2025年6月1日~約1年間を通し、キリスト教入門・神学コースで学んでいきたいと思います。只毎回集いたいのに集えない学びたいけど1年間を通すとなれば~???と思う方朗報です!この度HPから見て学ぶ、ことが可能になりました。数年後あ!こんな話してたよねって振り返えり誰かの力になることもあると思います。
第6回子なる神様B(英語・日本語を分けてWord掲載しています。ですのでダウンロード無しで印刷可能です。)
「子なる神様」(B)
イエス様の十字架刑 -西暦33年4月3日(金) 過越の祭の日
マタイ26:57-27:56、マルコ14:43-15:41、ルカ22:39-23:49、ヨハネ18:1-19-37
キリストが磔刑に処された日は、人類史上最も暗い日の一つでした。無罪で慈愛に満ち、誰にも危害を加えたことのない方が、親友の一人に裏切られました。ユダヤ教の宗教指導者たちは、イエスを救い主と信じる何千人もの人々から逃れるため、夜陰に紛れてゲッセマネの園でイエスを逮捕しました。イエスは未来を知り、目の前に待ち受ける恐ろしい虐待について考え、再び神の計画に身を委ねました。イエスは血の汗を流しながら(血汗症と呼ばれる病状)こう祈りました。「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」
イエスと父なる神と聖霊は、世界の創造以前からこれを計画しておられました。人間は罪を選び、贖罪を必要とすることを御存じでした。ですから、イエスの人間的な感情は逃げ道を求めて苦しんでましたが、イエスは神の完全な御心に身を委ねました。
イエス様は逮捕された後、大祭司のところに連れて行かれ、冒瀆の罪で告発され、特別会議が開かれ、イエスをピラト(ユダヤ地域のローマ総督)のもとに送りました。ピラトはイエスがガリラヤ出身でヘロデの支配下にあったと聞いてイエスをヘロデに送り、ヘロデはイエスをピラトのところに送り返しました。ピラトはイエスが無罪だと考えて、イエスに
毎年の習慣通りに恩赦を与えようとしました。しかしユダヤ人たちはイエスではなくバラバ(強盗で殺人者)を選びました。ピラトはイエスを九尾の鞭で打つよう命じました。ローマ人にはユダヤ人のように39回の鞭打ちで止めるという規則はありませんでした。残酷な鞭打ちの後、兵士たちはイエスに王の衣を着せ、茨の冠をかぶせました。彼らはイエスの手に葦の棒を持たせ、ひざまずいて目隠しをし、顔を殴り、つばきをかけ、「誰がお前を殴ったか知っているか」と尋ねてイエスを嘲笑した。ピラトがイエスを群衆の前に立たせて「見よ、おまえたちの王だ」と言ったとき、群衆は「十字架につけろ。その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」「カエサルのほかには、私たちに王はありません」と叫んだので、ピラトは「この人の血について、私は責任はない」と言って手を洗い、十字架刑を命じた。
彼らはゴルゴタ(頭蓋骨の丘)へ向けて歩き始めた。イエスは一晩中眠らず、大量の血を流していたため、十字架を背負ったまま倒れてしまいました。兵士らはそこにいたクレネ人シモンに十字架を背負わせました。彼らがカルバリの丘に着くと、イエスは十字架に横たわられ、両手首と両足に釘が刺され、十字架に固定されました。それから彼らは十字架を持ち上げて穴に落としました。イエスは、街のすぐ外、道路にほど近い、非常に人目につく場所で十字架につけられました。(現在は、アラブ人のバス停の近くです。)通り過ぎる人々はイエスを嘲笑し、あざけりました。イエスの衣服はすべて剥ぎ取られ、兵士たちは誰が彼の衣服を手に入れるか賭けをしました。イエスは午前9時から午後3時まで十字架にかけられました。正午から午後3時までは、辺りは真っ暗でした。イエスは激しい肉体的、精神的苦痛に直面していました。イエスは全世界の罪と咎を自ら背負っていたのです。イエスは初めて、私たちのために背負っていた罪のゆえに、父なる神が背を向けられたことを感じました。イエスは叫びました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」イエスは息を引き取られ、神殿の幕が上から下まで裂け、大きな地震が起こりました。
ローマ兵はイエスの両側にいた強盗たちの足を折り、彼らが息をしようと立ち上がることができず、すぐに窒息するようにしました。彼らはイエスがすでに死んでいるのを見て、槍で脇腹を突き刺しました。ヨハネは、水と血が流れ出たと記しています。(医学用語:肺からの胸水と心臓からの心嚢水)この日は金曜日で、ユダヤ人の安息日は夕方から始まっていたため、彼らは急いでイエスの遺体を降ろし、埋葬布と香油で包み、アリマタヤ出身のヨセフの墓に納めました。
イエス様の復活
他の宗教の創始者たちはまだ墓の中にいる
キリスト教には他の宗教とは異なる多くの特徴(処女懐胎、十字架刑、聖書の正確さなど)がありますが、中でもイエス様の復活は最も重要なものです。他の主要宗教の創始者たちは皆、亡くなって埋葬され、彼らの墓を訪れることができます。(ムハンマドは西暦632年に60代前半で亡くなりました。彼の墓はサウジアラビアのメディナにあるモスクにあります。ゴータマ・ブッダー仏ーは紀元前483年に80歳で亡くなりました。彼の墓はインドのウッタル・プラデーシュにあります。孔子は紀元前479年に70代前半で亡くなりました。彼の墓は中国の曲阜市の北にあります。)現在、毎年何十万人ものキリスト教徒がイエス・キリストの墓を訪れますが、素晴らしいところは、それが空っぽだということです。
イエス様の埋葬 ヨハネ19:38-42
アリマタヤのヨセフはピラトのもとへ行き、イエスの遺体を彼に引き渡すよう願い出ました。ピラトはこれに同意し、最高法院の高貴な議員であったヨセフとニコデモは、イエスの遺体に没薬と沈香をかけ、上質の亜麻布の埋葬布で包みました。
イエス様の墓
金曜日の午後、岩を掘って作られた新しい墓に埋葬されました。聖書によれば、その墓は十字架刑の場所の近くにあり、庭の中にありました。また、入り口には「非常に大きい石」(マルコ16:4)が置かれた。
衛兵たち
祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスが三日後に復活すると預言したことを思い出し、不安に駆られました。そこでピラトのもとへ行き、墓を守るための兵士の派遣を要請しました。ピラトは彼らに「番兵を出してやろ。できるだけしっかりと番をするがよい」と言いました。ユダヤ人たちは神殿の警備として、数個中隊からなるローマ軍団を派遣していました。ピラトは、当時任務に就いていなかったこれらの中隊のいくつかに、墓の警備を命じました。
安息日 - 土曜日
日曜日の朝、明るくなるとすぐに、女性弟子たちはイエスの遺体に塗る香料をさらに用意しました。弟子たちは皆、イエスが死から蘇ると預言したことをすっかり忘れていたため、この日は絶望の日でした。彼らが覚えていたのは、十字架刑の恐ろしい光景と、彼らの王であり、救い主であり、友である方が亡くなったという事実だけでした。
日曜日の朝
日曜日の早朝、少なくとも3人の婦人が墓へ行きました。彼女たちが墓に着く前に地震が起こり、天使が石を転がしました。聖書には、番兵たちは「震え上がり、死人のようになった」と記されています。すると天使は婦人たちに、イエスはそこにおられず、復活されたと告げました。婦人たちは男の弟子たちに伝え、ペテロとヨハネは墓へ駆けつけ、自分たちの目で確かめました。イエスはマグダラのマリアに、そして他の女弟子たちにあらわれた。そして10人の使徒たちに姿を現しました。トマスはその時にはいなかった。イエスが11人の使徒全員に再び姿を現し、幽霊ではないことを示すために魚と蜂蜜を食べるまで、トマスは信じませんでした。また、トマスに脇腹に手を入れて、手の釘跡に触れるように言われました。イエスはさらに何度か弟子たちに姿を現し、その後40日間で500人の証人に目撃されました。それからイエスは天に昇られ、天使たちが来て弟子たちに言いました。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げ立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」使徒1:11
6.「子なる神様」 ワークシート
1.イエス様は何時ごろに十字架にかかれましたか?
2.処刑を命じた総督の名前は?
3.イエス様は誰のお墓を借りましたか?
4.弟子たちはイエス様のことば「私は三日後によみがえる」を忘れていましたが、誰がその言葉を覚えて不安な思いをもっていましたか?
5.復活したイエス様は最初にどの弟子に自分をあらわしましたか?
読書宿題
1.一つの箇所を選択して読んでください。
マタイ26:57-28:17 ( )
マルコ14:43-16:11 ( )
ルカ22:39-24:12 ( )
ヨハネ18:1-20:31 ( )