2025年6月1日~約1年間を通し、キリスト教入門・神学コースで学んでいきたいと思います。只毎回集いたいのに集えない学びたいけど1年間を通すとなれば~???と思う方朗報です!この度HPから見て学ぶ、ことが可能になりました。数年後あ!こんな話してたよねって振り返えり誰かの力になることもあると思います。
第2回救いの条件(英語・日本語を分けてWord掲載しています。ですのでダウンロード無しで印刷可能です)
救いの条件
誰が救われるのでしょうか?どのようにして救われるのでしょうか?
救われるためには何をしなければならないのでしょうか?どのように救いに預かることができますか?
このレッスンでは、御言葉からこれらの質問に答えようとします。
まず、救いを理解するには、罪と人間の堕落した性質を理解しなければなりません。アダムとエバが神の律法に背き、神から離れた時から、人間は罪からの救いと、罪の罰である地獄からの救いを必要としてきました。
イエス・キリストは私たちの救い主として来られ、私たちの罪の罰を負い、素晴らしい救いを与えるために十字架上で亡くなられました。さて、救いの条件のいくつかを見てみましょう。
1. すべての人は救いを受けることができます。
人種、国籍、社会的地位、宗教、男女、若者と老人、富めるか貧しきか、奴隷か自由人かに関わらず、すべての人は救いを受けることができます。 黙示録 5:9 …すべての部族、言葉、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い。
2. 救いは善行によって得られるものではありません。 第二テモテ 1:9、 エペソ2:8-10
私たちは自分自身の力で聖なる者になることはできません。多くの宗教において、人間は自分をもっとふさわしい者としようとして、神様に近づこうとしています。罪を避け、世間から隔絶し、善行を行い、宗教書を読み、宗教儀式を行い、時に自分の罪と罪悪感を感じ苦行を行う人もいます。これらはすべて、人間が自分自身を救おうと、自分自身を清めようとするための努力ですが、無駄な努力です。
キリスト教においても聖書と神の律法に従うことだけで人は救われることはできません。
パリサイ人は外面的にはモーセの律法をすべて守っていましたが、心はイエス様への憎しみと不信仰に満ちていました。善行はクリスチャンにとって必要かつ自然なことですが、救いの結果であって、救いの源ではありません。
3. 救いはイエス様への信仰によって得られます。
ローマ人への手紙 10:9 もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死人の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
聖霊の働き、神の御言葉、そして多くの場合、クリスチャンの忠実な証しを通して、私たちはイエス様の福音について聞きます。イエス様が神の御子、救い主、私たちの罪を取り除くことができる唯一の方であること、そして十字架上で死に、復活し、今も生きて私たちのために祈っていることを知るようになりました。
イエス様が神であり、私たちの罪のために死に、私たちを罪から救うことができると心から信じる時、私たちはその瞬間に神の子となり、神の国に入ります。
堕落した人間である私たちは霊的に死んでおり、自力で信じることはできません。神の御霊が、私たちが信じるのを助けなければなりません。朗報は、誰でもイエス様を信じることができるということです。聖霊の促しに応じるだけで、聖霊は信じるのを助けてくださいます。
信仰は救いの条件であり、聖書にはこの救いに至る信仰の表現が数多く見られます。その中には、罪の自白、罪の告白、悔い改め、神を呼び求めること、洗礼を受けることなどがあります。これらは、人が本当に自分が罪人であり、イエスが唯一の救いの道であることを悟ったときに行うことの一部です。
4. 救いを失うことは可能です。
私たちには自由意志があり、イエスから離れてしまうことは可能です。サタンの誘惑に屈し、神様に背を向くことも可能です。聖書には神を離れて信仰を捨てた人の例が結構ありますが、その中からいくつかを挙げます。
• 豚が泥に戻るように、罪と世に戻ること。 第二ペテロ2:20-22
• 神様を冒瀆し、健全な良心を捨ること。 第一テモテ1:19-20
• 誘惑する悪霊や偽善的な教師の言葉に耳を傾けること。 第一テモテ4:1-3
• 自分の家族の世話をしないこと。 第一テモテ5:8
• 神より金銭を愛し、信仰から迷い出ること。 第一テモテ 6:10
5. 神の救いにあずかり、安全に天国にたどり着く方法
イエス様にとどまる。(ヨハネ15:4-6、ヨハネ第一2:28)イエスは道であり、真理であり、命です。イエスは私たちの永遠の命の源です。もし私たちがイエスから目を離したり、イエスにとどまらなかったりするなら、永遠の命を失います。もし私たちがイエスに近づき、イエスにとどまるなら、私たちは世界で最も安全な場所にいるのです。私たちがイエスの声に耳を傾け、イエスに従うなら、何物も私たちの救いを奪うことはできません。
聖霊に満たされる― ヨハネ14:26、ルカ11:13、ガラテヤ5:16-25 聖霊は私たちの心にある罪の根をすべて取り除き、邪悪な世にあって聖潔のうちに歩むよう助けてくださいます。聖霊は私たちの助け主であり、私たちをあらゆる真理へと導いてくださいます。
光の中に歩む― ヨハネ第一 1:7 神は一度にすべてを語ってくださいません。しかし、神が少しずつ示してくださるので、私たちは光の中を歩み、正しいことを行います。私たちは光である神に従うのです。
イエス様の戒めを守る―(ヨハネ15:10、ヨハネ14:15)イエスは、「わたしを愛するなら、わたしの戒めを守りなさい」と言われました。イエスの言われることを行うとき、私たちはイエスをもっと愛し、イエスに似た者となるのです。
信仰と信頼によって生きるーヘブル 10:38、箴言 3:5-7 私たちは毎日イエスを信じ、信頼しながら生きます。
最後まで耐え忍ぶ- マタイ 24:13 何が起こってもイエスにしがみつくなら、私たちは天国に安全に着きます。
2.「救いの条件」 ワークシート
1.今日の学びの5つの要点をあげてください。
2.人はどのように救いを受けますか?
3.人は救いを失うことはできますか?
4.世で一番安全な場所はどこですか?
読書宿題
1.今日の学びに出てきた聖書箇所をすべて読んでください。 ( )読み終わったらチェックマークしてください。
2.下記の証を読んで印象に残ったことを書いてください。
「私を変えた愛」 (婦人たちのキリスト体験集)福音出版社
2 章 「永遠の命を」 仲屋礼子 (岩見沢)
ここは滅びの国。此の地上に生きているものは、一つの例外もなく皆死んで行きます。その中で、私もやがて死んで、消え去ってしまいます。死んで自分が居なくなるとしたら、人生の目的とは一体何なのでしょうか?
どれ程成功したとしても、どんなに長生きをしたとしても、死んで消え去った時点で考えるならば、つまりは初めから生まれて来なかったのと同じ事ではないでしょうか? 人は何のために働き、築き、学び、子供を育てるのでしょうか?
四十才台の半ば頃から、「すべては空しい」という思いにとらえられた私は、何をする気力も失って暗たんとした数年間を過ごしました。未来への希望というものが、人間にとってどれ程大切なものかという事を、私は此の時 初めて知ったのです。
「自分の一生を無意味なものにしたくない」と私は切実に思いました。その時、ふと幾度か読んだ事のある、聖書の中の一節が心に浮かびました。
『御子を信じる者は永遠の命を持つ」の希望の光となったのです。 それまで何気なく読み過ごしていた此の言葉が、この時から私の心の闇に射す、一筋の希望の光となったのです。
私は聖書が好きでした。わからないところは多くありましたが、その教えの、比べ得るもののないきよらかさと深さに、読む程に惹きつけられていたのです。
「ああ、永遠につながる生命を生きることが出来たら!」死によって消え去ってしまう此の世の事は、何処まで行っても「無」でしかなく、0は何十倍しても矢張りでした。このまま止まれば滅びしかないと決まった以上、全力を尽してそこから脱出すべきではないでしょうか? たとえそれが千に一つの可能性であったとしても。
私は、さまざまな迷いや、ためらいを振り切り、自分の五十年の人生の結論として、聖書の言葉にすがって、教会につらなる事を決意したのです。
やがて、日曜日毎に教会に通い始めて、一年三ヵ月が過ぎた頃の事でした。長男の結婚が決まり、その準備の時期が家業の決算期と重なったため、経理を担当している私は極度に忙しくなりました。
夫の年老いた両親が養生のために、暫く我が家に滞在する事になったのは、丁度そんな時でした。私は緊張しました。次から次へと、私に向かってたたみかけてくる、この山のような仕事を、一体どう処理して行ったらよいのでしょうか。倒れないで、やり通せる自信はありませんでした。
「そうだ、祈ろう、すべてを御存知の神様が、きっと助けて下さる。私は心を決めて仏教徒である両親に、自分の信仰を告白しました。教会でも「クリスチャンとして真心から両親に仕えたい」と証ししました。
ところが、私の決意とはまるで反対に、重なる疲労と焦りの中で、手数のかかる両親への嫌悪の情が次第に湧き上がり、ひと月程の間に、もう抑える事が出来なくなってしまったのです。
「この人達は、私の事など何とも思ってはいないのだ。だから私がこれ程忙しいのに平気で滞在していられるのだ。この人達は口では無理をするな、早く寝なさいと言うが、 無理をしないで、どうしてこの仕事が処理出来よう、どうして早く寝られよう。この人達は私を愛していないから・・・・・・」。 私は、自分が父母を愛していない事には気付かなかったのです。
ある夜遅く、家族が寝静まってから、ひとり帳簿の整理をしていた私は、ふと自分の心の有り様を振り返り、未信者である家族の中にいる、クリスチャンとしての責任を感じました。
もし、この両親が私を生んでくれた父母であったら、どんなに忙しくとも私は、決して邪魔だとは思わないだろう。こんな冷たい嫁をさえ頼りに思う年老いた両親を、暖かい心で労ることも出来ない私は、何という身勝手な情けない人間なのだろう。 涙が、とめどなく溢れて流れました。
「神様、申し訳ありません。私はこんな自分がつくづく嫌です。それなのに私は、自分ではどうする事も出来ないのです。イエス様!どうか助けて下さい!どうか、こんな私を助けて下さい!」。私は見えない救い主に向かって祈り、嘆き、訴えました。
二、三日が経った朝、「おはようございます!」心も軽く両親に声をかけてから私は、 「おや!」と思いました。歌いながら両親の下着を洗い、平気でその体の世話をしている自分、今までとは違う自分に気付いて「おや?」「おや??」と思いながら数日が過ぎて、 ようやく私は両親に対する自分の気持ちが、すっかり変わってしまっている事を確認しました。
いつの間にか私の中から、両親への嫌悪が消え去っていたのです。静かに、音もなく、 光もなく、私自身も気付かぬ内に。私の胸から、あの重く暗いものが無くなっていました。やがて私は数日前に、自分が救いを求めて祈った事を思い出し、その願いが聞き届けられたのであることを悟りました。
深夜机に向かっている時や、道を歩いている時、不意に心の底からよろこばしさが湧きあがりました。「救われたのだ!」
驚きと、感謝は溢れて賛美の歌となりました。周りの状況はそれまでと全く同じでしたが、私は歌いつつ、祈りつつ働く事が出来ました。
そして此の時から、不思議にもこの胸に宿るところとなった、永遠の命が、「わたしを信じる者はたとい死んでも生きる」。との聖書の言葉の真実性を、私自身に証しするのです。
四十億分の一人にすぎない、ちりにも等しい者の、「イエス様お助け下さい!」。との叫びをお聞きくださった神様の愛の大きさ、広さ。イエス・キリストの御名前のもつ力の偉大さを心からほめ贅えます。
私の心に刻まれた此の体験の記憶は、十年後の今も、まるで昨日の事のように鮮やかです。
聖書は語り続けています。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』と。