。しかし、パウロさんのお証を読んで、クリスチャンの持てる力、確信、大胆さについて見せていただいたような感じです。今回パウロの証を分析して、彼の証には二つのものがあるとお語りしました。それが彼の信仰の強さであり、大胆さの柱となっているものだと示しました。

 

ひとつは、「私はキリストを信じて180度変えられました」です。以前の彼は、キリスト教大嫌いで、クリスチャンを迫害し、とらえて背教を迫るような人でした。そんな彼がキリストに出会って、今は、そのキリストを信じ、慕うものに変えられたのです。迫害する者から、命懸けで宣ベ伝える者となったのだ…ということです。

 

二つ目は、「私は、生ける神、イエス・キリストに出会った」です。ある日、「なぜ、私を迫害するのか」という御声を聞きました。誰ですかと問うと、「あなたが迫害しているイエスである」と。

 

この二つの体験、確信があれは、あなたも強く、大胆になれますよ。皆さんの中に、もっと信仰が強くなりたいという方がおられますか?もっと喜びと力のあるクリスチャンになりたいという方はいますか?ならば、これらを求めてください。必要なのは、もっと違う何かではなく、過ぎ去った過去のようになって、足元にあるものではないでしょうか?キリスト教が嫌いだったわけではないでしょうが、関心がなかった、でも今は、大好きになっている…それも180度の変化ですよ。もっと救われてからの変化を再認識してみてください。また神の御声は、これからも聞くことができますよ。だから、聖書を読んで、祈って…その中から御声を聴くのです。

 

2019年10月13日のメッセージです。

                       「主を知ることが・・・」                                             イザヤ11章1-9節

この個所は後に来られるキリストについて、どのようなお方か、またこの方が治められる世界はどのようなものか、を予言した個所と解説されているところです。

その方は、エッサイ(ダビデの父)の子孫に現れ、その上に主の霊(主を知る知識と主を恐れる霊)がとどまる。

その方は、正義と公正をもって、貧しいもののために判決を下す。

そしてその方の治める国では、「狼は小羊と共に宿り、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子供がこれを追っていく。…」と、今では現実離れした夢物語のように思える世界がそこに描かれています。

実は、これあのエデンの園では現実のものだったのです。

人類が神様の言いつけを守らず、サタンの誘いに乗って、取ってはならないと言われた善悪を知る木の実を食べてしまったときから、人類は罪を得、エデンの園から追い出されたのです。

それ以来は、動物たちとの間にも恐れと、敵対心が生じました。

これらも罪のもたらした結果の一つです。

しかし今日皆さん知ってください。

実は、キリスト(キリストの十字架の贖い)によって、現在、クリスチャンとなった人にもその恵みが秘かに与えられているのです。キリストを信じ受け入れるとは、キリストを内に迎え入れることですから、その人の上にも主の霊がとどまるようになるのです。

ただ、(9)「主を知ることが、海をおおう水のように…」これがカギです。祈りや聖書拝読を通して、神様と交わりを持ち、主の教えをやってみる。そうすることで、「主を知る」ことが増し加えられるのです。ぜひ「信じている」だけにとどまらず、「主を知る」ことを増し加えていってください

2019年10月6日のメッセージです。

 先週の礼拝メッセージを紹介します。

       「神様の深い愛と力」    

              エペソ3章14-21節

神の愛の広さ…神様の愛は地上の全ての人を含む、広い愛

 神の愛の長さ…世界が造られる前からあった愛

 神の愛の深さ…罪の深みに沈んでいるもののために跪いて、引きあげてくださる愛その愛に根ざして…深くキリストの愛に根差していると、ひどい嵐にあっても倒されることはない。

 神の愛の高さ…天まで届く高さ 実際にあった話ですが、ある心も顔も美しいクリスチャンの看護師は、彼女に嫉妬してひどいやけどを負わせた同僚を赦し、自分の家庭に受け入れました。ここまでの愛は、神の愛を受けていなければ示せません。また、盗み癖のある息子に今度盗んだら手をハンマーで砕く、と言った父親、実際には、息子の手ではなく自分の手をハンマーで打ちました。

 

人は、罪を持ったままでは天国に入ることができない。神はそんな人間を救うために、一人子の神イエス様を、私たちの身代わりとして十字架につけた。イエス様は手だけでなく体中から血を流して、十字架で死んでくださった。私たちを天に入れるために。これ以上の愛はない。

 

だれでも、このイエス様を信じるものは救われる。イエス様以外に救いはないのです。また、その後、心をきよめ、神の満ち満ちた様にまで引き上げてくださる。聖霊に満たしてくださる。

 

この神の愛を感じ、信じ、受け入れませんか?

2019年9月29日のメッセージです。

「キリスト者と呼ばれるようになった」    
                                       使徒11章26節

この度、キナモン先生によって語っていただいた主のメッセージで、「あなたもキリスト者(クリスチャン)と呼ばれる」でしょうかと、チャレンジを与えられました。確かに、周りの人々は、クリスチャンである私たちの語る言葉、行い、態度をみて、クリスチャンというものまた、キリストがどのようなお方であるかを判断し、評価するようになるのです。

 

ここで二つのことを心に留めていただきたいと思います。一つは、この日本で、良いことをし、良い態度をとったからと言って、「もしかしてあなたはクリスチャンですか」などとほめてもらえることはまずありません。どちらかというと、クリスチャンなんだから、それくらいのことして当たり前、もっと「こうも」、「ああも」するようにならないとだめだよ…などと結構厳しい評価の方が多くなる傾向があります。それは、この日本で、「クリスチャン」=「宗教者」という見方がなされ、神仏という理想概念から来る宗教者像と比べられる傾向が強いからなのです。もう一つは、「ああ、あなた教会に行ってたの(クリスチャンだったの?)、どうりで他の人と違うと思ってた」こんな評価を受けたなら、神の栄光が現れていますよ。「この人キリストさんだから、誘っても無駄よ」・・・こんなこと言われるのも素晴らしい評価ですね。「この人バカなんだから、キリスト馬鹿だから…」なんて言われたら、飛び上がって喜んでいいですよ。それはあなたが、「キリストさん」として見られているからですよ。あなたも「キリストさん」と呼ばれるようになってくださいませんか。

 

2019年9月18日~22日までの特別集会のメッセージです。