そうこうしているうちに、尾津にあった教会が現在の藤生に移転しました。それまでにボーマン先生が白浜団地に土地を買っておられたんですが、その土地をみんなで見に行って、ここに教会を建てるにはちょっと場所が悪いんじゃないか、表の道路から入りすぎてるから。違う場所を探したほうがいいんじゃないか、と。ボーマン先生は相当歩かれたと思います。そして、ボーマン先生は祈りながら、集まってくる子供たちの安全など色々考えて今の場所を見つけてくださいました。献堂式が行われ、新しい会堂での礼拝が守られていきました。
大きな試練も経験しました。教会がことばによる攻撃を受けて大きく傷つきました。当時の宣教師たちはとてもつらかったと思います。しかし、一言も不平や泣き言を言わず、本当に一度も聞いたことがありません。ただただ神様に頼り、祈り、忍耐されたと思います。教会が分裂してもおかしくない状況でしたが誰一人信仰を捨てることも教会を離れることもありませんでした。祈りの勝利です。私はその時祈りの力を知りました。主を賛美します。
ヨハネ3章15節「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
ヨハネ3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
その頃に一生懸命覚えた御言葉は今もわたしの心の大きな力となっております。
そのようにして主人も子供たちも一緒に教会生活をおくる中で、きよめのメッセージを聞くようになりました。きよめのメッセージを聞くようになってようやく、私は今までわからなかったイエス様の十字架や自分自身の罪についてわかるようになってきました。ほんとうに人間の心の中には醜いものがある、救いを受けると言うことは今まで犯してきた罪を赦していただき救われることだけれど、きよめと言うのは心の中にある汚れなどきよめていただくこと、そうしないと平安がない、というメッセージを聞きました。その当時集っていた姉妹たちときよめについて話し合ったりして、ボーマン先生にも何度も何度も、「もう一度教えてください。きよめってなんですか?」と。どうしてもそれが必要だと思って、一生懸命祈り求めました。新約聖書を読んでも、旧約聖書を読んでも、きよめについてたくさん書かれています。「きよくなければ主を見ることができない」と。何度も祈って、御言葉を握って祈って、「よし、きよめられた」と思っても確信がもてない。聖い神様の御許に行くにはきよくなければ・・・と思い、きよめについての本もたくさん読みました。求めては祈り、祈っては求め続けました。そしてついに一人で本を読みながら祈っていた時に静かに「ほんとに、これだ。これが必要だったんだ」と御言葉をいただき、平安を受けました。今でもそれを信じて信仰生活を続けています。
救われてから53年になりますが、神様から離れよう教会から離れようという思いが一度もなくて、集会に行くと恵みだなーと感謝させていただいています。そしてだんだん歳も重ねて来て今本当に思うことは、何もできなくなって長―い一日を過ごすこともあるんですけれども、「神様あなたから与えられる時間、今日もどのように過ごしましょうか?」。朝のディボーションの時に祈ったりするんですが、とっても寂しく過ごすときもあります。あれもできない、これもできない。あんなにトラクト配布したり訪問したりしたけど今それができない、寂しさを一人でいると感じて、「あーなんか神様に申し訳ないなー。頂いた時間を寝転んでごろごろしてるの。」本を読んだりもするんですが目も悪くなってそれも自由にできなくなってきて、ますます時間が長く感じるようになって、若かった時色々やれてたことができない。そんな時に日野原先生の本を読ませていただいて、「私の魂の歩んだストーリー」という題の本ですが、その中に引用されていた文章が心に留まりました。
「若者が元気一杯はつらつと闊歩するのを見てもねたみはしない。弱っても、人のために役立たなくても親切で柔和でありたい。老いの重荷は神のたまもの。古びた心は自分で最後の磨きをかける真の故郷に帰るために、自分とこの世をつなぐ鎖を少しずつ外してゆくのも大切な仕事の一つ。そしてなにもできなくなればそれを謙虚に受け入れよう。神は最後に最も良い仕事を残して下さる。それは祈りだ。命を見つめてより良い人生のために。希望は心のうちに自分が作るもの」
あー、ほんとうにそうだ。今の自分を謙虚に受け止めなければならない。この年になって若い時にやってたようにトラクト配布ができなくても、祈る仕事が残されている。天国に希望をもつことができるためにも一人祈ることが残されてる、と思いました。前によく似た本を読んで私には祈りがあると思ったことがあるんですが、この祈りがなかなか難しい。しかし、現在の状態を謙虚に受け入れて、もう一度心新たに祈りに専念していきたいと思わせていただき感謝しています。
聖書のイザヤ46章4節「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」
神様に救われ、きよめられ、導かれ、ここまで神様と共に歩んでくることができたことを心から感謝します。
C.T