2020年3月31日礼拝メッセージです。

「パウロの切なる願い」       

          エペソ3章13-21節

 

今一緒に学んでいる書簡集は、「獄中書簡」と言って、パウロが牢獄の中から、各教会、クリスチャンたち一人一人を覚えつつ、したためた手紙となっています。それで(13)「ですから、私があなた方のために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。」というような言葉が入っているのです。

 

どんなことをパウロは神様に祈っていたのでしょうか?一つは、「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなた方の内なる人を強くしてくださいますように」です。そして次は、「キリストがあなた方の信仰によって、あなた方の心の内に住んでいてくださいますように」。ということです。そしてさらに、「愛に根ざし、愛に基礎をおいているあなた方が、全ての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようにな」ることでした。そうですね、私たちは弱く、罪深いものでしたが、神様はありのままの状態で受け入れてくださいました。だからと言ってそのままではもったいないですね。もっとその愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになることを神様は望んでおられるのです。さらにこうも祈られています。「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなた方が満たされますように」。目指しましょう…「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、私も満たされますように」と。そして求めましょう。

 

2020年3月22日礼拝メッセージです。

「不遜なものにならず、悟ろうとする者でありなさい」

 

       黙示録16章8-11節、Ⅰコリント2章14節

 

この黙示録の箇所に記されている事柄は、終わりの時代に起こるといわれる、艱難時代のことだといわれています。これがいつ起こるのかということは、多くの方々の関心あることだと思われますが、何時だとは言えないにしても、ここに記されているような特徴が人々のうちに見られるようになったら、その時期の近いことがわかるようになります。そういう視点からこの個所を見ると、神様が、ここまで打ったら、自分の罪を悔い改め、「神様助けてください、お赦し下さい」と、へりくだってくるかと思えば、そうすることもなく、むしろ、「これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった」。それで主なる神は次の災難をもたらしたが、それでも「自分の行いを悔い改めることせず、神に対して汚しごとを言う」・・・こうなると、神様も、もう堪忍袋の緒が切れてしまうのではないでしょうかね。それか最後の裁きの引き金となると思われます。ここで、二つのことを心に留めておいてください。

 

ひとつは、「終わりの時代、人々は、神様に対して、不遜な者となっていきます」。もう一つは、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません」(Ⅰコリント12:14)もう一つの言い方をすると、「まだ救われていない人間は…」ということになります。イエス様を信じて新しい命、聖霊をいただくまでは、神様のことはわからないのです。それは「ばかばかしいこと」「愚かなこと」「時代遅れもいいとこ」のようにしか思われないのです。今の時代、私たちは不遜な者にならず、悟ろうとする者となりましょう。

 

2020年3月15日礼拝メッセージです。

   「心の中にあるものが表に出る。だから…」 

               マタイ26章47-75

 

イスカリオテ・ユダの裏切りから、すべての流れは一変しました。その後いろんな人々の心模様を一緒に見てみました。

 

イスカリオテ・ユダ

もしかして彼は、「裏切ろう」と思ってやってなかったのではないかと思われる節があります。ただ単に、みんなの前で恥をかかされたから、腹が立ったから、ちょっといたずらをしてやろう、困らせてやりたい。どうせ彼はいつものようにやっつけるだろうから、なんせ彼はキリストですから・・・と。ところが予想外のことが起こったから、焦った彼は、大祭司のもとに。しかし、ここでやっと事の重大さに気づき、とっさに自殺をしてしまったのではないだろうか・… (あれほどイエス様が話しておられたのに、心の中に入ってなかったのですね)

 ペテロ

 彼も、ここに来るまで、自分の心の中にある、弱さ、もろさ、過信、(キリストに対する熱い愛もあった)に気づいてなかったみたいです。 

 祭司たち、パリサイ人たち

 彼らは、自分たちは、神に熱心な者、神に愛されている、正しい道を歩む者という認識があったようですが、本当のところ、神に喜ばれない、憎しみ、ねたみ、嫉妬、怒り、殺意が心の奥底に沸き立っていた。 

イエス・キリスト

 ここに見るイエス様の心の中には、「平安」「委ねる」「最後までやりきる」というものが見られます。※さて、私たちの内には何があるでしょうかね。それが「いざ」という時出るのです。

 

2020年3月8日礼拝メッセージです。

     「とりなしの祈り」   

    エレミヤ15章1節、エゼキエル14章12-20節

 

聖書のこの個所を読むとき、神様が怒っておられるのを感じることができます。聖書の中に義人として描かれている、モーセとか、サムエル、ノアやダニエル、ヨブなどがそこにいても…執り成したとしても、彼らが救えるのは、自分たちの命だけだ。もうわたしは、この民たちを赦さない、と言っておられますね。もうこれ以上許しておくわけにはいかない…という感じですね。世の終わりは、このようにしてくると覚えていてください。

 

 先週は、新型コロナウィルスの流行を通して、これらも最後の時代の前兆に記されてあったこと、私たちは、いつ主の日が来てもいいように、日頃から心の準備をして待っているものでいましょう、とお勧めしました。また、もし、モーセやサムエル、ノアやダニエル、ヨブなどが今の時代にいるとしたら、何をすると思いますか?やはり執り成しの祈りです。神様には、「お怒りの気持ちはわかりますが、そこはなんとか、もうしばらくお待ちください。赦してやってください」…と願い。人々に対しては、「いい加減にしなさいよ。神様は怒っておられますよ。悔い改めなさい、ヘリくださって赦しを願いなさい、あなた方がへりくだるならもしかすると主は怒りを鎮められるかもしれない」…と執り成しの祈りを捧げつつ、人々に語るのではないでしょうか?そうであるなら、それを私たちもさせていただきましょう。神様が彼らを愛されたように、そのようにしているあなたを主は格別愛してくださいますよ。

 

2020年3月1日礼拝メッセージです。

「新型コロナウイルスの広がりをどう理解するべきですか」

 

           ルカ21章5-36節(10,11) 

 

Q:新型コロナウイルスが世界に広がっています。本当に恐ろしい時代です。この問題は、聖書的にはどう考えたらよいでしょうか。

 

このような信者さんからの質問に中川健一先生が答えられた言葉から語らせていただきました。1番目に、疫病の存在は、被造世界が堕落した状態にあることを示しています。 質問者様は「本当に恐ろしい時代です」と言われましたが、実は、世界規模の疫病の被害は、歴史の転換点でたびたび起こっています。古代には天然痘、中世から近世にかけてはペスト、梅毒、19世紀にはコレラ、第一次世界大戦期にはスペイン風邪と言われたインフルエンザが、多くの人々の命を奪いました。(このようなものは、神様が造られた世界にはないものだった。)2番目に、疫病が霊的メッセージを持っている場合もあります。 つまり、神が疫病を通してお語りになるということです。出エジプトの時代、神はエジプトに疫病をもたらされました。目的は、ファラオにイスラエルの民を解放させるためです。カナンの地に定住して以降の時代、神はイスラエルの民に疫病をもたされました。目的は、イスラエルの民を悔い改めに導くためです。イエスは、すべての病を癒されました。これは、イエスが救い主であることを証明するしるしとなりました。さて、今神様これを通して何を語っておられるでしょう。3番目に、疫病は、患難期の予表と見ることができます。 終末時代に関して、イエスはこう語っておられます。 「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます」 (ルカ21:11)。


   「ギデオンが天から力を受けた秘訣」士師記6:33-40

 

「主の霊がギデオンをおおった」そして、「従順に神様の言われることを行った」、この二つが秘訣です。私たちも、主の霊に満たされることを求めて、主に従い通しましょう。そのようにして、イエス様の再臨を待ち望んでいましょう。

 


「救われるためには、何をしなければなりませんか」

                               使徒の働き16章25-34節(30) 

 

パウロとシラスは、イエス様を宣べ伝えたことにより牢屋に入れられました。苦しい牢屋の中で、彼らは神様に文句を言っていたでしょうか?いいえ、彼らは神様を褒めたたえ賛美していたのです。その時、地震が起きて、足枷や鎖が解け、牢の扉が開きました。看守は囚人が逃げてしまったと思い、自殺しようとしますが、パウロが止めます。誰も逃げていない、と。看守は「救われるためには何をすれば?」と聞き、その答えが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 

 

 

正しい人は一人もいません。そして、罪をもったままでは天国に行くことはできません。イエス様はそのような私たちの罪を赦すために、私たちの代わりに罪の罰を受けて十字架にかかって死んでくださいました。ですから、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言われたのです。

 

 


黙示録1:16-20、出エジプト15:6 「神の力強い右の手」

 

詩篇17:7、詩篇18:35,36、イザヤ49:16

 神様の右の手は力を象徴しています。敵である悪魔が私たちを倒そうとしても、神様の力は私たちを守り支えることができます。そして、その力強い神様の御手に握っていただくと、私たちは変わることできるのです。あなたは神様の御手に触れていただいたことがありますか?


エペソ3:14-21 「神の全能の力」

 

「愛に根ざし、愛に基礎をおいて」しっかり立っていましょう。神様の愛はすべての人に届くほど広く、天に届くまで高く、罪の深みにいる者にまで届くほど深いのです。


ガラテヤ5:19-26、ヨハネ17:17,20、エゼキエル36:25-28

 きよめられても完全になるわけではありません。完全なお方は神様だけです。また、きよめられると天使になるわけでもありません。罪を犯す可能性がなくなるわけでもありません。もう頂点に達したのだから成長もない…この考えも間違っています。きよめはゴールではなく、むしろスタート、これから成長するのです。きよめを追い求めましょう。


 マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」  創世記22章、Ⅰコリント4:7、マタイ16:24

 

神様は、アブラハムにイサクをささげよ、とおっしゃいました。彼にとっては一番大切な存在だったでしょう。そのイサクを捧げる決心をしたとき、彼は全てを神様に捧げました。全てを手放し、自分のものは何一つありません、全ては神様のものです、と言えたその時、天の御国はその人のものです。

2020年2月9日礼拝メッセージです。

    「神の奥義の内に生きる」     

           エペソ3章1-12節

 

パウロの言う「神の奥義」って何でしょう。

 

一つは、いつの日にか「いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる…私たちはキリストにあって御国を受け継ぐものともなった」ということのようです。(エペソ1章8-11節)

 

二つ目は、「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も(ユダヤ人も)共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということ」です。現在の私たちから見たら、「奥義」というか、それって当然のことなのではないか…と思うことなのではないでしょうか?ところが、キリスト前の人たちから見たら、すごい変化であり、とてもありがたい、それこそ「神の奥義」そのものなのです。パウロは、その奥義を人からではなく、神の啓示によって悟ったというのです。(3章3節)(ガラテヤ1章11-12節)

 

ここで皆さんも覚えていただきたいです。実は、神様は今も、「神の奥義」の扉をあなたの前に開いて、招いておられるのです。あなたにも教えよう、悟らせよう…と。しかし、神様はおっしゃっておられます。多くの人が「忙しい」「それどころではない」「後で」と言って、その扉をくぐろうとせず、通り過ぎてしまっている…と。

 

想像してみてください。日々聖書を読みながら、「神様そうなんですか?」「私もこうなりたいです」「これが欲しいです」と興奮しながら、発見の喜びに沸き立つ自分の姿を…主は待っておられますよ。「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」(12)

 

2020年2月2日礼拝メッセージです。

 「キリストこそ私たちの平和、和解、救い」

                                          エペソ2章11-22節

 

「神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、この私たちをキリストとともに生かし、救」ってくださり、神を知る者、天国に行くことのできる者としてくださったのです。ですから…そんな私たちですから、神の前、キリストの前では、異邦人の私たちも、割礼を受けている選民のユダヤ人でも、同じ扱いなのです。しかし、この罪の世では、差別的な格差の視点で見られ、いまだに差別の扱い、偏見、それに伴う怒り、憎しみなどが、この信仰の世界の中にもあります。しかし、イエス・キリストの十字架はそのような隔ての壁を打ち壊し、敵意を廃棄されたのだ。それで今はキリストにあって、また十字架によってすべてのものを一つにしたのだと力説されているのがこの個所なのです。

 

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し…敵意を廃棄された方です。」

 

このことのゆえに感謝しましょう。

キリストを、また十字架を誇りとしたいものですね。

 

またそんな私たちですから、私たちも差別的な格差の視点で人を見ることはやめましょう。偏見や怒り、憎しみも、敵意もみな振り払い、取り除けていただきましょう。私たちはキリストから来る平和の内を日々歩む者となりましょう。

2020年1月26日礼拝メッセージです。

「救われたとは・・・凄いこと」 

 

         エペソ2章1-10節

 

この個所は主にクリスチャンの体験した救いの証について記されてある箇所です。

 

6節の「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」に注目してみてください。

 

クリスチャンの皆さん、これがあなたのいただいた「救い」のもたらしたものなのです。

 

その確信ありますか?実感ありますか?あれば結構、日々感謝しつつ、その恵みの内に歩みましょう。もしないとしたら、1-5節までの御言葉は、その解決方法を教えてくれています。

 

 

 

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」以前の自分は死んでいたものであったことを思い出してください。

 

 

 

死んでいたから「分からなかったのです」「良いこともわかっていてもできなかったのです」また「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」そうです、そんな生き方だったことを思い出してください。

 

 

 

また「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」以前の自分は、そのような生き方をしていたものだった。

 

 

 

またこんな運命のもとにあったではないですか…

 

 

 

そんなところから「神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、この私たちをキリストとともに生かし、救」ってくださり、神を知る者、天国に行ける者としてくださったのです。確信を確かなものとしましょう。

 

 

2020年1月19日礼拝メッセージです。

「目が開かれ、はっきり分かるように」  

                                エペソ1章15-23節

 

1章後半の箇所は、「こういうわけで」という接続詞で始まっていますので、当然、前週に取り次いだ内容が関係しています。

つまり、時が満ちると、神はいっさいのものをキリストにあって

一つに集めることになる。

私たちは、キリストにあって、その救いの福音を聞き、信じて受け入れたことによって、約束の御霊の証印が押され、御国を受け継ぐ者となった者です。

またキリストに望みを置いて歩んでいるものです。

「こういうわけで…」とパウロは、絶えず、神に感謝を捧げ、あなた方のために祈っていると、その祈りの内容が記されています。

 

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなた方に与えてくださいますように。」(神を知るための知恵は聖書を読むときに与えられます。そしてその理解を助けてくださる御霊の存在…それがさらに豊かに…)

 

「また、あなた方の心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものなのか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか・・・(理解するように)」わかっているつもりで、そのほとんども知っていないということはないですか?さらに心の目がはっきり見えるようになること求めませんか?

 

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなた方が知ることができますように。」これらがパウロの祈りであり、神の御心でもあるのです。また教会の集まりにキリストが与えられている。教会はキリストの体なのだと言われています。私たちもそんな教会でありたいですね。

2020年1月12日礼拝メッセージです。

「神が私たちのために定めた道」 

          エペソ1章1-14節

2019年の11月まで「使徒の働きから」学んでいました。その書の最後は、パウロがローマでわりと自由のきく環境ではありましたが、牢獄で2年ほどつながれていたという記録で終わっています。その間にパウロは祈りつつ、諸国の教会(兄弟姉妹)に対して手紙を書き記したのです。それを獄中書簡(エペソ、ピリピ、コロサイ、ピレモン)と言います。これからそれらを通して学びたいと思っています。まずは、エペソ人への手紙です。

 

この書き出しの部分から、神様が私たちに対して立てている計画、希望、御心の姿などがいろんな方面から語られています。それをあえて世間一般で言われている「人間に定められている運命」という論説と比べながら、学んでみたいと思っています。世間一般に語られている運命論は、悲観的な論説が多いですが、聖書が語る神様の定めは、非常に希望の持てるものです。

 

(3)「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私達を祝してくださいました」

(4)「神は私たちを…キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のないものにしようとされました」

 

(5)「…私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです」

(11)「私たちは彼(キリスト)にあって御国を受け継ぐものともなったのです。…このようにあらかじめ定められていたのです」

 

神の定めた道はいいですね。ただそれを自分の運命として歩むかどうかはあなたや私にかかっているのです。あなたはどうしますか?

 

2020年1月5日礼拝メッセージです。

「祝福は御言葉を読むだけでなく、実行するにある」 

                マタイ7章13-27節

 

2020年の冒頭に掲げた御言葉は「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」 

勧めとして「毎日聖書を読み、何か一つのことでも心に留め」

「その心に留まったことを実際にやってみようと努力する」ということをやってみてくださいと、言いました。

 

この年の初めにチャレンジを決意してみられませんか?とお勧めしましたが、今日の箇所を読むと、イエス様の語っておられる言葉のニアンスは、もっと強いものであることがわかります。

「わたしに向かって『主よ、主よ。』というものがみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(21)とか、

「わたしのこれらの言葉を聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」また「わたしのこれらの言葉を聞いてそれを行わないものはみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」 イエス様の言葉や聖書の教えとかは、聞くだけでなく、また、知っているだけでもなく、それを行う(実践する)(生活に、人生に生かすこと)が大事なのだということが強く語られているのに気が付きます。

 

それこそが、イエス様の語られた狭き、細い道であり、いのちに至る道であるのです。

 

それを教えない、そこに導かない指導者は、偽預言者であるということになってくるのではないでしょうか…さあ、みなさん、聖書を読みましょう。

そして神の御心を知り、それに歩む者とならせていただきましょう。

2020年元旦礼拝メッセージです。

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」 

                ヨハネ11章40節

 

2020年の冒頭に掲げる御言葉です。

主なるイエス様は、私たちにこう語っておられます「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と。「もしあなたが信じるなら」この言葉には二つの意味があります。

ひとつは、「あなたがイエスを自分の主として、神として信じ受け入れるなら」

という意味と、「すでに信じている方々、今この瞬間にも、主を信じて、主に賭けて、頼っていくなら」というものです。

ですから、未信者の方でも、長い信仰生活を積んでこられた方でも、一様に「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と語られているのです。その実現のために二つのことをお勧めします。

一つは、毎日聖書を読み、何か一つのことでも心に留めるのです。それには、その箇所の意味が必ずしも完全に分かる必要はありません。神様が自分に教えようとしている真理をつかもうとすればいいのです。

二つ目は、その心に留まったことを実際にやってみようと努力してみるのです。

ある事柄は、その言葉通りにやってみるといいのです。またある事柄は、「そうできるように助けてください」という祈りに変えて、求め始めるようにしてみればいいのです。大切なことは、主イエスを信じる、だからその教えを(御心を)実行する。

決して読んだだけ、学んだだけにせず、何か、あなたの一日に、あなたの生涯に、あなたの人格に生かそうとしてみるのです。そうすればあなたは神の栄光を見ることになるのです。この年の初めにチャレンジを決意してみられませんか?

 

2019年12月22日のメッセージです。

「神の御子の喜ぶプレゼントは」  

          マタイ7章12節

世の中のクリスマスを見ると、一つの疑問が頭をよぎります。それは、「誕生日にお祝いされるのは誰なのか?」「誰がプレゼントをもらうのだろうか?」当然その本人ですよね?ところが、クリスマスに人々が思うことは、今年はどんなプレゼントをもらえるだろうか?ということなのではないでしょうか?つまり、本人不在の誕生パーティーをみんなは楽しんでいるような感じです。イエス・キリストがこの世に生を受けてくださったときも、彼には産湯を使う部屋さえ与えられてなかったのです。現在も同じような状況なのではないでしょうか?

 

さて、ではイエス様が来てくださったことを記念して、プレゼントを捧げるとしたら、いったいどんなプレゼントを喜ばれるだろうか?「クリスマスの鐘の音」という紙芝居を読んでいただきましたが、神様が喜ばれるプレゼントを捧げたら、教会の鐘の音が鳴るということで、みんな自分の才能や、財力を尽くして高価なプレゼントをしましたが、全く鐘は鳴りませんでした。しかし貧しいながらも気持ちの優しい兄弟が、教会に行く途中で行き倒れの人を介抱し、心からの祈りを捧げたところ、教会の鐘がいきなり鳴り響いたというお話でした。聖書の中に、病気の人を見舞い、牢につながれている人を訪ね、飢えた人に食べさせ、渇いている人に飲ませたりしたのは、「わたしにしたのだ」とイエス様は語っておられます。皆が、自分にしてもらいたいことをほかの人にもし、してもらいたくないことは、自分も人に対してしない…こういうキリストの律法のうちに生きたらどうでしょう。世の中平和が生まれるのではないでしょうか?これが主の喜ぶプレゼントです。

 

2019年12月15日のメッセージです。

「東方の博士が見出したもの」    

         マタイ2章1-18節

 

東方の博士たちは、当時のペルシャ帝国から来た天文学の博士(マギ)たちでした。彼らは、変わった星を見つけ、それが何の印なのか調べ上げ、それこそ、預言されていたユダヤに新しい王の生まれたことの印だと結論付け、確認と、お祝いに駆け付けたのです。そして最後には、その変わった星に導かれ、その星のとどまった家で、幼子イエスを見出し、贈り物を捧げ、礼拝して帰っていきました。

 

そんな彼らから三つのことが学べます

一つは、神様は、求める者には、導きを与え、ご自分に引き寄せられる、ということです。東方の博士たちもそうでしたが、現在の私たちも、それぞれに教会や、信仰に導かれた経緯や、動機は違っていても、よくよく見れば、それらを通して神様が確かに導いてくださったことを見ることができます。現在も、神様はご自分の御許に、求める人々を招いておられるのです。

二つ目は、東方の博士たちのように、途中、主の導きの星にではなく、人に聞いたことによって大変なロスと危険が発生することになる。博士たちは、当然ユダヤ人はみな喜んでお祝いしていると思い込んでいたのでしょう。しかし現実は、誰も気づいてもいなかったのです。この博士たちのもたらした知らせと、資料をもとに、嫉妬にかられた王が当時の2歳以下の男児を殺害するという最悪の事態になっていくのです。博士たちは城から出てあの導きの星を見出した時、どれほど安心したことでしょう。

三つ目は、博士たちが学び得たのは、神の真実さと導きに従うことの大切さだった。時間がかかっても、神様は言われていたことを本当になさるのです。神様は今でも、私たちの心に事の善悪にしても、右に、左にとアドバイスを下さいます。それに従う道が一番安全ですよ。

 

2019年12月8日のメッセージです。

                「愛には恐れがありません」      

                                   Ⅰヨハネ4章18節

 

52年前の12月8日、午後5時半。阿多田島の子供たちとクリスマス会をするために、福音丸で出発したドン・ボーマン師を含む10名のクリスチャンたちが遭遇した、遭難事故、尊い7名の殉教を覚え、一緒に顧みる時を持ちました。

 

今の時期の午後5時半は、すでに陽が落ち、暗闇に覆いつくされる頃です。今一度その時間に岸壁に立ってみると、「よくこんな中、出発しようという気になったな」と思わされるとともに、彼らが、そんな中にも、喜び、期待をもってこの暗闇迫る岸壁を出発したことに、「愛には恐れがありません」という御言葉が思わされます。そうです、私たちの先輩たちは、燃えるような愛と、喜び、信仰のうちに伝道していたのです。それはちょうど、天使の御告げを受けて、赤子のイエス様を見つけて礼拝した羊飼いたちが、喜びいさんで人々に神のなされた真実さを証ししたような姿だったと言えるでしょう。「それなのになぜ?」と皆さん思われると思います。それはある意味当然の疑問だと思います。答えは、天国に行ったときにはっきり分かるものとなるでしょう。

 

ただ三つのことをお伝えします。

一つは、「目先のものに焦点を当てるばかりでなく、遠く(天国、永遠の命)にも焦点を当てなさい」。どこに焦点を合わせるかで、見え方、感じ方が違ってくるからです。天国に焦点を当てるなら、今の窮地にも脱出の道が見えてきますよ。

二つ目は、「すべてのことは決して無駄にならない」です。「すべてのことを働かせて益とする」というのが神様からの約束です。

最後は、「神様の真実さを証しし続けなさい」です。どうぞ、生ける神の真実さを日々体験し、知らない人、気づいていない人に教えてあげてください。

 

2019年12月1日のメッセージです。

「イザヤ書に見るイエス・キリスト」      

 

イザヤという預言者は、キリスト誕生前、約700年も昔に用いられた神の器です。そしてイザヤは神の霊感によって見させていただいた(聞かせていただいた)神の啓示を書き留めたのがこの書ですが、歴史を知り、聖書の内容を知る私たちから見たら、ここにはっきりキリストについて見ることができるのです。

 

7章14節、キリストが処女から誕生することが預言されています。

 

9章6節、キリストが何と呼ばれるかが語られています。真の神であり、真の人であるという不思議な存在であることがわかります。

 

11章1-5節、キリストとなる方が、エッサイ(ダビデのお父さん)の子孫から生まれる、またどのような存在となるかが語られています。

 

52章13-15節、十字架に向かうイエスの姿が語られています。

 

イザヤ53章、じっくり読んでみてください。十字架のイエスの姿がはっきり描かれています。

 

クリスマスは、このような預言が本当に起こったのだ、神様は語られていたことを本当に行われたのだ、神は真実なお方なのだ、と祝う日なのです。ですから、このクリスマスの時期に、まずこのことを一緒に見させていただきました。

 

700年後に成就した預言。ということはすごいことですよ。言ってみれば、鎌倉時代に語られていた預言が、現在社会で成就を見るというスケールの大きなことなのです。今一度、そのことについて考えてみましょう。

 

心整えられて、クリスマスを迎えることができますように!

 

2019年11月24日のメッセージです。

「悪魔のトリック」「罪による死」      

                                イザヤ46章

 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。」

これは、偶像の神々について聖書の神が言い表している言葉です。運んでもらわなければ、どこにも行けないような神に願い事をしてどうなるのか?そのものは、疲れた獣の重荷となっているのだと…神様は言われます。

 

それに比べ、「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時から担われており、生まれる前から運ばれた者よ。」つまり、神様が、私たちを生まれる前の母の胎内にいた時から担ってきたのだよ、と神様は言っておられます。そうなのです、あなたや私達の命、時間の全ての中に生きて、共にいてくださるのが造り主の神様なのです。

 

ところが、私たち人間が偶像を礼拝することで、とても残念なことに、その物の存在のゆえに、真の神様(愛の神様)が見えなく(感じられなく)なってしまっているのです。そこに人間の内にある「罪による死」の現実が見えると思います。残念ですね、死んでいるから、分からないのです。また偶像礼拝は、自己満足礼拝(自分流の礼拝)とも言えます。神様をそれに見立てているからです。でもそれゆえ真の神様は、寂しく、悲しい思いをしておられるのです。ここに、悪魔のトリックがあるのです。そして多くの人たちが、そのトリックに引っかかってしまっていて、真の神様への道(命への道)もわからないまま滅びの道に歩んでしまっているのです。ここにも罪による死の現実の姿が見えるのです。皆さん、救われてください。

 

2019年11月17日のメッセージです。

      「感謝の法則」

              ピリピ4章4-7節、Ⅰテサロニケ5章16-18節

「感謝」の法則というものに三つあります。

 

1、 感謝と健康には深い相関関係がある

 

感謝する心を持った人は、積極的で前向きな人生を歩むようになります。そうなると、心が健やかになると同時に、体も健康になる傾向があります。日本にも、「病は気から」ということわざがありますね。

 

2、 人格的に成長すると、感謝することが多くなる

 

意識して感謝を始めると、不思議なことに、感謝することがどんどん増えてきます。それは感謝することによって、自分の感性が磨かれていくからです。(その逆もしかりです)試練の中にある「隠れた祝福」というものがあるのをご存知ですか?同じ苦しいところを通るなら、不平不満、愚痴よりも、そこから得られる祝福を見て、感謝できるようになりたいものです。

 

3、 感謝の言葉は、それを受ける人に癒しと慰めをもたらす

 

聖書に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて、感謝しなさい」これは、不幸や、悲劇をも感謝しなさいという意味ではありません。これは、決して変わらない神様がおられるから、信頼して、意識的に感謝することを選び取りなさいという意味なのです。そうしたら、逆境の時でも感謝の心を失わない、状況にも左右されることのない人になりますよ。

2019年11月10日のメッセージです。

「神の国とイエスについて証しし続けた」 

                                     使徒28章16-31節

 使徒の働きの最後に三つのことを軸としてお話ししました。

一つ目は、「パウロは異邦人には、異邦人に対するように語り、ユダヤ人には、ユダヤ人に対するように語った」ということです。パウロは未信者の中では、神の愛と真実さをもって、その生きざまを通して証しし、ユダヤ人の中では、御言葉の知識をもって預言の成就としてのキリストを語ったのです。私たちもこの両面をしっかり持っている者でありたいですね。

二つ目は、「信じる者と信じない者の両者が起こることは避けられない」ということです。パウロが語っても、いいえ、イエス様が語っても同じでした。それは、「この民の心は鈍くなり」・・・これが原因だというのです。この言葉の意味は、「満腹になっている」「十分に足りている」だから、それ以上求めないということなのです。だからイエス様は、「心の貧しいものは幸いだ」と言われたのですね。こののち、キリスト教の教えは、ローマの町中に浸透し、それゆえ激しい迫害が起きてきます。しかし、300年後には、ローマ皇帝が、キリスト教を国教として受け入れるようになります。私たちも元気を出して、証しし続けましょう。

三つ目のことは、「なおも、福音は、語り続けられる」ということです。

結局、ユダヤ人は、イエスをキリストとして認め、受け入れなかったので、この救いは異邦人に送られることになっていきます 。この「使徒の働き」は、完結されていません。何故なら、聖霊の働きは、今もなお、あなたや私達を通して続けられているからです。あなたも日々聖霊に導かれながら、主を体験して、証しできるものとならせていただきましょう。

 

2019年11月3日のメッセージです。

 「主は共に働き、御言葉を確かなものとされた」

                 使徒28章1-15節

 以前、パウロの立ち位置と現在日本に住む私達クリスチャンとには、共通するものがあると言いました。一つは、周り中に、神を信じない者、未信者の人々がおられる中での日々。もう一つは、囚人として立つパウロは、決して社会的な信用を与えられていない、ということでした。ただパウロは、信じているがゆえに、主のみ教えの内に生き続けるのです。そして行く先々で主もご栄光を現わされました。ここでも、しばを束ねた薪を運び、くべるパウロの手にマムシが噛みついた時、島の人々は今にこの人は死ぬだろうと言っていましたが、何の害も受けないのを見て、「この人は神様だ」と言い出したのでした。人の見る目はころころ変わりますね。そんなものです。また熱病で苦しんでいる人をいつものように癒し、神のご栄光がそこでも現れました。こうしてパウロは行く先々で祝されて、ローマにたどり着きました。  ここに天国を目指すクリスチャンが心に留めておくべきことがあります。

日々のいつもの生活の中に突如としてマムシが出てくることがあるということです。サタンというマムシ、罪というマムシです。その時は慌てることなく、パウロのように振り払いましょう。そうすれば、主はあなたを守ってくださいます。

イエス様が歩まれたように、私たちも、必要があるところに手を差し伸べ、み教えを実行する者でありましょう。困っている人のために祈るのは、牧師だけでなくあなたにもできます。(マルコ16章15-18節)

キリストにある兄弟姉妹たちを大切にしましょう。そうすれば守られます。

 

2019年10月27日のメッセージです。

      「主を信じ続ける、従い続けるとは」    

                     使徒27章

 ここから見るパウロの立ち位置と現在日本に住む私達クリスチャンとには、共通するものがあると思います。一つは、周り中に、神を信じない者、未信者の人々がおられる中での日々。もう一つは、囚人として立つパウロは、決して社会的な信用を与えられていない。現在の私たちもクリスチャンということで、人々から注目されるような、期待されるような信用はないでしょう。むしろ疑いの目で見られることも多いと思います。ただ、そんな中でも、使徒パウロはどこにいても主の僕として生き生きと生きていました。これは私たちの見習うべき模範だと言えます。ところで皆さんは、「主を信じ続けることと、従い続けることとに違いがあると思いますか?」ある方は、違いがあると言います。従えなくても、信じ続けることはできるでしょう…と言われるのです。もしあなたが信仰に満足しておらず、力がない、恵みが足らないと言われるなら、原因はそこにあるかもしれませんね。使徒パウロは、信じる、だから従う…とそれらは全く一つもののようです。パウロが主にあって、航海が危険だと忠告しても、誰も耳を傾けませんでした。でもパウロはがっかりしたり、いじけたり、怒ったりしませんでした。この後起こる災難もわかっていながら、すべてを受け入れたのです。主を信じていましたから、クリスチャンはどういう態度をとるべきか教えられている通りに従ったからです。また、嵐の後には、主の言葉を伝えて皆を励まし、どうするべきかを教えました。

 

私たちも多くの未信者の中で、パウロのように主を信じるがゆえに、主の教えを実践し続ける者とならせていただきましょう。

 

2019年10月20日のメッセージです。

             「みな、私のようになってくださることです」    

                                                  使徒26章

 待たせるだけ待たせて、取り次いだ箇所でした。しかし、パウロさんのお証を読んで、クリスチャンの持てる力、確信、大胆さについて見せていただいたような感じです。今回パウロの証を分析して、彼の証には二つのものがあるとお語りしました。それが彼の信仰の強さであり、大胆さの柱となっているものだと示しました。

 

ひとつは、「私はキリストを信じて180度変えられました」です。以前の彼は、キリスト教大嫌いで、クリスチャンを迫害し、とらえて背教を迫るような人でした。そんな彼がキリストに出会って、今は、そのキリストを信じ、慕うものに変えられたのです。迫害する者から、命懸けで宣ベ伝える者となったのだ…ということです。

 

二つ目は、「私は、生ける神、イエス・キリストに出会った」です。ある日、「なぜ、私を迫害するのか」という御声を聞きました。誰ですかと問うと、「あなたが迫害しているイエスである」と。

 

この二つの体験、確信があれは、あなたも強く、大胆になれますよ。皆さんの中に、もっと信仰が強くなりたいという方がおられますか?もっと喜びと力のあるクリスチャンになりたいという方はいますか?ならば、これらを求めてください。必要なのは、もっと違う何かではなく、過ぎ去った過去のようになって、足元にあるものではないでしょうか?キリスト教が嫌いだったわけではないでしょうが、関心がなかった、でも今は、大好きになっている…それも180度の変化ですよ。もっと救われてからの変化を再認識してみてください。また神の御声は、これからも聞くことができますよ。だから、聖書を読んで、祈って…その中から御声を聴くのです。

 

2019年10月13日のメッセージです。

                       「主を知ることが・・・」                                             イザヤ11章1-9節

この個所は後に来られるキリストについて、どのようなお方か、またこの方が治められる世界はどのようなものか、を予言した個所と解説されているところです。

その方は、エッサイ(ダビデの父)の子孫に現れ、その上に主の霊(主を知る知識と主を恐れる霊)がとどまる。

その方は、正義と公正をもって、貧しいもののために判決を下す。

そしてその方の治める国では、「狼は小羊と共に宿り、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子供がこれを追っていく。…」と、今では現実離れした夢物語のように思える世界がそこに描かれています。

実は、これあのエデンの園では現実のものだったのです。

人類が神様の言いつけを守らず、サタンの誘いに乗って、取ってはならないと言われた善悪を知る木の実を食べてしまったときから、人類は罪を得、エデンの園から追い出されたのです。

それ以来は、動物たちとの間にも恐れと、敵対心が生じました。

これらも罪のもたらした結果の一つです。

しかし今日皆さん知ってください。

実は、キリスト(キリストの十字架の贖い)によって、現在、クリスチャンとなった人にもその恵みが秘かに与えられているのです。キリストを信じ受け入れるとは、キリストを内に迎え入れることですから、その人の上にも主の霊がとどまるようになるのです。

ただ、(9)「主を知ることが、海をおおう水のように…」これがカギです。祈りや聖書拝読を通して、神様と交わりを持ち、主の教えをやってみる。そうすることで、「主を知る」ことが増し加えられるのです。ぜひ「信じている」だけにとどまらず、「主を知る」ことを増し加えていってください

2019年10月6日のメッセージです。

 先週の礼拝メッセージを紹介します。

       「神様の深い愛と力」    

              エペソ3章14-21節

神の愛の広さ…神様の愛は地上の全ての人を含む、広い愛

 神の愛の長さ…世界が造られる前からあった愛

 神の愛の深さ…罪の深みに沈んでいるもののために跪いて、引きあげてくださる愛その愛に根ざして…深くキリストの愛に根差していると、ひどい嵐にあっても倒されることはない。

 神の愛の高さ…天まで届く高さ 実際にあった話ですが、ある心も顔も美しいクリスチャンの看護師は、彼女に嫉妬してひどいやけどを負わせた同僚を赦し、自分の家庭に受け入れました。ここまでの愛は、神の愛を受けていなければ示せません。また、盗み癖のある息子に今度盗んだら手をハンマーで砕く、と言った父親、実際には、息子の手ではなく自分の手をハンマーで打ちました。

 

人は、罪を持ったままでは天国に入ることができない。神はそんな人間を救うために、一人子の神イエス様を、私たちの身代わりとして十字架につけた。イエス様は手だけでなく体中から血を流して、十字架で死んでくださった。私たちを天に入れるために。これ以上の愛はない。

 

だれでも、このイエス様を信じるものは救われる。イエス様以外に救いはないのです。また、その後、心をきよめ、神の満ち満ちた様にまで引き上げてくださる。聖霊に満たしてくださる。

 

この神の愛を感じ、信じ、受け入れませんか?

2019年9月29日のメッセージです。

「キリスト者と呼ばれるようになった」    
                                       使徒11章26節

この度、キナモン先生によって語っていただいた主のメッセージで、「あなたもキリスト者(クリスチャン)と呼ばれる」でしょうかと、チャレンジを与えられました。確かに、周りの人々は、クリスチャンである私たちの語る言葉、行い、態度をみて、クリスチャンというものまた、キリストがどのようなお方であるかを判断し、評価するようになるのです。

 

ここで二つのことを心に留めていただきたいと思います。一つは、この日本で、良いことをし、良い態度をとったからと言って、「もしかしてあなたはクリスチャンですか」などとほめてもらえることはまずありません。どちらかというと、クリスチャンなんだから、それくらいのことして当たり前、もっと「こうも」、「ああも」するようにならないとだめだよ…などと結構厳しい評価の方が多くなる傾向があります。それは、この日本で、「クリスチャン」=「宗教者」という見方がなされ、神仏という理想概念から来る宗教者像と比べられる傾向が強いからなのです。もう一つは、「ああ、あなた教会に行ってたの(クリスチャンだったの?)、どうりで他の人と違うと思ってた」こんな評価を受けたなら、神の栄光が現れていますよ。「この人キリストさんだから、誘っても無駄よ」・・・こんなこと言われるのも素晴らしい評価ですね。「この人バカなんだから、キリスト馬鹿だから…」なんて言われたら、飛び上がって喜んでいいですよ。それはあなたが、「キリストさん」として見られているからですよ。あなたも「キリストさん」と呼ばれるようになってくださいませんか。

 

2019年9月18日~22日までの特別集会のメッセージです。

18日(水)   「あなたがたの耕地を開拓せよ」 

                 ホセア10章12節

心の耕地を耕してやわらかくしておくために、神様の祝福に対して感謝しましょう。聖書を読み、祈り、証しをし続けて、神様への最初の愛が生ぬるくならないようにしましょう。不信仰な思いにならないよう、神様の御言葉、約束を信じましょう。そのようにして、柔らかい心で特別集会にのぞみましょう。
♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪

19日(木)「あなたにとってイエス様はどのようなお方?」

                    マタイ22章42節

イエス様の裁判をしたピラトは、イエス様をただの人として見ていました。その結果、イエス様に出会いながらも、最後には絶望して自殺しました。バプテスマのヨハネは、イエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」つまり、神として見ていました。その結果、殉教の死を遂げますが、心は希望に満ちあふれていて、素晴らしい天の御国に行くことができました。さて、あなたはイエス様を「人」として見ているか、「神」として見ているか、考えてみてください。

 ♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪

20日(金)「人を赦さないものは神から赦されない」

                マタイ18章21~35節

私たちは神様から多く赦された者ですから、私たちを傷つけ、ひどいことをした人をも赦す必要があります。そうでなければ、神様は私たちの罪を赦さない、とおっしゃいます。人を赦すことはとても大切です。

 ♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪

21日(土)  「ペンテコステの意味(目的)」

                使徒2章1~4節

その時に与えられた印は、「激しい風」、神様がもう一度いのちの息を吹き込まれたことを表します。「炎のような分かれた舌」、罪の性質をきよめる聖霊の業の象徴。「他国の言葉」、一つ心、誰にでも通じる全き愛の象徴。このように、ペンテコステは、みなが聖霊に満たされ、神のきよめの恵みを受けることを意味していました。あなたはもう聖霊を受けましたか?

 ♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪

 22日(日):朝・礼拝

      悪者はおのれの道を捨てよ(罪から離れよ)」

                  イザヤ55章7節

神様が人を造られました。神様とコミュニケーションをとることのできるものとして造ってくださったのです。しかし、罪を犯したために、私たちは神様から遠く離れ、実は、霊的に死んだものとなってしまったのです。そんな私たちに、神様は今でも呼びかけておられます。「私のもとに来なさい、私が休ませてあげる」と、両手を広げて語りかけてくださいます。私たちの霊の目を開くために。神様の呼びかけを聞き、応えるために。私たちがごめんなさい、と神様にお詫びして、罪を離れる時、神様は私たちを罪から解放してくださいます。全く新しく造られた者と変えてくださるのです。イエス様が十字架で流してくださった血潮のゆえに、今までのように自己中心なものではなく、何よりも神様を愛し、第一とするものと変えてくださるのです。神様はあなたの心と人生を変えたい、と思っていてくださいます。そして、今も呼びかけておられます。イエス様の御声が聞こえませんか?

♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪゚+。+゚♪

 22日(日):夕・夕拝

 「霊とからだをもって神の栄光を表しなさい」

 「クリスチャンと呼ばれるにふさわしいものでしょうか?」

        Ⅰコリント6章19,20節、使徒11章26節b

 アンテオケでキリストの弟子は、はじめてキリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになりました。心が全く変えられ、主と共に歩むうちに示されてすべてを明け渡してきよめられ、態度や生活、見た目も変えられ…人々が「あの人はクリスチャン、小さなキリスト」と呼ぶようになる。どうでしょうか?あなたを見て、人々はあなたをクリスチャン、と呼ぶでしょうか…

2019年9月8日のメッセージです。

「神の前に、人の前に、精一杯生きればいいのです」   

               使徒24章24節-25章14,22節

 今回の箇所に登場する方々について、まず紹介しました。ベルニケという女性はアグリッパ王の妻の座にいた人ですが、実は妹なのです。そしてドルシラはその下の妹。ですから、この上の立場にいる人たちの道徳的な感覚は、敬虔な信仰者のものとはかけ離れたものだったと推測できます。今日の箇所で覚えていただきたいことが2つあります。ひとつは、罪深い人でも、信仰や神様のことに関心のある人はいるということです。このペリクスや妻にしても、またアグリッパ王とベルニケにしても、自分たちの罪深さのゆえに、パウロの語る正義と節制、やがて来る審判には耐えられなかったものの、パウロのことについて知りたい、その話を聞いてみたいという思いはあったのです。そして、パウロには訴えられているような罪などない、無罪だと確信していたのです。人を見かけだけで判断して、福音を語らないでいると、神様のチャンスを逃すことになることを覚えましょう。二つ目は、(8)パウロは、神の前にも、人の前にも、宮に対しても、カイザルに対しても、何の罪も犯していません、全くきよい良心をもって生きてきました、とよく証しました。そういう生き方、信仰を持つことは、可能なのだということです。もっと強く言えば、それは神様の御心、神の望んでおられることなのです。ここで覚えたいのは、これは、決して間違いや、失敗、失態など犯さないというものではありません。むしろ、そういうもので倒れたら、また立ち上がり、自分の最善を尽くしてそのすべてをクリアーにして常にきよい良心を保つようにするのです。そうすれば、必ず可能ですし、神様の御前に恥じることなく立つことができます。

 

2019年9月1日のメッセージです。

 「神はすべてのことを働かせて益とされる」  

                使徒24章

使徒パウロは、エルサレムに上るとき、かなり風当たりの強いことは、覚悟していたようでした。そしてその通りのことが起こったのです。そんな中、彼は神様から約束の御言葉をいただきました。「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」 ここであなただったら、どんなことを期待するでしょうか?すぐにでも、牢獄から解放されて、まるで旅行にでも行くように出て行くことを期待するでしょうか?しかし、一向に事の流れは変わりませんでした。むしろもっと長引き、事は複雑化していくようでした。 暗殺の陰謀が企てられ、正義の裁きをつかさどる人たちは、袖の下を期待して近づいてきたり、キリスト信仰に興味を示すが、正義と節制、やがて来る審判などの話になると、すぐに逃げてしまう…そんなのを見ていると御言葉の実現は、不可能であるように見えました。私たちだったらどうでしょう。そういうところから、もう「あきらめモード」になってしまって、神様や御言葉を疑いだしたり、信じる力が弱くなったりしやすいのです。しかし、私たちは、このパウロの先のことを見て、確かに遠回りしたように見えるかもしれないけど、確かにローマに行き、そこで証した事実を覚え、自分で自分を奮い立たせましょう・・・必ず、主は約束を守られるのです。

 

そしてこの御言葉を心にも、頭にも記憶させておきましょう。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8章28節

 

あなたもこの御言葉の証人となってください。

 

2019年8月25日のメッセージです。

            「きよめの集会のふれを出せ」    

                        ヨエル1章2-14節 2章12-18節

この書は旧約時代のユダ国のヨシヤ王の時代に記されたものではないかと言われています。というのも、不信仰な王国が続く中で、このヨシヤ王の時代に大リバイバルというか、国中におふれが出され、聖めの集会が開かれ、大いなる民族的悔い改めがなされたからです。この書には、二章にわたって、二度「断食の布告をし、聖めの集会のふれを出せ」と呼びかけられています。そんなヨシヤ王に主なる神は、「・・・あなたは心を痛め、神の前にへりくだり、私の前にへりくだって自分の衣を裂き、私の前で泣いたので、私もまた、あなたの願いを聞き入れる」(Ⅱ歴代34章27節)と言ってくださったのでした。

ところで今度私達の教会でも、アメリカから、新しく教団の総理となられたキナモン師によって「きよめの集会」が開かれます。これは何のためにあるかというと、私たちの内にあるものがかき混ぜられるためだと思ってください。一昔前のお風呂では、お風呂を焚くと、熱くなった水は上に上がり、もういいかと思い入ってみると、半分から下は水だったということがありました。だから今の本当のお風呂の温度を測るために、かき混ぜてから温度をみたのです。同じように、私たちの心や信仰も、これくらいでいいか?と思っているのが実はまだ水の状態だったりしたら大変です。そこでかき混ぜていただき、改めるべきところが示されたら、改め、守られていると感じたら、感謝し、私たちもパウロのように「神の前に、責められることのない良心をもって生きてきました」と言える者とさせていただきましょう。「きよめの集会」「特別集会」「リバイバル集会」呼び名は色々ですが、とにかく、主を呼び求めましょう。

2019年8月18日のメッセージです。

           「パウロの弁明(証し)2」   
                                            使徒23章1-24節

使徒22章では、パウロの証は、三つの骨組みをもって構成されていることが示されていました。

キリストに出会う前の自分はどんなだったか 

どのようにしてキリストに出会ったか 

クリスチャンになって〈救われて〉どう変わったか、でした。

そしてこの23章では、開口一番「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活してきました」と証しています。聞いていた人々は、全くそれを受け入れようとはしませんでしたが、こういう生き方こそ、大切なのではないでしょうか?よく「悔いのない人生を過ごしたい」という人の声を聴きますが、このパウロこそ、そういう人生を過ごした人だと言えるでしょう。どうでしょうか、私たちは、神の前に、人々の前にこのように言うことができるでしょうか?こういう確信、生き方を目指すのがホーリネスの歩みというものなのです。

捕らえられ、あらぬ疑いをかけられ、責められ、囚人のようにされたパウロに対して、神様は、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と励ましてくださいました。お先真っ暗のように見えている現実なのに、神様は、彼に希望の将来を提示されたのです。この後、パウロに対する暗殺計画があることが知らされると、百人隊長は、彼をカイザリヤというところに、まるで連隊長を護衛するようなありさまで、警護しながら、連れて行ったのです。ここに神様の守りとご配慮を見ることができます。

2019年8月11日のメッセージです。

                 「パウロの弁明(証し)」 

                                          使徒22章

初代教会には、この時一つの課題がありました。それは、ユダヤ人改宗者のクリスチャンは、今までの信仰に加えて、イエス・キリストを信じるというものでしたが、福音が異邦人(外国人)に広がりだしたら、ではクリスチャンになるにはまずユダヤ人になる必要があるのか?〈ユダヤ人のようにモーセの律法、慣例を守る必要があるのか〉ということでした。ユダヤ人改宗者のクリスチャンは、それ以外は認められないということだったのです。それでは彼らにとって救い主は、キリストではなく、ユダヤ教の律法ということになってしまうのです。そこで結局初代教会は、ユダヤ教からの分離の道を選択することになり、それゆえ、ユダヤ人からの攻撃が激しくなったのでした。

パウロはそんなユダヤ人たちから告発され、そのたびに弁明しました。今日の箇所はその弁明(証し)の箇所です。彼の証は、三つの骨組みをもって構成されています。

キリストに出会う前の自分はどんなだったか

どのようにしてキリストに出会ったか 

クリスチャンになって〈救われて〉どう変わったか、です。これは私たちもどのように証ししたらいいかのアウトラインとなります。あなたのストーリーをしっかり持ってください。(これが夏休みの宿題です)現在でも、生きた証、証言を人々は聞きたいのです。単に「教会にいらっしゃい」よりも「あなたの人生に生ける神様がどのように介入し、それによってどう変わったか」の生きた証が聞きたいのです。祈りつつその証を持たせていただきましょう。

2019年8月4日のメッセージです。

         「何があろうとやらないといけないのです」 

                                            使徒21章

エルサレムに上ろうとするパウロに、いろんな神の人たちが、「エルサレムで捕らえられ、縄目を受けます」と予言するので、同行の者たちがみな危ないから止めてください、と助言するのですが、「あなた方は、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」とパウロは答えています。どうやら、彼にはそのすべてのことも受ける覚悟があったようです。彼は、都で聖めの期間を過ごしていたのですが、預言通り、アジヤから来たユダヤ人たちの騒ぎと、告発とで、よく確かめたりもしないまま、人々はパウロを捕らえ、縄でしばりつけ、暴行をはたらき始めました。

このような個所から二つのことを皆さんに伝えました。一つは、「あなたにも覚悟を決めなければならない時が来る」ということです。あなたはいかがですか?先に困難が待っていると思うと、「じゃあ、やめておこう」としていますか?信仰においても、人生の岐路においても、また日々の生活の中でも、「何があろうとやらなければならない」というような覚悟をもって、神の国とその義とを第一に選び取るという時が来るのです。その時には、ちゃんと選び取れるように、へりくだって祈るものでありましょう。

二つ目は、「人の言うことは、どんどん変わってしまうもの」ということです(21)。パウロは、ただユダヤ人でない人にキリストの救いを提供していただけで、ユダヤ教を強要する必要はないと言っただけなのです。それなのに、まるで反ユダヤ教運動をしている者であるかのような表現に変えられて、人々に伝わっていきました。怖いですね。でもこういうことは、現在でも私たちの周りで起こっていることです。心して生きていきましょう。周りに動かされることなく、神様の御心を行い続けましょう。

2019年7月28日のメッセージです。

     「愛と平和の神が共にいてくれる秘訣」   

                  Ⅱコリント13章

この秘訣には、いくつかの条件があります。その一つ一つは「クリスチャンらしさ」に関係してくるものですから、是非積極的に求めていただきたいものです。

「喜びなさい」…時が悪くて、喜べないときでも、キリストにあって、探し出してでもそうできた方がいいですね。

「完全な者になりなさい」…これは人間的完全ではなく、神様と自分との関係における完全です。責められるところのない心、隠し事のない心、神様に寄り添う心。

「慰めを受けなさい」…大切な戒めとして「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」とあります。だからまず、あなた自身が神様からしっかり慰めを受けてください。

「一つ心になりなさい」…あなたの内に二人のあなたがいて、戦い合い、責め合っているようなら、喜べませんよね、この一つ心を求めることが「聖め」の一つのことなのです。また、教会でもそうです。一つ心になって主を求めるところに、主はご臨在くださいます。

「平和を保ちなさい」…何も悪いことをしなくても、向こうから心騒がせる事柄が飛び込んでくるものです。だからイエス様もこう祈りなさいという教えの中で、「御国が来ますように」という項目を置かれたのです。常に、「だるま」のごとく、倒されても、主にあって立ち上がりましょう、平和を保ちましょう。また、このことは、人間関係、教会にも言えることです。そんな中に、愛と平和の神が共にいてくださるのです。

2019年7月21日のメッセージです。

                         「クリスチャンの悟り」 

                                    Ⅱコリント12章1-10、20,21節

本来なら、この章もパウロの弁明の部類に入るものです。しかし、ここで語られている証から、使徒パウロが主によって悟った3つの事柄をご紹介したいと思います。もし、私たちもこの悟りを得るなら、本当に祝福された信仰、人生を送ることができますよ。

 

「私は、高ぶることがないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つためのサタンの使いです」

神様に祈り求めた肉体の痛み?病?・・・しかしそれが取り去られることはありませんでした。彼は、文句を言うより、それが神様の御心なのだと、そのことをこのように前向きに捉え、その痛み・病?に甘んじることにしたのです。

 

主は「私の恵みは、あなたに十分である」と言われたことを受け入れた。

ともすれば、足りないものばかりに目を留め、神様まだ足りませんと訴え続ける傾向が私たちにはないでしょうか?神様は、あなたにも十分な恵みを与えてくださっているのではないでしょうか?

 

私の力は、弱さの内に完全に現れる

人は、何も問題や、困ったことがなければ、だんだん神様に頼ったり、祈り求めたりする力が弱くなっていく傾向があります。それに比べて、弱さを覚える時、困ったとき、心細さを覚える時、人は神様を呼び求め、頼り、助けを求める傾向があります。だから、弱さがあっていいんですよ、そんな弱いものを用いられる神様が素晴らしいのです。

2019年7月14日のメッセージです。

               「ライバル、批判、反対勢力に対して②」

                                            Ⅱコリント11章

使徒パウロでも、色々な悪評を言われたり、使徒としての資格を疑われたりすることがあったと、先週説明しましたが、この章でも、いくつかのことがわかりますね、パウロは諸教会から奪い取った金を給料にしている…とか。自分たちの方が熱心であり、使徒として資格のある伝道者だとか…それでパウロも、自分も愚か者のようになって、どれだけ主なる神に熱心であり、資格ある伝道者であるか証してみましょう…と、キリストのためにどれだけのところを通ったかをここで証しています。

しかし、ここで、パウロが目指し、示している伝道者のスピリットが示されています。まず、2節「私はあなた方を、清純な処女として、一人の人の花嫁に定め、キリストに捧げることにしたからです」私も、まかせていただいているクリスチャンの皆様を「キリストの花嫁」として招き入れ、救い、導き、整えるために牧会しようとしています。皆さんもそうなりたい、そうでありたい、と同じ思いをもっていただきたいと思います。この世でクリスチャンとしてどのように生きたらいいかはそれを基準に考えていただけたらと願っています。また、28,29節「誰かが弱くて、私が弱くない。ということがあるでしょうか。誰かがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」こんな気持ちで牧会してくださっていたのですね。神様の御心は、牧師が教会をこのような心で牧会し、クリスチャンの皆さんが、このような心で、家庭の中で、職場の中でクリスチャンとして生きていかれることではないでしょうか?神様はそんな皆さんを祝されます。

2019年7月7日のメッセージです。

          「ライバル、批判、反対勢力に対して①」
                                                    Ⅱコリント10章

使徒パウロでも、色々な悪評を言われたり、使徒としての資格を疑われたりすることがあったようですね。教会外の人たちからではなく、むしろ同じクリスチャンと言っている人たちの中からそんなことをいう人たちがいたようです(伝道していたのは、パウロたちだけでなく、他の弟子たちもいましたからね)。そしてその人たちがこのローマの教会に対して色々なことを吹き込み、パウロから自分たちの方に引っ張り込もうとしていたようです(クリスチャンと言っても、ユダヤ人に対する伝道をしていた人と、異邦人に伝道していたパウロとでは、意見や確信に違いがあった)。ただ、このこと自体とても憂うべきことですね。そんなことで、クリスチャン同士挑み合っているようでは、イエス様が悲しまれます。そんな中、パウロは、①「私たちは、肉(欲)にあって歩んではいても、肉(欲)に従って戦っていません。」 ②「うわべのことだけ見ず、自分はキリストに属するものだと確信しているなら、他のクリスチャンたちもまたキリストに属しているということを、よく考えなさい」 ③「私たちは自己推薦をしているような人たちのように、比較したりしようなどとは思いません。そんなことは知恵のないことです」 ④「自分の限度を超えて誇りません。ただ、クリスチャンたちの信仰が成長し、働きが広げられることを望んでいます」 ⑤「誇るものは、主にあって誇りなさい。自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人を目指しなさい」と、教えています。私たちもそんな考え方をする者でありましょう。

2019年6月30日のメッセージです。

     「1-①=∞(無限)」 

         Ⅱコリント8章1-15、9章6-8節

この個所では、主に、「献金」のことが語られています。まず、なぜ「献金」が呼びかけられたかというと、そのころ、イスラエル地方で、飢饉があり、ユダヤの兄弟姉妹の生活が困窮していたことから、それを耳にした外国にある諸教会から、では私たちは彼らを応援しましょうという声が上がって、募りだしたのが発端でした。どうやら、コリントの教会は、その言い出しっぺというか、呼びかけの発起人だったようですね、その呼びかけに他の諸教会も賛同し、迫害中であるマケドニヤの教会などでも、その貧しさの中からもどんどん集められたのです。ところが、その中核となるコリントの教会では、実際の行動に現れず、手間取っているような状態だったようです。それでパウロは、励ましの言葉をおくったのです。そしてここでは、捧げ、施すことの不思議な祝福についても語られています。本来なら、持っているものから(-)引くと、その分減るわけです。しかし、題にもあるように、神様に捧げるなら、それが無限大のものになるというのです。いくつかの例話をもってそのことが証されました。猪坂牧師も、献金のこと、献身のこと、それらは人間的に見れば、無謀、やっていけないことにしか見えなかったけれど、実際、不思議と祝福され、すべての必要は与えられ、不足したことは一度もない、と。自分の体験からその神様の祝福が語られました。これらのことは、実際体験してみなければ、分かりません。あなたも、実際体験してみられませんか?「1-①=∞(無限)」献金のことは、それらを体験するのに、良い機会となりますよ。

2019年6月23日のメッセージです。

    「神の御心に添った悲しみ」 

            Ⅱコリント7章

御言葉に、「神の御心に添った悲しみ」「世の悲しみ」という言葉が記されています。「ええ、神様に従っていても、悲しみというものを味わうのですか?」「神様が悲しみというものに私たちを導かれるのですか?」という声が聞こえてきそうです。それはあなたや私がどう選ぶか、どうとらえるかによって決まってくるものです。ここで語られていることの発端は、コリントの手紙第一で語られていた「教会にある問題への指摘、諭し」です。それを受けて、このコリントの教会の人々は、自分たちの過ち、罪を知り、悲しみ、悔い改め、更なる恐れ、慕う心、熱意を起こしたのです。こういうものが「神の御心に添った悲しみ」だと言っているのです。では「世の悲しみ」とはどういうものかというと、「指摘、諭し」の手紙を受け、「なんだ、そんなこと言うのか、うるさいな、気にせんでいいよ、自分たちのやりたいようにやろう」というような受け取り方、態度をとる場合に味わう悲しみということになります。スポーツや仕事関連の中でも、指摘されて、このどちらかの反応をするかで、その後のその人々に大きな差が現れてくるものです。

私たちは、私生活の中でも、信仰の中でも、「他の人からの指摘や諭し」をどのように受け取っているでしょうか?神様は、御言葉を持っても、人の言葉を通しても、語られますよ。悪いところ、足りないところが指摘されれば、真摯に受け止め、これは神の導きだな、と思わされたら、悔い改め、過ちを正し、更なる慕う心、熱意を持たせていただきましょう。それが神の御心に添った悲しみです。

2019年6月16日のメッセージです。

        「父の抱える悩み」 

             ローマ8章14,15節、1章18-32節

御言葉を読めば、父なる神様にも悩みがあることがわかります。ちなみに、「父なる神」という神様に対する近しい呼びかけというか、関係は、イエス・キリストから始まりました。旧約の時代には、神様は聖なる方であり、畏れ多い、近寄りがたい方というイメージが強かったのですが、イエス様が、「わたしの父は」と呼ばれ、説明されるようになってから、また、御霊を下さったところから、イエス様のみならず、私たちにまで、子とされる恵みが与えられ、神様のことを「アバ父よ」と呼ぶことができるようになったのです。ではその父なる神の悩みとは何かというと、ご自分のお創りになった者が、神を神としてあがめず、感謝もせず、その思いはむなしくなった…それのみか、言うことは聞かない、逆らう、文句を言う、そしてこれが神だと、自分で作ったものを神として祀り上げる。

それなら仕方がないということで、父なる神は、私たち人間を欲望のままに任せられたというのです。その罪のゆえに、人間は思い通りになったと思いつつも、だんだんと重たくなって、その罪の結果は、更につらいものとなり、刈り取りをするようになってそれを身に受けているというのです。そんな姿を見ていることも神様の悩みであり、悲しみでもあるのです。

今日は父の日ですが、お父さんたち、家庭や、職場、立場的なところで、同じようなところを体験しておられないでしょうか?この父なる神様の悩みがわかるのではないでしょうか?もしわかるなら、まず、あなた自身、この父なる神の御許に戻ってください。

2019年6月9日のメッセージです。

                     「約束の聖霊(御霊)が降った」 

                                   使徒2章1-24節、36-42節

神様は約束通り、聖霊(御霊)を与えられました。イエス様と政権交代をされた感じです。それ以降、現在に至るまで、「聖霊」の働かれる時代となっています。聖霊は目にこそ見えませんが、実際に存在され、感じることができ、語りかけや、導き、戒めを心の耳で聴くことができます。人として生まれてきた人間は、必ず、それを体験しているはずです。ただ、多くの人は、それが聖霊の語りかけ、導き、戒めとわかっていないので、残念なこととなっているのです。もし、私たち人間側に、聖霊を求める気持ちさえあれば、今でも、聖霊様は、私たちに近しく臨んでくださるのです。資格が有るか無いかを議論するより、幼子のようにすがり、求めた方が早いですよ。また、神様は、約束通り、聖霊によってクリスチャンたちに力を与えられました。何の力でしょうか?イエス様を確信する力です。そしてそのことを証しする力です。この後のペテロの大胆さを見てください。別人に変えられているのがわかります。「クリスチャンなのに?」と不完全燃焼を感じておられる方はいらっしゃいますか?「クスチャンになったのに、いつまでも弱いままだ。」「クリスチャンになったら変われるはずなのに、全然変わらない」など、人にも言えない悩みを持っておられる方がおられますか?そんなあなたに必要なのは、この聖霊があなたの上に臨まれることです。聖霊に満たされることです。これは、クリスチャン生活を続けていれば自然と身についてくるというものではありません。どこかで、意を決して本気で求めるより他ありません。祈り、求めるものとならせていただき、聖霊によってあなたも強いものとしていただきましょう。

2019年6月2日のメッセージです。

        「聖霊(御霊)の紹介」  

  ヨハネ14章16-31節・ヨハネ13章34節、16章7-13節

ペンテコステ(約束の聖霊降臨)を前に、「聖霊」について学んでみたいと思います。聖霊は、この個所の中だけで、「もうひとりの助け主」「真理の御霊」などと紹介されています。この方が来ると、「あなたがたにすべてのことを教え、」「わたし(イエス)が話したすべてのことを思い起こさせてくださ」るともいわれています。また、「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」とも言われています。

この父からの約束である「聖霊」を待ちなさい。とイエス様は言われ、天にあげられたのでしたね。それで、弟子たちは、それからの10日間、みなが心を一つにして、その約束の聖霊を待ち望んだのです。そしてついに約束の聖霊はくだったのです。それが使徒の働き2章に記されている事柄です。

しかし、残念なことも教えられています。それは、〈17〉「世はその方を受け入れることができません」「世はその方を見もせず、知りもしない」と…これが「神なんているものか」と主張している現在社会の実態なんですね。多くの人は見えてない、感じれていない、とても損をしている状態だというのです。しかし、クリスチャンは違いますよね、「しかし、あなた方はその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」と。クリスチャンの皆さん、大丈夫ですか?再認識させて頂きましょう。そのためにもペンテコステの記念の日に期待しましょう。