2025年6月15日 日曜礼拝メッセージです。

4:1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。

4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、

4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。         

 

6/15の日曜の礼拝は、証しと賛美の礼拝でした。

ひとり一人の上に、神様が豊かに届いていてくださること、感謝します。


2025年6月8日 日曜礼拝メッセージです。

「ペンテコステ」 

使徒2:14、ヨエル2:2829、マタイ3:11、ルカ11:9,13

聖霊が与えられることは、ずっと以前から約束され、待ち望まれていました。このヨエル書は、ペンテコステの約700年前に預言されました。マタイ3:11「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」このバプテスマのヨハネの言葉は、約3年半前に語られました。

そして、聖霊が降る前、弟子たちは期待に胸を膨らませて同じ場所に集まって待ち望み、祈り、信じていました。なぜ弟子たちには聖霊が必要だったでしょうか? 彼らは疑いと恐れに満ちていましたし、とても自分たちの力で世界に伝道することはできませんでした。ペテロは3度もイエス様を否定しましたし、ヤコブとヨハネは、だれが一番偉いか論じ合っていました…弟子たちは皆、イエス様が捕らえられた時にイエス様を見捨てて逃げました。彼らは、十字架と復活を目撃しましたが、それ以上のものが必要だったのです。聖霊が臨んでいなければ、彼らは羊飼いのいない羊のように、自分たちの進むべき道を見失い、誤った教義に引き込まれたり、大胆にイエス様の御名を宣べ伝えることが出来ず、最後まで忠実でいることもできなかったでしょう。120人の弟子たちは、一つの目的、約束された聖霊を受けるために集まって、一致して祈っていました。無関心だったり、生ぬるいものはおらず、みんな真剣でした。だから、そこにいた者全員に聖霊が降ったのです。

「激しい風が吹いて来たような響きが起こり…」風は見えませんがその影響は大きい。聖霊も同じです。「炎のような舌が分かれて現れ…」それは一人一人の上にとどまりました。火は神様の喜ばないものを全て焼き尽くし、愛を与えます。「他国のいろいろなことばで話し始めた」そこに集まっていたすべての人が理解できる言葉で語りました。今でも、神様はクリスチャンに聖霊を注ぎ、聖霊で満たしてくださいます。 


2025年6月1日 日曜礼拝メッセージです。

「世の人は私たちを見て、クリスチャンであることを悟れますか? Ⅰペテロ1:1416、ヨハネ13:3435、Ⅱコリント13:13

私たちはキリストに従うもの、クリスチャンです。クリスチャンという言葉の意味は「小さなキリスト」です。ある家に生まれると、家族の一員として同じものを食べ、同じような習慣を身につけるように、クリスチャンは神の家族に加わりイエス様に倣ってライフスタイルを習得していきます。

神の家族の一員としての家族のファミリーコード(家族のルール)、どんなものがあるでしょうか…(ヨハネ13:3435新約聖書によると、初期のクリスチャンは、一緒に食事をし、一緒に祈り、持ち物を分け合い、中には自分の持ち物を売って困っている人を助ける者もいたことがわかります。彼らは互いに愛し合っていました(別紙資料参照)。私たちはどうでしょうか?互いに愛し合い、敵に善行を行い、旅人を兄弟姉妹のように扱っているでしょうか? (Ⅰペテロ1:15イエス様が聖なる方であるように、聖なる者となる。初期のクリスチャンは、純粋で正直者として知られていました。彼らは、真実を語る、罪から遠ざかっている、性的な罪を犯さない、偽りの神々を礼拝しない、立ち居振る舞いや服装が慎み深いことで知られていました。私たちはどうでしょうか? 経済的に苦しくても税金をきちんと支払っていますか、駅やレストランで子供の年をごまかしていないでしょうか、倫理的で良心的でしょうか。社会的圧力があるときでも偶像にひれ伏さず、真の神だけを礼拝しているでしょうか。Ⅰペテロ3:4にあるように、柔和で穏やかな霊、心の中の隠れた人を飾りとし、慎み深い服装を心掛けているでしょうか。不道徳で性的な罪に誘惑するものを避けているでしょうか。

この様に生きることは可能でしょうか? 聖霊の力とイエス様との親密な交わりによってのみ可能です。イエス様が私たちのきよさと愛の源です。多くの教会は愛を説きますがきよめを教えません。パリサイ人には愛がありませんでした。私たちにはその両方(愛ときよさ)が必要です。

Ⅱコリント13:13「 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」 


2025年5月25日 日曜礼拝メッセージです。

「種まきのたとえ」    マタイ13:1-9

イエス様は多くのことをたとえで話しました。今日の箇所は、種まきのたとえです。「種を蒔く人」はイエス様です。イエス様は、サマリヤ人にも取税人にも罪人にも救いの真理の種を蒔きました。この個所は、私たちにも種まく方法、他の人を助ける方法を教えてくれます。私たち一人一人も種まく人でもあります。先週もトラクト配布をしましたが、多くの方が参加したことに感謝しています。真実と希望の種を蒔き広めましょう。いつかだれかの心に根付くかもしれません。

今日は、人々がどのように福音を受けとるかを見てみましょう。種を蒔いていると、ある種は道端に落ち、土が固いのでそのまま放置され、鳥が来て食べてしまった…イエス様について、十字架について、罪からの赦しについて聞いても、難しい、無関係と捉えてしまう堅い心だと種はそこに留まり、サタンはその人が聞いたことを忘れるようにできる限りのことをします。種まく人は、その堅い心が試練や問題の鋤で耕されるまで待たなければならないかもしれません。種まく人の仕事は、忠実に種を蒔き続けることです。また、別の種は、土の薄い岩地に落ち、芽を出したものの陽が昇ると根がないので枯れてしまった…福音を受け入れたものの神様と深く関わりを持ちたいとは思っていない。神様からの良いものだけが欲しくて、難しいことは望んでいない。信仰を成長させるために困難が生じるとすべてを放棄してしまう人のことです。茨の中に落ちた種は、芽を出して伸びていくけれど茨の方がより伸びてふさがれ、実を結ばない…神を愛してはいるが、この世も同時に愛している。救われたが、きよめまではいかない。世俗的な娯楽や価値観にしがみついて、罪深い環境や世俗的な環境で多くの時間を過ごし、神様のために残された時間はほとんどない。悲しい結果は、実を結ぶことなく、発育不良でしなびた死んだ信仰です。人生の心配事に巻き込まれ、自分の人生に対する神のご意思を見逃してしまう。別の種は、い地に落ちて豊かな実を結ぶ…あなたはどのグループですか?喜んで信じて、イエス様に留まり続け、罪とのつながりを絶ち、従順に神様に従うなら、私たちの人生は神の栄光を現わし、実を結びます。

 


2025年5月18日 日曜礼拝メッセージです。

賛美と証の集会

喜びの特別賛美や特別演奏、そして、主に感謝し、主を褒めたたえる証によって心から主を礼拝しました。主を賛美します!

詩篇40:9,10

40:9 私は大いなる会衆の中で義を喜び知らせます。ご覧ください。私は唇を押さえません。【主】よあなたはご存じです。

 

40:10 私はあなたの義を心の中におおい隠さずあなたの真実とあなたの救いを言い表します。私はあなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しません。


2025年5月11日 日曜礼拝メッセージです。

「イエスの母マリアに見る祝福される婦人」  

「イエスの母マリア」と聞くとどう思いますか?…あなたは自分に生まれた子供が、そのように運命的な定めを背負った子供…だとしたら…それでも、いいな、と思えますか?彼女はその神のご計画の全てを(不可思議なことを)引き受け、黙々とやり遂げた素晴らしい女性だと私は思います。そういう意味で、素晴らしい、神の祝福を受けた女性だと思います。さあ、どんな女性だったか一緒に見てみましょう。神に選ばれた女性の姿に、あなたも何か必要が教えられるものがあるのではないでしょうか? 1、神様から選ばれた女性でした(ルカ1:26-33 「おめでとう」「恵まれた方」「主があなたと共におられます」これが選ばれた人にかけられた言葉です。一旦は、「どうしてそのようなことが…」と言い返すのでしたが、「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉通り、この身になりますように」と言って、分からないことの全てを受け入れたのでした。ここに彼女の「信仰、覚悟」というものを見ることが出来ますね。2、不思議、不可解なことを「心に納めて、思いを巡らして」いる女性でした(ルカ2:8-19 彼女にとって、羊飼いたちが見て体験した事柄などは、不思議、不可解なことでしかありませんでした。しかし彼女はいたずらに言葉を発せず、ただ「これらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた」のでした。また、後には宮上りの帰り道、イエス様がいなくなり、結局、宮で見つけた時、イエス様は不思議な言葉を語ります(ルカ2:48 。そのこともマリアは「心に留めておいた」のです。(ルカ2:46-513、イエスを信じ信頼している女性でした カナでの婚礼の席でぶどう酒がなくなった時、マリアは給仕をする人に「あの方が言われることは、何でもしてください」と言いました。全き信仰、信頼の言葉ですね。

 

クリスチャンは、不思議な機会と神の摂理により、イエス様に導かれて救いを受けました。あなたも恵まれた方、主があなたとともにおられます。そうであれば、あなたもマリアのように不思議、不可解な事でもそれらを心に留めて思いをめぐらし、目先のことに捕らわれることなく、高いところから全体を見るような神様の目で物事を見させていただきましょう。そして、イエス様に信頼しきった歩みをさせていただきましょう。


2025年5月4日 日曜礼拝メッセージです。

「すべての真理に導く助け主」 ヨハネ16章7-15節

これは、イエス様が十字架にかかられる直前に語られた言葉です。

7節 イエス様と共に歩み、語り合い、質問したりすることはどれほどすばらしいことだったでしょう…しかし、ここで、イエス様は、イエス様が去って行くと、イエス様のことや御父のことがもっとわかるように目を開いて下さる方が来られる、だから、「…去って行くことは、あなたがたの益になるのです。…」 8節 あなたは、罪を自覚した時のことを覚えていますか? 聖書を読んでいた時、メッセージを聞いた時、あるいは、幼い時に神様の規則や律法を破った時に感じたかもわかりませんが、それが聖霊の働きです。聖霊様、人々を困らせたり、恥をかかせるためではなく、罪の赦しときよめのために人々がイエス様の御許に来るために、罪を示します。

9節 最も大きな罪は、イエス様を信じないことです。イエス様を信じないことを選ぶ時、その罪は、彼らが残りの罪を赦されることを妨げます。しかし、イエス様を信じるなら、完全な赦しを得ることが出来るのです。

 

10節 イエス様が去って行くと、聖霊が、何が正しく何が間違っているかを教えます。私たちは、周りの人がどう思うか、社会的にどうかによって何が正しく何が間違っているかを判断する時代に生きています。しかし、クリスチャンはより高い基準で生きています。神の言葉によって、聖霊によって訓練された良心と、イエス様によって定められた教えによって。聖霊は、今の時代の誘惑や流行にどのように対応すればよいかも教えてくれます。 11節 聖霊は、来るべき裁きについても教えます。天国に来ついてはよく語られますが、裁きについてはあまり語られません。しかし、聖霊は、御言葉を通して、罪は裁かれるべきであり、もし私たちが自分の罪をイエス様の御許に持って行って赦され、それから離れないなら裁きを受けることを教えます。また、サタンが終わりの日に裁かれることはもう決まっていることが聖書からわかります。 12節~15節 三位一体がどのように互いに、そして、私たちと交わりを持つかを示しています。聖霊から学び、聖霊の教えに従う時、私たちはイエス様を賛美し、父なる神を敬うのです。あなたは聖霊の声に従っていますか?


2025年4月27日 日曜礼拝メッセージです。

「弟子たちは漁に戻る」  ヨハネ211-14

 

よみがえられたイエス様は、マグダラのマリアに、また、使徒たちにあらわれて「ガリラヤで会いましょう」と伝えました。使徒たちはティベリア湖(ガリラヤ湖)に来て、漁に出ましたが、元漁師たちがいたにもかかわらず、一晩中頑張っても一匹も捕れなかったのです。岸におられたイエス様は(使徒たちはまだイエス様だと気付いていない)、「子どもたちよ…」と優しく語りかけました。そして、イエス様が言われる通りに船の右側に網を打つと153匹の魚を捕まえることが出来たのです。8時間も10時間もかけてできなかったことが、イエス様に従うとすぐにできました。私たちも、「どのように伝道しましょうか?」「何から始めましょうか?」「誰に話しかけたらいいですか?」とイエス様にお尋ねして、イエス様のお言葉に従うなら時間を無駄にすることなく最善の結果を得ることが出来ます。岸におられるのがイエス様だと気付いたペテロは、魚のことは気にせず、イエス様に会いたい一心で湖に飛び込みました。イエス様を愛していたのですね。イエス様は、一晩中働いて疲れている弟子たちのために食事を整えて下さっていました。そこは、ペテロやヤコブがイエス様に召された湖畔でした。自分たちのために漁に出るより、伝道を続けるべきでしたし、すべての必要は神様が満たしてくださることを強く思い出させる出来事でした。今日、あなたは自分の努力と才能とスキルによって家族を養っていると思っているかも分かりません…それは事実ですが、すべての物は神様から来ています。必要な力、仕事、エネルギーも神様から与えられています。神様に完全に従っている時、決して将来を不安に思う必要はありません。神様は常に備えてくださいます。チャールズ・カウマンは電信技士として良い仕事に就いていました。宣教師になる召命を受けた時、昇進の話を断って神様に従い、日本の宣教師になりました。特定の団体に頼ることもなく、信仰によって宣教師としての活動を23年間続けたのです。神様に従うなら、神様は備えて下さるのです。私たちは、自分自身で苦労して働いていますか?神様は必要を備えてくださいます。霊的にも、十分ないのちのパンと生ける水を備えていてくださる神様に信頼し、従っていますか?


2025年4月20日 日曜イース―ター礼拝メッセージです。

「よみがえったイエスは最初にマグダラのマリヤにご自分を表された」

ルカ81-3節、マタイ27:50-56, 57-61, 62-66,マタイ 28:1, 2-6,ヨハネ20:2, 11-16

マグダラのマリアは、イエス様に七つの悪霊を追い出していただいた女性で、そのほか多くの女性たちと一緒に、自分の財産をもってイエス様一行に仕えていました。イエス様が十字架にかかられたときにも、彼女はイエス様の近くにいました。そして、イエス様がお墓に入れられるときにもそこにいました。そして、週の初めの日の明け方、お墓に行き、お墓の石が転がされていて、そこで天使に会い、イエス様のよみがえりを知らされますが、理解できず、それでもそこを離れずイエス様を探していたのです。

ヨハネ20:1116  一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。

 

マグダラのマリアは、よみがえりの主に最初に出会いました。彼女は、イエス様が死んだことを最も悲しんでいた人だったでしょう。しかし、彼女は諦めずにイエス様を探し続け、イエス様はその彼女の思いに報いてくださいました。「マリア」と彼女の名前を呼んで下さったイエス様は、2千年たった今も生きらおられ、私たちの名前を呼んでくださいます。あなたはイエス様を探していますか? もっと知りたいと思っていますか? そうであれば、イエス様はあなたの名前も個人的に呼んでくださいます。


2025年4月13日 日曜礼拝メッセージです。

「バルティマイの目で見る」   マルコ10章46-52節

イエス一行がエルサレムに向かう途中、エリコの町を通られた際、一人の盲目の人が叫びました。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」…周りの人々は彼を黙らせようとしますが、ますます叫んだとあります。少し前までは、こういう人がいっぱい、行く先々で待ち構えていたというのに、今までとは少し違う感じですね。考えられることの一つに、その場の雰囲気です。イエス様と宗教者たちとの対立がヒートアップしていて、ピリピリしていた…だから、ここで下手な動きを見せれば、「お前たちもあの男の仲間か?」と社会的制裁を食らうことになってもいけない…などと、静観を決め込んでいた人々が多かったのではないか…。ただ、バルティマイ(その名の意味は、盲人、罪のうちに生まれて来た子)はそんなに失うものはなかったので、イエス様が通られているというこのチャンスに救いのみわざを求めたのではないでしょうか?「不幸中の幸い」とはこういう事を言うのかもしれませんね。イエス様は求める者に対して、以前と変わらず、その人に癒しの御業を行われたのでした。イエス様も周りの人の目や雰囲気に左右される方ではないようですね。だから私たちにも救いのみわざが与えられるのです。その際、イエス様が彼に言われた言葉は、私たちの心のうちに刻んでおく必要がありますね。「わたしに何をしてほしいのですか」「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました」それだけで彼は目が見えるようになったのです。つまり彼が「必ず見えるようになる」という信仰があったから、そうなったという事ですね。「出来ないよ、無理です」と思っていたら、ならなかったのです。私たちも日ごろの心持、言葉をチェックする必要があるのではないでしょうか?ここでは「遠慮」とか「奥ゆかしさ」は恵みを逃してしまうことになるかもしれませんね。その後、バルティマイは「道を進むイエスについて行った」とあります。これがクリスチャンというものの定義ではないでしょうかね、そして彼が目にしたことは、なんとイエス様の受難、そして十字架の死、よみがえりでした。この一週間、あなたもこのバルティマイの目をもって(初めて見る目で)受難と十字架のイエス様のことを見て見られませんか?

 


2025年4月6日 日曜礼拝メッセージです。

 「イエス様と食事しませんか?」 ヨハネの黙示録3章20節


世界中で多くの時間と労力が食べ物のために使われています。それは、幸いな交流の時間を持ちながらおいしい料理をいただくことが、至福のひと時と感じるからです。愛する人、良い仲間、家族と一緒に食事をいただきながら楽しむことは尊いことです。イエス様は、あなたとそのような素晴らしい体験をしたいと望んでおられます。今日の御言葉を見てみましょう。イエスとは誰ですか?イエス様は、神の御子であり、人類を罪から救うために十字架で死なれました。私たちを愛しておられ、近くにいたいと願い、私たちを呼んでおられます。今日の御言葉を見ると、イエス様はどこにおられますか? 戸の外にいて、待っている、ノックしている。この個所はクリスチャンに向けて、世俗的で生ぬるいクリスチャンに向けて書かれています。イエス様はクリスチャンの心の中におられて、一緒に話し、食事をしているはずですが…外におられるのです。なぜノックに応えないのでしょう? 音楽が流れていて、他の人と話をしていて、眠っていて、仕事の準備をしていて、家事をしていて…イエス様の声が聞こえないのかもしれません。忙しすぎて、イエス様の優しい声を聴くことが出来ない。あるいは、ノックは聞こえているけど、ドアを開けるのをためらっている…散らかっているから、恥ずかしいから、あまり時間がないから…。この当時の食事の伝統を見てみると、ゲストを招いたら最初にほっぺにキスをしてあいさつします。ゲストの足を洗い、手を洗う水を持ってきて、テーブルを囲んで床に座ります。横になるような姿勢で座って、隣の人の耳元でささやくことが出来るような距離で。そして、一つの皿からみんなが食べました。このような当時のユダヤ人の食事法を見ると、親しい人とでないと一緒に食事をするのは難しそうです。イエス様は、私たちとこのような関係性を持ちたいと思っておられるのです。忙しさを脇に置いて、イエス様との長く親しい交わりの時を持ちましょう。イエス様は、罪を赦すことのできるお方、重荷を下ろさせてくださるお方、孤独を埋めて下さるお方、疲れを取り除いて下さるお方、いのちのパン、生ける水です。イエス様を心のうちに招き入れ、ゆっくりと親しい時を過ごすようお勧めします。