2025年6月1日~約1年間を通し、キリスト教入門・神学コースで学んでいきたいと思います。只毎回集いたいのに集えない学びたいけど1年間を通すとなれば~???と思う方朗報です!この度HPから見て学ぶ、ことが可能になりました。数年後あ!こんな話してたよねって振り返えり誰かの力になることもあると思います。
第4回父なる神(英語・日本語を分けてWord掲載しています。ですのでダウンロード無しで印刷可能です。読み物宿題はスキャンしたため写メのフォルダーになっています)
父なる神
宗教条項(BMC マニュアル) 1.
私たちは唯一の生ける真の神を信じる。神は、永遠にして無限の力、知恵良善であられ、見えるもの、見えないもの、すべてのものの創造者また保持者であられ、神性の一致の中に一つの本質、力、永遠なる三つの人格‐父、子、聖霊である。 ローマ15:6; イザヤ64:8; エペソ1:3
第一コリント 8章 6節 「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。」
神を学ぶとき、私たちは知性と論理だけでなく、霊と心も用いて神を理解しようと努めなければなりません。私たちは知性だけで神を完全に理解することはできませんが、霊を通して神の無限の個性から学ぶことができます。神を深く知ることは、すべてのクリスチャンが持つ素晴らしい、また楽しい特権の一つです。神をより深く理解するために、今日は神の属性をいくつか挙げてみます。
神様は永遠のお方です
あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。 イザヤ書 40章 28節
人間の脳力にとって理解するのが最も難しいことの一つは、神が永遠であるという事実です。神は創造されたことも、生まれたことも、始まりもありません。時間と別に存在しています。神は「永遠の今」と表現する人がいます。
私たちにとって、これを理解するのは難しいことです。なぜなら、私たちが目にするものすべてには始まりがあるからです。惑星、山、海、どんなに古いものでも…すべてに始まりがあったのです。
神は私たちが見えるものや知っているすべてのものより前から存在しており、これからも永遠に存在し続ける方です。
神は不変です。昨日も、今日も、そして永遠に変わらないお方です。
神様はすべての創造主です。
創世記 1:1 はじめに神が天と地を創造された。
創世記第一章では、神が私たちの周りの自然界すべてを創造されたことが記されています。太陽、月、惑星、星、大宇宙、大気、陸と海、魚や動物、そして最後に人間を創られた。 自然界の多くの特徴は、偶然や進化ではなく、特定の知的な設計を示しています。人間の細胞の構造から銀河の形成に至るまで、私たちは創造において神の御手を見ることができます。
神様は全能である。
主にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」 創世記 18章 14節
神は私たちとこの世の万物を創造されたのですから、時間や空間、あるいは力や能力の不足に縛られることなく、ご自身が適切と考えるあらゆる方法で働かれるのは当然のことです。神は、私たち人間の自由意志と選択を尊重するために、ご自身に限界を設けているだけです。神には、欺いたり嘘をつくことはできない。それは、神のもう一つの特質、彼の聖性と矛盾するからです。
神様は全知である。
神はそれを探り出されないでしょうか。神こそ心の秘密を知っておられるからです。詩篇 44篇 21節
神はすべての秘密を知っています。聖書は、神がすべての知識と知恵を持ち、すべての人の人生で起こるすべてのことだけでなく、私たちの心の思いや意図も見ていることを明確に示しています。神は過去、現在、そして未来を知っています。アダムとエバが罪を犯したとき、神は彼らの罪が4000年後にイエスを残酷なローマの十字架上で死なせることを意味することをすでに知っていました。神は全体像を見通されます。神の理解や悟りを超えるものは何もありません。
神様はどこにでもいます。
私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。
たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。詩篇 139:7〜8
イエス・キリストという人格において、神は人間の体という限られた範囲にとどまり、一度に一つの場所にしか存在できませんでした。しかし、父なる神は空間に制限されません。天と地の両方に存在できます。アフリカのクリスチャンと共にいると同時に、フィリピンのクリスチャンと共にいることもできます。神は計り知れないほど大きく、正確に定義することもできない。しかし聖書は、地球は神の足台であると書いてあります。彼の大きさと範囲は、私たちが住む広大な宇宙の限界をはるかに超えています。人間は強力な望遠鏡を使い、光年などの測定単位を使って途方もない距離を計算しようとすることで宇宙を理解しようと努めますが、神はその巨大な空間すべてを包み込んでいます。
神様は聖いお方。
「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。 レビ記 19章 2節
神は罪を犯すことができず、偽りを言うこともできない。神の性質に反して、いかなる不正も行うことはできない。神が憎しみを表明するとき、それは罪に対する純粋な憎しみです。神が怒るとき、それは人間のつまらない怒りではなく、聖なる神の正当な憤りです。神は完璧であり、完全であり、真理です。神の御言葉にあるすべての戒めと律法は、神の正義感、聖性、真理から来ています。神を知ることは、真理を知ることです。
神様は愛です
1ヨハネ4:8 。。神は愛だからです。
神の愛と聖性は、他のすべての属性に影響を与えます。神の属性は決して矛盾しません。神は愛に満ちながらも聖であり、強くも優しく、罪の毒に対する憎しみに満ちながらも、迷っている罪人への愛に満ちています。神の愛の最大の表現は、御子をこの世に遣わし、人類の贖罪のために命を捧げられたことです。この犠牲的な行為によって、神は私たちを愛していると言われただけでなく、すべての人類に対する永遠の愛を証明されました。
なぜ神様は「父」と呼ばれるのでしょうか?
新約聖書の中で、イエス様は272回程神様のことを「父」と呼びました。その多くは「わたしの父」と呼ばれていますが、弟子たちに話しかける際には「あなた方の父」と呼ばれることもあります。ある意味では、神は全人類を創造し、厳密に言えばすべての者の「父」であるため、すべての生き者の父であると言える。しかし、それよりも深い意味をもっています。イエスは、ご自身を信じないユダヤ人たちに、「あなたたちの父、悪魔から出た者」であると言いました。(ヨハネ 8:44)ですから、人々が罪に陥り、創造主であり父である神から離れるとき、彼らは他の父、悪魔、と一致してることがわかります。神の子となり、真に神を「父」と呼ぶことができるようになるには、生まれ変わり、天の御国に入らなければなりません。神の家族に迎え入れられた者は、神を「アバ、父」(ローマ 8:15)と呼ぶことができます。
神様の名前のいくつ
אֱלֹהִים エロヒムElohim – 旧約聖書で2601回登場。KJVでは通常「God」と訳され、日本語では「神」。 通常の 意味で神々を指すが、特に冠詞をつけると最高神を指すようになる。
多くのイスラエル人の名前には神を表す「el、エル、エリ」が含まれています。エリシャ - 救いの神、エリヤ – エホバ 神、エルカナ – 神が得たもの。地名につかわれている。ベテル - 神の家、ミグダル - エデル - 神の塔など。
אֲדֹנָי アドナイAdonai または Adonoi – 438回登場。KJVでは「Lord」と訳され、日本語で「主」と訳されている。 神の称号で、主を意味します。
יְהֹוָה ヤハウェかエホバ Yahweh or Jehovah 「ヤハウェ」または「エホバ 」- KJVでは「LORD」。6220回 登場。日本語では太字で「主」と表記。神の自存的または永遠の神であることを意味するユダヤ国民が使用する名。
יְהֹוִה エホビ Yehovee - 「エホバ」の異形。302回登場。KJVでは「GOD」。日本語では太字で「神」。
θεός ティオス Theos - 新約聖書に1343回登場。「神」と訳されている。これは日本語の「神」に似たギリシャ語である。ギリシャ人の異教の神々を指すために使われ、ユダヤ人は聖書のギリシャ語訳でこの語を用いた。
κύριος- 「キリオス」は新約聖書に748回登場する。「主」と訳される。意味は最高の権威を持つ者、支配者。
4.「父なる神様」 ワークシート
1.神様がどのようなお方であるかを学ぶとき、私たちは知性と論理だけではなく、どのように悟りますか?
2.神の属性を5つ挙げてください。
3.なぜ神様は「父」と呼ばれるのでしょうか? 説明の文章を読んで自分の言葉で書いてください。
4.神の名をギリシャ語で2つ、ヘブル語で2つほど書いてください。
読書宿題
1.クラスで読めなかった聖書の箇所を読みましょう。( )
2.次のページにある記事を読みましょう。( )
Hatena Blog yeshua.hatenablog 著者 小林拓馬
2019-09-25 「疑問」 聖書の神の名前は「エホバ」なのか「ヤハウェ」なのか?
聖書の神は、唯一の神である。世界の創造者であり、全能者であり、唯一無二の神である。そんな神を、クリスチャンたちはどう呼ぶのだろうか。最初の本格的な日本語訳の「文語訳聖書」では、神は「エホバ」とされている。新改訳聖書では太文字の「主」、共同訳聖書では普通の文字の「主」などとされている。
この神の名前は、ヘブライ語で「YHVH」(יהוה)のアルファベットで示される4文字で表す。
<神の名前>(右から読む)י ה ו ה
ヘブライ語はいちいち母音を全て明記しない。そのため、この4文字の正確な読み方は分からない。「ええっ、そんなことあるの?」と思うかもしれないが、日本語だって同じだ。漢字に全ての読み仮名は振らない。「生」という漢字は、「せい」とも読めるし、「なま」とも読める。「しょう」でもいいし、「き」でもいけるし、「い<きる>」だってOKだ。文脈で無意識に読み分けをしているだけで、本来は色々な読み方ができる。「羽田」は「はねだ」だが、「成田」は「なりた」である。同じ漢字だが、読み方が違う。本来どう読むかは、なんとなく知っているだけで、正確には学ばないと分からない。
ユダヤ人は、神の名前を呼ぶのは恐ろしいと考え、この名前を口にしてこなかった。「YHVH」を「アドナイ」(私の主)とか「ハシェム」(the name)と言い換えてきた。その結果、「YHVH」の正確な読み方は、誰も分からなくなってしまったのである。したがって、この4文字は、その子音である「Y/H/V/H」を使って表すしかない。
「YHVH」は、旧約聖書で6220回も登場する。初登場は創世記2章4節である。
これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】<しゅ>が、地と天を造られたときのこと。
(創世記 2:4)
なお、「主人」の意味での「主」も存在するため、新改訳聖書では「YHVH」を「主」と太文字で表記する(※「主人」の意味の「主」は普通文字の「主」となっている)。この記事では「YHVH」で示される神の名前を【主】と表記して区別する。
神自身が自分自身を指して【主】(YHVH)と述べたのは、出エジプト記6章2節が最初である。
神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは【主】である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(エル・シャダイ)として現れたが、【主】という名では、彼らにわたしを知らせなかった。それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは【主】である』」(出エジプト記 6:2~8)
唯一の神である【主】は、何度も「わたしは【主】である」と繰り返し、自分の名前を強調している。ちなみに新改訳聖書では、神が話者の場合は「わたし」とひらがなで、それ以外の人物は「私」と漢字表記で区別している。話者がイエスの場合も「わたし」とひらがなになっている。
【主】という名前は、アブラハムにも、イサクにも、ヤコブにも示されず、モーセに初めて知らされた。ただ、これ以前にも【主】の文字は多数存在はしている。モーセとファラオとの会話でも、ファラオは「【主】とは何者だ」と発言している(出エジプト5:2)。ファラオの口から「YHVH」の名前が出ているのである。当然だが、旧約聖書は後代にまとめられたため、最初から【主】の名前が出ているが、モーセの時代までは明確に主が自分の名前を語ったことはなかった。詳しくは後述する。
さて、日本語で最初の本格的な聖書、文語訳(明治・大正訳)は「エホバ」と表記している。【主】(YHVH)の4文字は、どうして日本語で「エホバ」と呼ばれるようになったのか。実は、意外な理由がそこにはあった。今回は、「エホバ」の読み方が生まれた意外すぎるルーツ、神は自分をどう呼んでいるのか、神の名前の意味とは何か、順番に紐解いていこう。
どうして文語訳は、【主】(YHVH)の名前を「エホバ」と表記したのか。英語では「Jehovah」(ジェホバ)となるが、その読み方はどこから来たのだろうか。私はずっと疑問に思っていた。
先に述べたように、ヘブライ語は基本的に子音だけで表記する文字だ。そのため、「YHVH」の正確な読み方は分からない。「ヤハヴァハ」の可能性もあるし、「ヤヒヴホ」でもいいし、「ヨヒヴィヒ」と読むかもしれない。どの母音をあてるかによって読み方が全く変わるのである。では、なぜ「エホバ」になるのか。
実は、意外な理由があった。ヘブライ語は、読み方が複雑なため、後代になって発音を指示する「ふりがな」が発明された。これは「ニクダー」と呼ばれる記号で、「a/e/i/o/u」のどの母音をあてるのか示すものだ。日本語でいう「ふりがな」のようなものである。
例えば、「ב」(ベート。Bの発音)に「a」の発音のニクダーが付くと「バ」という発音になる。「e」のニクダーが付くと「べ」という発音になる(※興味がある方はこのサイトなどを参照)。このニクダーを付ければ、子音だけで表記するヘブライ語も、正確な読み方が分かるのだ。
では、神の名前「YHVH」にニクダーが付いていれば、正確な発音が分かるのではないか。その通り。しかし、これが間違いの元だった。
あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。【主】は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。(出エジプト記 20:7)
神の名前「YHVH」は、決して発音してはいけないものだった。そのため、ユダヤ人 たちは神の名前を「YHVH」を使って呼ばず、「אדני」(アドナイ)と呼ぶようになった。「アドナイ」とは「私の主」という意味である。
しかし、かといって聖書の表記を勝手に変えるわけにはいかない。聖書には「YHVH」の名前が何度も出てくる。これでは、朗読する際に困ってしまう。そこでユダヤ人たちは、後代になってニクダー(ふりがな)を付けた。「יהוה」(YHVH)を「אדני」(アドナイ)と読むために、ふりがなを付けたのだ。整理してみる。基本的にヘブライ語は右から読むので注意してほしい。
<アドナイのニクダー付きの表記>
אֲדֹנַי
解説すると以下のようになる。
<アドナイのニクダー解説>
אֲ דֹ נַ י
I+なし N+A D+O A+短いA
おわかりいただけただろうか。「アドナイ」はヘブライ語で「ADNI」と表記する。そこに「短いA+O+A+なし」のニクダーが付く。これで「ADNI」の表記で「A+DO+NA+I」となり、「アドナイ」と読めるわけである。ユダヤ人たちは、この「ふりがな」を「YHVH」に表記することで、「YHVH」を直接発音せず「アドナイ」と読み替えるように指示していたのである。「強敵」と書いて「ライバル」とか「とも」と読ませる、漫画のアレと同じだ。
しかし、この基本を知らない学者たち(おそらく中世あたりのヘブライ語を知らない学者たち)が、後代になって「アドナイ」のふりがなを本当の神の名前と勘違いして研究した。「アドナイ」のふりがなを「YHVH」に付け足すと、このようになる。
<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>
יְהֹוָה
解説すると以下のようになる。
<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>
יְ הֹ וָ ה
H+なし V+A H+O Y+短いA(e)
この「YHVH」に「アドナイ」のニクダー(ふりがな)をふった場合の発音は上記の通りになる。なお、鋭い読者の方は「一番右のニクダー違うやんけ!」と思うかもしれない。鋭いご指摘ありがとう。ただ、ヘブライ語の文法ではY ( י )に「短いA」の母音記号<אֲ の下についているやつ>を付けられないため、代わりに「e」の発音の母音記号<יְ の下についているやつ>を付けることになっているのだ。
解説すると以下の通りになる。
<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>
Y+短いA(e)/ H+O / V+A/ H+なし
いかがだろうか。こうすると、「イェ・ホ・ヴァ・ー」(Ye/Ho/Va/H)となり、つなげると「イェホヴァー」、より日本語らしく変化すると「エホバ」となるわけである。英語では「J」の発音は「ヤユヨ」ではなく「ジャジュジョ」と発音するので「Jehovah」(ジェホバ)となったというわけだ。
とどのつまり、「エホバ」の表記は、「アドナイ」と読ませるための「ふりがな」を、間違えて「YHVH」に当てはめて読んでしまったカンチガイの結果なのだ。もちろん、「YHVH」の読み方の「可能性」として否定できるものではない。しかし、「YHVH」を発音しないために「アドナイ」のふりがなをわざと割り当てていることから、その可能性は低いだろう。カンチガイによって「エホバ」の読み方は生まれてしまったのだ。
では、「YHVH」は何と読めばいいのか。考えていこう。
「YHVH」で表す神の名前は、どう読めばいいのか。新改訳聖書2017の「あとがき」にはこのような表記がある。
旧約聖書においては、特に、文語訳ではエホバと約され、学者の間ではヤハウェとされている主の御名を、『聖書新改訳2017』も、従来の「聖書 新改訳」の伝統を踏襲して、太字で主と訳し、それによって主の御名が記された、主の御名がエロヒームと読まれるように母音表記されているところでは、太字で神と訳している。 <「あとがき」聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>
なるほど。「アドナイ」だけでなく「YHVH」を「エロヒーム」(神)と読ませるための母音表記(ニクダー)もあるらしい。
問題は「学者の間ではヤハウェとされている主の御名」という部分である。なぜ「ヤハウェ」と読めるのか。調べてみたところ、様々な理由があるようだが、主な根拠としては、古い時代のギリシャ語の聖書翻訳に依るらしい。いくつかの書籍などによれば、ギリシャ語の一部の古い翻訳では「ヤハウェ」に近い発音が表記されているという。だから、少なくとも当時のギリシャ語話者の間では「ヤハウェ」に近い発音がなされていた可能性があると推測される。しかし、それは可能性の話であって、確実な事実と言えるかと問われると、微妙な問題だ。ギリシャ語で表記して「アドナイ」と読み替えていた可能性も否定できない。
神自身は、自分を何と表現したのか。聖書を少し見てみよう。
<エル・シャダイ>(全能の神)
さて、アブラムが99歳のとき、【主】はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」
(創世記 17章1節)
「全能の神」とは、ヘブライ語で「エル・シャダイ」である。この世界を作り、全ての上に存在する、力強い神を指す言葉である。モーセに対して「YHVH」の名前を示すまでは、基本的に神は「エル・シャダイ」という名前でご自身を現している。
<エル・ロイ>(ご覧になる神)
そこで、彼女は自分に語りかけた【主】の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。
(創世記 16章13節)
これは、アブラハムの元を追放されてしまったそばめのハガルが、神を呼んだ呼び名である。意味は「ご覧になられる神」。神はハガルの苦しみを見て、助けの手を差し伸べて下さったのである。神は人の苦しみをご覧になり、助けてくださる存在である。
<名前を教えないパターン>
ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人(神?)は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
(創世記 32:29)
神は時にお茶目にも、名前を聞かれても答えない場合もある。ヤコブは「ある人」(おそらく神)と格闘した。ヤコブは辛くも勝利するが、その後で、「イスラエル」(「神に勝つ者」の意)という名前を与えられる。しかし、ヤコブが神に名前を聞いても、神は答えなかった。まだ「YHVH」の名前を示す時ではなかったのだ。
<万軍の主という呼び名>
「万軍の【主】」は、ヘブライ語「アドナイ(YHVH)・ツェバオット」の邦訳である。「アドナイ」は「YHVH」で、「ツェバオット」は「軍隊」を意味する「ツェバ」の複数形である。英語だと「God of Almighty」と訳されている。イスラエルでは現在も軍隊のことを「ツェバ」と呼んでいる。
「万軍の【主】」は聖書全体で235回登場する。その多くがイザヤ書で登場する。神の力強さと、守る力、いつも共にいて戦ってくださる方であるという意味が込められている。
<不思議な名前>
【主】の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という」
(士師記 13章18節)
ここは、「【主】の使い」と書いてあるが、神の代理としての存在なので、神の名前を尋ねられた答えと捉えて良い。「わたしの名前は不思議である」という、また何とも奇妙で不思議な答えである。神の存在は、名前で現せるようなものではないという意味でもあるだろう。また、もっと不思議な名前がある。最後にご紹介しよう。
<「わたしはある」という不思議な名前>
神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と」(出エジプト記 3章14節)
これが一番不思議で、かつ難解な神の自分紹介である。日本語では「わたしはある」。英語だと
「I am who I am」。ヘブライ語では「אהיה אשר אהיה」(エヒエ・アシェル・エヒエ)という。
この意味をめぐっては、様々な議論が続けられている。「わたしは存在する神だ」という意見もあれば、「わたしはあなたと共にいる」という意見もある。「わたしは世界を創造した神だ」とする見解もある。聖書を気仙沼の方言で翻訳した山浦氏は著書で、「わたしはわたしだ」と神がお茶目な回答をしたのだとの解釈を示している。どの意見も説得力があり、答えはおそらく出ないだろう。
実は、「わたしはある」という自分紹介は、イエス自身も使っている。聖書にこうある。
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」(ヨハネの福音書 8章58節)
さて、このように、神の名前は様々ある。神はに人間の言葉では表しきれないほど、大きな存在である。しかし、拭いきれない疑問が残る。「YHVH」(יהוה)は、一体どういう意味なのかという疑問である。最後に、私がイスラエルで学んだ視点を、次の章で紹介する.
「4文字」の意味について
神の名前、「YHVH」(יהוה)は、一体どんな意味なのだろう。私はずっと疑問に思っていた。正しい発音は分からない。しかし、その意味は何なのか。ずっと気になっていた。
私は学生時代、イスラエルに留学し、ユダヤ教の授業を受講した。そのユダヤ教の先生が、ある解釈を示した。私にとっては目からウロコだった。「なるほど、そうか!」と感動した。あくまでもユダヤ教の教師が教えたひとつの解釈にすぎないが、みなさんにご紹介する。
ヘブライ語の文法には、以下のようなものがある。
<ヘブライ語の時制>
היה →「ハヤ」。It was...の「was」。過去の存在を示す。
הווה →「ホヴェ」。It is...の「is」。現在の存在を示す。
יהיה →「イヒィエ」。It will be...の「will be」。未来の存在を示す。
これは、ヘブライ語教室の初級クラスで習う定番の文法である。そのユダヤ教の教師は、上記の文法を示した後で、このように続けた。
神様の名前(יהוה)は、
この「יהיה」「הווה」「היה」全ての要素を合体させたものなんです。
(ユダヤ教の教師の言葉)
どういうことだろうか。整理しよう。
<神の名前の意味>
היה →「ハヤ」。It was...の「was」。過去の存在を示す。
הווה →「ホヴェ」。It is...の「is」。現在の存在を示す。
יהיה →「イヒィエ」。It will be...の「will be」。未来の存在を示す。
יהוה →「現在、過去、未来」すべてにおいて存在する神。
いかがだろうか。「現在」「過去」「未来」の全ての言葉を、少しずつ組み合わせて、神の名前「יהוה」が示されているのである。つまり、神は時を超えた存在であるという意味である。
これは、私にとっては心から感動する解釈であった。あくまで、ひとつの見方にすぎないが、私にとってはかなり説得力のある見方であった。聖書にも、こう書いてあるからだ。
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。
(ヘブル人への手紙 13章8節)
神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」 (ヨハネの黙示録 1章8節)
今も、昔も、そしてこれから先も。ずっと「ここにいるよ」と耳元で囁いてくださる神様。聖書の神、יהוה(YHVH)は、そんな存在なのである。